■第10号(1979年6月10日発行)目次
・転生記
・著作集未収録評論
村の娘さん達に
・未発表作品
ふるさとの木曽を想う
・磁場を持った女 雫石とみさんについて
・ラジオドラマ 今はむかしの木曽
文化の灯り
鬼のこえ
・読者より
(京都市・石川)
(春日井市・木村<旧姓 名小路>)
(京都市・青木)
(川崎市・加納)
・編集後記
・お知らせ
■転生記
■著作集未収録評論 村の娘さん達に
【黒旗付録『パンと自由』昭和6年5月10日発行】
(大原社会問題研究所所蔵)
「どうも、どえらいことになったもんで……といって、ある人がこんな話をした。「先だって信州の農村へ行った時のことなんだが、百姓の青年がわたしに話したのですよ、隣村でこんど処女会の研究会が開かれることになって、その研究題目を選んだのですが、それがどんな種類のものだと思ひますか、とにかく百姓の娘さんたちばかりの会なのてすがね。その題目ってやつが、かうなんですよ。
-来たるべき帝国主義戦争に対する我々の任務-
どうです?これなんですよ信州の急進的農村ってのは。尤もこれが全部といふわけぢゃ決してないのだが、
といって、きいたわたし達は格別びっくりもしなかったが、何となくその村の処女会の人たちが気の毒に思われたのである。こんな題目をつけたのはきっと、処女会の娘さん達ではなく男なんだらう。きっと男のいはゆる村の急進的分子が処女会に口ぱしを入れて自分たちの勝手に決めさせたものに違ひあるまい。そしてそのおせっかいな男どもは、おほかた赤い思想を神様のやうにしてゐる連中か、全農あたりの組合運動の旗持ちでもしてゐるやからに相違あるまい、と思った。そして、村の娘さんたちもよっぽどしっかりしなけりゃ駄目だな。自分達の会のことくらゐは自分たちで処理するまでにならない限りは……と感じたのである。なぜなら、もし処女会の人たちが題目をきめるとしたら、決してこんなものを取上げる気づかいはないからだ。決してこんな景気のいい流行語をそっくり持ちこんで、自分たちの生活と縁のとほい間題をまぢめに議論するはずはないからである。
なるほど帝国主義戦争といふことは農村の生活にとって縁のないことではない、莫大な軍備費として搾りあげられる祖税、戦争とは何だ。戦争で一ばん先に犠牲になる兵卒は誰だ。大方は農村から引きぬかれて行く百姓の青年ではないか、いやまだある、がそれをここて詳しくいふことは後廻しにするとして、わたし達は戦争よりもっと目の前にさし迫ったことがたくさんある。まづ空になった米櫃をどうしやう。肥料もほしい。種子もほしい。着物も欲しいが、金は一文もない、借金の利息はどうすればいいのだ。これこそ腹の問題でありふところの問題で、自分たちの、たった今の生きた問題ではないのか、まして若い娘たちのことだ、異牲も恋しいし結婚もしたい、親や親戚のきめた結婚はどうしても嫌だしさりとて自由恋愛は容易にゆるされない。その上楽しみもない農村でたった一つ向上のてだてとなる書物も金がなければ手に入らず、読むことすらも周囲から禁じられてゐる。いったい、私たち農村の女はどうして生きてゆくのかどこに食ふ心配のない自由と幸福の楽園を探し求めていったらいいのか? 全く迷はないではゐられないし、疑うのは当然だ。帝国主義戦争などと新らしいモダン語をおし立てて誇りを感じるやうな馬鹿な女は農村にはゐない筈だ。あるとすればよほどの都会かぶれ、マルクスかぶれのした飛びあがりか、でなければ有名になって青年たちから騒がれてみたい虚栄の娘さんに違いない、ともに地味な農村にとっては害あって益にもならぬ油虫みたいな存在である。
