●第36夜 転生記(1)

 30年前の1977年8月13日。八木秋子の手元に届けられた個人通信「あるはなく」第1号は、30数名に送られました。すると予想以上の反響があり、意を強くした彼女は、およそ1ヶ月の9月20日には「わが子との再会(第27夜)をまとめ、老人ホーム養育院での通信発行活動にわたしたちは、一層の力を注いでいくことを話し合いました(第29夜~第31夜。なお、注釈全体の構成は第28夜を参照)。

 そして彼女は、「わが子のこと」ともう一つ書きたかったこと「父・八木定義」の執筆に入ります。わたしは八木秋子の軌跡を辿るため、図書館や近代文学館などを訪ね、彼女の記憶の断片を元に著作を探し求め、第3号(11・20発行)に「八木秋子著作リスト」を報告しています。一方、彼女は「父・八木定義のこと」をまとめると同時に、読者の友人たちに「わたしの近況」として、老人ホームでの近況を描写して伝えました。
 その一文では、八木秋子の自負としての「覚悟と抵抗の姿勢」が読み取れます。しかし、実際の日常は「いつでも目覚めれば手近な所に読み差しの手慣れた書物があり、ノートがあった」孤独を愉しむ生活から一変した、多人数での共同生活からくる様々な軋轢もありました。
 
 そのような日常を八木秋子の日記「転生記」より伝えたいと思います。

転生記
1978年2月2日
 事務所に行ってみると、あんた高井ますさんを知っていますか、という。あの高井さんがきのう病院で死んで、きょう午後1時から病院の霊安室で告別式があるから行ってはどうか、という。あの高井女史が。病院で……。とうとう逝ったか。わたしを徹底的にきらって、バカヤロ、チクショーと呼び続けた人。わたしはその人に対して一度も抵抗もせず、挑戦もしなかった。

 彼女がいよいよ荷物をまとめて出る矢先、わたしの古い洋装の余りが欲しい、というので、渡辺さんの遺品としていただいたスーツの古いのを出し、着せてみたところ、どこもピッタリと合ってスマートな姿になった。私には身幅も腰もせまく、着られないのだ。彼女の満足した顔、様子は実に喜びに満ちていた。そのほか夏のワンピース、うすものの上着など、私はその人の歓びにうたれて惜む気を忘れ、それらを贈った。みんながぞろぞろ集ってきて彼女のニュースタイルを祝福した。前夜は寝る前、彼女の首途を送るのに赤飯、まきずし、チキンのもも肉、アスパラガスなどのごちそうをはずんであげた。彼女は顔一杯の満足と喜びを満面に浮べて喜んだ。盛んな食欲を発揮して次々と平らげて喜びを隠そうとしなかった。

 私はそこで初めて気がついた。私が羨やましかったのだ。私のところへは絶えずいろいろな面会人の慰問があり、菓子、果物、衣類などの差し入れがある。彼女は心に深く羨望をもって私を見ていたのだ。彼女は持金がある様子で、時々立派なマフラーやスカートなどを買ってきて、広げて得意気にみせた。しかし、私に対してはいつも敵意を抱いていて、バカヤロー、チクショーを連発してやまなかった。近所の人達、ことに新入寮には男性-といってはどうかと思うが、おじいさん達は彼女を攻撃した。しかし私は彼女に何もいわなかった。怒る、あるいは抗議するのはあまりに馬鹿げている。私は黙殺することに決めた。それらのことが一層彼女の反感をそそったのかも知れない。

 部屋の中でも彼女は主権者であって、咳がひどいときは寝床をのべ、部屋の半分を占拠して、どんなに周囲が迷惑を感じようが、困ろうが、他人事で平気で通した。そのうち力のない咳が頻繁になり、牛乳、卵、果物など好きなものを買って食べた。好き嫌いが激しく、嫌いな食物など贈ってくれた人の見ている前で、庭の草木の上にぼんぼん投げて意に介しなかった。その咳は明らかに結核菌からくるものと想像されたが、事務所ではこれらの一切を知りながら放置していた。とうとう入院しろ、と事務所から命令が下った、彼女はこの命令を拒んだが駄目だった。

 お前が今後退院ということになってもこの部屋へは絶対に帰ることは許さんぞ、荷物なんて残っていても構わん、みんな放り出すからそのつもりでまとめて持っていけ、2度と帰らせないからな。寮長がそういって棚の上からダンボールの荷物をポンポン投げ下した。午前9時、新入寮の玄関に彼女は一人立っていた。
 
 見送る顔といえぱ、部屋の人と私の2人だけ。「お世話になりましたねえ」と彼女は頬のげっそり削げた顔に笑いを浮べて私に手を差しのべた。私はその枝のように細い手を握った。「早く元気になって、おかえりなさい」私は淡々とした言い方だったが。ひとつの決心を肚のうちに秘めていた。自動車は走り去った。事務所のドアがあいて寮長の顔がのぞいた。いま高井さんが行きました。御心配かけました、と私はいう。「そう、いったか、ごくろうさん」と云った。

 高井さんは附属病院の結核病棟に入院した。結核病棟かどうか委しいことは知らないが11階の病室であると聞いた。玄関へ一緒に見送ったSさんがきて、「高井さんが病院の玄関のところに佇っていたよ、見つからないようにかくれて、そして飛んできた。」どうだった、やっぱり蒼い顔をしてた?「蒼いともなんとも生きてる顔じゃなかったね、見つかっては大変と、とたんに柱の陰に隠れたんだけどさ」といった。私のあげた揃いのスーツ、ぴったりと身体にあって、見違えるみたい、よく似合ったわよ、それだけに顔色の蒼さがいっそう……。とSさんは語った。

