あるはなく第一号

■第1号(1977717日発行) 目次
 ・発刊にあたって
 ・私の生きざま
  常に私の戻るところ、負のバネ

■発刊にあたって

 私の就職と失業は若い頃からわりと偶然と動機に支配されることが多かった。数多くの就職も、それが履歴書によるものとはあまり縁がなかったようである。いつの時でも大抵は履歴書より先ず面接が先きにきて、それから進展して就職のことになり、入社というような道すじになった。学歴がない履歴書というものは日本ではあり得ないし、人物考査の最初から禅問答のようなもの、活きた社会のうごきなど女性詮衡の場合としては珍しいものであるかもしれない。私はそういう人の前に出る場合、たいていは頭脳を空っぽにして虚心のまま座っていた。何があたまの上から降ってくるかわからないから。無欲といえるかもしれない。

「あなたは新聞記者という存在が好きですか。」

「興味はもっています。知らない世界ですから。」

「知らない世界・・・これから何を一番知りたいと思うのですか。」

「わかりません。私がこんど独りぎりで上京しましたのは、勉強したいと思ったからです。」

「勉強とは、大学へはいること? 学者にでもつくことですか。」

「ただいまのお話に、大阪の本社ならば、あるいは、と仰言いましたが、大阪でしたらわたくし、べつに望みません。」

「どうして? 何故です。」(これは婉曲な拒絶だ・・・)

「私がこのたび、ただ一人で上京しましたのは、生きて行く上に、自分のほんとうのものを知りたい、発見したい、じぶんを生かしてくれる者の真実の言葉をききたい、そう思ったからです。東京はその点最上の勉強をさせてくれると思います。生活がそのまま勉強ですから―」

 こんな問答をしたおぼえがある。大正から昭和へまたぐ接点のころ、大新聞の主幹がみずから。私は大新聞社の記者になった。なってみて、毎日の自由な活動、自由な発意、署名なき原稿の走り書きに大きな監視があり、目にみえぬ組織の網が「常識」という、それ以上に「保守」「権力」のもとに日々身にせまっていることを痛切に感じた。

 昭和のはじめ、私は闘う仲間とともにストライキの応援でやられた。警察はこれを皮きりに散発的につづき、要注意記者とマークされて社の監視が加わった。その先きに辿る道は大方の想像にまかせる他はない。私は非合法の世界に転々と生活は移り、生きることの困難さを身を以って知った。知れば知るほど、それは魅力のあるものとなり、生きる興味の素材となって苦しみが新しい生活を発見して行ったようである。社会の理想について、私には『自由と解放』のほかに考えられるものはなく、そこに原点があって、生きているかぎり人間でありたい、生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたいと思いつづけてきた。

 昭和10年12月、大阪のケイサツによって意外な検挙をうけたとき、警察の留置場へ古着のあたたかいのや、お菓子などを差入れに来てくれた女友達が一枚の名刺を私に差しだした。肩書には「大阪朝日新聞社社会部」とあり、「この人はまだ若い記者なのよ、あなたへ伝言を頼まれてきた。この後何年かたってあなたが自由に解放される時が来るかもしれないけれど、出たら迷わず僕を訪ねて来なさい、ぼくは路傍の人間として終りたくない-。必ず手をのべたい。出てきたとき、ぼくの所属や住所は新聞社で判るから。返事は要らない。」

 この名刺の文字も頭から消えない。想像から消え去らない。私の周囲にはこうした若い人、年配の人で、私の長いどん底生活を見まもり、励ましつづけている友がいる。相京範昭君もその一人である。物を書くという呼吸の長い思索の積み重ねを必要とする腰の据え方において、私にはつよい情熱があり、炎えあがり、捉えられ、捉えんことを望む欲求などで長い孤独の生活の中にも書きのこした原稿の類は比較的数少ない。私は9月で83歳を数えることになり肉体的老衰の足早におどろいている。いま、私は昨年末に東京都立養育院に収容されて前途に安全はあっても道のない老人の国にはまりこんで、以来全く変った老人ばかりの共同生活にはいった。

