転生記 1978年2月

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2月1日(水)

 2月だ。2月、怠け、さぼり、連絡も何もせず、する気もなくとうとう2月だ。

 何の変化もありはしない。このところわが部屋は無風で無病だ。いまは私もIも彼女を無視して気にせず、語らず。感情とは無縁に、要するに当らずさわらずで無視しているからだ。彼女がどうあろうと、無視して我がままを通すに限るのだ。自分の挙措に一々注意を向けられる気配がないと知ると、一度に緊張がゆるんで何も張り合いがなくなるのだろう。自分に注意を向ける周囲というものは、そのまま存在の価値がなくなるのだ。とにかく忘却の速度の速いこと、この速度で記憶力が薄れてゆき、この生きている世界が茫漠と消えていく。そのことはおそろしい。

 朝、大野の部屋を訪れる。同室の杉浦さんは退院してまだ2〜3日しかならないが、ちょっと室内を歩いても倒れる。食べたものを吐き、ひどい頭痛がするという。同室の人、といっては3人だがひどく辛がっている。もう一度事務所に話して病院へ入ることを相談したらと頼んだが、はっきりした答えがない。あとで聞いたら杉浦は入院したのがナーシングホームだったそうだが、その病棟は一般の有料患者の為にあるので、額はたいしたことでないそうだが、とにかく有料。だから、14・15日で早々退院したのだそうだ。和風寮もりっぱな建物だがこれも有料だと思う。とにかく夜中にこの人は便所へ5・6回起きるとかなんとか、室内の人々はもて余している。かるいビスケット一箱を贈って帰った。

高井ますさんの死 告別式

  ──午前希望棟へ出かける、図書室には役員や利用者の新しい顔が集ってくる。何か会合でもあるのか、と思いながら昼食に帰ってくると、あの女史が事務所でさっきあんたを呼びにきたという、行ってみると、あんた高井ますさんを知っていますか、という。あの高井さんがきのう病院で死んで、きょう午後1時から病院の霊安室で告別式があるから行ってはどうか、という。あの高井女史が。病院で……。とうとう逝ったか。わたしを徹底的にきらって、バカヤロ、チクショーと呼び続けた人。わたしはその人に対して一度も抵抗もせず、挑戦もしなかった。

 彼女がいよいよ荷物をまとめて出る矢先、わたしの古い洋装の余りが欲しい、というので、渡辺さんの遺品としていただいたスーツの古いのを出し、着せてみたところ、どこもピッタリと合ってスマートな姿に なった。私には身幅も腰もせまく、着られないのだ。彼女の満足した顔、様子は実に喜びに満ちていた。そのほか夏のワンピース、うすものの上着など、私はその人の歓びにうたれて惜む気を忘れ、それらを贈った。

 みんながぞろぞろ集ってきて彼女のニュースタイルを祝福した。前夜は寝る前、彼女の前途を送るのに赤飯、まきずし、チキンのもも肉、アスパラガスなどのごちそうをはずんであげた。彼女は顔一杯の満足と喜びを満面に浮べて喜んだ。盛んな食欲を発揮して次々と平らげて喜びを隠そうとしなかった。

 私はそこで初めて気がついた。私が羨やましかったのだ。私のところへは絶えずいろいろな面会人の慰問があり、菓子、果物、衣類などの差し入れがある。彼女は心に深く羨望をもって私を見ていたのだ。彼女は持金がある様子で、時々立派なマフラーやスカートなどを買ってきて、広げて得意気にみせた。

 しかし、私に対してはいつも敵意を抱いていて、バカヤロー、チクショーを連発してやまなかった。近所の人達、ことに新入寮では男性──といってはどうかと思うが、おじいさん達は彼女を攻撃した。しかし私は彼女に何もいわなかった。 怒る、あるいは抗議するのはあまりに馬鹿げている。私は黙殺することに決めた。それらのことが一層彼女の反感をさそったのかも知れない。

