あるはなく第十四号

■第14号(198051日発行)
語るままに(談)
「あるはなく」を通じての八木さんへの感想   (関屋照洋)
転生記
・ラジオドラマ 今はむかしの木曽
  きいてみること
  タア坊と姉
編集後記

語るままに(談)   八木秋子

●私は私の若い頃のことを思うと、身辺に姉のことや母親のことがチラチラ浮んでくる。そういうものを取り入れたり捨てたり、取捨選択しながら、あっちへよろよろ、こっちへよろよろ、真っすぐ来たのではない。私が不思議だなアと思ったのは、寄宿舎を退いて明日卒業するという時、卒業生は片づけて家に帰らなけりゃならないという時、私は一体この裁縫学校を卒業できるのかしらと思ってね、どっからどこまでその可能性が信じられるのかな、と思ってね、その時の感じは今でも覚えている。皆んなはスラスラといろいろやっているのにね。

 私は物事一つ一つに興味があった、その興味というのは、知的興味というのだね、そうした、ちょっとした小さな興味をもたなかったら、おそらくまるっきり現在とは違っていたと思う。その、興味で飛びつくというのは、姉が上の学校へ入りたいといって泣くのを涙を流しながら同情したりしたそういういろいろなことがね……

 しかし、こんなたどたどしい話しの中から何を引きづり出そうとしているの

★それは八木さんの今の生の声を「あるはなく」に載せたいということと、そういった断片の中でキラリと光るものを、聞く僕自身とか、読む人が感じられればよいなあと思うからですよ、例えばその「知的好奇心」というので思い出すのは去年1月退院したころ話してくれた『触発』という言葉を思い浮かべます。その時印象深かったのでメモを取ったのですがそれを読みますと八木さんはこう話してくれました。

 私はあなたに『触発』ということについて話したい、触発の『触れる』ということについてだ。

 あなたはわかっているかも知れない、知れないが私とはまだズレがあるに違いない。この頭が枯れぬうちに話しておきたい。

 リンゴの実に袋をするように、木曾の漆器の家具を私は随分磨いたものだ大事に、そっと宝物を磨くように。けれども同時に何もかも放り投げて毀したい気がした。何だかそんな気がする。

 私は何にでも好奇心を持って知識を得た、そしてその知識は直ぐ頭の中へ入るのではなく、しばらく置いて「はっ」と気づくことがある。そういった性質のものだ。

 あなたが活字にし、印刷したものを確かな形にして私の目の前に出したものをみて、私は本当に触発された、何もない所から本当によくやったと思う。知識の積み重ねではない。

★こういった八木さんの言葉、特に知識というものの取り扱い方など僕なりに、ああわかるな、と思いますよ。

●そういった興味というのが私にはこまかく恐ろしくはりめぐらかせられていてネ、ちょつとした動機であっちからつかんだり、こつちからつかんだりしてね。

★今日は八木さんに見せたい絵を持ってきました。これです。北斎のものです。この最晩年90才に書いた『雪中の虎』(講談社・日本の名画)という絵には驚きました、まるで母体からいまさっき誕生したような虎でこれを描く北斎の『命』の塊りのようなものの表現はいいですね。

 僕は一昨年八木さんと岡山へ行ったとき、岡山美術館で偶然北斎の『鵜図』を見て、その大地をささえているような、しかも虚空を見据える姿勢に感動して、それから北斎というものに興味が湧いたのですが、これをみてスーと氷解したような気がしたんですよ。

●いいねえ。北斎は長野の松代に来て、本当に凄かったそうで、一度行って見たいね。私みたいにこのように社会から隔絶した中で生きていては、あんまり安住するな。

*関屋さんのお手紙を読んで

●強いって? そうじゃない私は。私のこういう生活の中での話しを聞いたら、なんだと思うでしょうね。何から何まで関屋さんの私への像が現実の私だと肯定するわけではない。そうかといって、一時的なことであって一切がこしらえたものだともいえない。私自身の実像というのは、あらゆる要素を沢山かき集めたその上にあるので、根底も確かではないし、そこにのっかっている私が非常に強固な安定感の上にいるのではないことは自分でわかり切っている。

