転生記 1978年4月

1(土) 3(月) 4(火) 5(水) 7(木) 11(火) 12(水) 13(木) 14(金) 15(土) 16(日) 17(月) 20(木) 21(金) 22(土) 26(水) 29(休・土) 30(日)

4月1日(土)

 相京さんから電話、夕方6時すぎ例の喫茶店で会う。西川さんの話し、その失敗談をする。八木秋子著作集の仕上げが少し遅れて延びた。20日頃になるかも知れない。新聞社などへの書評係に助力を依頼すること、朝日、毎日、読売、読書などの書評を2人で一巡しようか、など話し合う。1 部でも贈呈は支出の点で控えることなど注意をうける。

 この、たしか16日の日曜日に会場を確保したから八木を囲んでの座談会「友人の茶話会」を催したいと思って計画している。30〜40名くらいになるかと思う、会員の出欠をとり、準備にかかるつもりだという。いよいよ、そこまで運んでくれたか、すべて他力本願で何一つ手を下さない。私がこの院で、『あるはなく』と著作集、など書いた跡付けとなるものを示す機会が来た。どうなることか。だが、もう恐れはしない。

 私は、これという機会に書く、という世界とそこに生きる私のすべてにできるだけ没頭しよう。何もかも犠牲にして。

 相京君夫人香代子さんは、リンダンドンのママたちと夫人の実家へ泊りがけでそれぞれ小さな子供たちを引き連れて出かけて、今夜帰ってくる予定だという。香代子さんはまだおむつの要る赤ちゃんを背負い音楽を教えている。小さな子供達とともに実家へ大挙のりこんで行って、どんなにたのしい一日一夜を過ごされたかと思う。

 今宵はそのふるさとの一日一夜のこと、御両親はじめ親しい皆さんが東京からの賑やかな可愛いいお客さん達を迎えてどんな一夜の団樂を楽しまれたか。若いパパは岡山まで私を送って行って下さって、瀬戸内の小島(海賊の?)めぐり、岡山の話し、そして、京都の西川さんとの邂逅の話しなど、彼の家庭の今宵の楽しさが思いやられる。尾道の風景や姫路での彼の友人の結婚式の模様も。それから岡山の備前焼きの実態。

 相京君は私のために目下、八木著作集を世に出すために懸命な努力を積み重ねていてくれる。言葉にならない友情の、同志の深い信頼と愛情、人間の信頼と愛情だ。私の信じる神への祈りと愛だ。祈りとは何だろう。祈りとは?

 相京君は、その燃える友情の中で常に私を厳しく監視し、つねに警告と切言とを私に与えてやまない。私が少しでも横にふみ外し、傍見をしょうとする時、短い、するどい言葉の警告を発っして私のたるみかけた安易な意識に向けて鋭い警告で打ち、目覚めさせようとする。私はその顔と表情、そして一つの言葉で目を覚ます。きびしい監視だ、妥協のない一つの言葉で──。私はその時、そこから引き返して私に帰るのだ。

 明日の2日は日曜。4月早々、また1人新入寮から移ってきて4人住居となるという。その命令は絶対なので、前日から私のまわりの荷物の整理にかかる。私の屋敷の、ダンボールの箱二個は机代わりの私の書斎なので、これは動かさずに確保したい。タンスらしい柚出しを一つムリやり空けて高い押入れに上げ、ようやく形がつく。

4月3日(月)

 新しい人は新入寮から来たTという人。66歳、色白な、おだやかな人。寮母の斎坂女史がきて、新入りの人がくれたカステラを切って出し、みなでお茶を飲む。Tという人は40歳位にしかみえないが、片脚と片手が悪く、その上心臓が悪く年末まで入院していたという。片脚はひどい。この人は私の名をきいて、ああ、あなたが八木さんですか、こんど明々寮へ移るといったら、みんなであの八木さんの部屋なら安心だといいました、などと言っていた。新入寮の時代は私の最も不評時代だったのだ。斎坂寮母もにこにこしてきいている。