昔から今日まで百姓ほど辛い、詰まらないものはない、馬鹿にされ、下積にされながら年中汗みどろに働いて食糧をつくって、そのくせ一番貧乏してゐるのは百姓だ。勿論、工場労働者だって同じやうに、いやそれ以上に苦しんでもゐる。失業者かどしどし工場の裏門から流れ出してくる。だか、その貧乏の程度も苦しみも、百姓は深刻だし、第一に百姓の労働は人間に一番大切な、なくてはならぬ米麦をつくって社会人のすべてに提供してくれる。食ふもののないところに世の中はありっこないのだ。今日ではその米麦をつくる百姓自身が借金の利子や租税などの方に米をまはして食ふものがなし、労働者は金がなくて米が食へないといふ有さまだが、政府の米倉には四百万石からの米がうなって、腐って、毒瓦斯を発散してゐる。五合の米が買えない一方にはかういふ世にも勿体ない罰あたりな米の立腐りがある。この罰あたりな政府の米を買上げさせるために百姓や労働者は年々一億円からの損失の利子を祖税として捲きあげられる。
その百姓はあまりの苦しさと馬鹿馬鹿しさに、農村をすてて都会へどしどし出稼ぎにやって来た。百姓よりは一日いくらの賃銭で馬方になったり日傭といになった方が割がいいからだ。で、実際は百姓の仕事は半分もそれ以上も女の手でやられてゐる。この毎年とれる六千五六万石の米をつくる大きな仕事をだ。ばかりでなく、日本の輸出貿易の六割以上を占める生糸や紡布の産業に働く女工さんたちはほとんど農村から出てきた娘さんたちで占められている。百姓では食へんからだ。大会社、大工場を儲けさせる為にだ。
▽
今日は何といってもまだ男の世の中である。同じ労働でも男の方が女より賃銀が倍もとれるし、楽しみもあれば自由もある。中で一番みぢめなのは農村の女ではないのか。百姓には日給も月給もなければ恩給のつく事もない。時間の制限もないし土地をとり上げられれば行く所はない。まして女には家の仕事子供の世話、その上活動や芝居一つ見るわけもなく酒も飲まない。一生家に縛りつけられて骨も砕けるほど働いて稼いで、何の楽しみもなく死んでゆく。これが農村の女だ、これで一体いいものだろうか、こんな不合理なことがいつまでも許されていいのか? (了)
■未発表作品 ふるさとの木曾を想う
1972年6月執筆
おもいがけなく、ふるさとの木曾がこの東京の、それも新宿のデパートに出現したことを知りました。このあわただしく公害に汚れた東京のまんなかに。”木曾展”の開催という梅雨空に、爽やかな明るい光りをひろげたニュースをきいて、さっそく出かけました。
都心のあの、大デパートの高みに、なんと広いおおきなスペースをとって、誇らしげにくりひろげられた”木曾展”の豊かさと、おどろくばかりの多様性-といっても、決して色彩ゆたかな流行の氾濫でもなければ躍動するリズムでもない。素朴な手づくりの生地にさりげなく生れる日用の品から、歳月の煤に黒光りの柱や壁を、いろりの自在鍵もあり、ひきだしに組まれた箱型の階段をしつらえて、こまかい格子窓に囲まれた木曾のダイドコロを再現させてあったのには、そのまま動けませんでした。木曾街道をいまもいろどる杉玉の酒屋の看板、とつぜんに福島町の官評奇応丸のでんと居据るのは高瀬家の大看板でした。
