■第2号(1977年9月20日発行)目次
・わが子との再会
・協力者の一人として 相京範昭
■わが子との再会
終戦から一年半ほど経った頃であったか、母子寮の子どもの母が黄疽の症状になり入院の必要がある、というので、生後一年ほどになる子どもを都内の乳児院に託することになり、私が抱いて送って行ったことがあった。子供は栄養の足りないせいか少し発育がおくれ、まだひとりでエンコもできない状態であったが、そのかおといい目鼻立ちといい、なんとも可憐な愛らしさであった。小田急線の駅を降りてからかなり長い路を歩きながら、この無心のこどもの将来について私はあれこれ考えるのであった。
この子の若い母はこの児を浅草公園の浅草寺境内の草むらに産み落し、裸のままの赤ん坊を抱いて警羅の警官に渡したのであった。警官も寺僧も赤ん坊の処置に困った。こうしてあちこちさまよったすえ私たちの母子寮に辿りついたときは、彼女のもち物といえば三枚のおむつと麻の葉模様の、うすい綿入れの着物だけ。それと名前も住所も知らないその父親の幻影の子であった。
街並へはいったところに「そばや」の暖簾が瞳にうつった。そのしっとりした古めかしさや格子のこまかさにひかれて店にはいった。子どもは私の膝の上でぴょんぴょんと刎ねてよろこんだ。この店のうどんは味といい柔らかさといい、この子には申しぶんなかったのでちいさいロをいっぱいにあけてたべ、汁を音をたてて畷った。おそらくこのうどんの食事はこの子の初めての饗宴であったかもしれない。これが最初の饗宴か最後の晩餐になるだろうか、などと感傷めいた想いを嗤いながら。
乳児院はどこにでもある平凡な施設であった。院長は白髪の柔和な人で、この子どもを抱きあげ、「これはなんと可愛いい児ですかなあ、うちで一番のきりょうよしですよ」と頬ずりした。三十人に近い赤ん坊がそれぞれのおもいやねがいをもった表情で無心にねむり、無心にあそんでいる。保母や看護婦が忙しそうに歩いていた。
院長は別れるときこう言った。
「自院では常日頃世間とのあいだに公開主義をとっていますので、よく家庭の方が参観に見えます。そして里子として引きとって育てたい、里親になりたいという希望の方には里子となるための親だの血筋だのを出来るだけ調査し、家庭をも調べてその上で里親となっていただく契約を結びます。この子もそうなると倖せになるかもしれませんね」
里子として育てられるであろうか。この子は。どういう親の子として、その一生を-。
にこやかな子どもと無心の別れを告げてわたしはもと来た長い路を寮に帰りついた。何よりもまず子の母親に会わねばならない。話すことはいっぱいある。
「せんせい。風呂敷はどうしたの、どこへやったのよ? 忘れておいて来ちゃったのね」
だいいちの言葉はこれであった。
「うん、そうね。いま持ってくる、まあ待ちなさい」と私は言った。最初出かけたとき、この女はわたしに言ったのだ。「せんせい。帰るとき空になった風呂敷を忘れないでよ。ほかのものはみんな忘れてもだよ、それしきゃあたいのものってないんだから。これだけ…」
と布の端をつまんで振ってみせた。振られた布きれは一枚の粗末な青い布きれで、どこにもわが子のものではなかった。彼女が予測したとおり、わたしはみごとに大切な風呂敷を子どものそばに置きわすれてきたのだ。帰りつくまで、私の心のなかは子どものほか、そのほかのものは何もなかったから。
その若い母はそれから一週間と経たないある夜、忽然と姿を消して再びかえらなかった。若い男といっしょに行くうしろ姿をみた、という誰かの話もきいたが。女の名まえの上に「失踪」という文字が残ったまま、記憶の上からも消え「戦災者・引揚者母子寮」の名簿から抹殺されたのである。
人とひととの別離に哀しみの涙をながす。