 明治時代の少女期から大正・昭和とつづく社会の変化、その変化の中でキリスト教への傾倒、文学への憧れ、小川未明氏や有島武郎氏から直接うけた影響、一家の没落、結婚、性への疑問。すでに一児の母でありながら、結婚、家庭とは何かを追いつづけ、追いつづけた結果、死の自由と生の復活に至りついて家出を敢行した。波瀾多いその後の道なき無頼さとも求道者ともいえそうな私を相京範昭君は私の軌跡を活字に残したい、という願望を抱いてくれてまず私のためにテープをとった。老人の雑駁な環境の中からどんな小冊子が生れるか、若い友へのふかい感謝とともに、たのしみである。

 なお私の余命が問題であるが、ほそぼそとつづく限り、稿を改めて最後の日まで執筆をつづけたいと思う、80年余を時代の中に生きてきた、生きているという証言として。

                                                                          1977年7月  八木秋子

『あるはなく』

 なきは数添ふ 世の中に
 あはれいずれの 日まで嘆かむ 小町

世にあるものは虚しく、無と観るものは無量の数である。生と死を超えたいずれにまで嘆こうか。

 小町という女性の作であろうことにおどろいた。日本の古典の巨きさと深さに改めてふかく心をうたれたのである。この一つのうたを私に贈ってくれたのは、山岳の屋根に雪のみえる松本の住人ではじめて母になってまもない友である。私は小さい冊子を初めて作ろうとして、大胆にもこのうたを題名にえらんだ。『あるはなく』という言葉に魅せられて。若い友に感謝の言葉を贈る、渡辺映子さんに―。

● 私の生きざま
 常に私の戻るところ、負のバネ

・キリスト教の影響について
・小川未明を知ったことは大きなこと 
・直前で諦めることは無意味なこと(*有島武郎の助言)
・セックスというのは大きいことだ
・飛び出したけど……それからがね
・それぞれが生きるということ
・再び家出する
・衝動的な直感と偶然を信じて
・飛び超えたいけど「我」が

…………………………………………………………………………………

■八木

 私はこういうものを出して果してよいのか?という疑問が湧く。あまりにも茫洋としているような気がするのだけど。ただ私が82才の今日まで信じてきたもの、生きてきた軌跡というものを思うままに話してみたいと思います。立派な理論みたいなものは話せないですが。

 私がどうしても避けて通ることのできないものに子供のことがあります。私が今までかつて、子供を家に置いて、捨てて家出をしたということ、その結果、その後どういうふうに闘ってきたかということについて何も発表してないんです。それは命がけだったのですから。でも、それがやっぱり大きなことだったと思います。

★キリスト教の影響について

 私は姉達の影響でキリスト教に接触して行ったのです。が父は反対でした。一番上の姉は、これがまた大変面白い変わりもので、隣の町の開業医に嫁ぎ、次の姉がまた医者の妻となり、三番目の姉は自ら進んで写真結婚して未知のアメリカへ独りで行きました。四番目は先日亡くなったクリスチャンで、最後が私でした。

 当時姉達が師範や女学校から休みなどで帰ってくると待ち構えていた家のなかは大変でした。賛美歌はうたう、聖書の詩篇は朗読する、妹の私たちはすぐに憶えて姉たちと合唱します。どんなに父が世間を憚っても、母が涙ながらに押しとどめても、なんの力にもなりませんでした。姉たちはまた嫁ぐとき、それぞれに愛読した雑誌や少しばかりの書物を遺して行ってくれました。当時のことですから藤村詩集、自然と人生、武蔵野などの文芸物、そして河合酔茗主幹の「女子文壇」―月刊誌などもありました。その頃の女子文壇は文学少女の投書誌とでもいいますか、のちの三宅やす子、岡本かの子、若山喜志子、今井邦子、山田花世などの顔ぶれで夢みる乙女のあくがれを、情熱の飛礫をどこにぶつけていいか、ただもう河合酔茗先生の胸めがけてその球音の爽かなる響きをきかんと集まってきました。

 そのころの私はしかし、そこのところから次第にキリスト教の方に興味と関心がうつり、内村鑑三氏の訳詩や詩に近づいていったようです。

 木の嵩を増すがごとく、のびて必ずよき人ならず、橿は三百年を経て枯れて倒れても丸太たるのみ、たとえその夜倒れて死ぬも、光りの花と草とにありき、美は精細の器(うつわ)に現はれ、生や短期の命を完たし・・・。