  部屋の中でも彼女は主権者であって、咳がひどいときは寝床をのべ、部屋の半分を占拠して、どんなに周囲が迷惑を感じようが、困ろうが、他人事で平気で通した。そのうち力のない咳が頻繁になり、牛乳、卵、果物など好きなものを買って食べた。好き嫌いが激しく、嫌いな食物など、贈ってくれた人の見ている前で、 庭の草木の上にぼんぼん投げて意に介しなかった。その咳は明らかに結核菌からくるものと想像されたが、事務所ではこれらの一切を知りながら放置していた。 とうとう入院しろ、と事務所から命令が下った。彼女はこの命令を拒んだが駄目だった。

 お前が今後退院ということになってもこの部屋へは絶対に帰ることは許さんぞ、荷物なんて残っていても構わん、みんな放り出すからそのつもりでまとめて持っていけ、2度と帰らせないからな。寮長がそういって棚の上からダンボールの荷物をポンポン投げ下した。

  午前9時、新入寮の玄関に彼女は一人立っていた。見送る顔といえば、部屋の人と私の2人だけ。「お世話になりましたねえ」と彼女は頬のげっそり削げた顔に笑いを浮べて私に手を差しのべた。私はその枝のように細い手を握った。「早く元気になって、おかえりなさい」私は淡々とした言い方だったが。ひとつの決心を肚のうちに秘めていた。自動車は走り去った。事務所のドアがあいて寮長の顔がのぞいた。いま高井さんが行きました。御心配かけました、と私はいう。「そう、行ったか、ごくろうさん」と言った。

 高井さんは附属病院の結核病棟に入院した。結核病棟かどうか委しいことは知らないが11階の病室であると聞いた。玄関へ一緒に見送った佐藤さんがきて、「高井さんが病院の玄関のところに佇っていたよ、見つからないようにかくれて、そして飛んできた」。どうだった、やっぱり蒼い顔をしてた? 「蒼いともなんとも、生きてる顔じゃなかったね。見つかっては大変と、とたんに柱の陰に隠れたんだけどさ」 といった。私のあげた揃いのスーツ、ぴったりと身体にあって、見違えるみたい、よく似合ったわよ。それだけに顔色の蒼さがいっそう……。と佐藤さんは語った。

 彼女──高井さんの自ら語るところによると、彼女は新潟の農家の生まれである。近くの農家へ嫁いで一心に農で働き、農業で苦労した、子供はいなかった(真実は知らないが)。その農家の過労の生活が呪わしく、出奔して上京、上京してのちの彼女は女の職業というもの、あらゆるものを経験し、料理屋で働いたというのが大体の骨子であった。そのうち胸を冒され病院を転々とした後、この建物の中に放り込まれたというのであった。が、血縁者としては、本人の甥という50代の男、そしてその姉とも思える女の人が面会に来たことがあったくらいのものだった。

 彼女の告別式は病院地下にある霊安室だと事務所で聞いた。連れの佐藤さんと連れだって私達2人は毛織りの服装にありふれた上っ張りを羽織った姿であった。世間ならば弔問客として小さくとも香典の包みを持つのが世間の礼儀であろうが、私達は2人とも手ぶらで地階への重々しい階段へ降りて行った。地階の一番奥まったあたりからほのかな線香の香りがうすく漂ってくる。室をいくつも通り抜けた奥に、天井も四囲の壁も白く塗られた白一色の霊安室があり、縁者の人々であろう7〜8人 の人々が並んでいた。

 どこの誰れの葬儀もそうであるように、正面は金襴めいた祭壇。壁の白い背景に二つの大きい花輪がどっしりと飾られてある。一つは大きい太字で都立養育院、もう一個の花輪は利用者一同、と記されてある。利用者、というのは現にここにいる我々のことで、収容者といえるで あろう。利用者という言葉は、語感からもまた何とはなしの妙な現実感からも我々は親近感を持たないが、要するに葬儀のしきたりに従ってお前たちも死ねばここに移され、この形式に従って葬られることをすべて指し示したものであろう。