この悲しみの涙はついに墓場まで乾くまはないが、母と子との別離には奇しき縁というような目に見えない牽引がある。この不思議な牽引がおもいもかけないところで形や機会や、想像を越えて、いちどに母と子のまえに現前することがある。その現前するものが、互にたがいの長くつづいた境遇の隔たりや、生活相違や、そこに生まれる物の考え方など、あるがままの自然ではうけいれがたい、うけとめられない、在るがままでは壁に直面する。それは、その解明は父によるよりも母に、より多く母のかお、ことに瞳や眉のうごき、言葉のなかに真実を見出そう、捉えようとする成人した我子に捉えさすより外ないと思われる。在るがままに-。あるがままの母を-。
日本が「敗戦」という歴史に初めての混乱の中に脚を踏みいれたときから、民族としての哀しい系譜や血の混乱の中に投げ入れられることになった。その形容しがたい混乱は祖国をうしない、地図をうしなった男と女と、こどもたちをひきはなし、また思いもよらぬ邂逅や再会の機会のなかに投げ入れたものである。
この邂逅や再会は親と子に、ことに母と子のあいだには目には見えない不思議な牽引があり、その不思議な牽引によって突如としてある日、ある場所に現前したのである。
「母と子の再会」という見出しに飾られるべき私と子どもの再会は予告もなく、誰に知られもせずに、ひっそりと敗戦後の千曲川に近い北信の製糸工場の片すみで迎えた。
ふるい旧式の製糸工場をこわして、近代的な多条製糸に建て代えるべく、ふるい木材と機械の残骸が空地にうず高く積みあげられ、機鑵や煙突の赤錆びた横腹が晩春の陽にさらされていた。この多条製糸として復元する製糸工場に女子寄宿舎の寮母として、女工監督として着任した私は創業開始までにはまだ三ヶ月ほど準備期間のあることを幸い、工場のふるい半壊した形骸や給水施設、繭貯蔵所の機構などを見てまわったり、近い農家に出かけて繭の育成経過をみせて貰ったりして夕方近くに舎監室に帰ってきた。
帰ってくると、この雑然とした構内に目立つ職員の住宅がある。この住宅に住む上品な娘さんが廊下に佇っていて、私を手招きした。
「先生、お留守に、お客様でしたよ、先生がお留守なのでとりあえず……」
「お客さま? どんな方ですの」
「お若い男の方ですが、お一人でして。さきほどから自家へ御案内してお待ちかねですから、どうぞすぐいらしって」と先きに立ってひろい土間の台所を足早に行く。
歩きながら私は、,日中戦争の激しくなる頃までこのあたりを中心に、この近くの農村をあちらこちら歩きまわって青年たちと動いた農村運動の同志たちではないかと思った。そして誰彼の顔や名前を胸のなかにおもい浮べてみたがちょっと見当がつかなかった。時代はうつり、人は変ったのである。
玄関の硝子戸をあけると、座敷の話しごえがぴたりと止み、ひろい三和土の上に一足の短靴がきちんと置いてある。
ゆるやかにあけた襖、そこからこちらを見あげたいくつもの顔のなかに、ひとつの若い顔がわたしの心臓を射た。たしかに、そうだ。たしかに、あれ(彼)に間違いはない。白い健康な歯並で、笑っている。健康な若者の顔-。
「先生、この方どなたか、お解りですか。」
緊張の空気のなかで、この家の主婦が訊いた。私は唇をとじたまま頷いた。私がここへ来るまえに、この座の人々はすでに知っていたのだ。息子がみずから語ったのであろう。じぶんの生いたちと、今日の出会いを。母と子の三十年に近い別離の再会を。女たちは涙を眸にうかべ、緊張の空気のしめつける中で私のつぎにくる言葉を待っている。もっと、おおきく、わたしの劇的な身のうごきを待っている。沈黙のなかでつぎにくる劇的な泪の抱擁を待っているのかも知れない。