★それは否定すべき自分なのか、それともそれはそうなんだと肯定すべき自分なんですか、

●それはそうなんだ、という所へ行けたらいいのだけどそれがなかなか安心という所へ行けない。安心たっていろいろありますよ。私は思想で武装するっていうか、がちっと固めきるというか、そうできたらどんなにいいかと思うことがよくあった、けど同時に不満と不安でそこから脱っしたいという気がしてしまう。悟ったら終わりということは言えることだよ。わかっちゃったら終わりとね。

 私はでもね、悟りということをこの4・5日考えたよ。悟りとは何だ、どちらかというと肯定的だ。

★その悟るというのは、迷いとか不安はなくなるという……

●そんなことはない、なくなるなんてことはない。ついてまわる。ついてまわるけどそのつき方が違う。うまくいえないけど。私は自分の生きてきた道を思うと、自分は生活するという面において非常に弱い所をもっている。そして、私は今、生と死の分れ目にいると思う。このまま死に至りつくか、生に至りつくかどうにもわからない。が、それには自分というものをしっかり把握していなかったということが大きな原因だけど、それだけでなくて………。そのたまりたまった不満が私の弱さから来たのか悪さからきたのか、よく吟味して正常なところへ置いて眺めたいと思うんだ。

★その眺めるといういい方は八木さんらしくて好きなんだけど、そして僕自身のことで思うのは、うまれて以来様々な形で無意識的に影響をうけてきたもの、いままであたりまえだと思ってきたことから自由になるというか解放するというか、そこで自分の中で否定すべき部分は否定して切り捨てて身をそいでいきたいなということなんですが。

 僕も高群と八木さんという対比よりも関屋さんのおっしゃる吉野せいや八木さんという言い方の方をとりますね。

●吉野せいのものまた読みたいな、清瀬にいる時あんたが持ってきてくれたね。食糧を自給するっていうことは大変なことだな、男性が食糧を手に入れるための労苦から解放されることによっての生き方、そういったもので女性はうんと解放される。それは本当にもう。…何ともいえない。(80・3・13、文責相京)

★吉野せい『洟をたらした神』には、八木さんらの「農青社運動」の検挙の発端となった無共党事件全国一斉検束(昭10・11・23)で、夫の農民詩人三野混沌が平特高課に連行される話しが書かれている。著書に『暮鳥と混沌』『道』(いずれも弥生書房刊)がある。

■ 『あるはなく』を通じての八木さんへの感想 (一読者・関屋照洋)

 強い人だな、と感じます。御性格も「強気」の性格だな、と思えます。どの文章を拝見しても、日記までも、御自分の弱さについては文章化なさらない人だな、と読み受けられます。これは意識して自分の弱点を隠そうとなさっているのではなく、その必要性を認めておられないから自然にそうなっているのだと思えます。(これは「転生記」が発表を予定されているせいか、とも思えますが、おそらく、発表を前提とされない日記であっても同じではないか、という感じがします。)

 こういうことを申すのは、とても不謹慎なことなのかもしれませんが、強靱なる八木さんのことですので敢えておうかがいしたいのは、八木さんの思想(「生きる」思想)の中に「死」がどのように組み込まれているのか、という点です。いくつかの文章の行間からそのことはいくらかは読みとることができるのですが、疑ぐり深い私は「本当かな-こんなにさっぱりしたものなのかなー恐怖とか、諦観とか、神仏への帰依とか、そんな類いのものとは一切無縁なのかな―」などと考えてみたりもします。八木さんは、人間キリストが好きだと仰言る、聖書の中では「死者は死者をして葬らしめよ」の句などが好きだ、などと若い青年の如きことを仰言る。お若い時にそうであったと同様に現在もそうであることに私は吃驚りしております。

 なお、八木さんは高群と対比されて論ぜられておりますが、私は、先年亡くなった吉野せいさん(「洟をたらした神」他の著者、若い時にクロポトキン「麺麭の略取」を読み新しい眼をひらかれたという)と較べてみて、思想を生きる、いや「生きる思想」を貫いてきた女性達の多様性と同一性にめをみはっております。吉野さんが串田孫一氏や草野心平氏の尽力によって広く世に紹介された如く、また八木さんが相京氏を通じて再び私達の前に現われて下さった如くに、私達の前の時代を生き現在に繋げて下さっている沢山の「吉野せい」「八木秋子」を巷に、路地裏に、田野に見い出し、学んでいかなければならないのだと思います。「八木秋子」は屹立しているかもしれない、はるかに高い存在かもしれない、しかし、やはり後に続く世代は、それを踏み台にする位でなければ……とは思うのです。私も亦、八木さんと同じように、厳しい自己追求と決断・実践の姿勢のもとに、自信をもって「死者は死者をして葬らしめ、汝は行きて……」と自分自身に呼びかけれるようでありたいと希っております。(79・10・23)

