■第15号(1980年7月20日発行)
・解放劇場のころ(談)
解放劇場の花形として進出する八木秋子さん
・解放劇場八木女史のことなど (別所孝三)
・転生記
・ラジオドラマ 今はむかしの木曽
タア坊の出発
北海道とは
わかれ
・編集後記
※第15号と一緒に送ったもの
読者の方へ 1980.8.8
※第15号を発行のあと、次の休刊号を出すまでの間に連絡的に送ったもの。
読者の皆さんへ
1981.5.11 著作集Ⅲ『異境への往還から』を発行して
1982.1.30 「1981年をおくって」の報告
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■解放劇場のころ(談) 八木秋子
私の出演した『ボストン』は大盛況だったよ。今でもその時のことを思い出すのは楽しい。あの湧きたつような当時の雰囲気を、よくぞあの築地小劇場という小さな芝居小屋でやったものだ。
私の役はコルネリヤという前マサチューセッツ州知事夫人役だった。フケ役に適任のものがいないというのでかつぎ出されたのだけど、その役が合っていたかも知れないな。何をするにも私はセリフを覚えるのに夢中だった、その熱心さは尋常ではなかったと思う。宮崎らはそれをみていて馬鹿にしていた。宮崎らは、私が一切を忘れてそれに没頭していたことを知っていただろうかと思った。どうしてそういう私を認めてくれなかったのだろうかってね。
私は一っぺんでも芝居をやったことは後悔していない。芝居の魅力というのはね、出演者は勿論のこと、観客も含めて全員が集中するという点にあると思う、一挙一動に。しかも、アナキストがアナキストを題材にしたのだからなおさらだ。やっていて、二度とこれほど自己を没入することはないんじゃないかなという気がするほど他の出演者たちの迫力に押された。最初はどうなるかと思っていたけど、大入り満員だった。公演後、有島の長男がきて批評したのよ、素人の芝居としても、こんな個性のある、迫力のある芝居は初めてだってね。
★「ボストン」の他に芝居をした記憶ありますか。
いやそれだけだったと思う。しかし、アナキズムの運動というのは、誰がというのではなくて誰もかれも非常に感情的になるんだ、それですぐこわれてしまう。しかし、あんたらがやる映画会にしても次から次へとよく出てくるねえ、私はそれは不思議なことだと思う。これは時の流れという……、あんまり買いかぶってもいけないし、そうかといって……。
しかし、私は古いことの記憶というのは割合悪くないと思うけど、解放劇場の頃のこととなると全く、その劇のことしか覚えていない、どうしてかな?
★夢中だったからじゃないですか、
そうだね、とにかく全くの素人がやったんだから、6カ月近くずっと練習してた。それはあの松井須磨子の自殺した場所だ、神楽坂を上っていったね。
そして、舞台にたったそのことで私が一番印象が深いのは、サッコとバンゼッチがいよいよ処刑されるにおよんで、私のコルネリヤが最後の面会に行ってすすり泣きする場面になった、そして本当に泣いちゃったんだね、すると観客席にあの山崎真道が酔っぱらってきていて「なんだ、八木秋子! そんなところでめそめそするなあ、八木秋子らしくないぞぉ」とおこってね。でも、それがかえってアジになってよかったよ。そしてね、「早くサッコ、バンゼッチ出てこいっ」って声がかかったら、牢獄に入っていたバンゼッチがとび出すというような幕切れだったのよ。
黒連(黒色青年連盟)の人たちが来たのはたとえば雨が降った寒い日とかに雨宿りがてらにくるという感じだった。後の、農青を始めてからの黒連との対立はまだその頃はなかった。いずれにしても、みんな貧しいにしても本当に真底よかった、真面目だった。
★八木さんが「ボストン」に出演したのは2月7・8日で、一週間もしないで「農村青年社」の結成。15日には岩佐作太郎らと長野県の伊那の伊沢さんらの招きで講演に出かけるというようにとにかく燃えていたんですね。
そうだね、よくやったもんだ。
★すると、もう「ボストン」の後は農青の運動にかかりっきりになったんですか、それとも演劇の方とのつながりはあったのですか?
