玄南工房をはじめるにあたって

◆玄南工房の全体構造は、ここ3年ほどにわたり試行錯誤を重ねながら若い友人の高萩健さんや中島雅一さんの協力で少しづつ形を整えてきました。
そして、ようやく2018年に八木秋子個人通信「あるはなく」などの原資料を載せることができました。

そこで、ずっと考えていた「八木秋子と繋がりのある人物」を網羅し、むすぶ「玄條網(玄條ネット)」を作り、玄南工房を出発したいと思います。

私は50年前の1968年、群馬県前橋で浪人生活を送っていました。高校の友人たちが東京で学生運動に関わっているのを横目に見ながら、前橋市内でのデモや東京での大きな騒乱に参加したりして鬱屈した日々を送っていました。

10年後の1978年は、八木秋子の著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』を4月に、著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』を12月に発行しました。まさに八木秋子に没頭していた時期で、そのころ考えていたことは「八木秋子への注釈」で触れました。

続いて木曾上松の小倉正明さんを訪ねた1988年は、相次いで親しい人たちを亡くしました。秋には失職という人生の大きな転機となった年であり多くの出来事が立て続けに起きました。また八木秋子が1983年になくなり、その後、読者の方々と『パシナ』の発行(Ⅰ~Ⅴ)を続けました。

1998年の40代は新しく関わった河合塾での10年で、それまでとは全く異質な世界の中で、全国を飛び回る多忙の日々を送りつつ、『農村青年社事件・資料集』全3巻+付録(追憶・交叉する眼差し)をまとめ、八木秋子の世界を振り返って『パシナⅥ』を発行しました。

ついで、2008年。この時期は松岡正剛のネット上の編集学校で5年にわたって「奥の院の<離>」の別当を担当し、その依頼に応じて「八木秋子の注釈」をまとめました。また八木秋子の同志、南澤袈裟松さんの『栗ひろい-南澤袈裟松の軌跡』の編集にも関わりました。

そして、この10年は引っ越しも含め、資料の大整理と発信の準備期間と位置づけられそうです。
現在私の日常生活空間は八木秋子に関わるの資料と書籍の棚によって囲まれており、この「八木秋子資料室」とも言える中で、ひとつ一つ「玄南工房」で形にしていきたいと意思を固めています。

このように、1968年からの半世紀にわたる10年周期という「偶々」を縁あるものとして、むすんでいきたいと思います。

2018年11月1日、千葉市立美術館で「1968年激動の時代の芸術」展を見ました。そこでわかったことは、その時代のマンガやイラストなどから自分はたくさん影響を受けていたことでした。

考えてみれば、私は子どものころから言葉の意味をつかむことが苦手で、はみ出したり不足だったりして、周囲との会話不全を感じてきました。ですから、いつもぼんやり雰囲気さえ掴めればいいと思う一方、逆に「これだ!」という思い込みが激しく、その「自由」を確保するため、何かと独りを選ぶことが多かったように思います。「あるはなく」という通信から始まった八木秋子のことについても、その時代を共有した人たちに助けてもらった共同空間に棲んでいたのかもしれません。

この「玄南工房」というサイトも冒頭に書いたように、若い友人に手伝ってもらいました。私はこの道具を動かしながら、新たに見えてくる風景に型抜きされて、また歩み始めたいと思います。

そのようなことで、まずは、2019年1月、出発します。