1975年、私は80歳の八木秋子(1895~1983)と出会いました。その相貌はこの写真のように峻厳、あなた方に私がわかるか! といった表情でした。しかし何度か一人暮らしのアパートを訪ねて話すうちに、その毅然とした口調のなかに、抑えがたい迸るような情熱と「ああ、変わらなければなぁ」と自己を否定する姿勢が見えました。そして時々「断念」の眼差しがあり、我々の世代には想像し難い人生を送ってきたのだろうと思う一方、だからその継続してきた精神に魅かれるものがありました。

その後、収容された老人ホームの雑居部屋生活で執筆した文章や日記はたいへん密度の濃いものでした。個人通信は17号を数え、著作集は全3巻が刊行され、たくさんのマスコミで書評、報道がなされました。

東京日々新聞記者、『女人芸術』で林芙美子らと『婦人戦線』では高群逸枝らと活躍し、反権力・絶対自由を求めた農村青年社運動の実践活動では逮捕、下獄。渡満して満鉄留守宅相談所嘱託、引き揚げ後は母子寮寮母。

これが八木秋子の主な経歴といえるものですが、訃報ではほとんどの新聞が写真入りで報道しました。いったい八木秋子の何がそうさせたのでしょうか。

このサイトは八木秋子の個人通信「あるはなく」を母胎として、明治から現代にいたる時代の中での八木と関わりのある人物を繋ぎ、そこから浮かび上がってくるものをむすびたいと考えます。 そして、八木秋子の魅力はいったい何だったのかをあらためて考えたいと思います。

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