 寮母の話しによると、今度から部屋の生活を改善させるために、からだの利く者は全部内職することになったからMさん、あんたも遊んでいないで内職をやりなさい、簡単なものから入っていくから、根気を詰めてやりなさい、と宣告した。それはいいことだ。Mはこの1週間ほど前から200円、150円と、部屋という部屋をまわって金を借り歩いたが、貸せる人が1人もない。私に頼んだので、この前の250円の借金は、あれはどうしたの、というと、初めて気がついて嘆息をしている。

 何に必要か、ときいたら、5日のお花見に着る着物を質屋から出さないと皆と一緒に外へ出られない。私は言った、あなたはもうこの前の250円の私からの借りをけろりと忘れている。必ず3日のうちに、との約束も忘れて平気だ。あなたに1円も貸す必要はないが、今度は最後のつもりで私はあなたに200円あげる。これはあなたに貸すのではない、あげるのだ。さっそく質屋へ出かけて200円の着物を受け出してきなさい。といったらにこにこしてすぐ出かけた。

 しばらくして帰ってきた彼女は新聞紙をひろげ、色といい模様といい、なかなか好ましい。利息を払ったの、ときいたら威張って、そりぁ払いましたよ、きちんと。200円のこの着物に30円の利息で230円でしょう、という。ずい分安い。このうえない安手の便利な金融だと思って感心すると、彼女は、そりあね、もっと高く言えばと思ったけれど出すのにまた骨が折れるでしょ、ガマン、ガマン、と言った。

 その200円を返す日についてくどくどと始めたから、これはね、あなたに貸したんじゃない、あげたのだから決っして返す必要はない。そのかわり、これで金の話しは2度と私はうけつけないから、これが最後だよ。断じて貸さない。あなたも私に返す必要はないからこれでおしまい。誰れにもいいなさんな、と念を押したのだった。

 この人が内職をどれほど続けられるか、私ももっと高飛車にやらせることにしょう。これで部屋のムダ話、そして部屋のゴタゴタがずっと緩和されるであろう。三度三度のごはんはおとり膳で、買い物や料理の世話もなく後片付の必要もない。お風呂はほとんど毎日。理髪も早目に出張してきてタダでしてくれるこの無為の日々が、老衰と死の観念に甘えて、全てをそこに持ってきて甘えた、老後だ。

4月4日(火)

 私は新入の人を迎えて感慨深い。この前、もう1人ふえる(部屋に)ことを宣言されたときから寮の職員たる人にいうべき言葉を用意していたのだ。「Mという女性とともに生活する限り私の生活は滅茶苦茶だ、この私を生かしてくれている”物を書く”という仕事は中絶しかあるまい」、と思って私はかなり強硬に抗議した。どうしてあの人を、手つけようもないあの人をなぜ、いつまで私たちに押しつけて置くのか──。

 しかし、事務所では忍耐の一点張りで押しつけたままであった。が、一緒に暮してみると堪えられない、というまでの嫌悪。一瞬も無言で過ごすことが出来ず、目のあいているかぎり何か喋べり通さなければ一時も我慢ができないのだ。その他、その粗暴な感情とふるまいは忍耐の底辺にいる同居者を苦しめて離さない。私は思考の上にも、この自己犠牲をもっともっと深めて行ってみようと決心した。そうして思った、彼女はいつも自己しかない、欲望にも喜怒哀楽の感情の上でも裸のまま、ありのままである。他人の目、耳、感情などに支配される必要を認めない、いつも裸のままのいつも感情をむき出しにしてどこでも独歩であった。その中に、何とはなしの致し方ない愛嬌がある。悪意の中の曲った愛嬌か。

 明日のお花見園遊会を控えて、弁当、だんご、やきとり、その他の食券一まとめ、かんづめ3コ、手ぬぐい、などの配給があり、みな食堂の食卓からわれがちに持ってくる。Tの分は事務所で預ってあるのに、留守を口実にMが勝手に自分の分としてしまいこみ、寮母にうんと大声で怒鳴られた。こういう配給品の分配品などになると私はまるで無能力者で何の興味も熱もない、よけい者だ。あすのお花見には東村山からも来るだろう。それはその時だ、よろしく処置する考え。

