●第23夜 「あるはなく」第1号発行と有島武郎

 八木秋子通信「あるはなく」は1977年7月17日付けで印刷所に入稿され、8月13日に出来上がりました。「B5判10頁9ポ3段組」。1月末の脱走以来、3月15日に通信を提案してからおよそ5ヶ月。テープを起こして聞き書きとしてまとめ、彼女の手も加えられて老人ホーム養育院に届けたのです。彼女の養育院での日記「転生記」にはこう書かれていました。


■八木秋子日記「転生記」
 1977年8月15日

 一昨日、相京君が私のパンフレット、<あるはなく>が刷れて、30部程養育院へ届けて下さった。体裁はさながら教会の通信類と同じ。どんなに薄っぺらで、表紙もなく、奥付もない貧弱なパンフレットでも、これは最初から相京君が骨折って世に出して下さったもの。読んでみると、私の気になっていたテープの写しとしては断片的な、そして浮いている感じがわりに少なく、少し筆の走りが早いくらいなことでガマンできる。

私も養育院に入所してから、とにかくこれだけの仕事をなし得た、という感謝と満足が私を落ち着かせる。なかなかよい。

 続けて、「あるはなくを書き、活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けぬことは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう」と、82歳の誕生日を迎えて「子どもや父定義」のことを書こうとする意欲に満ちあふれています。通信は、八木秋子とわたしのそれほど多くない知人たち30数名の手元に届き、その予想以上の反響に彼女もわたしも大いに励まされて発行を続けることになりますが、詳しくはまたいずれの機会とします。

第23夜では、家出の決意を固めるために会いにいったという有島武郎に触れたいと思います。

 まず、子どもが入院中で、つきそっていた有島武郎を訪ねた発言がありますが、その時期がいつかということです。全集の詳細な年譜を見ると、第1回の家出をして戻ったあとの5月中旬、「3男行三がはしかにかかる。下旬、その回復と入れ代わりに次男敏行もはしかにかかり、東京病院に入院させる。6月8日(?)敏行、退院」。6月26日「次男敏行、腸チフスの疑いでまた東京病院に入院」「7月5日、敏行、疑い晴れて退院、行三、扁桃腺切開のため入院」「16日、行三も治癒、退院」と、実に目まぐるしく入退院を繰り返しており、どの日に面会に行ったかわかりません。

 ただし、彼女は6月11日には小川未明や伊藤野枝らが講演した「婦人問題講演会」にも参加しているので、その積極的な行動から見て、第2回目の家出を決行する8月5日に近い7月ごろ有島を訪ねたといえるでしょう。

 八木秋子の有島武郎への思慕は生涯を通じて変わることがありません。最晩年にも一番会いたい人物として彼を彼女はあげていました。ちょうどその頃、有島武郎全集が発行されたのでわたしは購入を勧め、彼のことについていろいろ尋ねたものの、記憶ははっきりしない。しかし、離婚が成立した1922年2月、小川未明の世話で「子ども社」へ就職し、有島武郎の原稿を受け取ったことは思い出し、養育院で綴った日記である「転生記」で触れているので紹介します。

■八木秋子日記「転生記」
 
1978年7月17日
 有島氏への私の傾倒において私が補足しなければならないところがある。その中で、有島氏からいただいた原稿、その名、題名、子供社への原稿、など忘れていたことの多いこと。有島氏から木曾の八木宛に『一房の葡萄』をお贈り下さったらしい。そして、相京君は有島さんが私に与えた思想的、生活的に及ぼした影響の大きさ、「たとえば、キリスト教からの脱出、離婚などに現われた」のではないか、という。これは再考の余地-必要あり。課題-キリスト教からの離脱についてはなお熟考の余地あり。それには有島氏の諸著作を精読する必要。有島氏のあの瞳、あの声等。
 有島氏の住所が何度か年譜を見ると変わっているが、私の記憶では麹町区何番町という大きな武家屋敷ふうの堂々たる構え、それ一つだったと思う。友、飯塚友一郎宅の舞台けいこに誘われたときもその大きな家だった。精読、熟考のこと。