入場してすぐに眼に入ったのは、めんぱの曲げものでできた弁当入れだったのです。さわらの生地を熱湯で蒸し、枠にはめて形をつくり、桜の木の皮でしたか、あの強靱な紐で力いっぱい締めあげる。めんぱという名前こそ昔なつかしいひびきでした。めんぱはわたしたちの木曾の子供にとっては忘れられない思い出がありました。福島の向城(むかいのじょう)という地籍にむかしの士族がひっそりと住みくらして、山仕ごとに行く人びとが弁当入れをせっせと作ってかぼそい生計を立てていました。これかめんぱでした。
白木の生地をそのままのものには、おひつ、茶筒、枡、灰皿、箸、茶びつ、茶托やめいめい皿なと、それぞれに木目が素朴に浮きだしてみるからに民芸品の趣きがありました。このほかにお風呂の道具、大きな手桶、たらいなどがあり、柳樽になるともう実用品を超えたものですが、いづれも生地があまりにきれいなのでむしろ眺めていたいようなもの、このコーナーでいちばん人気を、それも若い女性や主婦の眼や脚をとめたものといえば、藪原のお六櫛であったといえましょう。黄色い光沢にひかるすきぐし、ときぐし、筋とおし、びんかきなど、この時代ばなれのしたお六ぐしにパーマの髪やかつらの女性たちが群がって、結いあげた黒髪のかたちを眼にうかべながら争うように買っていました。わたしもお六ぐしに惹かれて、とき櫛を一枚買いました。600円でした。こどものころ、藪原や奈良井のせまい町どうりを歩いていますと、閉ざされた蔀の障子窓のなかから聞えてきたあの、櫛の歯を一枚いちまい引く単調なおとがきこえてきました。小暗い窓のなかからきこえてくるあの退屈なおとは、こどもごころになんとなく哀しいようで、生活のひびきの重さとも呼吸のながい人間の旅路のためいきともおもわれたのです。
場面を一転して平沢産の漆器が並びました。大きな座卓、衝立、鏡台、飾り棚等々。これはもう漆から生れる高貴、優雅などの美になりましょう。黒塗りの肌のひかり、そこに装飾された模様は浮きでた蒔絵の絵ではなく、人手と技術を加えた奥床しい磨り、とでもいいますか。繊細な金の光沢が床しい技法の線にしっとりと定着しているのです。
パンタロン姿の若い女性たちが折りかさなって眺めながら吐息をもらしていました。
「わたしたちの生活とはだいぶ距離があるわ、この鏡台を置くためには、畳じきの部屋、それもかなり広いのがね、床の間があって、拭きこんだ縁側があって。」
「庭の眺めもなくちゃー!」
「あら、べつにそう異質のものでもないわよ、ただ値段のたかいこと、じぶんのものとしてはすこし高貴の感じなのね。」
「値段だってふつうの三面鏡とたいして違わないじゃない。ただね、こうして眺めると、ほら、漆器のもつ気品っていうのかしらね、奥ふかい美しさ。あの座卓だったらうちの父なども買って客間に据えたいとおもうに違いないけど、この衝立や鏡台となるとこれはもう、現実のものじゃなくて、一つの夢ということになりそうね。」
この展覧会を観にきてわたしが強くこころを惹かれたのは、木曾にのこるさまざまの古文書のたぐいでした。とても人が混みあってながく立ちどまって見ることはできませんでしたが、中でいいようのない感動をうけたのは、奈良井宿の町通りの図、そして福島町の山村代官邸の平面図でした。