 毎日、読売に平野謙の死が報じてある。死因はクモ膜下出血だが、癌だ。2年ほど前癌の手術をしたのだ、70歳。私はあの人の評論家としての文章はあまり買わない。しかし、真面目な評論をした。開高健、そして大江健三郎を世に出した人だ。病気しながら健筆を振い活動した。一人づつ死ぬのだ。

 相京氏に電話する、加藤祐子氏から著作集2冊分2600円を預っていると言ったら、3000円、このあいだ私が出したという。やはり頭が悪い。原文子さん、豊福みどり、西川祐子女史等に懸案のはがきを出した。一安心。渡辺映子さんから6月のはじめ頃2番目の赤ん坊が生まれる、と相京さんヘハガキがあったとのこと。西川さんへのハガキには先日は疲れてよい話しもできなかったとお詫びをしたが、老衰、老境などのクリゴトは私にはあまり似合わないだろう。

 さっき病院の売店でお菓子を300円買った。部屋で皆と食べた。大野さんが病人の愚痴を弁じたてる。いやな生活だ。病人の世話や看病を進んでするのは結構だが、他の部屋の人に吹聴するのはいやだ。この生活の中に美しい孤独、悔いなき美行のかけらでもあるだろうか。恵風寮の男の人たちの中もおそろしく歪んで人情は乾いているらしい。図書室で聞いた。

4月5日(水)

 広場には簾の囲いの売店ができ、いよいよ養育院のお花見園遊会の当日となった。東村山から一行が来るらしい。首に院の手拭をまく。無地のマフラーは不明。今度来たT女史はしっかりしている。新入寮からくる時、この室の難物女史のうわさを聞かされていて承知している。この人は牛乳を3本、そして朝食は食べない。かつらをとって手入れをしている。

4月7日(金)

 5日が本院の、7日が村山分院のお花見、園遊会だったが2日間とも雨が降った。村山には別にどうしても、という気持もなかったので不参加にした。Tという人はなかなか性格のはっきりした強い人で、Mに対しても何の遠慮もなくピシピシいう。するとMは平気で言いひらきをする。彼女には遠慮がないのだ。やはり相手をみて処する道を考えなければ。

 院では一階の食堂の床を全面的に新しくしている、ヒル、ヨルのゴハンは部屋に運んでくれて、おとり膳で食べた。

 秋月玉子に電話したら午後行くと。その話しによると6月1日の一周忌は休日の関係で6月4・5日になりそうだ。女の姉妹だけらしい。そして私にはぜひ松代に行こうという。私の会が4月29日とすると、それまでに原稿を書いてしまわねばならない。行くか否かは先に行って決めてもよい。

 私の会に着てゆく服は白っぽい薄手のものが、着てみた結果よかろうということになった。うすくて、うすら寒い位がよさそうだ。ぼんやりしていられない。2時半頃、教会の小坂さんが来る。どんなことも、どんな人も、みな信仰のこととして終わる。金丸さんのことを私は語るのを抑えた。こういうクリスチャンがここにいる、ということを。京都へ行った坂本姉はやはり立派らしい。よいことだ。

 4月10日、午前相京君に電話したら、それと行き違いに、著作集に使う私の写真、口絵の刷りあがったものと目次とパンフを5枚づつ郵送して下さった。裏側部分には林芙美子と私の女人藝術時代、早大の学生たちと北九州講演旅行の写真が載っている。写真はどうしてもだめだ。

実物の顔によほど自惚れが強いのだろう。彼の手紙によると友人達が著作集のわたしの写真がいいとほめてくれたと書いてある、恐縮の次第なり。

4月11日(火)

 夜、相京氏と会う。八木秋子著作集の私の写真、2頁見開きの発刊の言葉、裏頁の写真および文章について。

 先頃、帰京のとき、京都の西川さんと同宿したホテルの一夜、私は岡山、京都、東京とあまり疲れた状態で、西川さんのおそらく求めていたであろうものに対して何等答えを満たすこともできない失礼を語った。が、それに対して相京氏は微笑んだだけで黙殺の形だった。