などとうろ覚えながら当時の感動がこころに生きてきます。

 内村氏はやがて後日、東京内幸町の会堂で氏の信仰を表明する講座を開き可成りの時日講座を設けられましたが、私はその頃すでに一児の母となり、子供を背に負うて聴講者の列に加わりました。しかし規則には子供を伴うことが禁ぜられていましたので、受付で特に許しを請うて熱心に迫りましたが例外を許されず、非常な失望をもって帰ったことを記憶しています。

★小川未明を知ったことは大きなこと

 夫となった人は、恥ずかしい話ですが、常識では考えられないところがありました。書斉をみせるからといって見たら、無試験で入学・卒業した陶器学校の中学教科書だけだったり、結婚してから親類に挨拶状を書く時、何の文句も知らないし、あまりにも驚きだった。

 カチューシャで一世を鳴らした松井須磨子が愛人島村抱月のあとをおうて自殺した日、彼女の死が新聞の号外として全東京に知れた夜、一日の勤めを終えて帰ってきた夫とこんな問答をしました。

「あなた、きょうの号外を見ましたか?」

「何の号外だ」

「松井須磨子が自殺したんです」

「松井須磨子って何者だ」

「新劇の女優、あの有名な女優をあなたは知らないんですか。愛人島村抱月氏のあとを追うて自殺したのに。知らないのね、須磨子を。わたしはあの人の『人形の家』が見たかった。あれほどあなたに有楽座の芝居を見に連れて行ってほしいとせがんだのにあなたは鼻の先であしらって承知してくれなかった、イプセンの人形の家をわたしがどれだけみたかったか、わたしのみたかったのはカチューシャだけではない、生ける屍だけでもない、本当は人形の家のノラだったんです。須磨子は人形の家を出て行って、もう永久に帰らない。帰って来ない。わたしがどんなに悲しんだって、あの人は、もう・・・」

 私は悲しみがこみあげてきて、泣いた。

「阿呆、おんしはなんという阿呆だ、それでも子供の母親か、一家の妻か、馬鹿にも程がある。人形の家など一足で踏みつぶせばいちどにペシャンコだ、どうせ紙で作った家なんだから―。もう、こんな理屈が判らんのか。」

 ―さあ飯だ。と食卓の前に座った。この夫に対して何を語るのも、何を哀しむのも無意味だ、夫婦であって、この私たち二人に共通のものに何かあるだろうか―。

 何を感じても、話しても相通じあうものは一点としてない。孤独の私にとって、作家の小川未明氏を知ったということは大きなことでした。小川氏はそのころは「童話宣言」の前で短編小説や評論を書いて居られましたが、大衆に迎えられるというものではなく、むしろ作家であるが故に貧しさに耐えて居られるようでした。そのころ、幼い子供さんを相次いで二人亡くされたことで非常にふかい苦しみの中に居られました。富と貧、あり余る贅沢と正しい者等のどうにもならない不幸―。その頃私は、子供をネンネコ袢天で背負い、神楽坂を歩いて牛込弁天町(注:住所は天神町)の小川氏のお宅へ伺うのが唯一のよろこびとも生き甲斐とも思われました。私は小川氏にどういう人の著書を読んだらよろしいでしょうかと聞きました。

「そうだなあ。」と小川氏はしばらく考え、

「そうだアルチバアシエフの『労働者セリヨフ』がいいですね、読んでごらんなさい。次にはやはり同じ作者の『サーニン』。恋愛小説ともいえるでしょうがこれもいいものです。」といわれた。私は大きな期待で小川氏の言葉を実行しました。が大きな失望が残ったのです。子供の世話と物価高に攻めたてられて心にべつだん余裕のない貧しい主婦の私に、十九世紀の重大な社会不安と革命の萌芽を孕むロシア虚無党のテロリストの生命を賭けた反逆の活躍など、どうして理解するわけがあったでしょう。しかし私はその難解な著者の言葉にとり組むことを止める気にはなりませんでした。まるで違った別の世界の人物のむつかしい思想と生活です。つづいてロープシンの『蒼馬をみたり』―などにとりくみはじめました、判らないながら。

