西川祐子さんのこと(1)
4月30日は八木秋子の命日です。1983年のその日については、この玄南工房の「八木秋子への注釈 第2夜 毎日新聞などが伝えた訃報」や「資料館 私と八木秋子」でまとめています。
わたしは4月29日に危篤の連絡を受けて群馬へ向かい、昏睡状態が続く八木秋子が87歳の生涯を閉じるまで、9時間傍らにいることができました。「花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生だ。」川島雄三監督の「貸間あり」は最後をそのセリフで締めくくりましたが、その夜、上州前橋の地は風が吹きすさび、満開の八重桜は散ったのです。
東京清瀬市の4畳半のアパートで独り暮しをしていた八木秋子と、初めて出会ってからおよそ7年半「よくぞ疾走しましたね、八木さん」と言うにふさわしい、花と嵐でした。
ここ何十年も、この4月30日の命日と9月6日の誕生日には、京都の西川祐子さんと電話で話すのが常のことでした。八木秋子通信「あるはなく」発行以来、常に励ましてくださった西川さんのとのやりとりは、『あるはなく』『八木秋子著作集』『パシナ』と続き、その後は「八木秋子日記」のテキスト化へと進んできました。そして西川さんは、数年おきに「八木秋子の読み解き」を試みていらっしゃいました。私自身が八木秋子と併走する生き方を続けていることで言えば、西川祐子さんとも併走し続けてきたと言えます。その恩義については「八木秋子注釈 50夜」で触れています。
https://gennan.sakuraweb.com/tyusyaku/post-50/
西川さんを過去形で書かざるを得なくなった今、今日の八木秋子の命日を機に少しずつ触れてみたいと思います。まずは、一昨年の秋、倒れる前からのやりとりをまとめてみます。
2023年-2024年
西川祐子さんとのやりとり
■2023年3月
私が活動の場としていた河合文化教育研究所の活動停止に伴い、名古屋文教研で最後の整理と片付けに行くに際し、京都まで足を伸ばして西川祐子さんのご自宅をたずねたところから出発します。
・2023/3/21 京都西川さんのご自宅で録音。娘の麦子さんも一緒
・2023/3/23 録音御礼のメールを感想とともに送る
・2023/3/25 西川さんから返信メール。録音したものに関しての感想
・2023/6 文教研解散についての挨拶を相京が送る
・2023/7/14 その挨拶に対して、西川さんよりメール
(これが最後のメールとなった)
・2023/9/6 八木秋子の誕生日なので、いつものように近況報告の電話を西川さんにする
(八戸の公演、内容について話すと「相京さんが納得するならセンスがよいのでしょう」との反応
・2023/9/22-9/23
「ひたむきに生きて-永嶋暢子と婦人解放運動」
劇団やませによる公演、八戸にて
https://gennan.sakuraweb.com/2023/10/26/1344/
・2023/9/25 公演について感想を言うため、西川さん宅へ電話。留守電に。
・2023/9/26 麦子さんより「先週(18-23)倒れたとの報」
・2024/3/26 『鶴見和子と水俣』の本届く。西川祐子名
・2024/3/26 西川さん宛に、御礼のメールを相京出す。
・2024/6/12 逝去 6月12日4時40分 86歳
生年月日 1937年9月15日