 そのあとで、相京氏は語った。「八木さんの過去書いた原稿という原稿はどれもみな書きかけで終わったものばかりで、完成したものは非常に少ない」と話したら、西川さんの表情が変わった。「ああ、この、いまのお話しを聞いたことで、東京まで送って来た甲斐がありました」といったそうだ。忘れられない言葉だ。

 彼は私の小ノートの下書、この生活の日記を拾い読みながら微笑っている。「これは面白い、たいへん面白い。しかし、これはあなたが今のところを去ってから発表するんですね」といった。おそらくこの部屋の難物女史の質屋のくだりかも知れない。お花見に着てゆく着物がない。質屋に受け出しに行きたいにも金がない。いくらあれば出せるの? 200円、それに利息が30円──。

 彼は私の書くものについて、断崖の上で私の眼と脚を縛って私に進むのを躊躇させる。無言の、しかも絶対の命令だ。この私にとって安易と堕落の断崖のふちに──。その彼の声を聞いて、私は目覚めて安心し、また眼をつむる。この危険を繰り返すことで少しづつ生長する。妥協、堕落、それを鋭敏に拒め。

 名古屋の星野兄が「農青問題を取材のため上京して話しを聞きたい」という要請を入れて、4月30日頃上京して、保阪君と小野家で会うことを話し合い、その返事を出したという。星野・保阪両君は小野文子さんの家で懇談する予定で、わたしにも泊まりがけで来るようにと書いてあった。

 私のための著作集の会は4月29日の祭日で、会場は江戸川公園のどこか会館らしい。30人位の予定だという。『あるはなく』を読んでいる人々に通知を出した。えらいことになった。でも、私はあるがままの私で出ることにする。著作集は少し遅れるらしい。西川さんのことなど、そして宣伝のことなど、実に相さんと向きあって話していると新しく目の醒める思い。妥協だの迷いや堕落だのの淵にのめり込みそうな私は危いところで目が醒める。グァーンと一撃を食って引き返す、相さんに会って痛烈な目ざめが一番必要で大切だ。

 8時すぎ帰ったらみんな眠っていた。Mは今日から希望棟の内職へ通い出した。むつかしくて出来そうもない、と言っている。

4月12日(水)

 どうしても手紙を書く気がしない。原稿はもちろん、彼は父の死までを長くなってもよいから、どしどし書くように、と言う。そして将来、彼と私との問答体にして、テープもよかろうという。彼は私の言葉を批判し、私は彼の言葉をうるさく聞きかえす。さて、私はこの最晩年に最も危険な冒険に乗り出し(老年の好奇心)で将来のことも、判らない地点にのめり込み、するかもしれない。それも面白いではないか。若い友人たちにそそのかされて。行くところまで行こう。

 昼に帰って午後入浴。留守番のTから午後に講堂で上の人の話しがあったという。この明々寮の部屋を改築、ベットに直し、2階以上は病者用とする、十畳間にする。大野の部屋へ行って聞いたがあまりわからなかった。

 西川祐子さんから来信。先日のこと、ただ私とともに居たかったのです。そして、おばさんの真田さんの詩集のこと、むつかしい。

4月13日(木)

 今日は雨なのに早速畳屋さんが入って今日から畳替え。3階の沢田さんと顔を合わせたので、例の大野の慰労の集いの話しになった。なったが雨が降り出し、3階は明日食堂のリノリュウムの張り替えになるから明日はだめ。帰りに大野の部屋をのぞいたら彼女は看病疲れのあまり、半病人の状態でゴロゴロしていた。健全にかえってからの話。雨の中、桜吹雪である。畳屋が入り、何とはなしにざわざわしている。今日一人平然と図書室通いだ。装丁の件で2、3日中に相氏が来るという。