年号はさだかに記載してなかったように思いますが、奈良井宿の、鳥居峠のつけ根からはじまって、上町、中町、下町と町はずれまで街道をまん中にはさんで、両方にならぶ家々を図で描きあげ、間どりを描き、間口なん間、奥行なん間と記し、倉のありかから井戸の所在まで認した上に、その家の屋号から戸主の名まえが明記してあります。その名前というのがここは城下町でないから名字がない。つまり孫兵衛、伝右衛門、与ェ門、などの名前でりっぱに通っていたことがしれます。苗字の代りに屋号でとおるのでした。旅籠屋、休み所をはじめ、諸国商人や馬喰う、御獄講中や善光寺詣り、伊勢まいりなどの客に物を売る店屋などのさまざまな家のならびに、本陣、脇本陣、問屋などの名前もみえ、寺の名前が玄奥寺、長泉寺、大宝寺、法然寺などいづれも山手寄りに出ています。しかもまん中を通っている木曾街道の町幅が方々に記され、広いところで三間半、せまくなっている所は二間というわけです。このせまい道をはさんで権左ェ門、茂兵衛などの家、名まえを一々いうのは煩わしいそこで柏屋、才田屋、うし屋、伊勢屋、中屋などの屋号が世間に親しまれてきたものでしょう。このころの古文書として長泉寺などに残っている過去帳には、奈良井宿の全部の家族が戸籍調べのように明記され、出生、死亡から婿とり嫁いりまで届け出をしたことを物語っており、これはおそらく街道の道中が混んだときなど本陣に代って戸籍の役割に当ったのではないでしょうか。それにしても、幕末の世情があわただしくなったころ、皇女和の宮の江戸下りの道中などや尾州公の行列、会津藩討伐のおりの混雑などを想像すると、この奈良井宿のせまい町幅におもいはるかなものがあります。
古文書のなかでもう一つ強い興味をひかれたのは、福島町の山村代官邸の平面図でありました。木曾川のながれにせまる背後の山々。このせまい空地ともいえないわずかの土地に、本曾ぜんたいの政治や経済の中心として、その上、木曾の森林を経営する中枢としての山村代官は、福島の関所という、いわば要塞の役割をも坦わされてどう運営してきたのでしょうか、木曾の住民をその手に掌握してきた山村家は、どのような屋敷のたたずまいであったものでしょう。
まず、最初に見当をつけたのは木曾川にかけられた大手橋、この橋が屋敷の入口でなければならないのですが、それは記載されてありません、大手門があるはずですが、それもありません。大玄関は予想したより奥まった位置にあって、そこまでにはゆったりとした空地があるのですが、たぶんこのあたりには供待所だの、馬方衆の控えなどから出入りの受付所などが設けられていたかもしれません。
大手門のあたりを起点として川上の方角、現在の小学校となっている敷地をかかえて図面全体が山の傾斜にむかっていくつもの建物群に別れています。客間、書院、控え所から寝所などの名称があり、湯殿、賄所などが付属して、味噌蔵、漬物蔵、物置などの建物とともについてちいさい庭をめぐらせてそれぞれ独立し、ある個所では他の建物と連絡しあっているのもありました。
庭をめぐって建つそれぞれの図面から見ますと、各室の名まえからみてべつにお役目の階級性といってはなく、どこが殿様のすまいとしての”奥向き”なのか、ましてわたしが最初に想像した奉行所とでも名づけられる取調べ室、お白洲などのいかめしい庭のあともありません。全体として少し裕福な武家屋敷のたたずまいという感じなのは意外でもありました。
この木曾川にむかった傾斜地に建てられた山村代宮の邸が明治維新の風雲を孕んで往来の人馬の影も慌しくなったころの動揺も想像されます。つぎつぎと新しい政治や制度の変革がうちだされ、この代官の邸を中心として木曾の住民がながい貧しい生活のなかから、新しい世直しにかけたさまざまな夢がひとつひとつ破られて行った哀しみを、藤村の『夜明け前』は立派に描きあげています。この名作は由緒ある旧家の主人公の運命を悲劇的な終末で描いていますが、山また山の、ふかく閉ざされた木曾路に住民はこの維新以来の百年の変遷をどう生きぬいてきたのでしょう。そして現在はどういう生活の目標に向って木曾の幽幻で濃密な自然のなかで、うち寄せてくる「時代」というメカニズムの攻勢と闘っているのでしょうか。