多少あったと思うな、きっぱりということはなかったと思うな。四谷の、「ホップラ」というのも劇団の桜井という人の世話だったしね。別所さんもそうらしいけど随分アナキストがやってきたもんだ。「ここが八木秋子の店か!」って言って入ってくるんだよ。
私はね、劇以外でも随分いろいろなことをやらされた、例えば羽織がないというので雪の中を借りに行ったり、吉屋信子の所に行ったり、物集めよ、私なんて。
何しろ、大きい大きい、脚本もあれほど大きかったら大したものだ。私は本を読んでびっくりしちゃった。これだけのものをどうやってまとめるのだろうかと思った。以前に築地のマルクス主義系の指導ぶりをみて知っていたから飯田豊二の演出には驚いた。彼の功績といったものはとても大きい。皆のいうことを聞くような顔をしていて聞かないのよ。それでもって問題を沢山そこへ積んでおいて、何ごともないような顔をして問題を一つ一つ解決していった。あのやり方は面白い。ああいうやり方で運動をしていったらきっと何かできるだろうと思う。(80・6・3)
※解放劇場第1回公演の『ボストン』は1931年2月7日、8日の両日築地小劇場にて行なわれた。その題名は、イタリア移民のニコラ・サッコとバルトロメーオ・バンゼッチが住んでいた都市に因ったもの。原作はアプトン・シンクレアで、演出・脚色は飯田豊二があたった。
1927年8月23日、アナキストであつた貧しいくつ屋と魚の行商人サッコとバンセッチは強盗殺人事件で処刑された。最初から二人は無実を訴え、また真犯人がその事件を自供したにもかかわらず、マサチューセッツ州当局は権力者に反逆するものへの見せしめとして裁判のやり直しを拒否した。それに抗議する行動は全世界中で湧きあがり、日本においても反権力、絶対自由思想を信条とするアナーキストによって果敢に斗われた。
***
その50年後の1977年7月19日、州知事は之の冤罪事件の記念式典を開いて<無罪宣告>をすると共に「サッコ・バンゼッチ追憶記念日」を宣言した。
今春来日した中国作家代表団の団長、巴金はその記念講演の中で触れている。
『1927年の春、カルチェラタンのわびしいアパートにさびしく暮していたころ、…中略……サッコ、バンゼヅチの救援運動がくりひろげられていた。私はバンゼヅチの自伝の一節に胸打たれた。
「私はすべての家庭が住む家を持ち、すべての人がパンを持ち、すべての魂が教育をうけ、すべての人間が自分の才知を十分に伸ばす機会をもつよう望んでいる」
私はアメリカの監獄のバンゼッチに手紙を書いた。ついにきた返事には「青年は人類の希望だ」と書いてあった。彼は数ヶ月後処刑されたが、50年後冤罪が晴らされた。私は処女作の前書きで彼を師と呼んでいる。』(朝日新聞・80年4月7日号)
そして、この事件を扱った映画として『死刑台のメロディ』はよく知られている。
***
解放劇場については、秋山清氏著の『アナキズム文学史」(筑摩書房)の『解放座と解放劇場』が詳しい。そして、昨年夏おたずねして氏の解放劇場に関する貴重な資料をお借りすることができ、今号に左頁の『万朝報』の記事としてのせることができた。氏の所蔵する資料の他に、報道として社会運動通信、自由連合新聞、黒色戦線などに写真や意見が掲載されている。
今号に通信を寄せていただいた別所孝三氏は、八木さんとは時期的に若干のズレがあるが解放劇場に関わり、後に農村青年社運動でも検挙された一人で、「われらの内なる反国家」(太平出版社刊・内村剛介他編)に「開拓農民の闘い」という手記を寄せられている。
(相京)
◎解放劇場の花形として進出する八木秋子さん
女人芸術の同人として、鋭筆を振ってゐた『八木秋子』氏は、彼女がものした『曇り日の感想』が、はしなくも理論斗争の契機となり、遂に同人を脱退し、高群逸枝氏の婦人戦線に依りアナキズムの立場から、大いに気を吐いてゐたが、婦人戦線内の分子にも、それぞれ相容れない思想的相違から昨年3月脱退し鳴かず飛ばずであったが、こんど築地小劇場で上演する『ボストン』で大いに進出すべく意気込んでゐる解放劇場へ加はり、舞台から大衆へ呼びかけることになった。