 彼女-高井さんの自ら語るところによると、彼女は新潟の農家の生まれである。近くの農家へ嫁いで一心に農で働き、農業で苦労した、子供はいなかった(真実は知らないが)。その農家の過労の生活が呪わしく、出奔して上京、上京してのちの彼女は女の職業というもの、あらゆるものを経験し、料理屋で働いたというのが大体の骨子であった。そのうち胸を犯され病院を転々とした後、この建物の中に放り込まれたというのであった。が、血縁者としては、本人の甥という50代の男、そしてその姉とも思える女の人が面会に来たことがあったくらいのものだった。

 彼女の告別式は病院地下にある霊安室だと事務所で聞いた。連れのSさんと連れだって私達2人は毛織りの服装にありふれた上っ張りを羽織った姿であった。世間ならば弔問客として小さくとも香典の包みを持つのが世間の礼儀であろうが、私達は2人とも手ぶらで地階への重々しい階段へ降りて行った。地階の一番奥まったあたりからほのかな線香の香りがうすく漂ってくる。室をいくつも通り抜けた奥に、天井も4囲の壁も白く塗られた白一色の霊安室があり、縁者の人々であろう7~8人の人々が並んでいた。

 どこの誰れの葬儀もそうであるように、正面は金襴めいた斎壇。壁の白い背景に2つの大きい花輪がどっしりと飾られてある。一つは大きい太字で都立養育院、もう一個の花輪は利用者一同、と記されてある。利用者、というのは現にここにいる我々のことで、収容者といえるであろう。利用者という言葉は、語感からもまた何とはなしの妙な現実感からも我々は親近感を持たないが、要するに葬儀のしきたりに従ってお前たちも死ねばここに移され、この形式に従って葬られることをすべて指し示したものであろう。

 納棺は正面にきらびやかに置かれてある。これから遺体となった仏は一から十まで養育院内のそれぞれの係りによっていつもの葬儀の仕来たりどおりに、形式どおり、習慣どおりに運ばれるであろう。すべて飾られたとおりに、そして寺の和尚の経文につれて、流れていくだけなのだ。私とSさんはろうそくの光りを縫ってお棺に近づいた。電灯の光りに映し出されたその顔は蒼く、黄色く光りの下に静まっている。

 「高井さん」とまずSさんが呼びかけた。
 「あんたはこういう仏様になっちまったんだね、随分苦労したわけだったね。もう大丈夫、苦労ないよ、安心して遠い冥土へいらっしゃい、みんなあとからぞろぞついて行くよ。迷わずに行きなさいよ、安心で迷わずにまっすぐ行きなさい、なんにも思い残すことないからね。こんどは丈夫な人たちといっしょ。薬も何も心配ないよ。病気も何もないんだから、またいい家に生まれ変わってね、幸せな家に生れ変っておいでなさいよ。幸せになってね、随分苦労したわね。今度は楽な、たのしい家に生まれるんだよ。私なんかお珠数もお線香もろくに持っていないんだけれども、ごめんね」
 と時々喉を詰らせながら言い聞かせる、割りとよどみなくすらすら云う言葉には、哀しみも何の耳を傾むけるいとまもなさそうである。私達2人は合掌して瞑目した。そして、その一つの物質となった人の顔に告別した。告別にきた女性2人、黒い服装にお珠数を手にしている。男達はやはり黒い背広である。

 和尚のお経は喉に時々からまりながら、いとも退屈げにいとも物憂くげにどこまでも続いていく、私は同じくこの建物のこの室内で死ぬ自分を想像してみた。しかし、死、ということがはっきり描かれるだけで、別段の感情もない。この真白い地下の白い静寂の中での死、などというものは白一色の、光るものの中に静寂の一刻一刻がすぎていくだけで、何の感情も感傷といったものもありはしない。 利用者一同はこうして何人であろうがここに無意味に坐するだけだ、妙に悲嘆したり哀傷など装おうとしないだけに、いっそ単純にさばさばと過ぎていく一時である。造り出される悲しみでもなく、何も惜まない死であるのもよいものだと思われる。棺の蓋をする石の音が響く、別に魂を刺す音でもない。彼女の生前、いろいろ身辺の世話を担当してくれた寮母のYさんが端の椅子にかけていた。

 お棺は4・5人の男たちに担われ、別の裏口へ、そこの自動車に乗せられる、私は身すぼらしいが、私達2人が生活を、起居を共にしたという縁でこのお別れに列っしたことは、少なくともよいことだったと思った。病院の地下は私達の知らない出口がある。そこから男達の姿と共に消えた。

 私もSさんも何一つ持っては来なかったので、煙草もなく、まして食堂で飲みものをとるわけでもなく、そのまま地上に出てきた。S子はいう「八木さんは百まで生きるのよ、その時は私が告別式にくるからね、ごめん、ごめん」「百歳とは途方もない。本当はね、あんたのような用心深い体を大切にする人が永生きするのよ、ぜったいに私が先き」などとバカを云いながら病院の玄関に帰りつき、カラーテレビを眺めてよしなしごとを言いあつた。外は風で樹々が裸になってしなっている。2人は明々寮の玄関に辿りついた、そこに備えてあった清めの塩を少しつまんで身にふりかけ別れた。

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