■波乱に満ちた自立への闘い
個人通信「あるはなく」発行 八木秋子さん◆家を捨て子とも別れ 良心に生きる老女の叫び
83歳になる一人の女性が、今、老人ホームの雑居生活の中なら”老衰と退歩に抵抗〟し、個人通信「あるはなく」を出している。その長い、自立への闘いからうまれた彼女の言葉は、友人、読者の間に大きな反響をよんでいる。
◇「女人芸術」で活躍
八木秋子。かつて林芙美子、吉屋信子らとともに「女人芸術」で活躍、さらに絶対自由を求めるアナキズムの雑誌「婦人戦線」を高群逸枝、住井すゑらと発行し、昭和のアナキズム運動に足跡をとどめた女性。
この40年間は、母子寮の寮母をしたり、地域活動に加わったり、ほとんど無名のまま、ひっそりと日本の底辺の生活を見つめてきた。詩人・秋山清氏よれば”自己の足跡を消しつつ生きる姿”なのだった。
しかし、最近、昭和初期の「女人芸術」「婦人戦線」「黒色戦線」などに掲載された小説、評論、紀行文などをまとめた著作集『近代の<負>を背負う女』(JCA出版)が出版された。相京範昭さんという若い友人の励ましと努力によるものだった。個人通信も本も相京さんの八木さんに対する深い共感から生まれたといえる。◇老人ホームで生活
梅雨入り前の、さわやかな風が吹きぬける、ある日、八木さんのいう”前途に安全はあっても道のない老人の国”に彼女を訪ねた。東京都立養育院の、希望していた軽費老人ホームは待機者が多く、また保証人の問題もあって、生活保護法の適用を受ける雑居寮の方に住まう。1年半前に入居。
「入居後、1ヶ月ぐらいたって、耐えられなくて抜け出したんです。4日ほどさまよいました。相京さんの所にも立ち寄って、その時ゴッホの画集やシベリアの画集を夜を徹して見つめていたというのです。けれどここを飛び出しらどこにも住みかはない、ここが最後の所なのだと帰りついた時は、自分でもショックでね、いろいろ考えました」
貧しい独り暮らしながら、手を伸ばせば書物があり、ノートがあった自由な生活から、わずかな私物を持って4人部屋へ。それは一層深い孤独だっただろう。◇すべてをさらけ出す
その後、個人通信に、これまで波乱の生を歩み、また今、養老施設に身を沈めて生きつつある自分を書いてみよう、と決心する。きっかけは、相京さんの言葉だったという。
”あなたは愛のない結婚から離脱した時、幼いわが子とも別れてきた。その後の思考や行動の原点にあるのはその体験ではないか。それをさらけ出して自由になることからー”と。
こうして、現在5号まで出ている通信は、長野の木曽福島に生まれた八木さんが、幼年からキリスト教の影響を受け、結婚し子供を持ったが、小川未明、有島武郎らを知ったことから家を出た体験を語って、始まる。
「どんな文章になるか、表現になるか、見当つかぬまま、とにかく書きたい衝動が強いのです。でもいつもそうだったのです。先人の書いたものより私のは軽い。高群逸枝さんの仕事をみると大変な文献を読み通しての積み重ねですね。わたしはパッと思いついてすぐに行動に移して没頭するような情感派だから書くものも飛躍が多いのですよ」◇亡き父との幻の対話
八木さんの自己診断はさておき、”生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたい”とひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には、真の思想といえるものがある。知識の再編成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある。
神近市子がやめたあと東京日日新聞社で活躍、その後昭和のアナキズム運動に身をていして逮捕されるなど、変転きわまりない80余年が、これから少しずつ記されるだろう。4号で「独房」と題して、八木さんは刑務所にあって、亡き父との対話をする文章を載せている。”最も心にかけてくれた人”との対話の中に、家を捨て、自立を求めた八木さんの声が、父への哀唱となって響いてくるのだった。
1978年6月21日 共同通信配信『中国新聞』
■八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』は4月20日に刊行されたと奥付には記載されていますが、実際は4月29日の出版記念会にようやく間に合ったというのが実情です。その記念会のことはまたあらためて報告しますが、その直後、八木秋子は感冒で倒れ、5月一杯は寐たり起きたりの状態が続きました。わたしは八木秋子の本を世に出した後、より加速したくなったのに違いありません。八木秋子をもっと世に知らせたいと、主な新聞社の学芸書評欄に手紙を出して掲載を要請したのです。
当時、戦前において八木秋子と同じアナキズム戦線で論陣を張った高群逸枝が盛んに読まれていてその女性史が脚光を浴びていたことが、一方で八木秋子という人物をマスコミが取り上げる理由となったのだと思われます。朝日新聞の書評欄で取り上げる、しかもかなり大きなスペースをとるつもりだと執筆者の堀場清子さんから連絡を受けました。しかし八木秋子は病に倒れていたので、6月に入ってようやく体調が戻ってから取材をしていただきました。
また、故郷:群馬県岩島中学校の友人、丸橋孝成が共同通信社に務めていたことがキッカケで、文化部記者の中村輝子さんが取材に来られました。
その時の印象を八木秋子は
