4月30日は八木秋子の命日でした(第2夜 毎日新聞などが伝えた訃報)。そして、農村青年社のただ一人の生存者であった南澤袈裟松さんも、浅春の3月29日、「気配を残して立ち去り」ました。
『ちくま』5月号「農村青年社事件:10」(筑摩書房発行)には「地方同志・南澤袈裟松の革命と人生」が保阪正康さんによって書かれています。
30余年前、信州小諸の自宅を訪ねた際の南澤さんの印象は「骨格のしっかりした、そして知的な風貌」だったと描写し、103歳まで生を長らえた南澤さんのことについて「連載の中で触れようとしていたが、書く前になくなってしまったことにたいへん申し訳ない思いが残る」と追憶しています。
そして、
農村青年社の運動は、日本の農村共同体が公権力によって解体されるのに異議を申し立てた側面があり、それを私は納得したのである。そして窃盗という事件の不名誉にいかに苦しんでいるかも、それはそれとして書き残すべきと思ったからでもあった。そのような決断のあとこの連載を始めることになった。
南澤の返信(1978・4・2)を改めて読むと、その当時の南澤の心境もよくわかる。昭和53年といえば、南澤は73歳である。私の取材申し込みに日程の都合について幾つか記してあるのだが、そのあとに、「4月の下旬ともなれば、梅も桜も杏もというように長い冬の寒さをずっと待ちに待っていた草木の花々が一時に粧をこらして咲競う好期ともなりますので、その折にゆっくり私宅でお泊り願って種々とお話ができればまことに幸だと存じます」ともあった。
わたしは「返信」の日付「4・2」を見てアッと息を呑んでしまいました。何という「時の連鎖」でしょう。その日は南澤さんの葬儀の日でした。まさに春まだ浅い、「殖ゆから張る」へ向かう時季で、第48夜で伝えた信州小諸の風景でした。また、その手紙にはクロポトキンやファーブルを尊敬する南澤さんらしい季節への描写があり、「年若き探訪者への配慮」に保阪さんも感慨深く語っています。
そして、
南澤は、岩佐や石川、それに八木や宮崎と同志の関係をもつことによって、確かにアナキストとしての地歩を固めていったことがわかる。浮わついた思いつきや単なる人間関係でアナキストになったわけではなく、自らの周辺の光景、そしてそのなかでの実践を通じてアナキズムこそがもっとも農村を救う運動なのだとの理論をもったともいえるであろう。南澤が、こうした農村青年社運動に傾斜していくプロセスを見ると、宮崎や星野、それに八木らに対しての信頼があったことがわかる。三人はいずれも真面目であり、真正直に昭和初期のあの時代と向きあっていたというべきであった。彼らの理論そのものよりもまず人間的な信頼があっての農村青年社運動へと入っていったようにも思われるのだ。
第49夜でわたしが伝えようとしているのはまさにそのことです。わたしは1988年に刊行された『続・現代史資料 アナーキズム』(みすず書房)の月報で、「農村青年社」について大澤正道が書いていることに不満を抱いていましたが、今から8年前、他の理由もあって一気に書き上げたのが、第47夜と今回に分けて掲載するこの一文でした。
では、第47夜に続けて、お読みください。
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さて、この聞き書きの直後、農青社事件の裁判資料が1980年代後半に、長野で発見され、その一部が発行された(『続・現代史資料 アナーキズム』[虎ノ門事件、朴烈・金子文子事件、黒色青年聯盟とその銀座事件、農青社事件]1988年 みすず書房。『農青社事件・資料集Ⅱ』1991年 黒色戦線社)。解説の小松隆二慶應大学教授(注:当時)は、農青社の活動の位置づけについて次ぎのように書いた。
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この「事件」が注目されるのは、弾圧の激しい昭和に入ってから、表だった活動や一般労働者や農民との接触を抑えられていた最左翼のグループが、まったくの例外といっていいほど現場に入りこみ、現場と結びついた活動に従事することに成功したこと、したがって革命家や活動家の中によりも、一般農民の中にその思想を浸透させていったことであろう。
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そして、予審判事江幡清も予審調書の巻頭で、農青社運動は国体維持中枢を為す農村に対し潜行的に粘り強く活動したと書いている。◇
ところが、その月報の「地に落ちた一粒の麦」(大澤正道)というタイトルの文章の内容は、農青社の運動に対する批判であった。タイトルにそって内容をまとめれば、次のようになる。
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石川三四郎がかつて自分(注:大澤)にこういった。農民は信頼できるが都市の労働者は当てにできないと。その時はわからなかったがしかし、今は石川の体験からでた言葉だろうと思う。それは信州佐久の農民自治会メンバーとの接触が貴重な体験として石川の気持ちに残っていたのだ。
一方で、農民自治に関わった小山四三らが参加する集まりが佐久で現在もあるように、石川との接触から産まれたものが信州にも残っている。それは言ってみれば一粒の麦として生きながらえているということである。それも、信州の土地にしっかり根を張っている農民たちの生活があったからにほかならない。
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石川三四郎が、接触して感激した例として「野良着に素足で、わらじばきの農民に大喜びしてフランス仕込みのウサギ料理」を会合の参加者みなに振る舞ったこと、また「土の家」に泊まり込んだ時の思い出は忘れられない、と挙げられている。ちなみに、かつて農民自治に関わったとその文章に書かれている小山四三は、北御牧村村長であり、南澤さんの義兄でもある。