解放劇場は、之まで、ミルボーの「悪指導者」、「法の外」等を物して、プロ演劇に貢献して来たが、今度上演する「ボストン」はアナキストなるが故に無実の罪で電気死刑になつたサッコ・ヴンゼッチ事件を暴露した劇で、八木さんは女主人公コルネリヤになり5幕22場の随所に出て活動することになった。
◇
同劇団の女優さん達は、昼は働き、夜は芝居の稽古と云ふ勉強ぶりである、牛込の稽古場に八木を訪ねると「お芝居なんて私にとっては全然白紙ですが、こんど頼まれて出る訳なんです、この「ボストン」と云ふ芝居では、今までのプロ演劇に見る、アジプロ一点張りでなく、本当に劇場外にあっても、常に闘志を炎やす様なお芝居です。相変らず、重要な所をカットされて残念ですが、皆さんの真剣な態度には感心してしまひました。
◇
女優さんでは他に園川玲子、葉山暁子、高見沢富士子さん(秋山氏<水伎美絵>と訂正…註)などが居るが、その気焔あたるべからざるものがある(写真は八木秋子女史)
■解放劇場 八木女史のことなど 別所孝三
あなたの最近のお便りの中にあった「八木さんとは解放劇場の頃からのお知り合い」との言葉に、つい釣り込まれたとでも云うか、じゃあ、あの頃のことを思い出して並べてみるかとなった訳だが、不確かなことについては言ったり書いたりすることは望しいことではないので差し控えていたわけだ。ただ五十年近くの昔のことだから、事実に間違いや誤解があっても、それは時間的には既に解決済、おゆるしを願って置く。
八木さんが出演したという築地小劇場(昭6・2・7~8)の両日の公演当時、僕は江戸橋の袂にあった日本橋郵便局に腰掛けで勤めていて、ここに労働組合を作るべく働き、啓蒙運動の一手段として
一、座談会の随時開催
二、演劇観賞会
をつくり、東電の佐野甚造君(生活思想)との附き合いもあったので、彼の世話で、岩佐老人を招いたりした。また演劇観賞については、左翼劇場や新築地劇団のものを観ることにして、築地小劇場には随分通ったものだ。組合結成の問題は、京橋署の知るところとなり、或る日、一斉検挙にあい主たる仲間の4・5人は幾日か拘留され、私は難を逃れたが、この事件の責任をとって勤めはやめた。
※佐野甚造:1930年(昭5)2・8 本所公会堂にて演説し、八木と共に検束(著作集Ⅰ 留置場点描 参照)
僕と「解放劇場」とのつながりは「東京ガス人夫応援」(昭・6・6・21麻布十番倶楽部)から、「荏原演舞場」での移動公演であったと思う。今あなたから送られた資料を見て、観客席の様子が僕の目にはうっすらと浮んで見える。そして「解放劇場」の第2回公演(昭7・3・29~30)には確かに参加した。それは『悪指導者』という劇の一労働者として、一段高いところから、スト労働者のかたまりに向って盛んにアジ演説をぶつ闘士の役だった。もともと声が悪く、響かない。会場へ声が通らないのを気にしていた僕は、更に本格的な舞台のことでもあり、胸の動悸はなかなかおさまらず、声がうわずったのと、あの時の情景を思い出すたび、あとあとまでも恥かしかったものだ。その稽古は一ヵ月位は続けられ、場所は団子坂の近くの牛込クラブを借り受け、稽古はその二階で大体は午後からが多かったと思う。
その『悪指導者』は日比谷公園近くの飛行館でやったのだが、詩人の秋山清さん(当時は局清といった)はほとんど毎日クラブに詰めていたように思われる。たまたま僕が早めに出掛けて行った時、秋山さんとクラブの娘さんとが話し込んでいるのに出逢った。しかしそれは単なる話し合ってるものではなく、何となくそこにほのぼのとした雰囲気がただよっていた。数年前、病院の待合室で、たまたま手にした週刊誌かグラフのなかに、秋山さん御一家の写真を発見して、ああ、やっぱりお目出度う、あの時の娘さんは秋山さんの奥さんになっていたのである。
それはともかくとして、こんなことがあった。開演が間近かに迫ったある日のこと、黒連の一隊が、ドヤドヤと稽古場に現われた。それは押し掛けてきたという感じであった。劇団の主だった人々と話し合いがはじまった。稽古は休憩。
僕と八木さんとのつきあいはどうも明確でない。僕が「解放劇場」に参加したのは『ボストン』以後であったことは間違いない。そして、芝居を通じての八木さんの記憶がないということは、八木さんがかかわっていた時と僕が団員として参加したのと時間的にズレがあるからだろう。
