●第42夜 注釈:八木秋子の周辺の人たち-川柳作家児玉はる(3)-



 雪混じりの日本海からの風が山を越え、関東平野の空まで覆い始めると、いよいよ冬枯れへの感興が湧くと同時に、暗澹とした空のもとで「しんしんと雪が降りしきる」雑木林に佇んでみたくなります。

 なぜなのか、考えてみました。私はかつて、その一見寒々とした冬山や冬枯れの雑木林風景は「寂しくない」と書いたことを想い出しました。

 最近見た絵の話をします。田村一男という85歳の、山や高原を描き続けている画家がいます。特に冬の山の絵は一見寒々とした寂しい風景と見え、屹立した峰は人をよせつけない凛とした姿勢を感じさせます。私はどうしてこういう一連の絵、横山操、水谷光江の作品に惹かれるのかを考えました。たしかに、生れ故郷の山間の冬景色はそれです。しかし、恐らくその理由は、人間は一人で生まれて死んでいくという厳然とした事実と、一人で生き難いから人間は共同性を持って生きていくということのように思います。
 寂しい風景と思うのは人間の単なる思い込みで、そこで動物や樹木の営みが続けられ、すべての自然のシステムは作動しています。私たちはそこに立ち尽くし、遠くとおく伝えられてきた意識の底にたどり着き、何か探しものを取り戻したかのように、あるいはもう一つの忘れものを思い出したかのようにして、歩み始めようとする力が湧いてくるのではないでしょうか。私たちとその風景は隔絶した世界ではなく、内から湧く力を信じるという人間への信頼が根底にあると思います。

 田村自身こうも言っています。

「山は近づいて見ると薄っぺらで多弁、遠くだと雄大です。美しさは離れてみないとわからない。人間もいい距離が大事だ。」1989/3/15

 第42夜は、この厳冬の時期に闘病生活を送り、わたしが哀慕の感情をいだいている川柳作家の児玉はるさんに触れたいと思います。児玉はるさん(第10夜・第26夜)は1988年、つまり今から20年前の3月に亡くなりました。前年の秋に入院してから5ヶ月目の正月から2月にかけて、児玉さんは一気に十数首も川柳を作り、持ち直すのではないかと淡い期待を周囲のものにいだかせましたが、それもむなしく、3月22日になくなりました。享年82歳と7日。

 私はその頃発行していた冊子「パシナ」の読者の方に訃報を伝え(1988/5/15)、その時の哀慕の情をこう書き加えました。

☆ひとがいなくなるということはとてもさみしいことですが、そのとき何かがパチンと弾けて、伝わってくるものがあるように思えます。闘病を通じて児玉さんが見せて下さったものはなんだったかと考えると、一つの絵が浮かびました。北斎90歳の肉筆画、九十老人卍筆「富士越龍」。北斎が執着した富士、その絵の富士は、清澄な、凄みのあるもので、そして、エロスも感じさせます。また、色は蚕が糸を吐く直前の体色にも似て、次の何かに変わるということを暗示しているかのようです。いのちとはそのようなものではないかと教えられました。5年前、八木さんを送った5月1日に納骨を行いました。ごく最近、句集『むらさきの衿』(児玉はる)の出版記念会報(1984・2)の冒頭で八木さんの「あるはなく」に触れていることを知り、その1年後からのおつき合いを噛みしめているところです。

 寡作の児玉さんが武南病院で一気に詠んだ作品を紹介します。

夢にみる白い御飯は薪で炊き
ぬけがちを置き留守になりたい
かすかなる遠い音から夜があける
一碗の粥ゴマ噛んでゐる
闇に啼く鳥ひくく暗く闇深く
真夜中の足音をきく眼をとじる
眠らうと病衣の衣紋正すかな
それぞれにその人らしき夢のなか
夢のなかさへ病人になり

消えていく泡のひとつとなりきれず
あけがたの水仙薫る髪短く
福寿草かたむく五芽三が日
病床に菜の花あかり眼鏡拭く
一枚一枚青邨展の絵はがきを
氷片キラリ高熱さがらざり
スリッパの素足エコーへ肩をかり
桜草サンドイッチと卓の上
朝陽まぶたに静臥している
六人の静臥の午後の加湿器

受胎告知の絵がみえている
一月の雪降りしきる窓
連載の小説を読む背中かな
グラスからあふれる花の茎すける
グラタンヘベットを起こしよりかかり

窓をすぎる鳥のゆくへのたしかさや

春和浄香信女(児玉はる)

