「戦前、婦人解放に活動」
(1983年4月30日 毎日新聞 夕刊)
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八木秋子さん(やぎ・あきこ=本名・八木あき、婦人運動家)三十日午前零時三分、脳内出血のため前橋市メイの岡照子さん方で死去、八十七歳。告別式は五月一日午後一時半から同市朝日町キリスト教会で。喪主は岡照子さん。
長野県生まれ。大正末期、東京日日新聞(現毎日新聞)学芸部記者。昭和初期高群逸枝さんらとともに雑誌「女人芸術」に拠って、女性解放のための評論活動を展開、長野県の農民運動にもアナキストの立場から尽力した。「女人芸術」に載った「藤森成吉氏へ」は「アナ・ボル論争」の口火をきったものとして知られる。昭和五十一年から都立板橋養育院で生活。「八木秋子著作集」全三巻がある。昨年春、岡さんの家に引き取られていた。戦前、治安維持法違反に問われて下獄。出所後、中国東北部へ渡り、満鉄留守宅相談所に勤務。戦後引き揚げて母子寮の寮母をしていた。昭和五十二年から個人通信「あるはなく」を発行したが、戦後は表立った活動はしていなかった。
(1983年4月30日 毎日新聞 夕刊)
わたしは4月29日に危篤の連絡を受けて群馬へ向かい、昏睡状態が続く八木秋子が87歳の生涯を閉じるまで、9時間傍らにいることができました。「花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生だ。」川島雄三監督の「貸間あり」は最後をそのセリフで締めくくりましたが、その夜、上州前橋の地は風が吹きすさび、満開の八重桜は散ったのです。
東京清瀬市の4畳半のアパートで独り暮しをしていた八木秋子と、初めて出会ってからおよそ7年半「よくぞ疾走しましたね、八木さん」と言うにふさわしい、花と嵐でした。
写真入りのその訃報欄を見て、翌日の葬儀に届いた弔電のひとつ「使徒パウロの如く、毎日が死の連続だった八木秋子さん、あなたの肉体の終焉は輝く生の完成です、あなたは永遠に私たちの内に生き続けます」(読者:関屋照洋さん)は今も忘れがたいものです。ほかにも八木秋子通信「あるはなく」の読者、戦前ともに運動を担った同志の星野凖二さんや昨年(2005)白寿を迎えた南沢袈裟松さん、あるいは文化放送相談役の野沢隆一さん(東京日々新聞記者時代の友人で当時東大新人会会員)からもいただいたし、直接葬儀に参列された読者の方もいらっしゃいました。
なぜ、毎日新聞・朝日新聞が亡くなった当日の夕刊に写真入で訃報を伝えたか、また翌日は他社も追いかけて、ほとんどの新聞の訃報欄に八木秋子が掲載されたか、今から考えれば不思議な、いくつもの偶然が作用したわけですが、しかし歴史というものは案外そういう偶発的なことが、予め予定されていたかのように刻まれるのではないでしょうか。時代を反映する意識がそれぞれに働いていたのではないかと、わたしは思っております。その詳細はもう少し先に触れることにしましょう。
もっと驚いたことに、中日新聞の片隅に載った訃報を見た女性の方が「32年間、一時も忘れなかった八木のお母さんではないか」と後日連絡を下さったことでした。その方は、八木秋子のたった一人の息子健一郎の臨終の場にいた女性だったのです。2ヶ月後、お宅をたずねてうかがった話は、「たった7日間」の出来事の記憶が色も匂いもあまりにも鮮明なことに驚きました『パシナⅠ』1984 に掲載)。
それにしても、死亡記事に特別な肩書きがない、「戦前、婦人解放に活動」という紹介は愉快じゃあないですか。「日本の女性で初めて云々」といったワンパターンの肩書き紹介、たとえば政治家・経営者・大学教授等々、そういった権威とは言いませんが世間の評価があります、確かにそれと八木秋子は無縁です。しかし写真入りであの行数です。
1988年(昭63)から4年間にわたり、「先駆者たちの肖像展」が、東京都女性情報センターによってパネル展示されました(『先駆者たちの肖像-明日を拓いた女性たち』1994刊行)。その際、八木秋子の写真を貸していただきたい、その許可を得たいと乞われた時も同様でした。なぜ世間的な肩書きのない八木秋子を評価するのですか、と聞いたところ「生涯にわたって自己を問い続けた八木秋子だからこそ大切にしたい」と、担当者の方がおっしゃいました。
彼女の魅力は、生涯を通じて「未完であること、空白を持つ人生」という感覚をずっと忘れなかったことにありました。ひたむきに、情熱的に、その生涯を貫いたのです。ですからわたしは、著作集Ⅲ『異境への往還から』の表紙を創るにあたり、北斎の「雪中の虎」を下地にし、「帯文」に「さらば、われ、わが生涯を迷いと不安に貫ぬかん」という八木秋子の日記からの一文を引用したのです。