「木曾展」はまことに意義深い企画であり、事実の展望でありました。たとえそれが寄せ集めのきれぎれの陳列であったと評されるかもしれませんが、そこに見いだした品物の一つひとつが時代をこえた生命にいきいきといきづいていました。歴史とか過去とかいう回顧の意味だけではなく、現実の木曾をまるごとひろげてみせてくれた”血のかようふるさと”でした。木曾を離れて長く都会に住みつずけているわたしたちにとってふるさとを忘れ得たことがあったでしょうか。(了)
■磁場を持った女 雫石とみさんについて
◎磁場を持った二人の女がいた。一人は母子寮の寮母として、そしてもう一人はそこへ収容された女として、その雫石とみさんを私が最近知ったのは、彼女が退寮してから4年後の1965年の八木さんの文章からだった。その珍らしい苗字とそれゆえどこかで見た微かな記憶が蘇えったのは偶然書店の棚から見つけた一冊の本だった。『荒野に叫ぶ声-女収容所列島』(女・エロス編集委員会企画、社会評論社発行)はその母子寮での体験(1956年~1961年)を綴ったものだった。「寮母先生は三人いる。長老格は八木老先生だった。そろそろ70歳になる心のひだの豊かな人だった。常に収容者の味方だった。クリスチャンであり、別名をマリア先生という」(同書60P)他に数ヵ所でてくるが、いづれも八木さんらしい磁力を放っている。八木さんも母子寮を題材にした短篇小説があるが、当時の八木さんを知る意味で、ぜひお薦めしたい。(相)
■ラジオドラマ 今むかしの木曾
文化の灯り
これは『夢の落葉を』の原型であったラジオドラマのうち、書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。
語り手 タ方になると喬のきらいなランプ掃除という仕事が待ちかまえています。これを思いだすと、すごすご帰ってきて、
父 喬、もう暗くなりそうだが、ランプ掃除すんだか。
喬 うん、これから。
母 そらごらん、早くせんから。ランプ掃除はおまえの役目じゃないか、だれえも代りにやってくれるものはないんだよ。
語り手 喬はしぶしぶランプをとりだして薄暗くなりかけた縁がわに並べました。ランプは四つのときもあり、五つのときもあります。ガラスのホヤをそっととりのけ、ぼろでキュッキュッとみがくと煤で黒くよごれていたところもきれいにとれ、ぴかぴかになりました。つぎにはねじをまわして油のしみた芯をだし、こすったり、切りそろえたり、こんどは石油罐からほそいポンプでキイキイキイ-と石油を吸いあげ、一つひとつのつぼにみたします。ボロで石油のつぼをきれいにふいて、めいめいのホヤをかぶせると、それでおしまい。
喬 あ、あ、やんなっちゃうな、こんなランプなんてなきゃいいのに。大きらいだ。
母 それァ仕方がない、東京や長野には電気燈って明るいもんがあるそうなが、木曾はまたまだ……手をよう洗ってな、石油の匂いがのこらんように。
喬 ええと。これが台所ので、こいつが八畳か……どうだい、きれいになったろう。
(カチャカチャと道具を片づける)
父 喬、きょう学校から帰ったらな、すぐ野送りがあるぞ。
喬 またァ、やだな、逃げだしちゃうかな。
母 あんたどこのお葬式かなし、どこで不幸が?
