ここで、「あるはなく」第1号から翌年3月の第5号までの内容を書き出してみたいと思います。この時期は77年夏から78年の春3月にあたり、30数名宛ての通信ながらも、予想を上まわる反響に、わたしも八木秋子も興奮しつつ気を引き締め、彼女は執筆に力を入れ、わたしは八木秋子がかつて著わした作品収集のために奔走しています。第3号「八木秋子著作リスト」はその報告でした。
八木秋子個人通信「あるはなく」第1号の発行日についてですが、実は奥付がないので発行日の記載はありません。わたしの家に外泊して最終的に原稿を確認した1977年7月17日に入稿して(おそらく7並びにしたかったのでしょう)8月10日に完成。13日に老人ホーム養育院八木秋子の手元へ届けました。発行日を入れることも忘れてしまうくらいの編集素人ぶりがここでも見られます。
第1号(1977年7月17日発行)
発刊にあたって
私の生きざま
常に私の戻るところ、負のバネ
キリスト教の影響について
直前で諦める事は無意味なこと
セックスというのは大きいことだ
飛び出たけどそれからがね……
それぞれが生きるということ
再び家出する
衝動的な直観と偶然を信じて
跳び越えたいけど”我”が
第2号(1977年9月20日発行)
わが子との再会
協力者の一人として 相京範昭
第3号(1977年11月20日発行)
わたしの近況
八木ノートより1
父・八木定義のこと
八木への通信 西川祐子(京都在)
八木秋子著作リスト
第4号(1978年1月10日発行)
独房
薪の火を焚く
第5号(1978年3月10日発行)
転生記(てんしょうき)
父・八木定義のこと(2)
八木への通信 相京
<松本市・牛山>
<小金井市・赤松>
<厚木市・しのだ>
これが翌年3月までの発行内容です。八木秋子は「子ども・健一郎と父・八木定義」について書くことに執念を燃やし、書き下ろした「父・八木定義のこと」を3号と5号に掲載しましたが、それは未完のまま終わることとなりました。4号の「独房」はすでに原稿としてまとめてあったもの。これは1930年代に活動した農村青年社運動で逮捕された際、留置された信州篠ノ井警察署の独房で運動を振り返ったという内容で、それを父・定義との対話という設定で書いています。だいぶ前に書かれたもので、黄ばんだ原稿は糸で綴じられて大切に保管されていました。発表を待ち望んでいたものが時機を得て「あるはなく」4号という「場」に掲載されたのでした。これは書き下ろしを補充する意味で掲載しました。
後に振りかえれば、通信の5号までが、体力気力ともに充実して最も執筆活動が旺盛だった時期でした。しかし、結局書き下ろしたものはこの3編ということになります。つまり老人ホームでの日記=転生記をのぞけば、今回掲載する「わたしの近況」は「発行にあたって」と「わが子との再会」とともに、貴重な文章と言えます。第34夜に書いたように、わたしは八木秋子の「覚悟と抵抗の姿勢」が明確に見える得難い文章となっていると思います。
翌年4月、岡山の親戚を訪ねる八木秋子と同行した際、たまたま一人訪れた岡山美術館(林原美術館蔵)で『巌頭の鵜図』(北斎)と出会ったことは、わたしの人生にとって、絵画との出会いという意味で重要な意味を持っていました。そこに描かれていた「鵜」は、まことにその頃の八木秋子のイメージそのものでした。やや丸かがみの背から首はいったん下がり、しなやかな曲線を描いて再び地から「ぬぅっと」もたげて、そして、打ち寄せる波しぶきを全身にあびながらたじろぎもせず、厳頭で獲物を一瞬も逃さぬかのように、「氣」が全身に充ちている、ほれぼれする佳品でした。
北斎の「鵜」を八木秋子に見立てる面白さを知ったわたしは、その後いろんな絵画と出会って触発連鎖していくのですが、まずは北斎でした。それ以降、北斎に関して発行された画集、カタログ、文献などを漁り、関連する展覧会には必ず行きましたし、各地にある、たとえば信州の小布施岩松院、別所温泉常楽寺、秩父の長泉院、木曽の小野の滝など、北斎の絵やゆかりの地を訪ねるようになったのです。そして、著作集の最後を飾るⅢ『異境への往還から』の表紙にこの「巌頭の鵜図」を、カバーには『雪中の虎』を目一杯に飾りました。やはり最晩年の肉筆画『富士越龍』を加えたこの3点が、わたしにとっての「北斎最高傑作」となっています。
では、その八木秋子の得難い文章を掲載します。
★わたしの近況(「あるはなく」第3号 1977/11/20発行)
こう書き出しては見たものの、改めてじぶんについて生活のうごきとか、変化などについて外部の人びとに事あらためてお知らせするほどのことがあるかどうかーと戸惑いを感じる。老人ばかりの、それも何かの病気を抱えて朝晩の寝床のあげおろしや部屋の整頓などにも苦労している人びと、長年不自由な躰を物心両方面で痛めつけながらようやくここに辿りついた老人たちの、その視力のうすれた眼や、耳のとおくなったという事実、それから誰もが悩む腰から下の脚部の痛み、不自由さなど、殊に老人にとって頻繁になってくる排泄の脅威、など、悩みはつきない。