しかし、それでも僕の脳裏に残っている八木さんの印象としては、通常の会話のなかでも、ごまかしのない言葉でテキパキと簡潔に物を云う人だな、ということ、従って、僕はおねえさんとかおばさんといった感じは受けたことがなく、やっぱり女史、八木女史というのが相応しかった。それだけに近寄り難かった。もっとも、僕は22才の若造であったし、女史は既にアナキストとして、新進気鋭の女流評論家と評価されていたのだから、この距離は止むを得まい。
「ボストン」開演後からこれまで、八木さんにお目に掛かったのは2度位と思う。一度は四谷あたりの喫茶店だった、いわゆる地下にもぐった仮の身のマダム稼業としての八木さんにである。二度目は下目黒の事務所を捨ててから、新しい農青社のアジトでの会議に於いてである。隣の部屋から女の声で誰かを呼んでいる。そして誰れかが部屋を出ていった、その声は八木さんだな、と思った時である。
戦後も35年になる。秋子女史も新京にいた。八木渡も新京にいた。僕は西北地区の奥地から招集で、20年7月に奉天の部隊へ入隊した。しかし、ソ連さんからのシベリヤへの招待はお断りして、仲間と共に秘かに部隊を離脱した。だから兵隊としての生活は20日間位であった。お互いに連絡がとれていたら、あの混乱期に力になり得て格別に旧交を温めることが出来たと思うのに-。昨年『近代の<負>を背負う女』が出版されて、はじめて八木さんの無事を知って喜び、<負>を背負う女の強さをしみじみと感じたのである。<茨城>
■転生記
■ラジオドラマ 今はむかしの木曽
これは『夢の落葉を』の原型であったラジオドラマのうち、書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。
タア坊の出発
語り手 タア坊は北海道のおじさんの家えひきとられることになり、小学一年がおわるとおばさんが連れて木曾をたつことになりました。学校の轟先生と熱田先生がうちえお別れにやってきて
轟 どうだ、タア坊、北海道え行ってケンカするか
タア坊 北海道のこどもはつよい?先生
轟 つよいさあ、みんなつよい
タア坊 なに負かしてやるから。片っぱしからおれ。ねえ先生、北海道って遠い?
轟 遠いぞう、天から下まで。もっと遠い
熱田 なあタア坊、北海道ってとこわな、ここから汽車で、ううんと行って、それから海だ
タア坊 海イ、わア、海って
熱田 ひろいぞう、そこを船でゆくんだ
タア坊 軍艦だね、おら知っとる
熱田 軍艦じゃない、汽船だ、軍艦は兵隊さんがのるもんだ、いいか。汽船から上ってまた汽車でいやになるくらい駆るんだぞ、おまえ泣きだすなよ
タア坊 泣くもんか、面白いなア
語り手 そばでおばさんが行李えタア坊のものをつめていましたが、気がついて、タア坊がいつも廻しながら駆ってあそぶ針金の輪まわしを手にとると
叔母 タア坊、この輪まわしどうする、置いていく?それとも
タア坊 それ行李えいれちゃだめ、出して
叔母 そう、ぢゃおいていくんだね、あっちえいけば遊ぶものはどっさりあるから
タア坊 ううん違うよ、そいつをおれ、道みちまわしていくんだよ、汽車の中でも、船の中でも
轟 やれやれ。おまえ海へおっこちるなよ
熱田 タア坊、いい人間になれよ
タア坊 うん、おら先生になる
熱田 そうか、それもよかろう
タア坊 先生になつて、おら熱田先生も轟先生も負かしてやる、スモゥとって、みんな負かしてやるんだ
熱田 おまえ、遠いところへ行くんだぞ
轟 手紙をよこすか、タア坊
タア坊 手紙かア、手紙なんて、困るなア、あそうだ、北海道のおじさん魚屋だから、おらさかなを先生に送ってくれる、いわしでも、くじらでも、どっさりな
(汽車の轟音、汽笛)
語り手 タア坊とおばさんは東京えついて、一晩泊ることになりますと
叔母 もう寝なさい、朝早いんだから
タア坊 いやだい、早くいこう、早くいかんと汽車が出ちまうぞ、おくれっちまうぞ。よう、早く北海道の汽車にのろう、よう
語り手 (汽車の音)東京をたって、やがて利根川の鉄橋にさしかかると
叔母 ごらん、タア坊、これ利根川
タア坊 あッ、海だ、海だ、ひろいなア
叔母 海じゃないよ、利根川って川よ
タア坊 嘘、おばさんの嘘つき
叔母 どうだい、これは鉄橋って橋だよ、川にかかった橋、長い橋じゃないか
タア坊 ほんとかア、これが川……じゃア海って、もっと、もっともっと広い?