 一方小川氏は無産政党志向の人々と、その政党的結成に加わって大正9年に「日本社会主義同盟」の創立に参加されました。これは当時の急進社会主義者その他さまざまな分子の糾合で、小川氏のような高い繊細な理想主義、ヒュウマニズムに拠る人には初めから無理があったのではないでしょうか。小川氏は創立の翌年さっそく辞して政治的衆団から離れてまもなく童話宣言を発表し、氏の本来の道に戻ったわけでした。そのほか、氏の導きでアナーキズム運動内の婦人団体、「赤瀾会」に導かれたり、それ等の女性達の活き活きした雰囲気を吸ったりするうちに、同じ人妻、人の母としての生き方にも新しいいろいろの面のあることを知ったのです。伊藤野枝氏には一度だけ、講演に来たとき知っただけ。

★直前で諦める事は無意味なこと

― 小川未明のところには子供を背負って行ったのですか。

八木 ええ、子供をオンブして、そしたら降ろしなさいといって降ろしたりして、随分御迷惑だったと思う。ああいう神経を使う仕事だったしね。でも小川さんは聞くということが楽しかったようでした。社会のことなんかも、私がどう見て、どう思うかということに大変興味があるようでした。また原稿料が入らずに大変貧乏しておられた時代二人の子供さんをなくして、その悲しみに深く入っていたのです。小川さんに子供を手離して家を出るということを話してもなかなか信じなかったようでした。私が出てしまった後でびっくりしたっていってました。

― 有島武郎のところへも行ったわけですね。

八木 私は一度だけ行きました。家を出る前に一度だけ。それは有島さんが子供の看病で慈恵医大の病院へ入っているということを新聞の消息欄で見ていて、それで一寸お会いしたいと思って。私は一番最初に「先生、私は一つの決心をして、心に決めていることがあるのです。それがどこまで本当か、どこまでそれを生かすかわかりませんけど、どうしてもそうしなければならなくなり、もうその中を通るしかないという決心ができて、その決心を固めるために先生の所へ来ました。」

 そしたら先生がね、「わかった、実は私はあんたも御承知のように三人の男の子を妻君がなくなってから育ててきた。今までは父として、これでいいんだろうというやり方できた、これより他にないと思ってやってきた。がこれからどういうふうにしたらいいかわからなくなってきた。第一父であるということに疑問が出てきた。苦しんでいる・・・」

 そこで私は「今離婚しようとしています、もうどうしても夫の元を離れないと自分自身生きる自由がないのです」。

 そしたら先生は、「それはあんたが本当に自分でこの道より他にない、これ他ないという最後の決心ですか」と私に聞いたから、「そうです、私はこれより他に生きる道がないと思います。」「そうですか。」それでしばらく黙っていらしてこういったのです。

 「貴女にいいますけど、人間は是非ともこうしたいという、自分自身の欲求にどうしても抗うことができなくて、自分自身の欲求のままに生きたいというその欲求と、またもう一つは、その欲求のあまりに意味の深さや大きさに圧倒されて考えを色々変える人もあります。で私に言わせると、どうしても貴女自身が今の決心を押し通して行きたいという決心であったなら、それをああだこうだと理屈をつけて一歩手前であきらめるとか、はぐらかすとか処置をするとか、そういうことをするならそれは全く無意味です。やって失敗するよりもはるかに無意味です。一番つまらないことです。必ず後悔します。それだけ言っておきます。私は簡単に貴女のことを聞いても何をこうしなさい、ああしなさいという結論は出せない、出せないけど貴女から聞いた以上その決意というのは本当でしょう。」

 その時も子供を背負って病院に行ったのでした。だからね、聞きましたよ、「そういう決心だと、その子供さんはどうしますか。」「家に置いていきます。これを家に置いて私一人で行きます。」そしたらじっと顔を見て「そうですか、それは変りませんね。」「そうです。私は先生の所を訪ねたのは、自分自身の決心を強くしようという考えもありましたけど、私にはこれ以上の考え方もありませんから先生にお話して私自身の決意を固めようと思う。その気持で来ました。」「わかりました。」