 このごろ曜日を数えることがめんどくさい。畳屋が入ってほぼ8畳は完成、青い畳。Mはもう内職を投げ出したくなって、午後は休んでダベッタリ、長広舌をふるったり。午後、希望棟へ行き、原文子へ、そして星野ヘハガキを書く。どちらも、というより星野へは4月29日の祝日に私の出版についての集まりが開かれること、若い友人たちの会合で。そこで農青問題で懇談するという保阪君との会見を1日のばせば私達の会合にも出られるし、相京君にも会えるが、と書いて出した。まだ日もあることだから手紙で打ち合わせる。

 若い男の職員X君が明日から島根園へ転勤になるという披露があった。皆食事が一応終わったところでX君はもぐもぐ喋言っていたが、涙が流れるらしく、幾たびか顔を拭って声を詰まらせる。女の斎坂寮母がさかんに肩に手をかけて慰めている。別れの涙。このX君は余興に何度も気軽に出て、桜に錨などを唱った男だ。

 このMには全く閉口する。今後、この種の同宿者を耐え忍ぶことは、どれだけの犠牲を払うかにかかっている。こんな生活に何の価値があるというのか。たとえ一人暮しになって孤独の生活を引きずることになっても、犠牲の大きさは到底比較になるものではない。得るものと失うものと、その大きさ、深さを考える、秋子。

 こないだ沢田と大野と私とで話しあった。大野が身心ともに打ち込んだ杉浦ばあさんの看病の労苦を慰めるつもりで、4人で何かで心のどかに会食しよう、との提案。雨ばかりで屋上はダメだし──。他に場所はない。4、5日して天候が直ったら赤飯、巻ずし、鶏のモモ肉焼きなど、私は提案した。

 沢田は利口だから決っして決定的なことには持って行かない。うまく巧みに運んで上手に決める。大野は、沢田が杉浦ばあさんにお見舞として 2000円あげたら1000円返したそうだ。それでよいのだ。老人年金が6万円下る日を待っているが、なかなか下りない。もう4・5日だろうか。

4月14日(金)

 何か集会があったが私は希望棟へさっさと出かける。なかなか八木父上の書き出しが書けない。秋月玉子からハガキ、私の出版記念会出席の時、新らしい服装をして出たらいいと思うので、姉の千恵子と相談の結果、近日中に姉妹二人で私を訪ね、ともに西武へ出掛けて新らしい服を見たてる計画だという。私は目立たぬ地味な服装を欲っしているのに。近く2人で誘いに来るらしい。新らしい服をプレゼントしてくれるなどとは。

 希望棟から帰ってきたら斎坂女史(寮母)が部屋にきて、Mの盗癖のことでガンガンやっている。この勢いに流されて行くところまで行ってしまへ──。そう思って私はあまり喋言らなかった。盗癖を否定はできない。

 Tという女のもたらした害毒だ。夜電燈を消す時間でまたしても。新聞を持ってきてくれる天津さんを悪くいう。私がその誹謗に反対してケンカになる。とにかく消燈時間は9時なのだから9時までは光を確保すること。その確言を得たからその時刻までは大丈夫だ。

 3階の斎藤という老婆に菅野さんの消息をきいたら、うちへ帰って息子のそばに居るが、思うようにいかない、と嘆いているらしい。その斎藤さんの口から、私がかって新入寮にいたとき汚いそそうをして、村上さんにどんなに世話になったかを話してきかされ、今更驚く。村上しかさんを訪ねて感謝のことを心から言わなければならない。村上さんを招待したいが、それはいま時季でないから先に延ばす。本ができたらまずそのことを実行しよう。私もこの寮へ来たての頃はそれほどの痴呆であったか、そうして環境の事態はいくらも良くなっていない。

4月15日(土)

 私のお箸箱がなくなった。箸箱は大したことはないのだが中のお箸の塗りがいい。容れ場所の茶だんすの中をみんなで探したがない。そしたら晩になっていつものところにあるのを私が見出した。すべてが彼女による不安の種子である。大小によらず不安定が隈々までを支配している。この不安感が大小によらずこの部屋の根底になっているのだ。

4月16日(日)

