●第46夜『近代の<負>を背負う女』出版記念会-南澤袈裟松さん



 30年前の1978年4月29日。東京文京区立新江戸川公園会館で出版記念会が行われました。出席者は約30名。第5号まで発行された八木秋子通信「あるはなく」の読者がほぼその数くらいだったという意味でいえば、京都の西川祐子さんや信州の渡辺映子さんなどをのぞいて読者のほとんどが参加されたといえます。戦前からの同志である「農村青年社」の仲間、婦人戦線や女人芸術の同人、女性史研究の方々、八木さんの親戚や縁者の人、そして私の友人たちが集ったのでした。
 そこで交わされた、それぞれの方々と八木秋子とのつながりや著作集出版への祝福などは「あるはなく」第6号にまとめてありますが、今回は参加者の一人、「農村青年社」の同志であった信州佐久の南澤袈裟松さんをご紹介したいと思います。

 実は2008年9月15日、朝日新聞(長野版)に大きな見出しで南澤さんのことが報道されました。

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 ☆反骨103歳 激動の軌跡
 -アナーキスト運動→逮捕・投獄→政治家秘書→老人会で反核

 小諸の南澤袈裟松さん 長男が本に
 手記・関連資料……昭和史の断面を映す
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 長野県小諸市の最高齢者で103歳の南沢袈裟松(けさまつ)さんの軌跡を、長男で元教員の陽一さん(69)が「栗ひろい」という題の本にまとめた。袈裟松さんは日本が世界恐慌などを経て戦争に向かう時代、疲弊する農村のため農民運動に身を置き、治安維持法で投獄されながらも、その後衆院議員秘書も務めた。手記や寄稿文、関連資料からなる本は、激動の昭和史の断面を映す記録でもある。

 袈裟松さんは1905(明治38)年、旧南大井村(現小諸市)の農家に7人兄弟の末っ子として生まれた。東洋大宗教哲学科に進んだが、ロシアの社会思想家クロポトキンの「相互扶助論」に影響を受けていた袈裟松さんは、日本が金融恐慌に見舞われた27(昭和2)年、大学を中退し帰郷。農業に携わりつつアナーキスト(無政府主義者)が主宰する農民自治会長野県連合会に入り、農家の肥料代や借金の支払い延期を要求する「農村モラトリアム」を県下に呼び掛ける運動に参加する。これに賛同する農村が相次いだ、という。

 A5判300ページに及ぶ本はこの時期の稿から始まる。

 昭和の初めは29年の世界恐慌もあり、農民の生活は困窮を深めていた。地元を中心に小作争議に積極的に関与していった袈裟松さんは、各地の仲間と「農民に自給自足、自治協同を反映せしめ、協同社会たる自由コミューンを建設する」とする農村青年社の運動へと進んだ。

 こうした活動が危険分子とみられ、警察から度々検挙された。信濃日々新聞の記者となった35年には、のちに「慄然!黒色テロの陰謀」「信州中心に武装蜂起 恐るべき都市焼却計画」と新聞見出しが躍る「農村青年社事件」の被告の一人として逮捕され、1年余投獄される。地裁判決は治安維持法違反で懲役2年、執行猶予4年。
 80歳の時、対談で当時を振り返った袈裟松さんは「レボリューションと言っても地味な方法で進めていかなくてはできない。おれたちにもこんなに豊かな生活ができるというものがなければ、誰がついてくるか」と語っている。

 度重なる検挙で農民運動ができなくなった袈裟松さんは、のちに初代小諸市長になる小山邦太郎衆院議員の知遇をえて秘書となる。戦後は県中小企業団体中央会などで働き、この間、同中央会の会報に「政治の貧困をみよ 軽視された中小企業対策費」「大企業独占化に奉仕する『国際競争力強化法案』」などの記事を載せ、変わらぬ反骨ぶりをみせた。

 70歳で引退後も老人会で核兵器反対運動を提案し、会の取り組みとしたという袈裟松さん。最近は耳は遠くなったが、いまも歩行器片手に歩く。庭先に植えた同志ゆかりの栗の木が実る秋、栗拾いするのが楽しみだという。

 陽一さんは数年前、袈裟松さんから、逮捕当時の事件を伝える新聞のスクラップブックを託された。今回、父の足跡を1年以上かけたどった感想を「その時代、その時代にのめり込んで生きてきた人間だということを改めて確認した」と話す。