つまり、ここで語られている情報データは私が聞いた南澤さんの聞き書きに出てくるものとほとんど同じなのである。これだけなら「石川と佐久の農民」とのエピソードとして違和感はない。問題は農青社の運動に対する批判の文章を加えていることである。
大澤は、農青社を突然出してきてこう批判する。農青社のリーダーたちは石川三四郎との接触はほとんどなく、むしろ批判的である。そして農青社のバイブルといわれる宮崎晃がまとめた「農民に訴ふ」はクロポトキンの引き写しであり、石川三四郎の土民生活論とは異質である、というのである。だから石川が感激した、あるいは石川に感銘した佐久の人たちがそんな理論に影響を受けるはずがないといいたいのだろう。批判の文章を引用しよう。
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農青社が計画したいわゆる「信州暴動」はそもそも信州の同志をあてにしたもので、そこにはかつて農民自治会に結集した人びとやその影響を受けた人びとがいた。たとえば小諸の南澤袈裟松、小県の鷹野原長義など。農青社が決起の場所に信州を選んだのは必ずしも地勢上からの選択ではなく、そこにすでに農民自治会が蒔いた下地があったからだとみるべきだろう。
東京のリーダーたちが窃盗事件などで次々に逮捕され、壊滅していったのちにも信州で独自の運動が続いた理由もまたここから説明できる。都会人の「理窟」は別に彼らにとって「権威」でもなんでもなかったのだ。
(中略)
信州の土地にしっかりと根を張った農民たちの生活があった…。それこそが歴史の根っこであることを忘れないようにしたい、とわたしはおもう。事件は枝葉のようなものである。………………………………………………………………………………………
このように、農青社の運動は信州の農民に対してたんなる「理窟」を送るに過ぎない関係だったと言っている。つまり、農青社の運動は、都会から農村に対して一方的に「理窟」を「権威」的に押しつけ、運動を展開するというパターンであったと言っているのである。戦前の活動の内実、人と人とのつながりを全てひとつのパターンにあてはめて済ませている。たしかに当時のマルクス主義や都市からの啓蒙活動の多くはそうだった。しかし、そういったワンパターンの発想を安易にあてはめることが農青社の運動の実体でないことはこれまでみてきたことだ。
運動の現場での基本が人と人とのつながり、信頼関係で成立する、特に戦前においては場合によってはイデオロギーをも超えることがあるということがわからないのである。
また、このパターンは、でっち上げをもくろんだ権力とそれを報道・記録するマスコミの記事を「資料」として鵜呑みにしている。権力はマルクス主義を対象とした治安維持法にこの農青社運動をでっち上げようとしたため、農青社の組織は中央集権である必要があり、都会人による「信州暴動」のシナリオを検察側はたてて、フレームアップをしたのである。まさに、この大澤の文章はそれにそった認識になっている。農青社の運動を枝葉と言って文章を終わらせる姿はまったく嫌みであるが、ことはこの月報の一文を書いた大澤正道の肩書きである「評論家」としての解釈の問題だということではすませられない。なぜなら彼はアナキズムの理解者であるといわれているからだ。
ある運動は枝葉であるとかないとか、当時の権力に対する運動を振り分けるその感覚は、はたして当時の運動の渦中にいたものの真情をいかにくみ取り、運動の歴史として残そうと言うのだろうか。私はここで農青社の和佐田芳雄の言葉を引用したい。*注1
「ぼくは、農青でなければならないと言わないかわりに、ぼくの確認した内容を、一方的な無意味な批判で否定されることも許さないという感覚をもっています」。◇
彼らとは何をした人たちか。
そういった場合、彼らの行ったことを事細かく調べ、必要事項として書き並べて事足れりとする場合がこれまでは多かった。機関誌紙などの活字になった文章や官権側から発表される裁判資料記録などを材料とするのだ。しかし、そこから見える像はその人たちの一部分に過ぎないということを肝に銘じなければならない。戦後の人間が、既成の知識体系から戦前の人物や関係の形を安易に決めつけてはいけない。歴史のデータを正確に整理・編纂することは必要なことであるが、データを読み解く時、生きた人間、とりわけ人生に自負を持つアナーキストを安易に決めつけてはいけない。彼らこそ常に自由と変革を求めようとした人たちだからだ。
当然、既成の枠にあてはめず、いろんな解釈の可能性を保障すべきである。もしあえて発表する必要があれば、それはその対象に対する途中経過報告であるということをキチンと語る必要がある。「現時点」であり「私が判断した」ものであるという時間と空間を限定し、その呪縛が解かれたらその対象はもとに戻れるようにしなくてはならない。
つまり、いってみれば水のようなものだ。形を定めず、枠にはめず、自由自在性を与えることが前の世代の人たちに対する恩義というものである。私はこれまでも『農青社事件・資料集』全三巻・付録で資料的に運動の実体、当時の雰囲気を伝えてきた。それを通じて人と人との関係や彼らの感性などを考えてきた。
彼らが一様に伝えようとしているのは、「アナーキズムはたんなる行動の形式や自由社会に関する思想以上の、自然と社会に関する哲学の一部である」(『ある革命家の手記』クロポトキンより)。
彼らは「人生」に自負を持っている。それゆえ彼らの人生のどこを取り出してきても、彼らの面影があり、声が聞こえ、ぬくもりがある。だから気配が残るのだと思う。そして不安と迷いに満ちている時代の私たちに、いっそう「哲学せよ」と伝え、励ましているかのようである。
「黒:4・5号」2001
*なお、今回の掲載にあたり、一部文章を訂正した。
*注1:『農村青年社事件・資料集Ⅲ』所収。初出『農村青年社-その思想と闘い』:農村青年社を語る 和佐田芳雄 1988・1/2 広島無政府主義研究会発行
『農青社事件・資料集』全三巻-黒色戦線社発行 1994
なお「別冊・付録-追憶・交叉する眼差し」1997 農村青年社運動史刊行会(編集人相京範昭)は別売。
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