わたしはこの青年とふたりだけにしてほしかった。誰もいない二人だけだったら、もっと自由に母としての言葉が唇から流れるであろう。言いたい言葉も流れ出、わきでるかもしれない。周囲の、好奇にもえる瞳が、わたしの胸をつめたく締めつけるのかもしれない。そして、こういう他人の眸を意識するじぶんの狭い女ごころを嗤ってやりたい。その反省のなかには、このひとびとにどんな演技や感情をそのままさらけだしてみせたところで、あの別れた日の、別れた以後の苦しみが理解されるわけはないのだ、と感じるのである。
そうおもいながらも私は、当の息子がべつだんのこだわりもなさそうに笑って私のかおを見あげているその笑いの明るさは意外であった。母に会えた、再会できたよろこびをそのままに、ひとつの芝居の場面のようにそのまま表現している単純さが、解放されたよろこびを私のこころにひろげた。
「健一郎、健一郎だね……すぐわかった」
彼の顔がみるみる紅潮した。これでいいのだ。
「そうです。ぼく健一郎です……あなたから生れた健一郎です」
と爽やかな声である。
「ぼく、生きていて必ずあなたに会える日が来ることを、そのことを思いつづけてきました。中学四年のときでした。初めて……あなたの手紙を読んだときからです。先生からもらって、読んだときから。……」.
「あなたは、戦争はどこへ出て行ったの?」
「ぼくは出ませんでした。危ないと思って、中国の華北へ出かけてそこの会社、華北ばん土という特殊会社へはいったのです。日系の会社でしたが。それには、やはりあなたに関係のあったことで……。」
「どういう? 関係とは? 」
「ぼくは大阪で、不思議な人を知りました。歳上の人で、黙っていることの好きな、変った人でしたが。酒が好きで、酔うととてもいい人だったのです。忘れられません。ああいう人は。この人があなたを知っていたのです。あなたの名まえを。そして、『そのひとは日本にいないよ、満州へ行って、満鉄にはいっているそうだ』と。……」
「それだけで? 日本を離れる気持に。」
「そうです、日本に留まる気持はなかった。だからぼく、中国へ行って山東省の青島、そこにあるその会社へはいっちゃった。そこに働いている中国人たちと気持が合った。一生中国人から離れないと思って、そうしてるうちに敗戦でしょう。日本の兵隊が身ぐるみ脱いじやったあとの、丸腰で、日本へ引き揚げるまでの、あの、支那の農家ですごした歳月は、ぼくの一生にとってかけがえのないものになったようです。」
「ところで、あなたは、どうしてここを、このわたしの居どころを知ったの、この工場の廃墟みたいなところを、どうやって? 」彼の唇がほぐれた。
「あなたの書いた『満州脱出記』を読んだんです。満州引揚げのときの惨状、というか…あれが木曾新聞という小さい新聞に載ったでしょう。あれをおさよ姉様が木曾の実家へ帰ったときみつけて、持ち帰ってぼくにくれたんです。ぼく、どきんとした。」
私が引揚げてきたとき、真先きに訪れたのは木曾福島町で、そこに古くから薬局を構える親戚がある。この親戚にわたしはほんのわずかとどまって厄介になったが、そのときその家の主人から「満州脱出記」をぜひ新聞のために書いてやってほしい、と頼まれたのであった。脱出記というだけでその他の意味もないものに思って書いたのだが。息子は岐阜県の引揚げ先きから木曾福島町へやってきて八木の親戚をあちこち調べてみた。調べるまでもなくもともと遠いながら親戚の間柄なので見当はすぐについた。彼が半壊の工場のなかに、女工寄宿舎らしい建物を見つけだすには、大した苦労もいらなかったように、親戚から私の消息をききだすにはかくべつのことはなかった。
私と息子は肩をならべてその家を出た。肩を並べるなどといえるものではない。私はふり仰いで見上げる位置の息子を誰にともなく誇りたい気持になった。誇りたいというのは優秀とか、英才などの言葉に結びつく現実感ではない。むしろ平凡な、どっちの親に似ているかすぐには判断もできないほどなのんびりと楽天性をそのままにした「彼」であった。その彼に再会してここにいる。ともにいる。