 午前相京氏から電話、今日例の喫茶店で会おうと約束したが、あすの夕方と思い違いして平然と希望棟に行っていたらそこへ相京氏が現われて吃驚する。大へん悪かった。

 著作集の表紙のこと。表紙の活字の配置、背表紙のこと、帯のこと。その他。刷り上がりと実物の感じの違うこと、それはわかる。初めての経験でわからない。万事相京氏とその友人たちの考え方に一任した方が最上と思う。

 相京氏は私の出版記念会などのあいさつ、その他不慣れな私が必要以上に遠慮などを捨ててもっと自信ある態度に出るよう注意あり。それは私自身の自然に任せて貰うより他ない。自信までゆかなければ、とにかく、書いたのは私である以上、ひっこみはつかない。自然に流れるのを、湧き出るのを保つほかない。

 私は、ストレス学説者、ハンス・セリエ博士の談話からひいて、”ピーンと心をうつもの、不意に産まれるユーストレスによる出発、発見による転換”などを話して、信じてもらう外ないといった。

 今日の午後、加藤祐子氏来訪。NHKで、4月27日午後11時〜4時、佐々木孝丸司会のもとに「昔のメーデーの風景をはじめ、労働運動盛んなりし頃の街頭風景などを撮るからぜひ出て欲しい」と勧誘に来た。11時頃ここの玄関で自動車に、4時頃帰りつくのだ。

 佐々木孝丸(コーガン)の司会ならあの頃の雰囲気が少しは記憶にあることと思い、その前、出席の如何を相京氏に電話で確かめるべきかなと思ったが、その必要もなからん、と思い返し、加藤氏に返事し、その足で事務所の女史に著作集の出版のこと、NHK出演のことを話したら、快諾。

 原文子さんからいい手紙、山口未亡人、その他の人々と私の今度の出版を話し喜んでもらった。福島で私の出来ることがあったら何でも命じてほしい、と。(返事要)

 それから29日の記念会には星野、南澤〔袈裟松〕、山田〔彰〕君列席するという。事態は面白くなってきた。どうこれから推移するかしれないが、私もいよいよ近づく〈死〉というものを前にして、自分でも満足できる終わりをとげたいものだ。星野、南澤君等が来会されると聞いてうれしい。凡ての人の批評をまともに聞けることは。本当のうれしさは、昔の同志たちの援助から、他の、真に新らしい、真に私を理解してくれ、私の今後進むべき道を指し示してくれる若い友人たち(新らしい同志)によって、私の歩んだ道がここに開けたという事実だ。それは私が自分の過去に全面的に満足していないからだ。

4月17日(月)

 部屋のいざこざは日に日に白熱して、とうとう新入寮から送られてきた新入りのTが不眠症になり、朝食はとらず、頭痛、脚部の異常などを訴え、医者へ行くことになった。2人の悪口のやりとりは次第に激しく、怒号、悪罵のやりとりとなり、全然部屋をあけることを拒否するまでになった。めちゃくちゃで希望棟へも行かれぬ状態。

 事務所の斎坂女史から呼ばれて状態を聞かれたので、私は、Tはここへ転入する前、ここの状態をみんなからうんと聞かされ、その先入感があったので初めから盗癖の警戒をみっちり身につけてきたことを話し、これ以上共に起居することは不可能だ、この部屋、この寮の平和のためにMを転出させない限り、外出の自由もなく、持ち物の安全も何も確保することはできない、病気になることの不安だけだ、と主張した。

 女史はいったん事務所に帰り、そのあいだに新入寮から移ってきた一人ひとりを直接しらべたらしい。そしてM本人をよび、洗いざらい詰問して誰れが盗癖のことを話したか事こまかく調べたらしい。下らぬ詮索だ。聞かれて、誰が私がと名乗り出るものがあろうか。候補者を3・4人言わせて、さらにその人々の口から調べたらしい。そして、私とTに、Mをこれ以上──。