誰しもが悩むのは現実に「あたま」が呆けてくること。過去の回想だけに生きる、それが生活の全部といえる老人にとつて「忘却」というのは救いでもある筈なのだが、1室に3人、4人という雑居生活のなかでは、「救い」どころか混乱のもとになり、整頓の能力にからんで「所有」ということが意外に大きな問題に拡がって諍いのもとになることはいつものことだ。
最初入所するとき、「一切の私物の持ち込みは最少限度」という鉄則があって、夜具蒲団、寝台、机、洋式・和式の家具調度類、洗濯機、冷蔵庫など生活必需品類は、みなそのときそれぞれに処分して、衣類(着がえの最少)とわずかな身のまわりのこまごました雑貨だけを持ってこの集団生活のなかにのりこんできたのであった。
私は最初からこういう雑居生活の寮にはいる気はなく、生活保護法とは別種の「軽費老人ホーム」を志望してみずから養育院本院を訪ね、諒解を得たつもりだった。その科長殿の話では、現在その軽費老人ホームへの入寮希望者が多すぎて、2年ほど待機しなければならない。若しその上抽籤に外れたら、また待機、をくり返さなければならないがその間の生活維持をどうするか、それに、身許確実の保証人が必要で、病気した場合は保証人が引きとる義務がある、とのことであった。保証人を引きうける血縁者はあるし、その縁者が軽費老人ホームの場合、月々の捻出する費用(といっても月平均1万円~2万円)を出すから、と約束してむしろ軽費老人ホーム入りを勧めてくれたいきさつがあったので安心して志願したのであった。
ところがこの血縁のつながりは脆くも崩れ、私の唯一の目ざす灯は当然のように消え去った。一口にいえば、血縁の者が将来保証人として負うべき義務、責任の重さについての理解の甘かったことを理由に、きっぱりと拒絶してきたからである。そのとき私はすでにいまの寮に入り、雑居生活の中のひとりとして生活していた。若しこれが生活といわれるものならば、83歳というじぶんの年齢もわきまえ、前途には老衰と死があるだけだと思う。その覚悟を肚に据えて、まだすべての終焉までにはいくばくかの時間的余裕もあろうし、わずかな能力の残滓も生活のなかに身をおいて老衰と退歩に抵抗する、抵抗を継続するその闘いの中に、現在の私の生命が光りを得て燃えることもあり得るにちがいない。ちがいないという楽観的な予測は、私が過去80余年に経験し、思考のなかで摂取し、生活の中で思索しつつ闘ってきた、その闘いの中で徐々に蓄積してきた現在の八木という存在を善かれ悪しかれ信ずるほかないと思う。
私は日常性にたいして如何にのんびりと楽観的であるか、日常の生活技術にいかに拙劣で理解がおそく、そのために無意味な誤解を招いたりする。それを私自身の資質のこととして反省し、反省から自虐に近い心理におちこんで悩んだ歴史のくりかえしともいえるかもしれない。が、現在ではその束縛というか、反省というものの自己閉鎖癖から少しづつ解放されつつある。これは私の現在の生活に、ほんとうに少しづつではあるが「慣れてきた」ことの証左であるかもしれないし、慣れ、からくる反射神経の鈍化ともいえよう。
だが、もっと大きな、もっと私自身の魂にまで鳴りひびき、重い瞼をあげて朝の清洌な光りを見たいという欲求が生まれつつあることの発見である。この発見はまだちいさく、季節はずれの狂い咲きを思わせる花のようではあるが、季節も肥料も栽培の手入れもなかばお構いなしに、私から生まれた変種の芽として愛して育てたい。
「あるはなく」の出生は、私じしんの何ものかを露呈し、善も悪も美も醜もあるがままに投げだして、知己友人の前に女性の一個の生き様として批判を乞いたい希いがあった。もう年月を経たいまとなっては引きかえす道程ではなく、やり直しのきく歴史の素材ではない。
わたしがこの養老施設に身を沈めたのは一切の環境から離れて、孤独の境地に自分自身の存在を眺めたい、そこから長い年月の生存をたしかめたい、という希いもあった。が、ここへ移ってきたという事実は、老年の私にとってはまったく思いもかけない大きな断絶であり、突然変異ともいえる変化の大きさであった。長いあいだの木造アパートの独りぐらし、貧しく素朴で簡単な独り暮しの中で、静かな読書や思索の日々であった単調な日常性は、まことに意外な他者との生活体に代り、そして組織と機構という網の目にとりかこまれた中での単純な思考方法は、それを身につけていない者にとっては、まったく遠い異国の距離を思わせる。突然変異とも隔世遺伝現象ともいえるかもしれない。常識を越えた常識が支配している広大な近代的建築の一廓である。
いつでも眼ざめれば手近なところに読みさしの手なれた書物があり、ノートがあった、といったような些細な習慣がそんな微細なことに気づかせる。その長い日々の為すこともない長い時間-ことに三度の食事は広い食堂に整えられてアナウンスによって始まる。ニュームの食盆を抱えて順番を待つ列のなかに、最初わたしはソクラテスの顔を見いだし、またつぎのときにはルオー描くキリストのかおを発見したこともあった。境遇の激変した砂漠への彷徨という形容詞の中で、ものを書きたい衝動にうごかされ、変種の生長を覚悟の上で、これからあらゆる困難や支障と闘いながら、自由に奔放に書きつづけたい、それを一つの意志のもとにぜひ実現させたいと、知人の方々に表白したいと思う。
1977・11・12