●第1夜 八木秋子のプロフィール

 ◆玄南工房-八木秋子とその世界
  
 八木秋子への注釈

  *この【八木秋子への注釈】は、編集工学研究所の松岡正剛さんが校長をつとめるネット上の編集学校に、わたしが関わっていた2006年(「離」の「蓮條院の別当」)に書き始めたものです。企画「EDIT 64」注釈 (つけくわえる)を担当したものでした。一部を編集して掲載します。

八木秋子との偶然の出会いを振り返り、わたしが八木秋子個人通信「あるはなく」発行にいたる経過、その時代的背景を「ものがたり」ました。

また、八木秋子が「結婚し、子どもをおいて家出して離婚する」時代(1918~1922)に出会った人々の注釈も加えました。この大正の数年間は何かがはじけて、隠れていたものが見えたような気がしています。そこを八木と周囲の人たちが共振する心と行動を辿ってみようと思います。


わたしは八木秋子と1975年に出会い、その共有した「場」の注釈をすすめたいと思う。

 もう少し丁寧に言うと、出会ってから87歳でなくなるまでのおよそ8年間にわたるつきあい、その期間に発行した個人通信「あるはなく」(1977)や自主出版した3冊の著作集『近代の<負>を背負う女』(1978)『夢の落葉を』(1978)『異境への往還から』(1981)を中心に、注釈を加えようということです。

  
 では、まずは八木秋子のプロフィールからお届けします。

■八木秋子(やぎあきこ)
 1895年(明治28年)長野県西筑摩郡福島町(現木曾郡木曾福島町)に生まれる。本名は八木あき。結婚し、長男健一郎を出産するものの自分の描いていた結婚生活と大きな隔たりがあることに気づく。たまたま近所に住んでいた小川未明を知り、大きな影響を受ける。また、有島武郎を訪ねて相談したこともきっかけとなり、子どもを置いたまま独り<家>出する。

 正式な離婚後、小川未明の世話で童話雑誌社「子供社」に勤務。そこで有島武郎から童話の原稿を貰ったという思い出は、彼への追慕とも重なり終生忘れがたいものとなった。その後、父親の看病のため、一時ふるさとに帰るが両親ともなくなったため、上京。東京日々新聞への投書原稿がきっかけで神近市子以来の女性記者として学芸部へ所属、新聞記者活動のかたわら労働講座や労働組合活動に接近する。

 1928年(昭3)長谷川時雨主宰の『女人芸術』に入社。同誌に小説、評論を発表。7月号の「藤森成吉氏への公開状」はアナ・ボル論争の発端となる。また、林芙美子との九州講演旅行記などもある。

 そのうちアナーキズムの雑誌『黒色戦線』や『婦人戦線』などでも活躍する。特にネストル・マフノに題材をとった「ウクライナ・コミューン」は埴谷雄高も当時読んだといい、著作集Ⅲ『夢の落葉を』の帯文を埴谷が書く縁ともなった。

 1931年(昭6)、貧窮きわまる農村の解放のための実践活動の道を歩み始める。「農村青年社」を拠点に、パンフ・新聞・雑誌の発行や地方への啓蒙講演活動に邁進する。しかし、活動資金調達のための窃盗事件により逮捕。その4年後、農民への啓蒙的色彩が強かった農村運動が武装蜂起の「農村青年社事件」として検察によって仕立て上げられ、治安維持法違反に問われる。 

 出獄後、満州へ。満鉄新京支社庶務課留守宅相談所に嘱託として勤務し、その地で、マルキシズムの活動家であった古い友人永島暢子らと交遊する。1945年ソ連の参戦に遭遇して不本意な引き揚げとなり、ソ連軍の暴行に絶望して自殺した永島とは永遠の別れとなった。子捨てと共にこの友人を捨てたということは、八木秋子にとって大きな傷となって残った。敗戦後は、信州で親戚の工場の寮母をするが、その時期、別れた子ども、健一郎の死に直面する。その後上京し、母子寮の寮母を勤める。1962年、母子寮の整理により退職。いったん木曾に帰るが、1967年4月より東京清瀬市のアパートで4畳半の独り住まい生活を10年近く送る。

 1975年9月、相京と初めて出会う。
 1976年12月、老人ホーム都立養育院へ入寮。意に反した老人ホーム入りに失望し、およそ一ヶ月後に脱走して相京宅に来る。結局ホームに戻ることになるが、そのことがきっかけとなって77年7月八木秋子通信「あるはなく」第1号発行。78年4月八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』、12月著作集Ⅱ『夢の落葉を』、81年5月著作集Ⅲ『異境への往還から』刊行。通信は全15号、休刊号、馬頭星雲号(追悼号)を発行した。いずれも相京が編集発行人である。1983年4月30日逝去。 *詳しくは「資料館」■八木秋子 年譜とあらまし 参照


 その頃のわたしは、ただひたすら、「八木秋子という人物が表現する世界をこの時代に刻むこと」に全力をそそいでいたと言えます。1977年7月通信第1号を発行した時点では、彼女の過去についてほとんど知識をもっていなかったにもかかわらず、眼前にいる彼女を歴史に刻むことがわたしに与えられた責務だという信念を持っていました。だから、個人通信を通じて、彼女が書ける力が残っている時は書いたものを載せ、まだ語ることが出来る時期は聞き書きをし、それすら困難になったら、過去に書いた文章を通信に載せるという順序を決して見誤ってはならない、「やれてもやらぬこと」を貫くと心に決めていました。単なる思い入れで手を差し伸べることはいけない、八木秋子の肉体が一つひとつ衰えていくところを、わたしが補っていく、それが彼女の尊厳を保つことだと考えていました。

 1983年に八木秋子が亡くなったあとも、途中経過報告のつもりで冊子「パシナ」を発行(16年間に6冊)してきましたが、あの8年間の共同作業の場はそのままにしておこう、いつか誰か関心がある人がまとめてくれればよいと思ってきました。
 その後も、評伝などをまとめようとしなかった理由は、そうすることによって失うものが多いと思っていたからです。わたしにとって、八木秋子はずっと併走し続ける存在であり、評伝の中に閉じこめたくなかったのです。ただ、通信や著作集のタイトル、あるいは表紙の装丁などにはこだわりました。たしかに、その一つひとつは偶然の出会いでしたが、出会ったとたんに、「これだ!」と思いました、そのタイトルや絵でなければならなかったのです。

 それがなぜ、注釈を加えて見るつもりになったかといえば、「パサージュ」という言葉の意味するところから想起するものがあったからです。
 松岡正剛さんは千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン(全5巻)でこう書いています。

パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。


 いま、あの8年間に共有した「場」に注釈を加えることで、新しい何かが生まれるのではないかという予感がしてしています。
 それに、わたしは「新しい本のかたち」を待ち望んでいました。今回のような場はそれにふさわしいような気がしています。どんな本になるか、まったく見当がつきませんが、あの時もそうであったように、現在に至る毎日がそうであるように、アブダクション(当て推量)ですすめたいと思います。どうぞ、おつきあいください。

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