 そういったきり、何にも私のことを具体的に聞かないんですよ。私も話さない、どういう結婚だとか、どういう生活だとか。

★セックスというのは大きいことだ

―― 八木さんにキリスト教からの影響が多分にあったように思われるのですが、原罪に対する考え方などどうでしたか。

・八木 ありました。ずうっと。子供を犠牲にして自分の良心に従ったわけですが、その原罪意識は常に生の欲求とともに死の意識を伴うものでした。私にとって一つの救いは「神は愛なり」という真理でした。エゴイストといえるでしょう。子供を置いて出るということが後々まで重荷となることは承知だった。でもそれを振り切らなければならない拠に自分自身を追いつめて行って、夫と別れる手段としてはこれ以外にないと決心したのです。

―― 一般的にはその一歩手前で止めることが(子供のことで特に)多いわけですが、そうでもないし、また先に何か自分のしたい仕事とか職業とかについて具体的に方法があるわけでもない。つまりはっきりとした将来に対して見通しなしに、今、ここで、こんな生活に我慢ができないからそうするんだと、直感的に感じとってしまったということですか、その時の感じは。

・八木 私は夫に対する絶望だった。ほんの僅かな希望でもあれば別だが、とにかく自分自身に対する絶望でもあった。

―― ただね、そうかも知れませんけど、ではそういう男の人でなかったら八木さんは我慢して平々凡々の当時の家庭生活を送って行ったか、勿論飛び出さなかったかも知れないけど、その後の生活はどういうふうな、普通に………。

・八木 いや、それがやっぱり駄目だったでしょうね。(笑)

―― つまり、相手がどうとか、自分の周囲との関係がどうとかではなくて、自我というか自己が確立されていく過程でだったのですね、ただ僕がいつも思うのですが、当時としてはごく当たり前だったと思うのですが、相手もよく知らないで結婚し、子供をもうける。そして、その置かれた中で真剣に悩み苦しみ、そして脱出の行動をとる姿に八木という女性を評価するわけです。政治などの表舞台での活躍で過去のことの帳尻を合すようなことがとかく多いのですが。後の『女人芸術』の座談会の席上の発言でも気張ったお嬢さん的な発言の中でやっぱり一際目立つのはそのためだと思いますね。

・八木 そうですか。その後はいつも同じ繰り返しだった。

 それともう一つ、男と女のセックス、性の問題は大きなことだと思いますね。私は結婚した晩から性に対する神聖感というかな、そういうものが全然、いたわりとか知性とかは見事に踏みにじられました。一辺にね。私はね、正直にいうけどその晩から一人で寝たということはないの、本当にその人はスキだった。私はそれが普通の性のモラルだと思った。何という、もしこれが結婚だというのなら、人間は何のために生きているのかわからないと思った。その人は「そういう性があるから俺達は働く勇気も出るし、貧乏にも耐えることも出来る」というのです。「その楽しみがなかったら、俺達に何の楽しみがある、何の意義がある」というんです。

―― するとそれも脱出の大きな原因に?

・八木 そうです。こういう生活、性生活をしなければ人間は結婚を送れないのか。生活の本当の道か。ということを考えるとじっとしていられなかった。こういう生活を送るために私はいままでああいう文学を読んだりしてきたのかと思った。そして、次の子ができたのではないかといった時の苦しみといったらもうじっとしていられなくて、飯田橋の側の土手の上から飛び降りてみたり、ころげ落ちてみたり、いろんなことをした。そしたらそのうちにあれがあって、普通の状態に戻って、ハアこれはこうしてはいられないと思った。私は子供は神聖だなんていっておられないと思った。その時の苦しみといったらなかったのです。

 私の友人で、松本の女学校の同級だった人で、その人が結婚した人が急に亡くなり、急性の肺病、スペインカゼだったのでしょうかね、その未亡人となった友人というのは私の本当の友人だった。その人が泣く泣く故郷に子供を連れて帰るという日に私の処へ来たのですよ、そこで私の生活を見て、その友人が驚いて、あきさん、あんたがこんな生活をしているとは思わなかった、といってオイオイ泣いてね。私の夫が勤めを了えて帰ってきて夜しか喋らないけどすぐわかったんですね。何の繋がりも交流もない、そして私自身が自分というものを放棄しちゃって、偽りの生活をしてるということがすぐわかっちゃった。

