●第33夜 アブダクション


今日は新月ですね。月は見えなくても、確かに「在る」。

 八木秋子通信「あるはなく」第1号は、30年前の1977年7月17日に入校しました。あの夢中・熱中した日々を想い出します。

 第29夜から第31夜までは、第1号発行の予想以上の反響に興奮している八木とわたしの対話(2ヶ月後)を掲載しました。そして、読者の反響に力を得て、わたしは翌年春発行することになる『八木秋子著作集Ⅰ・近代の<負>を背負う女』製作に向けて、八木秋子の著作物探索のためにあちこちの図書館を走り回っていきます。一方、八木秋子は長い間書こうと思ってきたものを、ようやく「あるはなく」という場を得て、その作業に向かっていきます。

 第33夜は、第1号の発行から翌年の春の著作集発行までの間、通信「あるはなく」の発行を続けながら、どんな思いを抱きながら八木秋子との関係を考えていたか、その根源と思われるものを探ってみたいと思います。

 わたしは現在、編集学校の「離」師範代を第1季から務め、本日7月14日は、第3季の退院式・感門之盟を迎えました。【千夜千冊1149中国遊侠史】。「離」は編集学校の専門コースです【http://es.isis.ne.jp/06_03_course_ri.html】。結論から書きますと、その「離」の師範代をやって来て、人との「関わりの方法」という点において、八木秋子の場合との類似性を感じたということ、そしてそれはパースの言う「アブダクション」=推感編集【千夜千冊1182パース著作集】ではないかということを書いてみたいと思います。

 編集学校はネット上のやりとりで成立していますが、パソコンの画面の向こう側にいる「学衆」(名称:編集学校での生徒)とのやりとりにおいて、最も大事なことは、言葉の「気配」をどう感じるかということだと思ってきました。とりわけ、「離」ではそのことが顕著です。

 第25夜で八木秋子との関係をこう書きました。

★「パシナⅢ」1985 秋号

 手探りで進み始めるとき、頼りとする感覚は「見えない糸」にたとえられる。糸の両端に触れれば音信可能な回路がなりたつようなものがあって、それで相手を確認することができれば信頼がうまれる。言葉も「見えない糸」を探すための一つの伝達方法である。表情やら語調、目の動き、視線、それらへの直覚が全て総合されたうえで、わたしは八木秋子を信頼したのだと思う。八木秋子もわたしを信頼してくれた。

 「見えない糸」を引き合う、わずかな気配の変化を察知する。「離」でも学衆が回答する言葉の微妙な気配を察知(推感編集)しながら、その人の変化に合わせて誘導していく、という方法でした。

 また第1夜でもこう書いています。

 その頃のわたしは、ただひたすら、「八木秋子という人物が表現する世界をこの時代に刻むこと」に全力をそそいでいたと言えます。1977年7月通信第1号を発行した時点では、彼女の過去についてほとんど知識をもっていなかったにもかかわらず、眼前にいる彼女を歴史に刻むことがわたしに与えられた責務だという信念を持っていました。だから、個人通信を通じて、彼女が書ける力が残っている時は書いたものを載せ、まだ語ることが出来る時期は聞き書きをし、それすら困難になったら、過去に書いた文章を通信に載せるという順序を決して見誤ってはならない、「やれてもやらぬこと」を貫くと心に決めていました。単なる思い入れで手を差し伸べることはいけない、八木秋子の肉体が一つひとつ衰えていくところを、わたしが補っていく、それが彼女の尊厳を保つことだと考えていました。

 そのことと「離」でのわたしの方法はとてもよく似ていました。いや、もっと言えば、相手との関係の中において、アブダクション=推感編集しながら、その人物の歩む先を誘導し、「場」を提供してきたと思います。それがわたしは編集だと考え、そこを墨守してきました。

 さて、方法においてその共通点は確認しましたが、もう少しパースの思想に立ち入って見たいと思います。

 八木秋子とわたしの出会いはそれぞれに理由があるけど偶然だったと、第5夜~第11夜にわたって書きました。しかし、それはたんなる出会いに過ぎません。それが必然に向かうにはより明確な言葉による理由が必要です。しかし、それを互いに確認してから動き出すには、82歳の八木秋子の残り時間は切迫していました。まさに、「時」に踵をつかまえられながら、かろうじて駆け抜けていたというしかない作業の連続でした。

 では、その時、何を頼りにしたかといえば、それは言葉で確かめ合う以前の世界を、互いに信頼し合っていたと思います。ではなぜ、わたしは「言葉になる前の世界」にすーと入ったのかと考えました。『パースの思想』有馬道子 岩波書店 には、補論として「老荘の思想」が加えてありました。そして、「パースと老荘には言語と実在(または、かたちとカオス)について深く目覚めた意味の思想としての根源的な共有点」があると書かれてあり、あっ、そうなのかと合点がいきました。ここでわたしの好きな「老荘」が出てくるとは思いませんでした。なるほどと、いよいよパースに関心が湧いてきましたが、しかし、ここでは深入りせず、かつて、わたし自身への「齢を重ねた人たち」の影響について書いた文章を思い出しました。それはこんなものです。

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 ★1998年『パシナⅥ』
 私は幼い頃から「齢を重ねた人たち」の影響が多くあったと思う。私は三歳の頃、祖父と出来たばかりの土蔵の中で生活をしていた。その土蔵は祖父にとってかけがいのない、生涯をかけて作り上げたものだった。幼い頃から小作人のように働き続けた彼は、ようやく家を建てたが、一キロほど先の正月の民俗行事であるドンドン焼きの火が飛び火し、せっかく作った家が火事になってしまった。その後ようやく家を再建し、そして作った土蔵である。土蔵は火事になっても中にあるものは燃えない。類焼を免れるのである。ようやくできた土蔵に寝泊まりして噛みしめる喜びはさぞひとしおだったに違いない。