 「栗ひろい」は自費出版で300部制作、親類等に配布した。販売はしていないが、小諸市立小諸図書館、県立長野図書館で読むことができる。(伊東大治)
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 わたしもこの本の制作に協力しましたが、このような展開になるとは予想もしなかったので、「いやぁ、まことに愉快なことですね」と、陽一さんからの一報に応じました。
 愉快といえば、南澤さんたち信州佐久の農村活動家の方々は肩に力が入っていない、理論一本槍ではなく、ユーモアたっぷりで、飄々と権力に対応する方が多いのです。

 たとえば今回の本の口絵にもこういった記述があります。


■ 口絵--------------------------
 2005年9月19日(敬老の日)「百歳萬歳記念碑」を自宅の中庭に建立。表面には先のような父が座右の銘にしているクロポトキンの詩が彫り込まれた。

 親しき友よ!
 倦み疲れたる魂もて、
  灰色の地球-汝の悲しき棲家-を
  離れて彼方に憧がるるなかれ。
 否! 地球とともに搏動せよ。
 地球をして、汝の肉体を労れしめよ。
 斯くて、汝の同胞が、共同の重荷を担うを扶けよ!
        世界的な自然科学者 ピーター・クロポトキン
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 「百歳万歳記念碑」というタイトルが愉しいですね。
 わたしは南澤さんたちからそういったセンスが貴重であると教えていただきました

 そして、「世界的な自然科学者 ピーター・クロポトキン。」
 ご承知のように、ピーター・クロポトキンは19世紀から20世紀初頭にかけ、日本にも多大な影響を与えたロシアのアナキストです。第20夜[小川未明と大杉栄、そして八木秋子]、第23夜[「あるはなく」第1号発行と有島武郎]でもクロポトキンについては触れ、八木秋子が出会った小川未明も有島武郎もクロポトキンをたいへん尊敬しているということを書き留めました。南澤さんもクロポトキンの著書と若い頃に出会い、その影響をおおいに受けてきたと何度もうかがっています。しかし、アナキストであるクロポトキンを否定するわけではないけれど、この「百歳萬歳記念碑」の碑文とクロポトキンの肩書きはむしろ「アナキストというレッテル已然の人間としての存在」にその本質性を見る南澤さんの真意をわたしは読みとりたいと思います。

千夜千冊『神もなく主人もなく』【0941】は クロポトキンの葬儀から始まっています。
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 1921年2月8日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ノヴォジェヴィチの修道院にいたる5マイルの道に、チャイコフスキーの第1と第5が流れた。その葬列には黒旗が林立した。
 葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には200人の合唱団がふたたびチャイコフスキーの『永遠の追憶』を歌った。そして、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いたのだ。
 「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ!」。  

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やはり、いいですねぇ。荘厳な雰囲気があり、気持ちが引き締まります。

 さて、その南澤さんと八木秋子の二人の関係について、出版記念会における南澤さんの挨拶をお読みください。

★南沢袈裟松- 「あるはなく」第6号より 1978/5/30

 私は八木さんと同郷でして、八木さんは南の端の木曾で私は浅間の麓の小諸というところです。今度は八木さんの過去に執筆されたものの一部がこのような立派な本にまとめられて出来たということは私ども心から喜んでおります。私どもは八木さんとは既に半世紀にわたるおつきあいと申しますか、お世話になりました一人でございます。八木さんのことで一言申しあげますと、あの忙しい、農村での座談会やまた講演会などにいかれまして、よくこういうものをお書きになっておられたなあと、私はびっくりしているわけです。もう八木さんの場合には情熱家でしたから、ゆっくりと著作などにふけっている気分になれないわけです。

 今の現実ですね、その中で苦しんでいる人達のためにどうすればよいのだというふうなことを念頭にいつでもあるものですから、村々を回わって講演会をやり座談会をやったわけですが、ことに八木さんの場合は座談会が素晴しくうまいのですね、もう引きつけてしまうわけですよ。私達の農村を廻わって座談会をやっておじいさんもおばあさんもそして若い人達も集まった中で、その当時、八木さんのお年も女盛りの時分でして、素晴しく説得力のあったものでした。とにかく情熱を傾けて、今日おかれている農民や労働者の位置というものがどういうふうなものか、どうすれば私達は抜け出て自分達の生活を、本来の生活に取り戻すことができるか、権力者の手から自分達のものに、つまり自由自治の世の中を作るためにはどうしたらよいか、ということを村の若い人達と話し合って、その時も見張りなどをつけて座談会をよく開いたことがございました。

