●第6夜 出会いと背景・その弐

 八木秋子を初めて訪ねた際に借りたコピー(「己の足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子」秋山清『婦人公論』1972年5月号)を返却するために再訪したことは、前夜書いたとおりです。その後、何度か訪ねました。そして、八木秋子が亡くなった1983年に、最初訪問した当時のことについて次のように書いています。

■1983年5月 私と八木秋子(2)より
 彼女の本棚に私が当時も、また今も関心を抱いている人達、埴谷雄高、竹内好、内村剛介、吉本隆明らの著書が並んでいることへのショックを確かめるために再訪し、内村の『生き急ぐ』を借りてきた。四畳半の部屋は、タンス、テレビ、コタツ、文机、本棚、食器棚があり、ひときわ目立つのは高くつみあげられた段ボール箱。そして、コタツの上には灰皿。日の当たらない、決して快適とは言えない八十媼の質素な部屋だった。

 白井社長がそういう形で訪ねたのは、八木さんだけではなかった。その意味では、私は老人に、戦前アナ系の活動をしていた老人に何人も会っていた。
 しかし、彼らは自分の過去を披瀝するか、または卑下するか、または野次馬性を暴露するか、いずれかであった。ところが、八木さんは過去を語ることをあまり快しとはしなかった。あなたにどこまでわかるか、という強い意志を言葉に感じた。八木さんは自分のことは自分でしかわからない、自分自身でそれを綴るという自負があった。

 私は八木さんに自分の考えていることを素直にぶっつけた。そして、輝くような貴重なヒントをその度に得た。それは、あるいはモノの考え方、モノへの対処の仕方といったふうなものであった。
 また、私にとって初めての子供(李枝)が翌年の夏、誕生したことも無関係ではなかった。私にとって生きるうえで、八木さんに貴重な言葉を、私の意思を固める意味で受けた。だから、長女を初めて遠くに外出させる時、八木さんの家を選んだ。よろけるような腰つきで八木さんは長女をあやしていた。「ブル・・・・・飛行機だよ、ブルブルー」といいながら、泣きそうな長女を抱いていたことを思い出す。

 私は大学へ入る前、群馬県渋川高校の友人、森田勲や藤本義男に谷川雁と森崎和江の本を紹介された。その影響は自分ではっきり確認できる。炭坑の男、女たち、自然発生的闘争形態、炭鉱労働者のアナ―キーな軍隊に魅きつけられた。そして森崎の語るオモニ、与論島、炭坑の女たちに私自身の農村の女のイメージを重ねた。母親のもつ柔軟な強さに私はある羨望さえ抱いていたのだ。体内に他者を共有できるという点において男は欠けると思った。少なくとも男である以上、それは実感できぬことであるからだ。その母がもつ、時間や生命に対する世界を知りたいと思ってきた。今村昌平監督が描く、女の強さも影響した。特に都会での生活に、まるで砂をまいたトタンの上に裸足で立っているような感覚を抱いていた私にとって、森崎の描く世界は時間を長く待てといわんばかりに私の中に入った。私はそこに関心を抱いてきた。

『あるはなく 馬頭星雲号:八木秋子追悼号』「私と八木秋子」1983年5月発行 より

■阿夜さん、新月の「おたずね」ありがとうございました。
 下弦の今宵は、10年前にいただいたままになっている宿題に答えます。

 阿夜さんは、こんな「おたずね」を届けてくれましたね。

 ☆1975年には、八木秋子は何かの予感にかられて、おそらく自分の残り時間は今度こそ限られているという予感にかられて、当てもなく闇の虚空に通信を送っていたと思うのです。何人かの人間に長い手紙の形でその通信が届いていたはずだと思います。でもその通信を確かに受けとめた人は相京範昭しかいなかった。それはなぜだったのでしょう。

 そうですね、前夜あげた白井新平にも手紙を書きましたし、他の人にも長い手紙を書いていたことを私はしばらくたって知りました。1968年以来の世界的規模の学生運動も大きく影響を与えていたことは、毎日書き続けていた日記からもうかがえます。八木秋子を必要とする時機がすぐそこにやって来ていることを察知していたのではないでしょうか。

 私との出会いは、白井新平の一種気紛れからの偶然でしたが、こちらにも受けとめる必然的理由があったと思います。これからその背景のようなものを書いて見ましょう。

 今回、30年前のことを振り返り、当時のメモを元にして思うのは、やっぱり八木秋子がかつて「幼い子どもを置いて<家>を出た女」だったから、私は出会えたのではないかと思います。

 私自身、他者としての「女・子ども」をどう「わかる」ことができるか考えていたからです。1983年の文章で森崎和江に触れていますが、70年安保世代にとって、森崎の影響は大きかったと思います。今回『異族の原基』や『ははのくにとの幻想婚』詩集『さわやかな欠如』などの著作を手にとって読み直してみると、とりわけこの3冊には多くの傍線が引いてあり、熱読していたことがわかります。

 森崎の父親は戦前、日本の植民地となっていた新羅の古都慶州の初代中学校長として赴任しています。そこでの幼い日の懐かしい思い出と、その思い出の背後には植民地支配者の子どもとしての「加害者意識」が陰のようにつきまとっていることを、森崎はその著書でひたすら問い続けるのでした。
 それはまた、当時の60年安保闘争(筑豊の炭鉱労働者の闘い)、とりわけ大正炭坑で労働者とともに闘っていた日常の中での想いと重なります。彼女は「炭鉱労働者や在日朝鮮人のことがわかっているのか、ほんとうは<彼らと自分との違和・裂け目>から思考を出発することが必要ではないか」とこだわりました。

 ならば、女にとって「他者である子ども」をみずからの身体に宿らせるとはどういうことか、そこにも通底する。しかも言葉だけでなく、実体としての他者を孕むとはどういうことか、そのように森崎は書き続け、訴えていると私は読み続けました。

 もちろん、男である自分には体験できない。しかし、その「他者を孕む」ということに私は関心を持ち、一般的な人間関係を考えようとしていました。ですから、私にとって「八木秋子という老女」が必要だったのかも知れません。その時はうまくいえなかったのですが、「老女」は全てとは言いませんが、男と女の境界にいるのではないでしょうか。老女、しかも子を捨てた八木秋子は、私の欠如感を理解してくれるのではないか、いや、他者との裂け目を橋渡ししてくれるのではないかと、直感していたと思うのです。

 私が1981年に出版した、八木秋子著作集Ⅲのタイトルに「異境への往還から」と名付けたのはその理由によるものだと思います。「異なる=他者」なる存在である「女・子ども」を身に引きつけて考えるには、わかるといってはダメ、それは傲慢です。しかし、その「境」までは行ける。自分も他者も互いに「境」まで出かけ、出会い、交じり、また己に戻る。これを繰り返すことが重要ではないか。私はその時、八木秋子、哥代、そして産まれようとしていた娘の李枝と「往還から」出立することで、人との関係を作ろうとしていたのだと、いまは言えると思います。

 わたしは70年安保で、政治革命党派を支配していた強い権力意識に拒否感を抱き、また、近くにいた全共闘アナキストたちとも肌合いを異にしていたため、次第に独りになっていきました。自分の身近なところから「関係をつくり出そう」、それが望ましい革命の実体に向かうはずだ、と考えていたから当然だったのです。

 そして、1975年9月、八木秋子に偶然出会い、その偶然を必然にしました。30年前の、桜の春3月は、初めての子どもが宿ったことを八木に報告しつつ、清瀬の部屋を訪ねていたのです。
 長女李枝が誕生したのはその年の7月でした。

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