(汽車の轟音つづく)
語り手 行けども行けども、窓のそとは同じような景色ばかり、北海道はどこの空にあるのでしょう。タア坊は退屈して海はまだかと窓をのぞきます、駅につくと必ずお弁当を買えとせがんで。そのくせほんのちょっぴり箸をつけるだけ。そして、駅えつくと、するりとぬけだしてそとへ出るのです、とつぜん、窓ぎわのタア坊と背中あわせの男の人が、あつッ、あつッ、あいたたたととびあがって
男の客 ひどいよ、ああ、ピリピリする……いきなり首から背中が。これア何だろう
語り手 買いたての熱いお茶の土瓶を、しらないまにタア坊が頭の上の外套かけにぶらさげたのが、細い針金が外れて、その人の首から背中へぱッとかかって
叔母、まあどうしましょう、ほんとうに……
■北海道とは
語り手 夜あけがきて、しっとりとうす白くおりた靄のあいだから海が見えました。少しつつ靄の晴れるにつれて、海がひろがってやがて朝日が水平線のかなたから現れるのでしょう、空のむこうが真赤に染まり……と見るまに、それはもうびっくりするほど大きな太陽がのぞいて
叔母 タア坊、タア坊、眼をさまして
タア坊 う、うん……なアに
叔母 むこうをごらん、ほら、むこうを
タア坊 あ、あッ、海だ、海……おばさん、あれお陽さまかあ、ばけもの、お陽さま……大きいな、大きいなあ、まるで……真っ赤なやつが、見て。あんなに出てきたぞウ
語り手 太陽は見るみる姿を大きく全容を現わしました。空は赤や紫や黄のいろに染まってひろがり、海は太陽をきんいろに映してきらきら。それから空のいろの美しい変化をうつしてこの上もない華かな絵巻物です、物もいえず誰もがこの壮麗な自然の姿に見とれてしまい……そのうちに、島がポッカリ海のなかに現われました。こぢんまりと上えこねあげたような妙な形の島が
タア坊 あれ何、おばさん
叔母 島よ、島っていうの
タア坊 あア、あれ鬼ヶ島、鬼が島なんだね、桃太郎の……。船こいで行こう。いこう
叔母 だめ、犬も猿も来ないじゃないか、キジだって
タア坊 そうかア、寝坊すけだな、あいつら
語り手 青森で永い汽車の旅から解き放たれたときには、さすがにタァ坊もぐったりして、だまって船に乗りました。甲板に立って海を眺めたけれど、ただもう一面に水の世界で、眼にうつるのは水と空、一すじのとおい水平線ばかり。あまりに大きくひろがっていて、タア坊にはどう考えて見ようもない新しい世界がひらけたのでした。(汽罐の音、汽笛)
叔母 タァ坊、ほら、むこうに何か見えてきたね、ずうッと長い島のようなもの。あれが北海道だよ、おまえ、いよいよ北海道だよ
タア坊 あれが、あれが北海道……ふん、あんなものが北海道かア
(汽笛、雑踏、はこだてえ〉
音楽
語り手 北海道の土え降りたったかと思うひまもないあわただしさ、人々は埠頭の桟橋に待ちうけている汽車にのるため我れがちに急ぎました。(発車)またしても長い汽車の旅、窓の外にうつし出されるのは白い雪で、灯りに光っては消え、消えてはあとえあとえと飛び去ってゆきます。寒いこと
叔母 さあ少し眠りなさい、まだまだこれから長いんだから
タア坊 ねえおばさん、北海道へ早くいこうよ、よう、いつ行くんだい
叔母 まあ、この子は。ここが北海道じゃないか、いまおまえは北海道を駆っているのだよ、お馬鹿さんね
タア坊 嘘だい、こんなとこ北海道じゃないそ、もっともっと、立派で、そしてきれいで、竜宮みたい、そういうところだい