 そしてね、あんたわかったろう、私は、もう一年の余裕を置いてもらってそれでその間に決心を固めて別れるつもりだ。「子供は?」子供は置いて出る。そしたら、その友達がね、しがみついて泣いてさ。私は、友人に、私はこの人と一生涯を埋めるつもりはない、必ず出る、それまでに子供を置いて出ようか、連れて出ようかとまだ悩んでいる。それをハッキリするまでは、まだ待って欲しい。と約束したのですよ。

★飛び出したけれどそれからがね………

―― ところで、家を出てどこへ行ったのですか。

・八木 飛び出してね、その女が私を手引きしてくれたのですよ。その女の住んでいたのは目黒の大きな深い森があった、そこにあった小さな一軒家に連れていってくれたのですよ。その家に、夫だった人の友人で画家と彫刻家をその女の友人が連れて来てくれたのですよ。そしたらその二人は吃驚して「あなたの結婚生活が耐えられないというのは解っていた、解っていたけど子供を置いて出るとは………」とね、二人とも涙を流してくれて、「本当にこれからあんたはやっていけるか。」いかれます。「どうしても決心を変えないか。」変えません。「そうか、そうなら僕らもあんたの味方になってやろう、あんたを助けてやろう。」といってくれた。

 そして二人は帰り、女の友人も買物などで一緒に出かけた留守。ひょいっと、コウモリを持ってきてぱっと拡げたら、そしたらね、その中から子供の水鉄砲が出て来たんです。おもちゃが。さあー、もう、いても立っても居られないのよ、苦しくて、そいでもうそこを飛び出して、裏山がね、すごく険しいですが、かけずり登って、バタンと倒れた。倒れた拍子にね、あの……あれが、リンデンバウムがあの音楽が聞えてきたのよ。あの……、ああ苦しい。……あのリンデンバウムがね、ほんとに

、その時はもう、本当に泣いて泣いてね。 

 そして、そこでもって草の上に腹ばって泣いて、子供のもとに帰ろうとして立ち上がったのよ、そしてゲタをはいた拍子にゲタのハナオが切れて倒れた。倒れた拍子に、あっ、私は何だったのか、何の決心をして出たんだ、こう思った。そしてこうしてはいられないと思った。私は何のために命をかけてきたんだ、という反省にしめつけられて。それでまた友の家へ帰る気になって、そしてボチボチと歩き始めた。その時の苦しかったこと、悲しかったことったら。

 それでね、2、3日その友人のところにいて、電車に乗ったりして仕事を捜したりしていたけど、ただボンヤリして過してましたね。ただ生きているだけだった。子供のことを思うと。その時、私を知っている牧師さん夫妻をその彫刻家達が連れて来て、何もいわないからここは私達に任せてとにかく帰ってくれというのよ。子供が可哀そうだ、それで私は帰っちゃったのよ。

 ただ苦しかった。ところがね、それからなのよね、私がどん底まで自己否定をするのは。一たん決心して死んだ人間が生き切れなくて再びあがってくるとは一体何だろうと。

★それぞれが生きるということ

 その時の私の心理状態はどういうのかというと、どういったらいいか、とにかくどんな事があろうと私が悪くて、子供を置いて出るということは容易なことではないことですが、それを敢えてしたということに対して私は本当に自分自身を否定して否定し抜いて来たのです。

 ところが私が行って下駄を抜いで上ろうとした時に、座敷から夫だった人が飛び出して来て、「良く帰ってくれた。」と皆んなの前で「皆さんにも言うけど、今度のことは私に一切の責任と罪があります。」というのよ。それが、本当に罪を悔いるというような感じで私が受け取ったのじゃあないのです。男として、そういう細君に、もっと高飛車にもっと強く責めて、そして私がごめんなさいといって平謝りに謝って許しを請うて帰るというべきだ。