父 松宮の虎よ、きのうだめだったそうだ。
母 へええ、あの人もまだ若いに。子供衆もたしか……三人くらい。
父 葬式は三時半からだって話だ、おれが出むいて会葬するほどのことでもないで、喬さ代理に野送りさせろよ。
(鉦、太鼓、ねようばちの音、読経)
語り手 葬式の行列は白いとうろうや旗を先頭に立て、坂を上ったり町通りを練ったりしてつづきます。重たそうな駕はふたりの人がかついで……お寺までの道ばたにはいろんな人が立ってうす陽の下をさむざむとつづく行列を悲しそうに見おくっているのです。道々、喬は友達の眼がじぶんを見ていやしないかときまりがわるく、羽織の袖をきちんとしておとなたちの中にそっとはいっていきます。喬はお寺の庭の葬式の退屈さをおもうとうんざりします。坊さんのながい読経、喝という大きな声、それからまた長々とつづくお焼香。ぢっとすむまで立ちつくしている時間の長さ。喬は時にはそっとぬけだして銀杏の樹かげにかくれたりすることもあって。
(群集のざわめき)
子供 おうい、みろや、アーク燈がついたぞ。
子供 アーク燈、アーク燈、これだァ
子供 明るいなあ、アーク燈、青白い光りだな。ホカホカまたたいとる、あれ、消えないんだな。
女 へーえ、これがエレキってもんかい。
男 エレキじゃない、アーク燈はちがうぞ。
語り手 役場のまえの空地は大にぎわい、青じろいホカホカゆれる光りを見あげて、大ぜいの人が口々に叫んでいます。町にはここに新らしい世界が開かれました。しかしおどろきは続いて起りました、いよいよ電燈がつくことになって家から家へ、会社の工員さんがとりつけ工事に来たのです。電柱のあたまに白い硝子がくっつき、台所の梁や天井に電線がひかれて……ぱっと照らし出された明るい電灯の光りに、思わず溜息が出ました、木曽の谷に初めて文化の灯りがさし、この灯りを見物しようと村の人々が峠をおり、泊りがけて出かけて来た。
父 おい、喬よろこべ。どうだこの明るさわ、おまえのランプ掃除もこれで卒業たぞ。
語り手 喬は五つのランプを物置へ持っていって、釘にならべて吊しました。
音楽
(この篇了)
■ラジオドラマ 今むかしの木曾
鬼のこえ
これは『夢の落葉を』の原型であったラジオドラマのうち、書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。
(虫のこえ)
語り手 初美はお使いからもどりました。
お母ァさんは風呂敷をほどいておせんべいの袋を膝のわきにおくと、5枚、6枚とだいじそうに数えて罐のなかにいれます。いろり端で隣りのお婆さんがそれを挑めています。
初美 おっ母さんったら、やんなっちゃうなあ、いつだつてあんなふうにおせんべいをかぞえる。
老婆 それァあたりまえよなし、おせんべいでも、お菓子でも買ってきたら数えにゃいかん。
初美 かぞえたってふえるわけじゃあるまいし、たべればおんなじじゃない?
老婆 それァちがう、おんなじ百勿でも、数えりゃ3枚や4枚はちがうでなあし、きちんとしとかんと、多いぶんにゃかまわんけれど、足りないときゃ損する、このつぎ買いに行ったとき、お菓子屋さんにそのこと言って、ちゃんとよけいまけてもらえなし。
初美 まあいやだ、そんなこと言えすか、きまりがわるくて
老婆 それがいかんそれが。わたしをごらん、お茶を買ってくるとな、その日をおぼえといて、ああこんどのお茶は何度いれたなってことを……。
初美 え? お茶を。まあおどろいた、一日に何度もいれるお茶を。書いておくの?
