2025 農村青年社カレンダー(10月~12月)

農村青年社のカレンダーの10月から12月の絵柄記事を掲載します。

このカレンダーの「幾つもの写真」と引用された「コメント」は「農村青年社」活動の歴史をコンパクトにまとめたものとなっています。10月について、八木秋子の厳しい表情の写真はいったいどこで撮されたのか、やはり獄中だと判断した経緯を書いてみます。11月は「武装蜂起の陰謀」として号外で報道された「農村青年社事件」。それを記憶していた埴谷雄高さんに著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』の帯文を書いていただいた「縁」をお伝えします。12月では「農村青年社」について「信州の窮乏する村落のいくつかで、アナーキストたちが青年団に食いこみ、村の村報にアナーキズム紹介文を連載するまでに到っていたのは興味深い」と書いた浅羽通明の見方を紹介したいと思います。

◎10月=八木秋子の写真の撮影場所

写真の撮影場所:八木秋子の書き込み「たぶん昭和11年ごろ/所はあそこかと思う」について
私は「しかし、昭和11年は獄中」と否定的なコメントをしましたが、八木が書いたように「あそこ=獄中」での写真と言って良いと思います。
というのも、長野地裁での予審判事江幡清は、1936年(昭11)7月、星野訊問のさい「(すでに)前刑を受けている(ので)免訴に該当する」と「誘いも含めて」見解を述べており、「11月はじめ、宮崎は老父病状急変の知らせをうけ、父の生あるうちにひと目あいたい」と江幡予審判事に訴え、「江幡は決断し即時、3日期限の条件付き保釈を許した」とあります(資料集Ⅰ219頁)。
とすれば、同年12月26日に東京側で病気加療のために唯一保釈された和佐田芳雄が、獄中の八木の身を案じて元気な姿の写真を求め得るくらいのことは、何ら不思議ではないと思うからです。(2/18)

◎11月=埴谷雄高

■なぜ「事件」としたか
確かに農村青年社「運動」はありました。しかし、タイトルを「事件」、『農村青年社「事件」・資料集』とする意味があると考えました。そこには星野凖二さんをはじめとして、関係者の「生きた(存在)歴史」があり、それが後に読むものに伝わると思ったからです。『農村青年社事件・資料集』別冊・付録に書いたものと資料集チラシ(西川祐子さん、小松隆二さん)をお読みください。

■埴谷雄高さん
大きく報道された「農村青年社事件」を読んだひとりに埴谷雄高さんがいました。戦後『近代文學』(46.12)の座談会「プロレタリア文学を語る2」で、八木秋子に触れていることを読者から知り、著作集Ⅱの発行を急いでいたこともあり、帯文の原稿を依頼することを思いつきました。そのあたりの事情は「八木秋子への注釈41夜」に書きました。(2/19 埴谷さんの命日)

埴谷さんに手紙を出すと、ご自宅の地図を書かれたハガキが速達で届きました。

お宅を訪ねて八木さんの状況などを話し、帯文原稿をお願いしましたが最初は断わられました。しかし持参した八木の肉声(武田百合子の文章への感想が入っているテープ)を聴いた埴谷さんは、しばらく考えて承諾してくださいました。しかも、帰りには八木秋子通信印刷費のカンパもいただき、夢を見ているような気分で帰りました。数日後送られてきた原稿は、もちろん嬉しく、八木さんとも二人で喜びました。

その後、松田政男さんらと訪ね、朝方までお邪魔したこともありました。
埴谷さんがなくなってからのエピソードひとつ。松田さんから「埴谷さんが使っていた古いタンスがあるけど引き取らないか」との連絡があり、もちろん、喜んでいただくことにして、すぐうかがい、現在も大切にしております。ちなみに八木さんの愛用していた木曾塗りの書棚もあり、お世話になった想い出深いお二人の面影の中に、私の日常空間があります。(3/3)

◎12月=浅羽通明が語る農村青年社