 八木さんは一面詩人と申しあげたほうがなんとはなしにぴったりするようなお人柄でして、それこそ本当に理屈抜きにして、私達の本来人間としての生き方について、どうあるべきかということを真剣に考え、また村の人達と話し合ったということを私もお伴して一緒に村々を廻わったことを想い出します。
 
 ある時岩佐作太郎さんなどもご一緒に、これは岩佐さんですから話はベテランですからうまいわけです。村々の小さい畑に境をしているわけだが境などとってしまえ、そして馬で耕やせば能率があがるし、実際みなが一緒に生活することができないか、できるじゃあないか。これを搾りとっている連中をなくせばいいのだから、問題じゃあない。と若い人達にハッパをかけまして、若い人達も「ウンそうか」というわけでした。まあ田中元総理が刎頸の友とか書いたそうですが、私達の場合は農青社事件で反乱予備罪でひっかけようとしたわけでしたが、一応その運動はストップしたわけでしたので(幸い体刑何年という程度でよかったわけなんですが)。その約50年前のことを思い出しますと、八木さんの足跡というものは非常に大きいわけです。各県に渡って歩かれた。ただ文筆を業として生活することをお考えならば、林芙美子さんやその他の女流作家の方もいらっしゃるわけですが、そこをじょうずにいわゆる世渡りもできたでしょうが、そんなことは大嫌いな方でして、体を張ってゆこうという方でした。

 幸い80余才でまだお元気ですから、今後も頑張って頂きたいと。ロシアにも有名な革命の惰熱家はおりましたけれど、それにも負けないような八木さんにも過去があるわけでして、相京さん始めとして皆さんによって軌跡を、功績といったほうがよいかも知れませんが、一つそういうことを具体的にこういうふうにして頂ければ、沢山の方に見て頂けると思います。今回は<負>といいう言葉を題名に書かれたことは、非常に、私はよいことだと思います。なぜなら社会制度の中で婦人の地位というのは常にこの<負>の状態に今日まであったのではないか。昔女性は太陽の如き存在であったといった人もありましたけれど、爾来<負>の状態におかれてきておりますから、これは近代の女性の一つの縮図だと思います、こういうよいテーマをつけられたことは私も大変ありがたく思っております。

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 散会の直前、南沢さんが「ナロードニキ」の歌を歌われた。八木さんもそれに唱和した。私はそれを聞いて当時の長野の農村の雰囲気がわかったような気がした。つまりアナキストの運動として東京から農村青年社が長野やその他の地方ヘパンフレットを送っていたが、それを受けとる側の問題意識としてはアナもボルもない混沌とした流動的な「運動」があるだけなのだ。それも未分化、未開の状態なのだという進歩史観ではなく、常に運動があからさまに露出する時はその混沌さによって運動のダイナミズムの度合を語ることができるのではないかということだと思う。後に残る問題としては、それをいかに主体の側に引き入れてゆくかという問題である。また続いて山田さんが正調木曾節を歌われた。これも本来の民の謡なのだと思った。(相京)

 ナロードニキの歌

 イザベルシャ/ニジナルク/フーフトマイハート/
 マイシャラポーチ/ナロード/ジンナグロ/カージカ/
 ロードヌイ/アラージ/タイシャクリフリンス/
 ナロード/ペリオドペリオド/ダブルシンペリオード
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 農村青年社の同志で健在なのはもちろん103歳の南澤袈裟松さんお一人。その方の軌跡をまとめた私家本が完成し、このように報道されたことは次の「ものがたり」が産まれることを予感させました。その通り、長野県下で記事を読んだ方から「八木秋子」に関する資料の問い合わせや新しい情報が寄せられております。その報告は後ほどするにして、ここでは、その出版記念会に参加していた保阪正康さんが筑摩書房発行の「ちくま」に、「農村青年社事件」について、8月号より連載を始めていることだけお伝えしておきます。10月号では八木秋子の印象を語っています。
 「大正期から昭和の初めにかけてアナキストとして活動した女性の証言に耳を傾けたが、私には驚くことばかりだった。私は、当時70代後半に入って、アパートに住むこの老いた女性アナキストからすさまじいまでの社会運動家のエネルギーを感じたのである」と。

 八木秋子をめぐってまた「ものがたり」が動きました。
 わたしはやはり、パサージュという言葉を思います。

 パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。【千夜千冊0908『パサージュ論』】

 これからも八木秋子をめぐって、自由自在に敷居を跨いでいきたいと思います。

>> ★第47夜 気配を残して立ち去った人たち(1)-信州佐久の農民と農村青年社 へ

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