2025 農村青年社カレンダー(7月~9月)

農村青年社のカレンダーの7月から9月の絵柄記事を掲載します。

このカレンダーの「幾つもの写真」と引用された「コメント」は「農村青年社」活動の歴史をコンパクトにまとめたものとなっています。7月については、農村青年社の出版物を当時住んでいた群馬県伊勢崎(群馬縣佐波郡名和村和田)の地で受け、戦時下を保存し続けていた大島英三郎さん。8月はソビエト軍が襲来した1945年8月、満州で消息が不明だった船木上について、労働者や活動家から尊敬された事実が判明したことに少し触れます。また、9月は信州において活動したメンバーの中から、佐久の南澤袈裟松さんの無二の親友だった鷹野原長義さんについて、その風貌から想起した思い出をまとめます。

◎7月=農村青年社関係出版物

農村青年社資料集の発行を支えたのは、『農村青年』全紙をはじめ発行されたパンフを群馬県伊勢崎(群馬縣佐波郡名和村和田)で「社會問題研究會」の蔵書として保存されていた大島英三郎さんだと思います。その熱い思いは、星野凖二さんがたくさん語っています。その大島さんと私の関わりをちょっと書きたいと思います。私が1968年、群馬県前橋市で浪人時代を過ごしている時、デモに参加し、4・5人で共に黒旗を掲げたのが大島さんとの初めての出会いでした。その二年後には大学をやめて働いていたバルカン社に復刻版印刷の依頼に上京し、私たちが住んでいた中野坂上のアパートに泊まったこともありました。1970年7月の出版については、6月25日の「望月桂さんとの半世紀53年を経た縁(えにし)」で触れています。八木秋子著作集の出版記念会にも参加され、その後、約20年にわたって『農村青年社事件・資料集』発行をともにしました。

◎8月=望月治郎、和佐田芳雄、船木上

船木上について
2023年9月の八戸における「ひたむきに生きて-永嶋暢子と女性解放運動-が不思議な縁となって「船木上」の敗戦直後のことがわかりました。星野凖二さんは「ソ連軍侵攻の怒涛に巻き込まれ、以後船木の消息は消えてしまった」と書きました(『農村青年社事件・資料集Ⅰ』196P)。また満州における船木と永嶋暢子の恋愛については、「消息不明となった船木幾政(1945 年当時 33 歳)への追悼の意味を込め、そして永嶋暢子(1945 年当時 48 歳)の純情な想いを想像し、二人のきずなをむすびます。」と13年前の「2012 年夏」に私は触れました(「玄條ネット(2)永嶋暢子」)
ところが彼は、敗戦直後の満州でなくなり、その死を悼んで大塚有章は、姓名と死没年月日(1946年1月12日)を「東北建設突撃隊」隊旗の「筆頭」に載せたと書き、また埴英夫の『背教徒』には、船木が乗り込んで行動した西安炭鉱の労働者からはたいへん慕われ、その告別式には数百名の坑夫とその家族が別れを惜しんだとありました。
八木秋子が交遊を深めた永嶋と船木はそれぞれ、混乱の1946年1月、立場の弱い人たちのために身を投じ、ともに発疹チフスでなくなったことがわかりました。
永嶋暢子と船木上の生涯をあらためて心に刻みたいと思います。


◎9月=南澤袈裟松、鷹野原長義、伊沢八十吉、


■鷹野原長義
★彼は自然児でした。何でもやったが、岩魚を取る名人で「おい、手伝え」なんて言うので、行くと、そのへんにある山葡萄のつるをとって、幾つにも枯れている枝の先に付けて、岩魚を追ってきて、私が下で待ち受けていて何匹も取ったもんですよ。いやぁ、全く自然児でしたねえ。
(談:南澤袈裟松:
八木秋子への注釈 第47夜 気配を残して立ち去った人たち(1)-信州佐久の農民と農村青年社 
https://gennan.sakuraweb.com/tyusyaku/post-47/ )

南澤さんが語る、鷹野原をはじめとする佐久の農民運動などを支えた人たちの、ユニークで自然児の姿は、戦前の運動を考える上でとても貴重なことだと言えます(参考:『農民自治運動史』(大井隆男著 銀河書房 1980 )。後に知り合い、お世話になった15歳年上の由井格さんも佐久川上村の出身で、ユーモアたっぷりの人物でした。

そこで、佐久の風土とそこに疎開した白土三平、そして私の在所である上州西北部吾妻のことに少し触れたいと思います。

☆「カムイ伝」の原風景をいく  ビッグコミック2007 毛利甚八 より
  その一部をご覧ください。

 

 ・日本が戦争に敗れた昭和二十年 白土三平は生きることの原点を信州で学んだ
 ・父が買ってくれたキノコ図鑑が山村の活動圏を大きく広げた
 ・白土史劇の基礎を育てた信州・長村の風土
 ・信州の風景と暮らしが「カムイ伝」を描く想像力の源となった

疎開した白土三平の時代、つまり「カムイ伝」の原風景に生きた「佐久」の人たちの中に鷹野原がいてもおかしくないと思います。

農村青年社の主張に対し、鷹野原はこう語ります。
「農青社運動は農民の心理をよく捉えており、日常の生活に直接結びつき(略)、人肌に合ったやわらかい感じの運動で、農民なら誰でも反対しないものでした」宮崎晃あて1971年5月5日
 『農村青年社事件・資料集 別冊・付録』100頁

白土三平の世界の原点が、佐久の山間部にあり、その世界に農村青年社の主張が届いていたことは忘れてはならないことでしょう。農村など地域共同体の開放性、閉鎖性を踏まえたうえで、「自然児」鷹野原の周囲の人たちをこれからも考える必要があります。
ついでながら、私自身の在所は真田の岩櫃城で知られており、父方の親戚が佐久丸子にあったこともあり、幼いころに父に連れられて行った覚えがありますし、風土が真田(長村)によく似ていると思えます。とりわけ子ども時代は、鷹野原と同じような友人たちから川や山の自然を教えてもらったことを思い出しました。(2/2記)