だが、「楽天性」という観方はあまりに皮相でしかない。ここまでの学生として青年としての自己形成の上に彼が苦しんだその青春の苦悩を見なければならない。彼が中学四年のときだった。私はそのまえ大阪に住む長い友情で親しい女友達の助けで、彼の中学を知り、彼の家庭の事情について大略を知った。折から突然に巨大な台風の来襲で大阪を中心とする「関西大風水害」の惨事が起り、私は社令により取材の応援の形で東京から生命がけで大阪に急行した。想像以上の惨禍で、写真班とともに屍体を避け屍臭の漂よう四貫島だの都島あたりを駆けまわったが、その惨状の中で、早くも救助、整理運搬などとともに復興の槌音がきこえだした。
その救助、清掃、防疫などとともに町内会を単位に食糧、救恤品の配給、衛生施設、病者とともに失業者の登録や、臨時の託児所の急設。牛乳の配達など罹災市民の生活に一時も欠くことのできない施設を、極めて敏捷にしかも公民一体となって整然と組織的に押し進めて活動するその、大阪市民のみごとな機動性と団結の実行力に私は、舌をまいた。東京と較べて大惨害の処置は官僚性を離れ、市民の恣意と団結の偉大な実功にある、と私はその一つひとつに感慨を新たにした。讃嘆の念を深くしたのである。
一応の任務を終えた私は、町内会の乳児健康診断や牛乳の配達などで忙しい友人のわずかな閑をみて、連れだって健一郎の中学に行き、担任の先生にお会いすることができた。
無言のまま沈痛な表情で聞いていた先生は、最後にこう言った。
「お話をきいてよく解りました。日頃、私がどうしても疑問としていたことですが。古山君はなんとなく気持に張りがなく、一つの好きな学科にうちこんで行く、とか、勉強を自分から進めていく、という熱意があるように思われません。お話で現在の一家のご様子が、そうか、そうであったかとうなずかれます。」
先生は健一郎の学科の成績は平均水準より決して良い方とは言い難い、もう一歩、どうして考えを深めてくれないのか、なぜこの判り方にとどまって問題を投げてしまうのか、と残念に思って注意してきたのだが、全体としてみるところでは、古山君はむしろ科学方面はだめだけれど、その他の主要学科では平均水準をぬいて面白い頭脳、かくれた素質の閃めきをみせて、おどろいて思わず眼をみはり、うたれることがあります、という。素質がないのではない、眼ざめる機会を知らないのだ。機会をつかむ少年らしい意欲がないのだともいえる。どうやってそれを悟ることができるか-。
先生によると、古山の現在のお母あさんは家庭訪問のたび顔をあわせるのだが、古山君の下に3人の子供を育てている。奥さんはあまり感情を外に出すことを慎しまれる、というか、冷静な応対でこどもに関する質問には物静かながら、しっかりした気性の人を思わせる、と語った。
しっかりした気性のひと、物しずかな思慮ふかいひとであろう。そういうひとに健一郎は今日まで育てられ、その母によってはぐくまれたのだ。私は家系という、一族につながれる血の流れ、その系統を思って思わず吐息がふかいところから湧いてきた。私たちは幼小のときから自然の感情のままに、笑い、うたい、泣きたいときに泣いて、感情の流れのしぜんの中に流され、育てられてきた。自然児ともいえるかもしれない。いまさら彼の家庭のことを聞いたとしたところで、それについて私が何が言えようか、