 児玉さんが逝去された数日後、私は越後に向かいました。その2年ほど前の「横山操展」で見た「越路十景」が忘れがたく、横山のふるさとが弥彦の麓の吉田町であり、その隣町の「分水町」は児玉さんが小学3・4年のころ住んでいて、病床で懐かしがっていたことも出かけた理由でした。会話することが出来た最後のお見舞いには「越路十景」の絵葉書をプレゼントしていました。そのため、良寛ゆかりの寺泊、国上山、五合庵などを廻ったその行程のメモには、横山操のことがたくさん書かれています。「葬儀の日、小さな児玉さんの骨を拾う、街は木蓮や辛夷が咲いていた。雲は重なり、動き、荒川の上にあった。まるで横山操の越前雨晴のように」とか「越路は暖かく、春霞におおわれていた。一方、振り向けば上越の山々には雪が残り、寒々と見えた。ひとたび日本海をわたる風に越路が凌駕されると、一変して冬の風景になるのだろうか。凛然としたなかに暖かさがある。横山の絵はそれだった。八木秋子は木曽路に、児玉はるは越路に、私は追憶する。それを心に沈めた」と書いています。

 やはりこの季節になると、横山操に思いを馳せます。越路十景の「上越暮雪」と「蒲原落雁」には彼の原風景が見てとれますし、シベリア抑留体験も重ねて考えていましたら、つぎのような発言がいっそう身に迫ってきました。たしか詩人の石原吉郎も同じような経験を書いていたことを思い出します。

■横山操展1986 カタログより
☆人間落ち目になると、とかく苦しい日ばかりつづく。生きるのが苦痛にすら感じることも、よくあるものだ。しかし、どんな苦渋に満ちた時期でも、そこに笑いや喜びが全くないかというと、必ずしもそうではない。ときには重くるしい気分を忘れて、ひとときの笑いを思い出すことも皆無なわけではない。この瞬間が、どれほど慰めになり、また救いになることだろう。
 それあればこそ、人は苦しみに耐え抜いて、再び生きる路を見出すことができるものだ。きびしい冬の明け暮れに、ふと訪れる冬日和の一日は、それに似ている。たとえこの平和ななごやかさが、多分明日まではつづかないものだとしても、しかし、冬を乗り切る気力が、この一日で蘇えることは確かである。
李白の詩の一節。
今日風日和
明日恐不如

表紙の言葉一冬日和

昭和43年12月(976号) 月刊中央公論 

 江戸時代には「枯野見」という、花見や月見のように小春日に輝く枯野を眺めて感興をそそらせたということが流行ったそうです。

 ☆冬は「自然や生命の魂がふえるという意味の【殖ゆ】という言葉からきている」
 ☆春は「しだいに自然や生命の魂のエネルギーが満ちてきて、つぼみが【張る】」
      『花鳥風月の科学』松岡正剛

☆われわれはどこかで蒼然として「枯れること」を救おうとするものなのだ。
 いやいや、救うだけでなく、それでもなお枯れざるをえないものたちを惜しんだのだ。だからわれわれは枯れゆくものへの愛着から何かを発しようとしている者なのだ。枯れておしまいなのではなく、枯れてなおはじまるものを感得した。 『山水思想』松岡正剛


『山水思想』は「横山操は<日本画の将来はどうなるんだ>と言って死んでいった」という1行から始まり、「日本の山水-水墨の表意-負の介在」という三つの構想を重ねて、「負の山水という方法を巡る提案」だと「あとがき」にあります。

 ここではそこで触れられている「負」について少し書いてみたいと思います。

 私は八木秋子著作集Ⅰの表題を『近代の<負>を背負う女』としました。その場合の<負>は当然たんなるカチマケではなく、「近代というものによって切り捨てられてきた部分」を指していますが、同時に「負のバネ」と書いたように、その<負>こそ次の何かを始める時の「素」になるものといったイメージがありました。しかし、自分でつけたタイトルですが、それ以上の意味や背景をこれまでずっと探し続けてきているように思います。その言葉がどう動いていくのか、『近代の<負>を背負う女』と著作集Ⅲの『異境への往還から』という言葉がどう豊穣さを増幅していくのか、そのなりゆきを逍遙してきたと言えます。そういった意味で言えば、『山水思想』の「第5部:山水一如」の「枯れる-負の庭-負の湿潤」と続く一連の流れ、とりわけ「負の介在」という言葉に出会ったことは、「注釈八木秋子」においてキーワードになるだろうという予感がしています。

 さて、そこで児玉はるさんのことに戻り、彼女から感得した「負」を語りたいと思います。

なくなってから10年後の1998年、冊子「パシナⅥ」を発行して、児玉はるさんを追悼しました。

 □「あるはなく」と「なきもまたあり」(『パシナⅥ』1998)