7月21日
 有島氏の年譜をみて、有島氏からいただいた原稿は”ぼくの帽子のはなし”で「童話」という月刊雑誌に掲載された原稿と判定、まちがいなし。
 あのころ、コドモ社発行の雑誌は『童話』と『子供のくに』だった。発行の年月日が少し早いが(7月)-父の死が2ヶ月程早い。それだけのズレで他はピタリである。相京氏の考える有島氏からうけた影響、キリスト教から離れたこと、文学に与えた影響など、子供をすてたこと、夫ー家を捨てて自我に生きたこと、等々。
 こまかいことは有島全集を精読しなければ判らない。そして、私の娘時代の読みものといえば、角間広助から借りた文学全集のきれぎれで捨い集めたものだったから、有島氏の影響とはっきり解釈できるものの根拠は少ない。我ながら記憶にあるものは<性に悩んだ>迷路の武郎氏の深奥の悩み、農地解放、財産分与の氏の真剣な<富める者の所有>の悩み、<惜しみなく愛を奪う>に見る有島氏の深奥の悩み等ではなかったろうか。

 「百の芸術を創造して、なおまた芸術家たらざる人がある。一つの芸術を創造せずしてなおかつ芸術家たる人がある」

 人と人との出会い、この意味の深さ、大きさについて。

 日本の彫刻家、矢内原伊作氏(矢内原忠男氏子息)が、ある夏休みにパリに遊び、ふらりと仏蘭西の彫刻家、ジャコメッティ【千夜千冊0500】をそのアトリエに訪ねた。おそらく紹介状もなく、<おそらく>ジャコメッティはじっと矢内原の顔を見詰め、一つの椅子を彼にすすめた。そして何も言わずにその前に座わり、黙ってデッサンを始めた。第1日はそれで終わり、描きかけの画に布をかけて、彼は客に会釈をした。矢内原氏は、その表情から、続いて明日もデッサンを続けたい意向を感じたので、翌日もそのアトリエの扉をたたいた。扉はあけられ、矢内原氏は無言のまま彼の指さすきのうの椅子に腰を下した。ジャコメッティは、昨日のように彼を前にして、無言のまま昨日のデッサンの続きを始め、無言のまま描き続けた。こうして1ヶ月の日は経ち、矢内原氏は大学の夏期休暇が終わる日を迎えた。そのまま別れ日本に帰った。
 翌年の夏、氏はまたパリへふちりと来、そのデッサンに再会し、その彫刻家の指さすままに、黙ってモデルの役割を果した。が、まだその絵は完成しなかった。次の夏休み、氏はだまってジャコ氏のアトリエに来て、モデルの役割を果した、そして完成したのが、あの『矢内原伊作氏の像』である。人はこの作品に何を感ずるか。

 人間の心情に深く潜んで在るものが、ここに目覚めて火花のように燃え、凡てを越えて相牽引しあう力、<相互に共通しあうもの、理解-融合-尊敬、発見の喜び>等。未知の世界にわけいる予感。喜ばしき自己の発見、発掘等。他者には感じ得ぬ、理解の他なきその発見。

最上の沈黙、内なる豊饒の富、出発の喜び。歴史への冒険の勇気。全生活の獲得。運命に対する勇気。偶然への目ざめ、勝利。この目と耳による発見、等々。私はこの発見を相京君との出会いによってみずから経験し、体験した。人間の相識る動機は生きている相手の姿、言葉、生きているその人間、そのもの、それが素材だ。この生きた体験を身に、感性に所有する人は真に少ない。

 わたし(相京)は八木秋子の記憶の断片を確かめようとしてその頃、あちこちの図書館へ通っていました。有島武郎が出した木曽に住む八木秋子宛のハガキの文章をどこで見つけたか思い出せませんが、大正時代に叢文閣から出されたクロス張りの『有島武郎全集』を手に取った感覚は覚えていますから、これも第22夜の家出の新聞記事と同様、国会図書館で調べたのかもしれません。葉書の文面は次のように書かれていました。