 納棺は正面にきらびやかに置かれてある。これから遺体となった仏は一から十まで養育院内のそれぞれの係りによっていつもの葬儀の仕来たりどおりに、形式どおり、習慣どおりに運ばれるであろう。すべて飾られたとおりに、そして寺の和尚の経文につれて、流れていくだけなのだ。私と佐藤さんはろうそくの光りを縫ってお棺に近づいた。電灯の光りに映し出されたその顔は蒼く、黄色く光りの下に静まっている。

 「高井さん」とまず佐藤さんが呼びかけた。「あんたはこういう仏様になっちまったんだね、随分苦労したわけだったね。もう大丈夫、苦労ないよ、安心して遠い冥土へいらっしゃい、みんなあとからぞろぞろついて行くよ。迷わずに行きなさいよ、安心で迷わずにまっすぐ行きなさい、なんにも思い残すことないからね。こんどは丈夫な人たちといっしょ。薬も何も心配ないよ。病気も何もないんだから、またいい家に生まれ変わってね、幸せな家に生れ変っておいでなさいよ。幸せになってね、随分苦労したわね。今度は楽な、たのしい家に生まれるんだよ。私なんかお珠数もお線香もろくに持っていないんだけれども、ごめんね」と時々喉を詰らせながら言い聞かせる。割りとよどみなくすらすら言う言葉には、哀しみも何の耳を傾むけるいとまもなさそうである。私達2人は合掌して瞑目した。そして、その一つの物質となった人の顔に告別した。告別にきた女性2人、黒い服装にお珠数を手にしている。男達はやはり黒い背広である。

 和尚のお経は喉に時々からまりながら、いとも退屈げにいとも物憂くげにどこまでも続いていく。私は同じくこの建物のこの室内で死ぬ自分を想像してみた。しかし、死、ということがはっきり描かれるだけで、別段の感情もない。この真白い地下の白い静寂の中での死、などというものは白一色の、光るものの中に静寂の一刻一刻がすぎていくだけで、何の感情も感傷といったものもありはしない。利用者一同は こうして何人であろうがここに無意味に坐するだけだ。妙に悲嘆したり哀傷など装おうとしないだけに、いっそ単純にさばさばと過ぎていく一時である。造り出される悲しみでもなく、何も惜まない死であるのもよいものだと思われる。棺の蓋をする石の音が響く、別に魂を刺す音でもない。彼女の生前、いろいろ身辺の世話を担当してくれた寮母の山崎さんが端の椅子にかけていた。

 お棺は4・5人の男たちに担われ、別の裏口へ、そこの自動車に乗せられる、私は身すぼらしいが、私達2人が生活を、起居を共にしたという縁でこのお別れに列っしたことは、少なくともよいことだったと思った。病院の地下は私達の知らない出口がある。そこから男達の姿と共に消えた。

 私も大野さんも何一つ持っては来なかったので、煙草もなく、まして食堂で飲みものをとるわけでもなく、そのまま地上に出てきた。大野姉はいう「八木さんは百まで生きるのよ、その時は私が告別式にくるからね、ごめん、ごめん」「百歳とは途方もない。本当はね、あんたのような用心深い体を大切にする人が永生きするのよ、ぜったいに私が先き」などとバカを言いながら病院の玄関に帰りつき、カラーテレビを眺めてよしなしごとを言いあった。外は風で樹々が裸になってしなっている。2人は明々寮の玄関に辿りついた、そこに備えてあった清めの塩を少しつまんで身にふりかけ別れた。

2月4日(土)

 昨日電話したら、いま忙がしくて行けないが、土曜の紀元節に行かれたら行く、との返事だったので、例の喫茶店で会うことにして待ったが、ついに電話も本人も見えず。やはり、私のサボタージュで立腹したのかと考えて心配になる。

  感冒で先月末以来のグズついたという事情はあったにせよ、私としては控訴院の言渡しのあと、宮崎との言葉のやりとりで受難の決着を考えなければならない。 それをすませて、出所、東京での生活、就職運動、唯一人の満州への脱出(その前、彼との面会、会談の模様、その前、毎日の放送、出征軍人の見送りなど、そして奈良に降りて博物館の彫刻、出発など)一応書くべきことは多い。この大きな区切りに際し、宮崎との別離を書くことは必要だ。