 私はあの質屋の事件以来、もともと寮母はMを持て余しているものの、その処置についてはいつも結論を、決行を渋るのだ。彼女の悪口、悪行の裏にコドモのような無邪気さがあり、嘘とすぐわかるウソを平気でいう。一切は自分の生いたちが悪かった、とそこへ逃げ込む。寮母は彼女の盗癖をわざと見逃して、その罪をOに負わす。私はOの人間を信ずるからその嘘に驚き、それはMの言葉に動かされたので、Oのために弁じる。果てしがない。寮母の言によると、Mは衣類をOに盗まれて、いまはろくな着換えさえない、と公言する。Mを外へ出さない限り、私はこの部屋に居ることはできない、と断言した。毎日愚劣な喧嘩、口論で何もできない。Mは勘が鋭く、Iの腰巻、下着の洗濯をうるさく世話をやく。すると沈黙の末恐しい声でどなりあげる。相手は一瞬黙る。そしてまた間断なくやり返す。女の、老女の恐しさ、いかに愚劣かを肝の底まで痛感させられる。

4月20日(木)

 新入寮で世話になった寮母の中島通子に会う。こもごも、彼女が〈心〉の人であることを感じ、今度の著作集出版のことを話す。感動して友人と2人、2冊を即座に申し込んでくれ、喜びをかくそうとしない。ハレルヤ。11階の大野カネも1冊。申し込み。喜んでくれる。これで3冊。

 名古屋の星野兄、小諸の南澤兄からも出席申込み。山田彰兄も。農青同人。渡辺恭甫、和田房子、犬塚せつ子、大道寺房子も。相京香代子夫人、李枝ちゃんのこと。西川祐子の姿のないこと。

4月21日(金)

 八木秋子著作集のパンフレット5部着、写真、題字完壁、造本遅れる。相京氏との待ち合わせ時刻を忘れ、失敗。この部屋にきてくれて表紙のこと、当日の手配、執筆の順序などについて。

4月22日(土)

 お昼に部屋に帰ったら、部屋は散らかっていて足の踏み場もない。TがMの持ち物からふとん類を部屋中投げ出して、さながら狂った頭の人間がすることだ。Tが何か叫んでいる。そこへ事務所の老人が女の子と噴霧器を持ち込んでMの箱から行李を消毒している。コートが見当らない、とふとTが漏らしたからいけない。Tが言ったから一大事だ。TがMのものをぽんぽんと部屋中放り出したのだ。どうにも収拾がつかない。松野老人がMの持ちものを消毒する。おひるだ。MとTは互いに叫びながら。

 昼飯を私が食堂から運んでやると、悪態をつく。ああ──きのうTの言った言葉。こんな所にいては人間きちがいになる。

 午後、相京君から電話。表紙の色のこと、印刷の遅れることなど。もう4・5日遅れるという。何もここまできてあわてることないじゃないか。そこで私は加藤祐子が持ちこんでくれたNHKのメーデーの雰囲気の27日の録音の話をし、一応あなたに報告し、諒解を得てからと思ったけど──というと、いやいや、かまわん、ジャソジャンやって下さい。こうなったら──といって大笑した。よろしい、ジャンジャンやりますよ。

 小川未明氏の忌が5月11日だ。岡上鈴江氏に手紙をと思ったらお手紙、出版記念会を祝って下さって、記念会には欠席とのことだった。

 相京氏がこないだ言った言葉。もう自信をもって歩みだしてもいいではないか──という。何か不思議な感じがする。

 昭和6年頃、上松の植村姉上が私の運勢を浜松から呼んだ占師に見て貰ったとき、暗い所、この転落の影響は20年や30年では解消できぬ。が、この人は天人(?)だから地に潜んで(時)の歩みを保てば、必ず晩年は面白いものに。

 もう一つ、昭和26年〜30年頃、澄水園母子寮で伊藤という占いを業とする婆さんが、私の顔をみて繰り返して言った。先生は晩年も最晩年になって必ず運が開けます。思いがけない所から思いがけない人物が現われ、先生の人間をよく知ったうえで、先生を思いがけないところに表わしてくれます。何も言わなくても、頼まなくても、よき人に必ず巡り会います──と。

4月26日(水)