わたしはかつて家を出たとき、母としてのすべてを放棄したのだ。なんの権利もなければ、義務もない。ただ、ただ、と考える。だが、彼にとって私が単に路傍の人間であるとしても、彼が私をあるいは人間として必要とする場合が無いといいきることはできまい。私という女が彼のほんとうの母であることを語って、それによって彼がどのような打撃の中に突き落されるか、年令からいって、いまが一ばん危険ではないか、それを敢えてすることを空想するわたしという母はすでに、みずから死をえらんだ、死者ともいえる否定の底にあった。否定を深めて現在の母なのだ。
現在の彼の母を私は知らない。どういう機縁でああいう男のもとに、しかも継子のあるところに嫁入したのか、その母親の再婚の経緯についてはさらに詳しい話を、と思うのだが、健一郎は寄り添うようにして、
「やっと、二人だけになりましたね。ぼくはあなたと二人になって……」
彼は私のかおを見おろし、こういった。
「だがあなたを、お母あさん、とは、呼びませんよ、しばらくおかあさんと口に出るまで、待ってください。しぜんに口から出るまで。ねえ、ぼくのお母あさんはいまの、あの、うちのおかあさんなのだから。」
「そのとおり。それがあなたにはほんとうなんだ。折目ただしく、筋をとおすのがね。長い年月苦心してあなたを育てて下さった人だもの。」
「ぼくね。中学を勝手にとびだして、うんと両親に心配させました。あの手紙を読んでから。そしてね、どうしてあなたはこの家を出てしまったのだろう……と。そのことがながく、ぼくのあたまを占領してしまった。」
「ながい戦争の末のことだった。わたしにとってはながい……」
「ところが、年令というものは不思議ですね。ぼく、それの答えがしぜんに解って、そしてしぜんに出てきた。つまり、ぼくの胸に、うちのおやじという人間はどういう男か、ということが、だんだん判ってきたんです。ああ、そうか、こういうことが耐えられなかったな、とね。他人の言葉をきく人ではない。じぶんをどう動かすこともできない……ああ、これだったか。と」
この言葉は叛かれた息子が叛いた親をいたわる、その傷のいたみをほんの少しでも軽くしてやろうという、いたわりではないだろうか。
「しかしそれよりももっと、大事な、私から訊きたいことがあるはずよ、そうでしょ。」
「そうです。あなたがどうして家を出て行ったか、帰らないところに行ったかはぼく、おやじの人間を知ることでだんだん判ってきました。それはだんだん判ってきたけれども、もう一つのこと、あなたがなぜぼくをつれて出なかったか、なぜぼくを家に置いて行ったか、そのことをいちばん訊きたかった……。どうしても判らなかった。できなかった。」
この問いに私は答えることをためらった。
できなかった。わたしの口から結論を出すことはあまりに大きく、あまりに辛い。息子とまず再会して、日常の所作やことばがしぜんに流れでるようになるまで、まだしばらく待ってもらおう。
彼は舎監室に三泊して元気よく帰った。その話によると、健一郎の父親は前年の晩春に大阪の病院で「悪咀」で世を去ったのだ。子どもたちの稚い頃から毎年の小作米のあがりを預金したのが可成りの額になり、大阪の郊外に地所を買って住宅を建てた。その家が空襲にも焼けのこり、戦後の住宅払底が幸いして意外の高値で売れた。そのかなりの財産をもって彼の遺族は郷里の岐阜県に帰り、親ゆずりの中地主と金融業への志向で想を練っていたとき悪咀のために倒れ、死亡したのであった。
健一郎はべつにどこへも就職はしていなかった。大陸から帰国した誰でもがそうのように、彼も中国の広野と乾いた大きな自然のなかで働くという生活やその世界の規準や、その拡がりの密度などというものがすべて内地のものとは規準がちがっていて、見当がつかない感じであった。彼はかつて河北の山東省で知りあった不思議な年配の男のことを忘れ得ず、何かの方法でその人をもいちど探しあて、もいちど邂逅したい望みをもっていた。しかし、敗戦のほとんど全部を失った日本ではどうやって衣食を得るか、地主を廃し、自作農を中心とする小作法の改廃など土地改革のうごきで、日本じゅうの農村がゆれている。なんとか将来の生活に向けて方針を考えなければならないのではないか。
