1977年9月23日の「八木秋子と相京の対話」を掲載します。第1号の反響に応え、八木秋子は「第27夜:わが子との再会」を一気に書き上げました。それを掲載した第2号は9月20日発行。つまり、この対話は発行直後の秋分の日の連休にわたしの家に来た際の、ふたりとも興奮気味でまさに渦中での会話といったものでした。今考えると元気な八木秋子との共同作業がもっとも熱気をはらんでいた時期だったといえます。
その対話を1987年にまとめ、そのころ発行していた冊子「パシナⅤ」に掲載しました。今回の掲載にあたり、一部訂正しております。
◆1977年9月23日 八木秋子・相京範昭
(『パシナⅤ』1987秋刊行 より)
☆第29夜のつづき。
【八木】いま書きかけているのはねえ、10何枚書いたろうか。17、18枚書いたかなあ。それはわたしの父親のこと。そして父親の死というか、晩年のことについて書かなければ、過去のことはやっぱり思想に影響するんだけど、それをはっきりしないと、どこから生まれた考え方か分からない。そう思って父のことを書き出したんだ。
書き出したのは、父が上京してわたしが病院へついて行って、そいで父を先に廊下に出しておいて。先生がねえ、あんたのおとうさんは胃ガンですよ、もう手遅れでだめだって、どうする術もないって。それで、あんまり暑くならないうちに帰ったらいいでしょう。それから死ぬまで、最後まで胃ガンだってことは言うなっていうんだ。やっぱり覚悟はできてても大きなショックになるはずだ、言っちゃいけないと固くわたしに言ったんです。そいで、看護のいろいろ必要なことは聞いたし。はじめねえ、父が診察室へ入ってきて、はじめ診察受けるでしょ? そんときになにか先生がドイツ語か英語か知らんけど、ペラペラっていったら、2人のね、看護婦か助手だか若い人がわたしの顔をチラってみたんです。それは本当にわずかな時間だったけど、これは! と思ったんだ。
*幼い頃からの父親の影響。
八木はわたしに何度も繰り返し語った。子どものことと父親のこと。それを書きたかったのだろう。結局病気で倒れてしまい、未完成だったが、書きためてあった原稿等、3回にわたって「あるはなく」に掲載した(=相京)。
第三号(一九七七年十一月二十日発行)
父・八木定義のこと
第四号(一九七八年一月十日発行)
独房
第五号(一九七八年三月十日発行)
父・八木定義のこと(2)
【相京】八木さんさあ、これからそういうふうにおとうさんのことや満州のことを連載で書いてゆくでしょう? それはそれで、それとは別にね。
【八木】満州のことはねえ、それもいいけど、それは非常に偶然が多いんですよ。もう満鉄に入ったってことがそうだったんだ。それと日本の大資本がやっていることだから、中でやっていることはまことに結構な話で、真底面白かった、仕事が。
【相京】そういう思い出みたいなものがありますね。それともうひとつは、思想というか、物の考え方があると思うんですよ。そういうものを、これから。たとえばアナーキズムについて聞きたいという手紙をもらっているんですよ。
【八木】あれが1番こまる(笑)。
アナーキズムなんてことは言葉をつめて1口で言えることじゃない。
【相京】でも、いずれは触れなけりゃあならない。
【八木】そう、触れなけりゃならない。それは農村青年社の運動のはじめに、ぜひとも書かなくてはならない。
【相京】あるいは『女人芸術」の中で藤森成吉に出した、結局アナ・ボル論争ということになった、あれに触れる所でもね、書かなけりゃあ。ぼくも聞いてみたいし。ただアナーキズムを説明する時、アナーキズムはああだ、こうだと、言葉をいくら並べても、ああそうですか、といったあたりで終わってしまうことが本当に多いと思うんです。他のアナーキズムの文献にしてもね、あるいはマルキシズムに対しても、極めて政治的な所でね、常にアナーキズムというのがマルキシズムと対みたいなふうに出てくる。
そうじゃなくて、もっとキリスト教、宗教の問題を含めてアナーキズムを考えていきたい気持があるんですよ。政治的なことはどうでもいいことなんですよ、ぼくにとっては。問題はそうじゃなくて、人々が物を考える原点というか、基点の所にアナーキズムがいつもある気がするんです。
◆千夜千冊【1051】長谷川時雨『近代美人伝』上・下
1936 サイレン社・1985 岩波文庫
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仕事の「女人芸術」のほうは、1周年記念号で八木秋子
が藤森成吉にあてた公開手紙を掲載したころから、その後
ずっとアナキスト感覚とマルキスト感覚の応酬が続くこと
になって、いわゆるアナ・ボル論争にまきこまれていきま
す。アナはアナキズム、ボルはボルシェヴィズムですね。