児玉さんは児玉はる作品集『むらさきの衿』の刊行を記念した句会(1984年3月)をまとめた会報の巻頭で八木さんの「あるはなく」に触れて書いています。

 足が地につかず、気もそぞろの来しかたでした。心身ともにでありまして、今もって、片づかぬ中で過ごしております。この度、昭和11年からの中から句集をつくっていただきまして、すぎた日々をふりかえりみました。一つ目弁天の池にうつる紫陽花・銀杏の大樹・鉄砲洲小学校へ往復する佃の渡し、馬込村、橋場、駒形、まだ川柳につながりません。人がその随想集を「あるはなく」とされました。なきもまたありと云えるでしょう。(「むらさきの衿」刊行記念句会報より)

 もちろん『あるはなく』とは八木秋子の個人通信です。この文章を書かれたときは、直接児玉さんにお目にかかる前で、またお目にかかってからも児玉さんはこの文章については触れたことがありませんでした。そのため、私が初めて知ったのは、児玉さんがなくなった後で、高麗川団地の部屋を片づけていた時でした。「なきもまたあり」という言い方はいかにも児玉さんこそふさわしい。あるかないかのような薄い墨色を何度も重ねることによって、存在感のある生き方や川柳で、表現してこられた児玉さんの一生を表していると思います。ちなみにこの記念句会の参加者は62名と大盛況で、その報告の記録には、毎日新聞の川柳コーナーで長く選者を担当していた渡辺蓮夫や時実新子から寄せられた文章もありました。

私は児玉さんが入院されているとき、福寿草や菜の花などの簡単なお見舞いを持って行きますと、児玉さんらしいことですが、それに一つ一つ応えて句を作られました。なくなる2日前、長男を連れて見舞った時はパックした「ウナギ」と、国会図書館で新たに見つけた戦前の児玉さんの作品を持参しました。

 江戸を知っている人はきちっとしたウナギを喜びます。近藤真柄さんもそうでしたし、古河三樹松さんもそうでした。たまたま私はその頃、江戸川橋近くにつとめていて、その近くにウナギの卸問屋があったので、そこで手に入れたウナギをもって匂いだけでもと思い児玉さんを尋ねたのでした。しかし、児玉さんは集中治療室へ入っていて、私は子供がいたせいもあって、作品を封筒に入れて眠っている児玉さんに別れを告げました。それが最後の別れとなったのです。その直後、古河さんが見舞いに訪れ、その時は意識があって酸素吸入器をしたままだから良く聞き取れなかったようですが、「相京さんがきて封筒を置いていった」と封筒を指さしたといいますが、言葉が聞き取れず、しばらくして古河さんは辞したようです。

 翌々日児玉さんがなくなった日に「残念ながら児玉さんがなくなりました」と電話しましたら、古河さんは覚悟していたように静かに対応されました。児玉さんとの付き合いは六十有余年にわたるので、その日お二人で話しができたということは本当に良かったと思いました。古河さんに「話せて良かったですね」と言いましたら、「あんたも良くしてくれた」とおっしゃいました。

大逆事件で殺された古河力作さん同様、弟の三樹松さんも背が低い。児玉さんと最後の別れをされる時、踏み台に上って棺の上から顔を覗き込み、人差し指でしきりに泪をぬぐっていた葬儀の時の光景はいまでも忘れがたいものがあります。長い長い付き合いの別れだったのです。

 親しくおつきあいさせていただいた古河さんの思い出も尽きませんが、ここでは児玉さんの「なきもまたあり」に触れます。八木秋子の「あるはなく」は小野小町の歌(伝)から採ったものですが、それが彼女特有の自己否定を特徴つける言葉だとすれば、「なきもまたあり」も、まさに「児玉はる」という人物そのもののように思えます。カタツムリが這った、あるかないか分からないほどの痕跡は、だからこそ「在る」という存在感を持って迫ってきます。

☆背なでて犬の不安を知ってやり

 不安を取ってやるというような傲慢さでなく、背をなでるて知ってやることぐらいしかできないという児玉さんの距離感は、田村一男が言う「山とのほどほどの距離」に通じるのではないでしょうか。わたしは、凹で対象に近づくことによって、その行為自体が逆に凸に変容していくように見える接し方が好きです。児玉はるの世界にはわたしが抱く「負」のイメージが重なるのです。

  ☆魂魄の雪ふるかなた雪みんとただそれだけの旅より帰る 辺見じゅん

 児玉さんは墓を無縁仏とするように遺言しました。だからその追憶は、横山操の世界を逍遙することであるし、越路への「枯野見」「雪見」の旅なのです。



>>★第43夜 アナキスト・八木秋子のこと 朝日新聞 1978/6/26 へ

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