●第5夜 出会い・背景

 1975年9月16日、わたしは東京都清瀬市の八木秋子を初めて訪ねました。翌年の12月、彼女が老人ホーム都立養育院へ入寮(建物は明々寮)するまでの約1年3ヶ月間、最初は一人で、子どもが生まれてからは2度家族で訪問した栄荘というアパートは、西武池袋線清瀬駅から歩いて10分くらいの路地裏にありました。2階建ての二階の一室で、廊下も階段もツルツルしていてすべりやすく(実際階段から落ちたことが八木を老人ホーム入りさせる理由の一つになった)手すりにつかまり、注意しながら昇り降りしたことを思い出します。

 八木秋子に最初出会い、その言葉を聞いたとき、言葉を大事にする人だ、別な見方でいえば、かたくなな、閉じた世界を持っているという強い印象を持ちました。二度三度たずねた後で思ったのは、熱情あふれる世界を内部に持ちながら外へは出さない、「自分以外の人にはわからないだろう」と、そういった姿勢を頑としてかかえていました。後に彼女の膨大な日記を読むと、ひたすら書きつづけていたが満足はしない、しかし、いつの日か本当に書けるときを待っている日々だったようです。

 なぜ、彼女を訪ねたかといえば、当時わたしが勤めていた会社の社長、白井新平の助手としてうかがったのでした。白井新平のことに少し触れましょう。彼の『競馬と革命と古代史をあるく-一匹狼と囁かれるリッチな男の自伝-』現代評論社刊 の帯は、ルポライターの竹中労がこう書いています、「私は、シンペイ.シライが好きではない。彼は他者の異見に耳をかたむけず、おのれの勝手なことだけを言う。私によく似ている、だから嫌いなのだが、このような老人は実にまれである。そしてこの書物も、実に稀有の人生記録といわねばならぬ。ニヒルと称して世に憚かり、大正&昭和の70余年を革命と競馬と古代史を股にかけて、したたかに生き抜いてきた。これは、実存するアナキストがみずから誌した墓碑銘であり、「地獄編」とでも言おうか。ともあれ、痛快かつ野放図にダンテ風なのである」と。これは発行元の丸山実「現代の眼」編集長が書かせたものでしたが、16年あまり白井の助手をしていたわたしからみても、よく書けているといえます。

 まあ、このような人物のことに触れはじめるとまた長い注釈になってしまいますから、なぜ、わたしが白井と出会い、八木秋子を一緒に訪ねたかについてだけ簡単に書いてみます。わたしは1969年早稲田大学のバリケードに入学し(闘争学部デモ学科受講・満期退学)、翌年には新宿花園神社近くの3~4人の小さな軽印刷所でオフセット印刷機を動かしていました。植字から簡単な製本までの工程、本作りの仕事でした。

 そこへ白井新平がふらりと仕事をもってきて、たまたま、わたしが競馬に遊んでいたころだったので、「白井さん川崎競馬の開設記念でおたくのネロが勝ちましたね」と話しかけたのがきっかけで、少しして「自分の会社に来て仕事を手伝ってくれないか」という話になったのでした。彼が日本で初めて「本命◎対抗○穴▲」印を考えだして競馬予想紙を発行した、戦前からの競馬界の著名な人物で、農林省や中央競馬界を相手に大きな「顔」をしていると知ったのは、助手として彼の後をついて動き始めてからのことでした。また一方では、戦前、アナルコ・サンジカリズム系の労働運動に参加をしていたため、彼の自伝製作のための資料探索の仕事が、その後10数年にわたる仕事の柱となり、八木秋子への出会いにつながるのですから、じつに不思議なものです。

 1975年の4月、八木秋子から白井へ葉書が来ました。友人から紹介されたので白井の個人誌『ながれ』を読みたいとあり、彼と亡妻の闘病書簡集を送ったところ、かなり時間がたって実に丁寧な熱のこもった感想が届きました。そのことがあり、9月の老人の日の翌日に彼女を訪ねることになったのです。ですから、後に「最初に来た時のあんたの表情は固かった」と言われたのは、仕事だったせいもありました。

 その時の印象をわたしはこうメモしています。

 1975年9月18日

 今日は久しぶりに会社に一日中いた。一昨日は白井社長と八木秋子さんの所。八木さんは80歳の老人。八木氏の言葉には重みが感じられる。組織の醜さ、人間のいやらしさを感じてしまったようだ。80歳にもなると人間の甘さも苦さもわかるのだろう。自分のやったことを思い入れ過ぎてもいけないとも言った。白井氏が言ったことだが「女は昔のことを生々しく思い出すことがあるようだ。八木さんは二つのこと、組織と戦争によって失ったもの、この二つを今、昨日のような思い出している。そこに女の真骨頂がある」と。

 1975年10月7日

 八木さんは革命家としての人生論を語っているように思える。昭和5年頃から現在までの45年間、彼女の時間は停止しているといって良い。停止しているのは自らの思想的原点を定めていて、その原点に常に戻っているということである。彼女はその後一言も発信していない。自らの中で苦悶、苦闘していると言える。大学闘争等の動きを見て、自らを反問しているといって間違いない。当時、女性というものが男の陰にいて後ろを守るといったことが左翼に多く見られたが、彼女は自ら一人の戦士となって闘ったと思える。中国革命に自分のなしえなかった夢、今でも確固として信じる農青社の理念を見る彼女は農業を基本として生きる中国、モザンビーク等の新しい国家に注目している。その視点はマルキズム、アナキズム等のイデオロギーにとらわれず、人間の全的解放、単なる国家権力の支配から政治的に解放されるばかりでなく、自らの内部を革命・解放する人たちに深い共感を示すのだ。

 1975年10月9日

 昨日、八木さんの所へコピーを返しに、そして『寒村自伝』と吉野せいの『洟をたらした子供たち』を貸した。4時間近く話した。単にひっそり隠れるように生きているのではなく、1930年代からいっこうに変わらぬ日本の左翼、アナ戦線をじっと目をすえて、注目していたに相違ない。書くのがこわい、また高群逸枝を意識していると感じることがあった。日本は豊かになりすぎて、全てに適応しすぎる、小利口なってしまった。もっと馬鹿に、気違いになりきったところから出発しなければならない、彼女は一個の人間として生きた。高群はコツコツと積み上げていったが、私はそうしなかったのが今の姿になった。が、私は自分の生きた道に後悔していない、と強い語調で言い切った。

 十六夜の今宵は、ここまで。では、「その弐」は下弦の月の夜に。

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