2月5日(日)

 明々寮3Fの老婆が3階の裏側から中庭のコンクリートの床に投身自殺したことを夕方聞いた。浴衣のねまき、前もって脚立を手すりの前におき、その上に草履のはきものをきちんとおいて、手すりの下は人眼につきにくい芝生(私達の部屋からは裏側)に跳び降りて頭骸骨と胸骨を折って死んだのだ。76歳と聞いた。きいたのは告別式のあった翌日で何も知らないあいだの死であった。弟が一人だけ参列と聞いた。

2月8日(水)

 希望棟へ行ったら講堂でこれから習字のけいこがあるという。私はこの前、初めての日に講堂で初めて書道というものを見、そして筆をとって書いてみた。(不断の努力)という5字であった。よほど渾身の力を出して書いたつもりだったが字が細く、ことに努力の努という字の運びはなんともまずい。それが力をこめて書いたので一層とげとげしい。他の人々の文字をみると、肉付もたっぷりと余裕練々の心境が微笑んでいるようだ。その醜い5字はいまも廊下の壁面に飾りとして出してあるが、なるべく見ないように、眺めないようにしてきた。今日の習字はいろんな手本がある。私の例の物ずき茶目っ気を出して(無)という一字を書いて先生に出したらいいですよ、これはいいです、わたしもこの言葉とこの字が好きですなどと言われた。

2月10日(金)

 隣室のOさんが粗相をして昨日もねまきの浴衣と腰巻きを洗濯してあげたら、今日も洗濯して欲しいと出された。水の中を見るとお尻のあたりなどあちこち赤い点々がひろがっている。つまんでみると粘る。これは血便なのだ。そのまま洗い、何度も水をとりかえて洗いあげて竿にほした。

  そして、一応事務所へ注意のために出かけて松野女史に話した、松野女史はさっそくOさんを車椅子に掛けさせ、病院に連れて行って診療してもらった。あとで聞くと別にたいしたことではないと先生は言ったそうだ。その後ちょっとした下痢便の始末のため洗濯をしてあげたが、こういう病気の場合などはどこでも同室の者が世話をするのが不文律になっているが、隣室では私の少しづつの世話にも平気を装って知らぬ顔だ。

 この生活は、衣食住は都営の関係もあって一応整っているものの、3人・4人の雑居生活と、それからこの中には本当の人情の温かさがない。血が通っていないのだ。前途には遠からぬ、近いところに死がある、待っている、というこの動かしがたい運命の他に何が待っているだろう。諸設備の細かい所にまで無言の注意があり、制約があり、一々神経を働かさなければ。神経の末端までびりびり尖っている。心の余裕、物を観る客観性はただ余計なこととして軽蔑される。これではせっかくの厖大な予算で設備の改善をしても駄目だ、このことを叫びたい。敵意と屈辱、貧とのたたかい。──どこまで行っても福祉の向上にはならない。

2月11日(休・土)

 旧紀元節・建国記念日だ、この日が近づくと新旧思想の細かいやり取りでうるさくなる。この日を国民として祝う、という形式の政府に働きかける運動の先頭に立っているのが作曲家の黛敏郎だからなんとも鷲く。音楽家が、少なくとも芸術家がタクトを振り捨てて神武の先頭に立つとは ──。生き長らえば恥多しの言葉──。紀元節のごちそうは──といえば、いつものちらしずし。

 だがさて、わたしはすっかり退化現象── 著しいのではないか。昨日は、小さいお盆の一まとめを食堂におき忘れてきて、あのすごい言語障害のおばさんにおこられた。忘れもの、落しもの、忘れた用件。いまに自分自身をどこかへおっことすか、置き忘れることになるかも知れない。からだに荷札をつけて外を歩き回わるなんて。佐藤さんはわたしを後輩扱いだ。どうぞこの人をよろしくお願いしますよ、なんて頼んでいる。高井さんの告別式にふたりで行ったときにも、客人たちにご丁寧にも頼んでくれたのには恐縮 だった。