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★1978年6月8日
日時もぼんやりして私の頭脳は捉えがたい。昨日、共同通信の中村輝子さん、写真班を連れて来訪。どの部屋も使用中なので運動場を望む庭に案内。ベンチにかけて話す。中村さんはある程度仕事で苦労し、もまれて来た人らしい。広い事情に通じ、しかもわたしの本質を見ているらしいので、話は簡明だったが気持ちよく流れて「あるはなく」の質問など的を得ている。
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このように書いて「私もこの人に何かひかれた」と続けています。
中村さんの文章はわたしを励ましてくれました。「”生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたい”とひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には、真の思想といえるものがある。知識の再編成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある」。この言葉が核心をついていました。その中村さんには一度もお目にかかっていませんが、その後、竹内好の日記にその名前を見て、共同通信の「竹内好番」だったのなら、この「あるはなく」の発行も竹内好の死と葬儀への参列がきっかけになっていたのですから、これも一つの縁かと思っています。
そこで、中村輝子さんはどんな人だったのか、ネットで検索してみました。
みすず書房メイ・サートン・コレクション『82歳の日記』2004 の訳者紹介によれば、次のような方でした。
★中村輝子 略歴
北海道に生まれる。東京大学社会学科卒業後、1962年共同通信社入社。文化部記者、編集委員、論説委員を経て、98年退社。現在 立正大学客員教授、ジャーナリスト。著書『女たちの肖像』(1986), 編著『生の時・死の時』(1977)、訳書 ボニントン『現代の冒険』(共訳, 1987) シンプソン『死のクレパス』(1991) ヘッド『力の問題』(1993) ベル『人種主義の深い淵』(1995) ハーストン『騾馬とひと』(1997) ヘメンウェイ『ゾラ・ニール・ハーストン伝』(1997)サートン『回復まで』(2002)他。
■実は中村さんの「女たちの肖像 友と出会う航海」(人文書院)1986 という本を知らなかったのですが、どのような本なのか、これもネットで検索してみますと「人間とは女性とはこんなに美しく気高い存在であり得るのかという感嘆の気持ちを禁じえない。彼女らは家庭的には恵まれない人生だったかもしれないが、真実の友がいたのだ」と読後感を書いている方がいらっしゃいます。
そして、いっそう中村さんのお仕事に関心が湧き、メイ・サートン・コレクション『82歳の日記』2004 の内容紹介とその「メイ・サートン」なる人物のプロフィールを調べたところ次の記事を見つけました。
★『82歳の日記』2004 の内容紹介(みすず書房HPより)
1994年8月、日記を書き終えたサートンはまもなく闘病生活に入り、1年たらずで亡くなった。長いあいだ、友人たちの手を借りながらも独り居の頑張りをつづけていたが、体調不良と死の予感とともにようやく〈老い〉を受け入れ、それでも最後までこの家に居たいと願って、日常をありのままに、ときにユーモラスに記録しつづけた。猫のピエロがベッドに上がってくるだけで幸せになり、積雪に閉じこめられる暗い冬になると、冬眠する動物になりたくなる。気鬱と闘いながら「すこしずつ手放すこと」を学び、いっぽう想念は時間も空間も越えて、少女時代にまで、あるいはサラエボにまで広がる。行間に滲む彼女ならではのオプティミズムと率直さと勇気は、きっと読者を魅了し、共感を呼ぶことだろう。夢をしっかりつかめ
夢が消えると
人生は雪の凍りついた
不毛の荒野になるのだから。(ラングストン・ヒューズの詩、本文より)メイ・サートン
May Sarton
1912年、ベルギーに生まれる。4歳のとき父母とともにアメリカに亡命、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人する。一時劇団を主宰するが、最初の詩集(1938)の出版以降、著述に専念。小説家・詩人であり、日記、自伝的作品も多い。1995年逝去。著書『独り居の日記』(1991)『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』(1993)『今かくあれども』(1995)『夢見つつ深く植えよ』(1996)『猫の紳士の物語』(1996)『私は不死鳥を見た』(1998)『総決算のとき』(1998)『海辺の家』(1999)『一日一日が旅だから』(2001)『回復まで』(2002、いずれもみすず書房) 他多数。
■メイ・サートンという人物も知らなかったのですが、そのプロフィールにある「詩人であり、日記、自伝的作品も多い」という点からしても、八木秋子にとても良く似ていると思いました。中村さんにとって八木秋子との交差はほんの一瞬でしたが、わたしが伝えたかった世界と中村さんのその後の活動は相互振動するものがあります。今こうして八木秋子を振り返る中でそのことに触れることができ、わたしはまた一つの「ものがたり」を妄想しております。