 阿部浪子氏来訪。当日着る服装を見せたら貧弱に見えたらしい。いろんな説をたて、とにかく化粧品だけでも必要だ、といって私を誘い出し、東武成増駅へ──。駅前のデパートで見立てから品物の購入まで。口紅、頬紅、ドーラン、コンパクト。それらのものを地婦連の製品として1個 120円で買える。それを一通り買って、手鏡まで買い足し彼女を誘って喫茶店へ行って談じた。彼女の好意はわかるが、相京氏の言もあり、へたな化粧などいやだったからいい加減にした。

4月29日(休・土)

 出版記念の当日、午前10時、阿部浪子氏来着。胸に飾る造花を贈られる。電話、相京氏、本を持ってくるので時間が遅れる。阿部さんと出かける。池袋から早稲田の会場まで。タクシーに酔った。会場を過ぎて喫茶店へ。彼女に朝食。会場まで歩いて12時すぎ着。会場には相京氏、友人等あり。積みあげた著書に献呈の署名、出席者30余名。

 向う側の来賓席には南澤、山田など農青同志の顔、久し振りの小沢磯子から大道寺房子、熱田優子、和田房子、渡辺恭甫、その他若い友人と、34名ほど出席してくれ、静粛ながら場にあふれる。正面に私、相京氏、相京氏の友人、私の隣りには相京香代子夫人が李枝ちゃんを抱いている。

 まず相京氏、この出版までのいきさつ、意義、友人達の篤い協力を感謝してくれる。私の悪筆で献辞も記し終わり、席順に従って、私の関係など。お茶はさめ、お菓子を眺めて席禅のよう。

 自己紹介、八木との関係、思い出等を述べてくれる。記憶の底から浮び出てくる人、その言葉、ただ出版を喜んでくれている。南澤君は農青社のことについて述べて下さり、小野文子さんは運動の頃の思い出、星野、山田両君も。私は耳が遠いことをつくづく残念に思った。しかし、あまりにも皆の言葉には私への賛辞が多すぎた、そして、誰れもが相京氏という人を見出し得たことの幸福を述べてくれた。閉会。
(クリックすると「あるはなく 第6号 出版記念会へ)

写真撮影。

註:女人芸術・婦人戦線・農村青年社の同志たちと

  左から、熱田優子、大道寺房、館野セツ子、小野ふみ子

      八木秋子、星野準二、南澤袈裟松、山田彰   

 出版記念会の全写真 →1978出版記念会全写真.pdf

 別れ小野宅へ行くところ、気分が悪く、タクシーで帰寮。すぐ寝床へ。出版記念会は成功裡に終わった。分に過ぎたる日、生れて初めての佳き日。部屋は何ごともしらず、寝ていた。

4月30日(日)

 疲れて気分悪く、朝食ぬき。相京氏に電話すると、会社に置いてある著作集をもって11時頃行くという。小野宅へ一緒に行こうと誘った。大野さんに本を一部売る。喜んでくれた。新入寮の事務所の中島道子氏は不在。

 相京氏と小野宅へ。雨。星野君と保阪正康氏が対談中。農青の当時の運動について。聞き役の保阪氏は精密な調査で、裁判のこと、判決のこと、弁護士のこと、記事解禁。そして鈴木靖之が参加したいきさつ、私が聞かれるままにポプラの騒ぎ、四谷署に入った前後。出て一同の住居を探して三浦とかいう旧同志の家を教えられ導かれたいきさつ。宮崎とその家の妻君との恋愛について。ひきあげて星野宅にきたこと。農青運動のきっかけとなった越後の木崎村出身者の話、自連新聞の記事、啓蒙運動の必要について力説したこと等、語る。窃盗事件のことなど話題。

 29日の祝賀会の席で南澤君が歌った、農青運動の佐久地方に流行した「ナロードニキのうた」が非常に当時の同志達の意気をしのばせた。一緒にうたった。小野文子さんは一同のためにお昼に上ずしを振舞い。夕飯には筍飯をたいて心のこもったもてなし。保阪、相京、八木はさんざん迷った末ここ養育院に帰った。なお、保阪君の話がたまたま後藤隆之助─昭和研究会のこととなり、後藤氏の近衛との関係から当人の結婚説に及んだ。

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