アンケート回答付言

-13号掲載1965年2月27日付ノートを読んで―

八木さんは65年2月27日付ノートで云う、「私の場合、死とは子供を捨てたそのこと」を意味する、と。文言通りにこの言葉をうけてみよう。八木秋子は、この時或る種の自殺をしたのだ(1号末尾、及び3号西川さん稿参照)。とすれば、八木さんの「死」以降の「生」は何であったのか。それは「死」=「子捨て」を徹底的に再否定することではなかったか。

 しかし、此処での私の解釈は、「死」なる言葉を日常的な用法で理解したが故の結論である。

 ところが、八木さんはこのノートでは「死」を、人生の終着点という意味での瞬間の「点」(方向も大きさも有しない「点」)としては把えていない。全く逆に、「新たに出発」する方向と大きさをもった「ヴェクトル」として把えている。だから、このノートでは「死」は「本当の否定」として「革命」と共に、いや、それに接続していくヴェクトルとして、生涯を懸けた最高の肯定の対象として位置付けられている。八木秋子は「死」を「経験し、生き、しかも長い生涯を(懸けて-引用者補足)実践しつづけてきた人間なのである。」

 従って、先に引用した言葉は、「私の場合、死とは子供を捨てたそのことからの出発と歩み」を意味する、と解釈されねばならない。

 この「死」の概念の驚異的な逆転は、どこからくるのであろうか、どうして逆転が可能であったのであろうか。そのことを考察することは、今の私の能力を超え、またアンケート回答への附言の限界をはみ出す。

 ただ、そのヒントを私は3号掲載の66年6月15日付ノート及び1号のインタビュー末尾に垣間見る思いがする。

 「鈴木大拙」、「眼に見える現実しか信じ得ない人間(ではないこと)」、「深い神の信仰」、「革命の精神」、「よけい者、無為の人間」、そして最後に「復活」。

 聖パウロの言葉にこういうのがあった(コリント前15・31)。

 「汝等につき我が有てる誇りによりて誓ひて言ふ、我は日々に死す(現代語訳『毎日が死の連続です』)、と。」

 今、私は八木さんに対し相京さんの顰みに倣って「近代の<負>を(十字架として)背負う基督者」と名付けてみたい衝動にかられる。(6号で大島英三郎さんが「女性良寛」「生きぼとけ」と仰言っているが、その意味が今わかった。)

 なに、「カエサルの物はカエサルに」と云う代りに「カエサルの物は何もないのだ」と叫んできたとしても、それは立派な基督者だ。

 何、「自分を捨てきれない」って?(1号末尾参照)それが人間たる所以じゃあないですか。親鷺は歎異抄(第9章)でそう言っているのではないですか。

 私は13号を読み、八木さんが肉体の終局点としての「死」について、かなりさっぱりしておられることの理由が少しわかったような気になっている。(80・4・1)

★この文章は、先きに編集人の独断でお送りした『アンケート風なもの』に寄せられたものです。文字通りの通信でなく『交通』を願うのは網状の人間関係こそ全ての力の活力源となり得るという思いからです。その結果が少なくとも、前号からの『談・八木秋子』という形で八木さんの力になっていることもあえてお知らせいたします。掲載にあたり、編集人の無理な要望に応えて頂いた関屋氏に紙面を通じて重ねて感謝いたします。(相)

■転生記

■ラジオドラマ 今はむかしの木曽

*これは「夢の落葉を」の原型であったラジオドラマのうち書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。

きいてみること

語り手 マキは学校から帰ってきましたが何となく浮かぬかおをしていて

マキ おばさん、きょう学校でおら妙なことさきいたよ、とよさたちが話しとったもん。

伯母 どんなこと? 妙なことって

マキ うん、なんだか、おれにはわからんけれどな

語り手 伯母の美枝子がきいてもマキのロは重く、だまっておやつを食べているのです。美枝子は裁縫の手を休めずつぎにくる言葉を待っていますと

マキ おばさん、女の子はおら位になると、何か体にかわったことが初まるって、それ本当?