老婆 わたしゃ字は書けん、読めもせん、あたまんなかでおぼえとくが、たしかなもんだって。
初美 へえ、いい頭だな、神様みたい。
老婆 もっともわたしが買ってくるのは、大したもんで。五銭
音楽
母 さあおまえたち、これから蜂の子さぬいておくれ。
初美 わあ、蜂の子。……ちょっと君代さんとこへ行ってこなくちゃ。
兄 おれも川、川だ。あそこへ伏せといたビクさ見にいかんと。
母 あれだ。お待ち、いけないよ、自分のいやなこといいつかるとすぐこれなんだから退屈でもなんでも辛抱して、これをぬかないうちはどこへも遊びにやらない。
兄 蜂の子ぬき、おら大嫌いだ、このたくさんの巣を一つひとつ皮むいて、一つひとつほじくりだす。こんなこと初美にやらせたらいいんだよ。
初美 兄さんこそしたらいいだ。
兄 おっ母さん、おれ川で魚とってくるからね、それがいいね。
母 だめ、おまえのとってくるのはせいぜいめだかの親るいくらいのものじゃないか。これが赤魚だとか、ヤマメなら大歓迎なんだけど。
兄 なにやまめとってくるよ、やまめだよ、だけどなおっ母さん、がまんしてせっかく蜂の子ぬいたって、どうせおれたち食べられんもん。
母 あんなうまいもんが……
初美 うそ! わたしたちだって食べるよ、ただすこしだっていうだけ。
母 そうよ、それはおまえたち我慢しなくちゃ……お父っつあんはこんなに苦労しておくれるもの、せめて蜂の子だけでも存分たべさせてあげたいよ、ね、そう思わないかい、体がもたないよ。
兄 なにかくれる? 蜂の子ぬいたら。
母 ごほうびには、ほら、あのとおり玉蜀黍だよ、どっさりあげる。
兄 よし、初美やろう、竹串もっといで。
(虫のこえ、ふと声が絶え、下駄の音)
男の声 こんぱんわ(門口のそとから)
兄 はい。
男の声 こちら今村さんですか。
兄 はい、そうであります。
男の声 今村さんおいでですか。
兄 いいえ、おりません、おとなは留守です。
男の声 わたくしは、じつは、財産さしおさえに来ました。
兄 (初美へ)おい、誰だろう。
初美 ざいさんさしおさい……だって。
兄 高利貸だよ、きっと、鬼だよ、おい。
初美 まあどうしょう、兄さん。
兄 何もかも、みんなさらってもってってしまうよ、ああ困った困った。
男の声 えっへん(咳をし、戸をあける音)
兄 あッー
初美 あッ、おとっつあんだァ。
父 どうだ、おどろいたか、高利貸には。
三人 あっははははは。
(虫のこえ、玉蜀黍の葉ずれの音)
(この篇了)
■読者より
先日は「あるはなく」を送っていただきどうも有難うございました。思想の科学、加納実紀代さんの論文で初めて八木秋子という名を知り、その”屹立”というイメージから近寄りがたい人と思いましたが偶然西川先生から『夢の落葉を』をいただき、この本の夢のような世界に驚きました。そこで『近代の<負>を背負う女』を購入して読んでみましたが、こちらの方は固い文章で少々入りづらく……どうも八木秋子という人の存在が、その両方の著作からもう一つストレートに伝わってこないもどかしさがありました。「あるはなく」は、私にとって、そんな要求を満たしてくれるおもしろいものでした。ようやくこの人の全体像のちょっぴりをかい間みることができたという感じです。個への追求の徹底ぶりは、最も愛するものから、意識的に遠ざかることで、その苦しさを逆に外に向うバネとする、自己への厳しさには頭が下がります。
そう徹底できない「女」である私にとって、力づけられます。女として、現在の状況に苦痛を感じ、自己と周囲との関係の解放を願えば、増々、問題の底の深さに、ガックリときてしまう日々ですが、八木さんとの出会いは、何かを得られそうな予感がします。現在、お身体の方はいかがなのですか。心配です。私は男と女の対の関孫に特に関心がありますので、ぜひ八木さんに性に関して(広い意味で)どう思われているのか、うかがってみたいです。「罪と罰の主人公にもし性の関係があったなら」と述べられている。もう少し詳しいお話しをお聞きしたいです。
私はかなり前から共同体、コミューン、集団グループなどと個との関係に興味の中心があり、今は個人が対個人、あるいは集団との関係において、何をどう共有できるかといったことにこだわっています。(京都市 石川)