 3日ほど前、相京君が訪ねる電話をくれて、例の喫茶店で会った。彼は大きな紙袋にいっぱい校正の原稿をつめこんできた。女人藝術時代のこま切れ、アナ・ボル論争の端片、その他いろいろ。2月中に校正を仕上げてくれまいか、なるべく3月前に5号を出したいという。とにかく、あの幻影の獄中父子の会見、あれを境にうんとすべすべ角がとれ、円満解脱みたいな感じに傾斜しつつあることを銘記せよ。

 相さんの先日の話しでは、3月早々、早稲田あたりの小さい会場を入手して、八木さんを囲む会を開きたい、というわけで準備を進めるからそのつもりで、と言った。討論みたいになるかどうか、いつもの通り私はそのままの自分で出席するだけだ。準備としては、『あるはなく』に書いたものを読み返すだけ。

2月20日(月)

 ながく日記を遠ざけた。このあいだ感冒(流行性)というふれこみにしていたが、本当はスランプというより外ない状態であった。 ここの空気になじんで生活の雰囲気に慣れてくるに従って、私の唯一の武器とも鋭気ともいうべき闘いの意志・意欲が少しつつ剥がされていくのがわかる。これではいけない。ここにいることが何物にとっても私には無意味に思われる。欲しいのは肝の底からの闘志、図太い闘志である。これがもし磨滅する、あるいは平和の旨酒に唇をふれること、これが一番の敵でなければならない。

 ところがいまの私の状態はより甘美な平和ではないか。常に絶対の現実に対する不満、孤独の不安。現実に対するというより自己に対する暗黒な不満。これが最もわたし自身の深部にある不満と焦燥ではなかったか。何も強く捉え得ない自己への不満である筈だった。ところが、この自己に対する不満の奥底には私自身の生活との強い繋りがあったのではないか。満たされざる幻想、内面とともに時に刻刻と迫りくる貧と空虚との絶えまない追跡への闘い。内面の空虚との渇望との不毛の闘い。

 そうした不毛の闘いであった、と思うようになった。では現在はどうか、それを想うことは私には大きい変化である。この異常ともいうべき他人との共同生活。心のふれあいもなく、言葉の喜びもない、美しいもの、温かいものへの感動のない、ただ生きているという物理的な、生理的な無感動な存在にしかすぎないのではないか。変化から変化へとその時の感情のままに、感傷のままに生活を衝動的に生きてきて、いまこの人生の終焉に近づいて、これほどの空虚な場所に身を置いて、あたりを見回わして、さーてと、わが安全な(場所)を改めて眺めまわす。

 私自身、低迷、文章への懐疑などから、まず身近に迫っている問題、沢山の人々に対し返事も書かず、そのままにして省みないこと、この返書の負債感の重みはどうしようもない。この重荷をぶち破って一気に魂の接触に迫りたい。それを実行しなければ ならないという切端詰ったところに来ているのに、私自身の心理がどうにもならぬ沈滞の状態にきているのだ。どうにも打開できぬ沈滞、スランプでしかないのだ。

2月23日(水)

 午後1時、講堂で、一時間半のいねむり。2月22日、夕5時半、駅前の喫茶店で相京君と会う。『女人藝術』連載の藤森〔成吉〕 氏とのアナ・ボル論争、ツェペリンの飛来、林芙美子との九州講演旅行など沢山の校正を命ぜられた。なんとしても仕上げねばならぬ、この日記はつまらない、 しんが抜けてしまったようだ。出直せ。相京君は著作集に多大の望みと光をみつめている。私ももたもたした悩みを全てふきとばし、まずじぶんの足もとから出発せよ。

 希望棟へ行き、まず校正に赤ペンのないことに気づき、さっそく区民会館通りの文房具店へゆき、赤ペン3本、帰って階上の静寂に身を埋めたところへ教会の小坂姉が現われる。大高姉と2人で来て待っているという。部屋に早くも大高さんとあの金丸さんが待っていた。雑談。Mは2人の信者に、お嫁に行ったことがあるか、子供を2・3人産もうと思うかなどと平気で聞き、自分の結婚せざるの弁を説き聞かせる、おどろいたことに。

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