語り手 マキの眼には不安のかげがうかんでいます。ああもうこの子も高等一年生だ、そういう年ごろになったのだ、と美枝子はいまさらのようにおどろいた気持でマキの顔をながめ、そういうことについてもマキに話してきかせるべきであったと、胸をうたれるような気がして

美枝子 誰かそんな話をしていたの?

マキ うん、きよう休みの時間にね、豊さがいいだしたんだよ、おらびっくりした。ほんとにそんなことになるのかしらん

美枝子 ほんとうだよ、女の子はそうなるのよ、いつかはおまえに話すべきだったが、女のひとは誰でもそういう時期が来る

マキ 豊さがそう話したもんでおらたちは4人ともびっくりした。豊さは言ったよ、そういうふうになったとき、……女になるって

語り手 美枝子はいま改めてこの父も母もないマキを、ほんとうにあわれに思われたのです、じぶんがマキの当然くるべき生理の変化について思いおよばなかったのは、じぶんがマキの母でないからではないだろうかと。

美枝子 そういうことはね、ほんとうは、お母さんかお姉さんか、おまえならこのわたしが話してきかせるのだよ、誰よりも気らくに話せるし、ほんとうのことがいえるでしよう

マキ そうじゃないよ、おばさん、ちがうよ、みんなはね、お母さんにきくのはいやだって。どうしてもいやだって

美枝子 おかしいね、なぜだろう、お母さんにきくのがいやで、誰にいったいきこうというの

マキ おらたち相談したんだよ、4人で先生のところえ聞きにいこうって

美枝子 先生?どの先生だい

マキ 轟先生!

美枝子 えッ、とどろき、せんせいー

マキ そうだよ、だって、あの先生ならきまりがわるくないもの、わかるように話してくれるもの

語り手 美枝子はそのときの場面を眼に描いてみました。轟先生はあかい顔をして

―そういうことはわからん―という。その困った表情をみつめる子供たちの瞳がうかんでくるのでした。

音楽

語り手 雪の夜は静かにふけていきます。コタツに向きあって美枝子はこのとし下の友達の涙にぬれた蒼白く透明な顔をながめました。なんという慰めの言葉もない気がして

美枝子 ひとこと、あなたがわたしにうちあけて下さればよかったのよ、そしたらあなたの気持も、いくらかほぐれたかもしれない

友達 ……ええ、わたしも、よっぽど。……。でもどうしても、その勇気がなかったの

語り手 この友達は短歌をよくする人で、歌の会で轟先生を知ってから親しくなりました、今夜も轟先生の下宿を訪ねてのかえりに友達は寄ったのです、胸を病んでいまも家で静かに暮している、それは美しい、やさしい心のもちぬしで

友達 おどろいたらしかったの、轟先生は。なにもかも、わたしのおそれていたことがそのままはねかえってきて……ほんとうにはずかしいおもいにうちのめされたのよ、もうこれでおしまい。……わたしは轟先生をうしない、そして歌の友達を失ってしまった。ああいう愚かな告白を轟先生にして、自分の愚かさのためにわたしは滅びるのよ

語り手 美枝子はこの友達の悲しみを哀れに思いながら、轟先生の異性に求めるものはどういうものかしらと考えたのです。

(了)

■ラジオドラマ 今はむかしの木曽

※これは「夢の落葉を」の原型であったラジオドラマのうち書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。

タア坊と姉

西は御岳とつこつ萬●(ばんじん)

ひがしに駒ケ嶺せんしう巍峨と

そびゆるそのまを木曾川ながれ

清流白雪たいする中に

勇気りんりん虎さえひしぐ

旭将軍義仲公の

生まれし昔をおもはばいざや

彼らにまけるなここらの子供

敏江 あれ、またおれの鉛筆折った……おや、ナイフもない、ようしタア坊のしわざだな、待ってろ、どうしてくれるか、……タア坊、タア坊ッ

タア坊 (手をたたき)ねえチャンのあたまにトンビリスがとまった、それとりや坊主、ねえチャンのあたまにトンビリスが、……わあいわあい、ここまでおいで

音楽

タア坊 なあおばさん、天皇陛下とうちのおぢいさんとけんかしたら、どっちが勝つ?