叔母 ようくお聞き、竜宮というのは、童話にある、おはなしの国なのよ、乙姫様のいる美しいお宮なんてものは、それはおはなしの、夢のくにのこと、わたしたちもそういう美しいところえ行きたいんだけれどね
タア坊 ううん、そういうところはちゃんとあるんだよ、おばさん。それが北海道じゃないか…おら、ねむたくなった
(列車進行、汽笛、群集の声)
語り手 夜あけの寒さが身にしみる頃、何となく生ぐさいような魚のにおいがしました。窓から戸外をみると、海岸の砂の上は山のような鰊が……銀のうろこを光らせて……。おとなも子供も集まってシャベルで鰊をトラックに運ぶ人、カマスに詰める人、箱にいれて車に積む人、走っている人で大変な賑い。銀いろ一色に塗られた活動がくりひろげられて。はじめて見る生の鰊、タア坊はびっくりしました。
音楽
■わかれ
語り手 石狩平野は果しもなくひろがって冬の名ごりの裸の景色がつづいています。狩勝の峠はふかい霧にとざされて、まっ白な視界のなかをピーピーと絶えまのない汽笛が鳴って……。池田という駅でふたりはのりかえました。どこまで行っても同じような畑や山ばかり。やがて小さい駅につきました。ホームにはおじさんの笑顔が待っていて
叔父 よう、来たかタア坊。大きくなったな
叔母 おじぎしないの、おじさんよ。タア坊、やっとおまえの北海道え来たんだよ
叔父 ごくろうごくろう。どれ、その荷物を
語り手 おじさんは黒い毛糸の帽子に襟まき、ジャンパーの肩に荷物の信玄袋をかついで、長靴をぼこぼこ先きに立って歩きます。軒の低い家のつづいている町の中におじさんの店はありました。うす赤い鯛を画いた看板があり、空箱が店先につんであって、魚や乾物のるいがさむざむと並べてある店でした
叔父 おいタア坊が来たぞ
妻 おやいらっしゃい、大変だったでしょう。長い旅で。さあさあ
語り手 おじさんのお神さんは赤ちゃんをおぶったままお刺身をつくっていると、そぱのストーヴに小僧さんが長靴の足をひろげてあたっているところ、そこえ中から小さい男の子と女の子がどびだしてきて、不思議そうに
子供 おかあちゃん、あれどこのおばちゃん? どこのにいちゃん
妻 藤一、さあこのお刺身三河屋え届けて。ついでに橋本えまはって昨夜のお皿もっといで、いいかい5枚だよ
語り手 小僧さんは自転車で出かけました。おばさんは店の土間に立ってタァ坊の肩を抱えながら眺めていました。おじさんの家は歩くとぎしぎし音がして、部屋も押入れの中も魚のにおいがいっぱい。子供たちは小さい部屋の炉のまわりやストーヴのそばで遊んでいます。タア坊もやがてお魚を配達したり、空箱のしまつを手伝ったり、子供の守りをしたり、そうしてこの北海道の小さい町の片すみで大きくなるのでしょうか。タア坊の夢のなかに描かれた世界は、どういうところだったのでしょう。翌くる朝おじさんは
叔父 どうだい、これからタア坊をつれて網走え行って来ないか、一晩泊まりで、ゆっくり遊んで来たらいいよ、おまえも、タア坊との別れだからな
語り手 どこまでもつづくトド松などの原始林、網走湖はまだ氷がうす白く残っていて荒涼とした北の果という淋しい感じです。網走という都会は北海道の東の先端の海えつき出た終着駅、ふたりは賑かな街どおりをぬけて海岸に出ました。砂浜には子供たちがおおぜい遊んでいる
タア坊 おばさん、海はひろいなア、あの、空のむこうには何かあるの?