 そういうふうなのじゃあなくて皆の前で私が悪かったと謝る、その時に私は本当に「ああこの人は救われない」と思ってね。そういうところが私達の時代の女としての感覚があった。とにかく全て浅いのよね。もっと毅然としたものがないのね。それぞれ男と女がしっかりしたものを持って生きている者同士が一緒にただいることが夫婦だと思うのよ。親子だってそうだと思うのよ、本当はね。

 牧師なんかには許しを請うとかいうことは通ずるかも知れないけど、親類とか事情に疎い人達には通じません。私が何のために出たか、また帰ったか。子供に対して申し訳ないです。大きな顔して、どの面下げて帰れるかというのがありますからね。

 その時の第一の感じは、「ああこの人はどうにもならないな」ということだった。絶望だった。私がハッキリ決心したのはその晩からでした。何しろもう針のむしろでした。何にもかわらないんです。口先なんてね。

 それから私は両親に一言謝りたいから木曽へやってくれといって頼んだけど、それはやっぱり帰ってこないんじゃあないかという不安があるから駄目なんです。でも私は八木の父にどうしても詫びなければならないからといって子供連れで帰ったのよ。

 帰ったらね、父はいろり端に座っていて、私達が車で降りて隣のオバさんが「あきさんが帰りましたよ」といったら、「え!」と驚いた様子で、ニィコニィコと笑って「ハァ!『高工嘱託の妻家出す』が帰ったか!!」といった。それはね、私が一度目に家を出た時朝日新聞に三段抜きで出たのよ、その記事の見出しだった『高工嘱託の妻家出す』とね。それで私が親不幸を詫びたら、その時ね、「ああお詫びはいいかも知れない。だがな、おれはお前がどうして家に子供を置いて出て来たかというその動機はよくわかる、わかっているがどうして再び帰ったかということがわからん」というのよ。私がどんなに泣いても泣ききれなかった。いいオヤジだなあと思ってね。ニコニコしているのよ。それを言うのに。「どうして帰ったかそれがわからん!」というのよ。

 それでね、私が「実はっ!!」といったら、「そうだろう、そういうだろうと思った」ていうのよ。おとっさま、実は今度木曽へ来たのは、一つはおとっさまにお詫びをすることと、東京で出きなかったことをここでやるつもりで来たのです。といったら、「そうだろう、これからもお前の相談に心底のるつもりだが、オレの目の前でやられるにはあまりにもつらい」というのよ。「孫を見るのがつらい」というのよ。こういう親だったのよ、こういう親にああいう夫。「『高工嘱託の妻家出す』が帰ったか」ていってニコヤカに笑った顔。

 それでね、結婚の時、夫婦連れで熱心に私を説得した長姉のところへ行ったのよ、でもそこでもね。それでまた東京へ帰ったのよ。

★再び家出する

 二ヶ月ぐらい居たかな。それで書き置きを書いて、ゆかたのまま、子供の顔をじっとみて出たのよ。走り書きを枕元においてね。そのままスーと出たのです。金を一銭も持っていなくて指輪を売ってね。出てね、万世橋のところから電報を打って、父親のところと家に。そこで、紹介所で麻布の建築家の家へ行って働いていたのよ、女中をして。

 その頃は小川未明さんも生田春月さんもよく知っていたのよ。小川さんは最初家を出た時、夫だった人が毎日通って一緒に引き摺られて探されたそうで、まさか出るとは思わなかったらしく、驚いたそうでした。大変なご迷惑をお掛けしたのよ。

 でもね、その時もただただ苦しくてね、さあ再出発だなんて思えなかった。子供を思い出すとね。そこへ木曽の父から手紙が来て、とにかく帰れというのよ、それで帰ったわけ。

 出てから、夫だった人も随分小川さんのところや生田さんのところやあちこち探したそうで、とうとうその麻布の家を探し当てて、そしたところが田舎へ帰ったというので、それで追っかけて来た。子供を連れて、丁度数えで四つだった。

 その時も苦しかった。来ると私は子供を背負って畑で仕事をしていると、家で父がその男を相手に話したのよ。あきらめるようありったけの説得をしたらしいのよ。どうしてもね、あきらめないのよ。