これで時雨は板挟みになるんです。「長谷川時雨には思想
がない」とも批判された。
だから、八木さんが藤森にいうように「あなたはなぜ素直に物を書かないんですか」っていうふうにいうのが基本なんですよ。それはアナーキズムってあえていうことよりも、もっと素直になりなさいよ、物を書く時はもっと素直になって自分をさらけ出しなさい、恥かしいとか何とかじゃなくて。それが発端だと思うんです。アナーキズムはそういう所だと思うからね。子供を置いて家を出るとか、それ以後の子供さんに対するひとつの考え方、接っし方っていうね、そういうのを全部ひっくるめてね、出していく。
アナーキズムをそういった所で考えたいと。そうでないと、否定に否定を積み重ねたうえにアナーキズムがあったという八木さんの言葉が理解できないと思う。たとえばアナーキズムはこうです、否定の否定ですって言ってもさあ、読んだ人はね、一体何だろうっていう所があるからね。(否定ばっかりしてるって―【八木】)。否定なんだけど、もっと具体的というか、(建設的か―【八木】)ひとつひとつの事実の中で確かめてゆくというか。だからいつも頭の中にアナーキズムがあってさあ、それを肉づけしていく、解いていくっていいますかねえ。
【八木】わたしにはこういう経験があるんだけど、アナーキズムっていうけど、一口にいってどういうふうにその原点を表わしたらいいんだろうなあと思って電車に乗ってて考えて、夜。そうしておったらアッと思って、ひとつの悟性っていうかねえ、悟りを開くっていう、そういうことに結びつけて考えて、アナーキズムはひとつの宗教的なものじゃあないかなあ、そうにね。
そしたらみんなの攻撃はそこにくるんだ。宗教みたいになっちゃう。そうにね。やっぱりそうするとひとつの悟性になるなあ、そう思ったけどね。だからアナーキズムが本当にわかるというのは、そういう理論よりも、ひとつの悟性みたいなもので、パッとこう、そこでつかんで、そして、パアーと人生観か変わる、そういうもんじゃあないかなあ、そう思ったんだ。それだけじゃあ、いけんけどね。
*ここでいう、「みんな」というのは、1931年(昭6)ごろ活動したアナキズム農村運動の仲間たちのこと(=相京)。
【相京】八木さん、そのあたりはぼくなりにわかるつもりなんだけど、アナーキズムというのは人間個人の自立とか自我というのを考えるけど、自我とかは得体のしれないものですよね、実に。ここまで、というのがないし、限りないものですよね。だから結局、精神の自己研磨というか、いつも磨いてね、繰り返してそういう姿勢を保って行きたいんだ。そういうひとつの考え方のような気がするんですよ。
だから宗教という意味も、なんていうんだろうな。宗教とは違うんだけど、そういったのを深めていくという意味では宗教的観念だといえるわけなんですよ。ところが宗教といった場合はね、何かにすがっていく、なにかにあずけてしまうような気がするんですね。それに入る、布教していく、結果的に幹部になっていく。こうなったらオカシイ。
【八木】それが宗教運動の至りつくところだ。
【相京】アナーキズムの場合はひとりひとりが解放されていくんだ、というのがひとつの目標になるわけですよね。その為に自分を鍛えていく、そこのひとつのものに対する進み方は宗教と似ているけど…。
【八木】そこにひとつの悟性というか、悟りみたいなものとね、それに非常に近いことは、もう自分は解放されて自由になったんだ、なんだって出来るんだ、その自由にパッと至りついた。そこに非常に解放感があるんですよ。それが大きいんじゃあないかな、そう思ったんですよ。それだけでは全然だめだけど。そうすると見るもの、聞くもの、いろんなものに別の見方が出来るんですね、片っぱしから否定できるんだ。だからあれですねえ、アナーキズムというのは自分自身の可能性を確めるんだ。
【相京】ああ、それはいい言葉だなあ。可能性か。それは知的好奇心をもって?
【八木】そうそう。そうだねえ。わたし、どうもそうだと思うんだ。そうでなかったら、悟り、ただの宗教の話しになっちゃう。
【相京】宗教というと、なんだか頂上があってそこに辿りつくような感じだけど、峠のように着いたと思ったら、またむこうに高い峠がみえるように、そしてまた登ってゆく、否定しながら、そんな感じなんだナ。そういった延々と続くひとつの山脈というか。
【八木】そうだ。アナーキズムは宗教と非常に深い結びつきがあると思うんだ。信じるってことかな。アナーキズムを信じる。だけど、のぼりつめた所にあるんじゃあなくて、悟り切った所にあるんじゃあなくて、なんとはなしに解決のつかない境地だなあ。自然にじわじわとねえ。それは一っぺんに悟りが開けるという境地じゃなくてね。なんとはなくわかってくる、それが本当のあれなんだろうね。
つづく