◆有島武郎から八木秋子宛てのハガキ
 1922年(大正11年)、6、29 東京於

淋しい然し実質的に恵まれた山の中の御生活を遥察申上げます、そこから空虚がちな都会の生活を想像なさったら憐れみをさへ感ぜられるでせう。「一房の葡萄」おのぞみにまかせ送呈します。それをあなたが考へてゐて下さった事を喜びとしながら。

 有島が生涯にわたって書いた童話はたった6編です。そのうちのひとつの作品が「僕の帽子のお話」で、こども社の編集者だった八木秋子が原稿を受け取り、7月に雑誌『童話』に掲載されます。有島はその作品を叢文閣から出した『一房の葡萄』に収録しますが、その装丁、挿絵も本人の手によってなされ、「行光・敏行・行三へ―著者」と献字が書かれてあります。1922年6月17日の日記に「帰宅したら『一房の葡萄』15冊が来ていた。表装なかなかよくできている。子供3人がたいへん静かだと思ったら、熱心に読んでいてくれるので、たいへんうれしく思う」とあるように、『小さき者へ』【千夜千冊0650夜】と同様、心から子供たちへの思いが込められているとわたしは思います。彼の童話を読むと、どれも実に味わい深く、小川未明と同様、この注釈を通じて、有島武郎の像が、深く、しっかりとわたしの中で刻まれつつあります。

 しかし、それにしても、子を棄てて家出をするという相談をした八木秋子が、有島の童話作品に関わっているとは不思議なことです。そして、父の看病のため帰郷を余儀なくされた彼女からの要望に応え、その『一房の葡萄』が木曽にまで送られ、そのハガキが残されていたのです。著者献本のハガキが残されているとは!
 八木秋子が「ものがたり」を生む人物だということはこういうところにあります。

 八木秋子がなくなった際、そのころ筑摩書房から発行され始めた有島武郎全集のパンフも一緒に棺の中に入れました。彼女にとってキリスト教への接触と距離の取りようや性や子どものことなど、有島武郎の存在は大きかったに違いありません。

 ところで、有島は1907年(明治40年)2月、ロンドンにいたクロポトキン【千夜千冊0941夜】を訪問しています。彼がその文章「クロポトキン」の中で「相互扶助論」について質問し、感動している箇所を引用してみます。ちなみに、彼はこの文章によって文壇で知られるようになったといいます。


◆クロポトキン『新潮』

 私が読みたる氏の著書殊に「相互扶助論」に対する質問に答ふる爲め、氏は私を伴ひて二階なるその書齋に登られ候。四壁は天井にとどくまで書物に蔽はれたる陰氣なる廣間にて、その一端に据ゑられたる長椅子に私を坐らせ自分も近々と座を占めて、さて諄々と説明の労を取られ候。私は從來の凡ての境遇凡ての傳説より切り放され、英國に居ると云ふ事も忘れ、日本人なる事も忘れ、この書齋の如何なる地鮎にあるやも忘れ果てて老親の膝下にある柔順なる小児の如くに、その穏かなる慈愛にあふれたる言葉に聴き入り候。「未だ人間の運命につきて深く考へもせず激しく働きもせざるものが、我が説の當否をあげつらはんとや。かかる人は唯赤面せよ、而して黙せよ」と氏が何かに書かれたる事など思ひ出でて嚴かに心動かされ候。-1916年(大正5年)7月

 ここでも「相互扶助論」です。小川未明も大杉栄から紹介されて感動しました。そして、「クロポトキン全集」は座右の書でした。島崎藤村記念館に残された藤村の書棚にも「クロポトキン全集」は「大トルストイ全集」とともに、中心にありました。

クロポトキンが死んだ1921年(大正10年)、八木秋子は有島武郎と出会い、家出という新たな出立をしたのです。

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