 そして私に駅へ送って行けと父はいうのよ。辛かった。駅までの道、子供を背負ってスーツケースをさげて行く時、ああこんなにまで苦しまなけりゃならんとは、子供を悲しませなけりゃならん、なんとエゴイストだろうと思われるかも知れないけれど、こんなに馬鹿でなかったなあとね、どんなに苦しかったか。駅で別れるとき、乗ろう、乗ろう、汽車が出るから早く乗れ!!早く乗れ!!ていってね。映画みているようでしょう。でも本当に辛かった。

 あともう二回ほど来ました。私はね、いまでも思うけどいい父親でしたよ。私が一人で泣きたい時、考えたい時は、離れの小屋に唯一人いつまでも置いてくれたのよ。それでしばらくしているうちに、こうしてはだめだ、何か生きる術を持たなくては、学校の先生にでもなってまず生きなければと思うようになるには時間もかかった。父は銀行事件で何一つなくなっていたのよ。悲しみに浸っているだけではだめだ、と思うようになったのよ。

★衝動的な直観と偶然を信じて

―― お話を聞いていても、家を出ることが第一で、何か仕事とか見通しを持っていたわけではないのですね。

・八木 そうなのよ、いつもそうなの。いまある状態のもとで家を出ることしか頭にないのよ、そう思う直観みたいなものはどうにもならないのよ。それが私の長所でもあり、大欠点でもあるのね。ちょっと例がないでしょう。こんなにまで明日のことを思い煩わないのは。貴方はそれが八木らしいというけど私はいつも必死なのよ。こうしたらどうなるとか、こう行動したらどういう結果になるとかの将来の見通しなど何もないのよ。エゴイストなのよ。

―― エゴイストじゃあないでしょう。自分の事を中心にというのではそうだけど、エゴイストは目先が利きますよ。利己的に考えるから。

・八木 私はね、非常に偶然を信ずるのよ、私を動かしているのは非常な偶然なのよ。満州のときも、東日の新聞記者になった時も。とりたててああしよう、こうしようなんて考える頭がないんだ。結婚なんていうのもほとんど偶然というのが多いんだ、遭うということがね、出会いということを信ずる。

 私はね、そのあと運動している時、同棲したわけだけど、男と女というただそれだけの所引き下げてしまうと、大したことではないんだというあっさりとした淡白なところに来てしまうのですね。だから結婚しようとは思わなかったですね。

★跳び超えたいけど”我”が

―― 話は少し変りますが、こういう文章があるのですがどう思いますか、宗教についてですが「<わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま、絶対に跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである」というのですが。

・八木 わたしはね、絶対という、それに引かれたのです。自分の全てを否定して、否定し切ってキリストに至りつくか、救われるか。ということだった。救われるか、つまり私には罪の意識があった。それが子供のこと、それは誰にも言えない、誰れにも告白できない。それを自分で自分の中で祈るしかない。自分の中で捨てるしかない。捨てて捨てて捨て切ったところにアナキズムがあった。これを知った時、これしか生きる道はないと思った。他に価値はないと思った。私はそのとき他の思想も知っていたけど、組織に頼るとか集団に頼るとか、そういうことはできなかった。それは自分を否定してないと思った。

 私は人間キリストが好きなんだ。”死者をして死者を葬らしめよ”とかね。私はずっと教会に行ったりしていますけど、どうしても駄目な所があるんですよ、それはね、”われ””じぶん”というものがあるものだから、一切を捨てて神に帰れといってもだめなんです。だから祈るということ、自分以外に祈るということができないんです。それはウソだと思うのです。そこに私の矛盾があるのです。キリスト教に入り切れないんです。祈る一方で自分を捨て切れないんですよ、捨てたと思った自分は自分じゃあないんですよ。

―― これはね、吉本隆明の『最後の親鸞』に出てくる文章なんです。

・八木 そうですか、でも跳び超えたいですよ。本当に。いつもね。最後の決断のところでどうしてもできないのよ。そこに私の不徹底なところがあるんですけど、不徹底だとは言えないと思うんですよ。私は捨て切れると思ったのは子供を置いて出た、大きなことだった。だから私は今に至るまで、いろんな場面にあっても、なにくそ、と反発して自分を否定して出発してきたように思う。

                   77・7・17、 

                     文責相京 

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