『夢の落葉を』安曇の穂高にいる叔父に送りましたところ、早速はがきが来ました。「読み終わりました、Ⅰの方は亀さや万作の話は笑い乍ら読めましたが、Ⅱになると頭が痛くなって苦しみながら読みました。昔何かの新聞の懸賞小説に応募した「八木家の没落」を書いた長篇を読みたくなりました。(全く初期の作品) 大沢家も八木家も今の木曾にどんな功績を残しているか、いまさらのように思い返します。」とありました。そのような長篇小説がどこかにありましたら次の機会に載せていただいたらと希望いたします。大沢家は絞一郎という人が政治にたづさわっている時中央線をひいたのたそうです。(春日井市 木村 旧姓 名小路)
☆この小説を御存知の方御一報を。(相)
はじめておたより差しあげます。
去年の10月から今年の2月にかけて、京都で西川祐子先生の「高群逸枝の世界」と題された講座が開かれ、その時に先生から『夢の落葉を』を招介して載きました。早速『近代の〈負〉を背負う女』も合わせて読ませていただきました。幼い時からずっとくすぶり続けていた女という性に対するこだわりが、女性解放というイメージに凝縮する機会は、私にとっては68年以未の学園闘争だったといえます。その過程でいろいろな女性解放の思想に出合いました。婦人戦線との出合いもその頃のことでした。そこで興味をひかれたのは現代にも充分通用するその問題提起の確かさと、多様さ、に対してでした。
今、著作集Ⅰ・Ⅱを読了しましてその感を新らたにしたのですが、それと同時に行間に横たわる著者の生きざまに深く感銘いたしました。
「私は日本の作家の老年をとらない」といい切られた著者の姿勢は、そのまま『近代の<負>を背負う女』として自らを自己規定されにことにつながっていると思われますが、その近代の〈負〉を背負うことのしんどさ-おそらく眩暈するようなしんどさを-敢えて選ばれ続けた著者の軌跡に私達は心強いものを感じます。
自立への闘いはいろいろなレヴェルで存在する訳ですが、その中でも、ともすれば見失いがちになり、にもかかわらず最も重要な核となる日常レヴェルでの闘いのあり様を著者から学びとらねば、と思っています。(京都市 青木)
「夢の落葉を」ありがとうございました。
一読しての感想は、清冽な印象にもかかわらず、言葉と思想が充分に練られているということでした。メルヘン風であるにもかかわらず、コトバに非常にリアリティがある。表現者としての八木さんの最良のものが出ているといっていいのではないか、と思いました。
このところ、高群のものを数多く読む機会があったので、どうしてもその「ふるさと」の描き方を比較してしまうのですが、高群に比べて謙虚で暖かくて、そのくせ冷徹な眼を感じさせる描き方に、まさに八木さんの真価が出ているように思います。キラキラした姉たちのかたわらで、ボウッとしていた末娘が、実はどんなにしたたかな眼を養っていたことか-。ただし、八木秋子の人間形成史の材料として読む限り”ふるさと”があまりに距離を置いて、暖かく描きすぎていて、そこでの八木さん自身の、恐らくはドロドロした苦闘が感じられないのが不満ですが-。(川崎市 加納)
■後記
第10号を皆さんに届けることができた。これも読者の方々、先輩諸姉諸兄のお蔭である。送付先30数部から出発したこの極小部数の発行物が十数倍の人の手に渡ろうとは、想いはあったにしても、八木さんも予想されなかったことだと思う。打てば響きあう関係が縦横に形造られ、今後も継続していければうれしい。尚11号より15号まで5号分の購読料を、同封の振替用紙を利用して振り込んで頂ければ幸いである。
◆お知らせ
・前号の阿部浪子氏の文章は、月刊信濃ジャーナル、79年2月号に掲げられた評論「八木秋子と『夢の落ち葉を』の一部転載。
・「婦人民主新聞」1979年4月27日号に『夢の落葉を』の書評が掲載された。
会計報告 (79年3月1日~5月31日)
収入
定期購読料 16500円
賛助金 11600円
支出
印刷費 31950円
発送費 15750円
雑費
(書籍代) 13600円
(交通費復写代) 12400円