健一郎は私の郷里の木曾に居つく様子であった。一方、長野市に近い松代の多条製糸工場の復元工事は進んでいて、女工達は五枠うけもちから一挙に二十枠を抱えこみ、新たにセリプレンのめんどうな検査も増えて、新たな教婦も就職して複雑になった機械の操作を訓練した。寄宿舎も舎監室も新顔の女工さんで日に日に賑かになり、工場からは波浮の港や万才の声のレコードが絶間なく聞えた。操業の日はもう近い。
事務所から子どもの使いがきて、電報が来ていると告げた。行って尋ねると、木曾福島町の親戚からの発信で、
ケン一ロウキトクスグコイ
信じられなかった。すぐ中央線で出発した。電話で確めたところでは福島町の長坂病院からであったのだ。
駅で下車すると、病院に急行した。畳敷きの病室には私の姉が待っていて、「つい二十日ほど前には奈良井のわたしんとこへ来て泊って行ったのに。元気だったのよ。それが。」蒼ざめた顔だが、危篤などとは思えないのに。
長坂ドクターの執刀で手術も済んだというのだ。手術-それが、ほかでもない盲腸の手術であると姉はいう。盲腸を手術して……そうして危篤とは。いまどき考えちれない経過ではないか-。
「ねえ、どうして盲腸を-。」
「それがねえ、健ちゃんは王滝の奥に最近ちいさな小舎を建てたのよ、新滝に近い断崖絶壁ともいいたいところの土地にね。」
「断崖絶壁にちかい? どういう? ……」
病人がほそい眸をあけて、こちらをみた。
「来てくれたね」と、力をこめて言った。
「病気に負けてはだめ、しっかりしなさい。」
「滝の中腹の、巌のうえに、ぼく、ちいさい小舎を建てたんだ。小さい、小舎を」
「どういうわけ? 」
「きっと、あなたは気にいるよ。ぼくは、そこで飲みやをやる、地酒やなんかおいて-。」
「のみやを-あなたが? 」
「ぼく、さけが好き。いっぱいなみなみと注いで、じいっと杯の底を、杯の手を捧げて、どんな人間もみんなみんな好きなんだ。ぼくはいま何も、ほしくない、ほしいと思わない。ぼくの酒を拒まない、ぼくの酒を憎まない、ぼくの酒に説教しない人を案内して、あの小舎へいこう。……あなたも……」
といって私の手首をひきよせるように、
「いっしょに行くね。それはもうぼく、決めてある。これからぼくなおったら、あなたといっしょに暮すことにするよ、離れては住まないよ。どんなことがあっても、別れはしないから……。ぼくと別れないで。
ありがとう。ありがとう。ぼくはあなたの腹から生まれたのだもの、ぼくは親不幸な子どもさ。……もっとこっちへ寄って。ぼくを抱いて……。ありがとう。ぼくは王滝村の山の奥で、山の医者に盲腸といわれたときさ、これはひょっとしたら、死……死ぬ……んじゃないか、とそう思った。」
「おかあさん!」と静かなこえで彼は呼んだ。
夜明けにはまだ早いようであった。
危篤の容体で皆に見まもられながら、彼は二日後ついに臨終を迎えた。手遅れだったのだ。静かな死であった。大阪から馳けつけた母親と私に見まもられ、抱かれながら。夜明けを待たずに。
彼の青春は静かにとざされた。それは三〇を越したばかりであった。
(七七・九・十一)
■協力者の一人として
私は八木あきさんをアナキズム運動上の活動家として知っていた。農村青年社運動の中心人物であり、「女人芸術」「婦人戦線」らで高群逸枝らと共に活躍していた等だった。 だが、その限りにおいては、特別興味を引くこともなかった。ところが、実際お会いして、その生活を真の当りにし、また話される言葉の節々から感ずるその生き様なるものは、普通の俗にいう主義者のそれとは大変異質なものを感じた。それから繁く通うようになった。