叔母 あるよ、たいへん遠いところに
タア坊 とおいところに何があるの
叔母 おまえやわたしの倖せな国さ
語り手 タア坊は大きい眸をまたたきし、おばさんのかおを見あげました。しかしタア坊にはなにもわからないようです。夕方になると浜辺も寒くなってきましたのでふたりは街どおりを歩き、静かな旅館を見つけました。お風呂から上ってくると黒ぬりのお膳が二つはこばれて
叔母 タア坊、ごらん、これはおまえとわたしの最後の宴会だよ、およばれよ。ねえ、こんやのことを忘れないで、思いだそうね、きっと思いだすと思うよ、おまえはおじさんちの子になって、どんな子になるかな、きっとといい子になるんだ、そうして、いいおとなになるんだね、わたしはそう思う。わたしはひとりっきりで、あの、木曾のおまえのうちに帰っていく。……さようなら。泣かないね……さあこんやはおまえのお母アちゃんになってあげる、お母アちゃんに
語り手 タア坊はおばさんにしっかり抱かれ、胸のなかですやすやとねむりました。
(了)
■編集後記
*ラジオドラマ「今はむかしの木曾」のうち『夢の落葉に』へ収録されなかったものの連載は今回でおわった。詳述することは避けるが、今号のものは特に鎮魂の曲が全体に流れているということだけをお伝えしたい。
*6月29日、友人達とやっている自主映画会に八木さんを招くことができた。ソビエト映画の<僕の村は戦場だった><アウシュビッツの解放>の2本を鑑賞された。友人達の協力、特にこの通信の発行を通じて知り合うことのできた楜沢さん御家族の方々には往復の車の手配など力を尽して頂いた。深謝。
*「図書新聞」に尾形明子氏が書かれている女人芸術時代の八木さんのことについて、発言に対するフォロー不足を感じている。
会計報告(80年5月1日~80年6月30日)
収入
定期購読料 9000円
賛助金 7100円
支出
印刷費 30000円
発送費 11040円
雑費 2720円
■読者の皆さんへ
※第15号を発行のあと、次の休刊号を出すまでの間に連絡的に送ったもの。
前略
発行月日に比べて皆さんのお手元に届くのが大変遅れてしまいましたが、第15号を御送付いたします。まず第15号まで発行できたことを皆さんと共に喜びたいと思います。
八木さんと出合い、その出合いを契機として私自身の充分な思い入れと独断でもって「あるはなく」の発行をすすめてまいりましたのは、人と人との関係はまず一対一であるということ、そして安易に人と組むことの弊害をまがりなりにも知ってきた私の譲れない一線でもありました。しかし、元来いい加減な私が発行を継続しえているのは、八木さんの存在はいうまでもなく、それぞれの立場で生きておられる読者の方々の、或いはまだ偶然にせよ出合えぬ、しかし、しっかり存在している(いた)人達の支援なしには考えられません。
さて、八木さんの現況でありますが、残念ながら書くことを通じて表現されることはなかなか困難な状況にあります。しかも、7月末には共同生活の適応等の問題もあって別棟に移っておられます。しかし、そのこと自体は昨年夏においても同様の事態がありましたので、特別悲観することも、また美化することもないと思います。
いずれにしても、八木さん御自身の表現欲の集積した所に「あるはなく」が存在するわけですから、発行に費やされる時間はこれまで以上にかかると思われますが、通信の継続は皆様にお約束したいと思います。
そこで「あるはなく」の継続購読料についてのお願いであります。各号150円(一部)としてできましたら第20号までの購読料を同封の振込用紙を御利用のうえ御申し込み頂ければ幸いです。尚それ以上の金額は賛助金として扱わせて頂きますのでご了承ください。
草々
1980.8.8
「あるはなく」編集人
相京範昭
追伸1
著作集Ⅲの準備を進めておりますが、どうしても手に余ります。原稿の清書、著作目録、年譜などにご協力をあおぎたいと思っています。
追伸2
最近、長野県地方における大正・昭和期の農民運動の研究書があいついで発行されました。なかでも『農民自治運動史』(大井隆男著銀河書房)は皆さんに御紹介したい書であります。農村青年社運動に関しては数ページですが、しかし、長野における水平社と農民運動へのアナキズムのかかわりが詳しく、それゆえ<八木秋子>に大きな影響を与えた長野の農村の実態が理解されるのではないかと思われます。(南沢袈裟松氏の御紹介)