叔母 さあ、どうかな、やっぱり天皇陛下ずらね

タア坊 そうかア、じゃ天狗と天皇陛下とけんかしたら?

叔母 やっぱり天皇陛下だね

タア坊 いやにつよいんだな、とってもつよいんだな、なアねえちゃん、天皇陛下ってどれくらい背が高い?

敏江 そりゃア、天から下まであるさ

タア坊 え? 天から下までエ、びっくりしやうな、おらア、天から下まで。そいじゃ停車場からうちまでくらい?

敏江 もっとあるずらよ、馬鹿だねおまえ

語り手 タア坊は感にたえないような顔で空を見上げていましたが

タア坊 そいじゃ困るなア、どうするだ

敏江 困るって、何がこまるんだよ

タア坊 だって、そんなに背が高かったら、晩になって寝るとき困っちゃうじゃないか、フトンから足がうんと出て寝られんもん。どうすれアいいだ

敏江 心配するなって、そんなこと。誰かえらい人にまかせときなよ……あ、そうだ

語り手 姉の敏江はなにか思いついたようすで走ってゆき、押入れの箱のなかをごそごそやって一枚の写真をもってくると

敏江 タア坊、ほら、これが天皇陛下、この人だよ。よく見てごらん

タア坊 えッ、これが、この人が……うそだッ

音楽

語り手 タア坊たち姉弟はお父うさんもお母さんもありません、今はおばさんと姉弟の三人ぎり、おばさんが働いて生活をたてています。もう木曾えは汽車も通るようになって、木曾では初めての幼稚園が出釆るとタア坊もさっそくはいることになって。何しろうちのなかに怖いひとが一人もいないので

叔母 まあ先生、うちの忠雄はいつもお世話ばかり焼かせまして、なにしろあのとおりわんぱくなもんですから

先生 まったく元気ですね、元気がよすぎて。忠雄ちゃんでだいぶ小さい子が泣かされるん、ですよ、とっても明るくて素直なんですけどね

叔母 素直ならいいんですけど、きかなくて

先生 雪をまるめて遊戯室えなげこんだり、雪のなかですもうをとったり、はははは。

語り手 初めての幼稚園の遠足で、タア坊も大元気で出かけました。男の子も女の子も袴をはいて、ゆわえぞうりで、木曾街道を歩いてゆく、その姿をおばさんは郵便局の窓から見おくっていました。夕方うちえ帰ると

叔母 どうだった、タア坊、きようの遠足、おもしろかった?

タア坊 …………

叔母 どうしたの、へんな顔して。え?

タア坊 …………

叔母 どうしたの、面白くなかった? え?

タア坊 だって、みんな、お菓子だの、みかんだの、いろんなもの持ってって

叔母 まあ、まあ、それで……可哀そうに。おばさん、先生のお手紙をそっくり本当に思いこんでしまって。おにぎりの外には何も持たせないで下さいって。……ごめんよね

タア坊 それでおら、ハンケチ山えおいてきた

語り手 おばさんはタア坊を抱きしめました

(了)

■編集後記

 切実さから発する言葉は私<達>に響く。それが公に発行を継続する中で獲得できる唯一のものだといっても言いすぎではない。次号は八木さんの「解放劇場」の頃に触れる。

会計報告(80年2月1日~80年4月30日)

収入

定期購読料   16600円

賛助金      5000円 

支出

印刷費     31350円

発送費     10550円

雑費       3060円

●訂正

①前号の『往還抄』の年月日は1965年2月27日の誤り。②小野小町の歌は『あるはなく、なきは数添ふ世の中に あはれいずれの日まで歎かむ』(1号)③第6号4頁中段5行目「上からの解放」は「飢えからの解放」の誤り。

●お願い

①満鉄新京支社留守宅相談所(1938年以降)の活動内容について②戦後の母子寮(特に赤羽澄水園)の概要について御教示頂ければ幸いです。(相京)