この2年間、何度か訪問するうち、その話される言葉に込められた表情というものは、どこか醒めた視線を持っていることに気がついた。過去を美しく語るわけでもなく、また悔いるようでもない。<己れの足跡を消しつつ生きる>のではない。己れの足跡に一つ一つケジメをつけ、いまなお明確に刻印するかのように格闘している。その姿は、安易にスルリスルリと世を渡る術を拒否しており、その人達に向けた刃は一瞬も磨くことを怠らないかのようである。
その毅然とした口調に「はっ」としたことは何度もあった。私に語ってくれた目は時には涙が浮かび、また鋭く光り、遠くを見詰めていた。時にいかんともしがたい運命に、だがそこでも自己を否定すべく問題を引き摺り続ける姿勢に、私は石原吉郎の<断念>という言葉を思い出した。しかし、彼女は83才である。その彼女が「ああ、私は変らなければ……」と発す言葉、その姿勢に、私は<自分の感受性くらい>自分で削いで行きたいという思いがする。
この企画は八木さんの環境の激変から出発した。5月に私の家にみえて具体化し、とにかく出してみようということで進めてきた。通勤の途中や休日にお会いする程度では彼女の期待されることを完全に遂行することはできないのではないかという不安が残る。勿論いうまでもなく彼女の文章で全頁埋まることが理想ではあるが、4人の相部屋に置かれている環境ゆえ私が尋ねる形式でテープからそれを起こすことになった。
「子供を置いて家を出たこと」に、なぜ焦点を絞ったか。それは表題にあるように、彼女のその後の行動や思考上で、常に立ち戻る処だと私が思ったからで、しかも重要なことはそれが彼女の行動のバネになっていることだった。別の見方でいえば、彼女のその意識を日本の革命運動が内包したところで展開されなかったということが、今まさに私達の課題となっているといえる。1950年に竹内好は「日本共産党批判」で次のようにいっている。
「思想は生活から出て、生活を越えたところに独立性を保って成り立つものであろう。ところが日本では、生活の次元に止まる未萌芽の思想と、まだ生活に媒介されない、したがって生産性をもたない、外来の、カッコつきの思想があるばかりだ。」
私が彼女のアナキズム運動上のことか.ら出発せずに、私の独善で彼女の個的な体験からこの通信を出発したのは、真の思想とは何か、ということを彼女を通じて確めたかったからかも知れない。しかし、私の力不足のため、もっと深く広い八木秋子を紙面で暴れさすことができなかった。その意味でも、今後これを読まれた方々の「八木への手紙」載せていき、それに応ずる形で補っていきたいので是非お手紙をいただきたい。勿論、彼女に関する「想い出、感想」、他編集上のことなども、どうか<通信>の意味を理解して、一方通行にならぬよう参加していただきたい。第1号に私が連絡先になっている理由、そしてこの通信の形式など一言あるべきだったのですが、編集上割合しました。その為戸惑った方がおられるかと思います。それは、彼女の所では前述の環境の為事務的なことができないので私が代わりにやるということです。彼女との交通は責任を持ってします。
また1号発行後、皆様から賛助金を載きました。予約も含まれておると思いますが、勝手ながら5号分まで受け付けます。それ以上の金額は賛助金としてプールさせていただきます。9月7旧現在25、500円、支出は印刷費17、000円、発送費2、240円でした。収支は毎号この欄で報告いたします。なお友人達の印刷所でこの通信が制作され、その多大な協力で産まれたことをこの欄を通じて感謝します。以後不定期かも知れませんが、一応2、3ケ月に1回発行のペースで続けて行きたいと思っております。どうか御協力をお願いいたします。
送料とも150円