 私は病弱だったこともあり、また、年の近い姉がいたせいもあって、祖父に預けられていたのだった。外にあまり出ず、蔵の2階にあった窓(網付きの重々しい分厚い戸)の隙間から外を眺めているわたしを、近所の人は今度の子どもはどこか障害があるのではないかと噂していたらしい。また、祖父の溲瓶を運んだりしていたというから、もうあまり体もきかなくなっていたのだろう。祖父は何を語っていたのだろうか。

 祖父は半年後の春、死んだ。死ぬ場面をわたしははっきり覚えている。父が一生懸命に痰を取ろうとしていた。わたしはすぐ上の姉と一緒に抱き合って泣いていた。しかし、不思議なことに、その光景をまたじっと眺めているような記憶も残っている。

 土蔵に入ると壁土でできているため、空気が溜まり特有の臭いがする。私は今でもその中へ入ると気持ちが落ち着く。土蔵は音を吸う。そのため、ほかの気配を知るには、自分の気を静めなければならない。小さな明かり取りの窓を閉めれば光は差し込むことがない。闇である。その時、目を開けるよりは閉じて手探りにした方が感覚が鋭くなり、気配を感じることが出来る。かすかな声、色、空気の変化。私と祖父を囲む雰囲気はそんな空間だったのではなかったかと想像する。私にとって、その世界は自分の感覚形成に大きな影響を与えている思う。後に知った太極拳の世界に通底していた。

 その、一年後のことである。私の家の二軒隣りに青木公雄という年輩の幼稚園の園長先生がいた。母に言わせれば、その園長を毎朝迎えに行き、園長がつく杖を一緒に突きながらチョコチョコと小走りで幼稚園に通ったという。1950年代の群馬県の山間部である、近隣の村では幼稚園など考えられなかったが、篤志家であった青木先生はその設立のため大変熱心に活動した。母親クラブを作ったり、幼児教育が全国的に進められるようになれば、早速、県に陳情に行くというように、精力的に勧誘活動をしたという。その結果、念願がかない、1954年4月に村立の幼稚園は完成し、青木先生は初代の園長になった。その園長先生を毎朝誘って幼稚園に通ったのである。しかし、「創立の年、悲しいことに園長先生青木公雄氏が突然病に倒れ逝去された。園児代表の弔辞には誰一人涙を流さないものはなく、会葬者一同青木園長の育英事業に対する情熱をたたえた」と『岩島村誌』に書かれている。

 私はこの正月(1998)に帰省した折、子どもの頃何度か墓参した青木先生のお墓を40年ぶりに訪ねた。墓は沢に沿った裏山の道を家から10分くらい奥へ歩いた所にあった。小学生の頃の記憶では日も差さないほど薄暗く鬱蒼とした木でおおわれ、苔がむしていたと思っていた。しかし、山道から墓への小道を入ろうとしたら、その少し高台の整地された場所に新しく墓が出来ていた。移動したのである。出来たばかりの墓には、遺族の手によって青木公雄園長の育英事業の業績が書かれた碑があった。加えて彼の人物評として「智力と度胸」を兼ね備え、「陽気」でもあったという。それもそうだろう。5歳の子どもを相手にしてくれるには少なくとも陽気でなくてはならない。墓を明るい場所に移した理由もそのためだと書かれている。戒名は「臥龍庵物外賢崇居士」とあった。

 祖父や青木園長は私に何を語りかけてくれたのだろうか。
 もちろん今そのことを私は言葉として記憶していない、しかし、気配や雰囲気としてどこか記憶しているような気がする。それは何か。

 作家の埴谷雄高さんは松岡正剛さんらとの鼎談(『老年発見』)で「言葉はただの先駆の先駆の先駆に過ぎない。花火が宙空へ散る最初は言葉で、それからどんどん青、赤、紫の火花を散らして最後に暗黒になる前にさらに何かを閃かせる」と発言している。そうだ、そうなんだと思い、その「何か」を考える。

 最近、仏像の変遷をたどった「ブッタ展」と古代ヨーロッパの先住民族ケルトの文化「ケルト美術展」を見に行った。ブッタ展では、座るべき者、ブッタがまだ登場しない「台座だけがある彫刻」が目についた。ブッタの死後、600年近く口伝の時代が続くが、この彫刻は初めて偶像が作られる直前のものであったという。また、一方、2500年前に誕生したケルトの人々は文字による記録を残していない。現在、私たちがそれに触れることができるのは、口承されてきた伝説が中世になってまとめられたものやヨーロッパ各地に遺されたケルト人の美術によるしかない。しかしケルト人の美術は実に見事である。「作品」には生命観あふれる線が大胆に描かれている。そして配布されたパンフには「会場の展示物は照らされる光と見るものの感情によって、さまざまな解釈が可能である」と書かれていた。実際、形にされた「作品」のなかに、樹や石や動物などに対するケルト人の心が面影として残され、私の想像力を十分喚起させるものがあった。しかし、「作品」に接してなつかしいモノに出会ったような気がするのは何故か、その気持ちはどこからやってくるのか。記憶以前のことなのか、「齢を重ねた人たち」からリレーされたものなのか。


 おそらく、祖父や青木園長先生が語りかけたもの、あるいはその存在は、人間の在り方に向かう大切なものであり、その雰囲気こそわたしは大事にして来たのだろう、言葉にしがたいその世界に、絶対の信頼を寄せていたのではないかと思います。
パースの思想・アブダクション。パサージュに続いて良い言葉にまた出会いました。

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