転生記 1978年5月

 1(休・月) 2(火) 3(休・水) 8(月) 14(日) 15(月)

5月1日(メーデー・月)

 朝雨。放送本番の日。午前11時20分から50分。この部屋でTと2人でみる。まもなく昼食となり、不透明の中で食堂へ行くと一同食堂に並んでテレビを見てた。そのまえ、加藤さんにお礼を電話で述べると、曰く”そんなに謙遜なさることないわ、あなたが中途でおやめになったことは却ってよかったと皆さんが批評しておられましたよ”といった。みんなの批評は、若く見えた、よかった、とのお世辞。斎坂寮母さんが皆に告げ見たらしい。何しろ歌は中絶、顔じゅう反歯。その前、吉祥寺の静子さんにこのことを知らせたから見たと思う。出版のことも。芦沢静子に本を一部進呈すべし。木曾方面を考える。

 秋子よ、弱気を捨てよ、単純、率直、強気。大野、沢田の2人がご祝儀1000円くれた。お茶に2人を、と病院売店からお菓子を買い、みんなと食べちまった。大野が血圧が高いのでさきにのばした。

 夜11時すぎ、Iが枕元で押入れをあけガサガサやっていて、便所へ行くふりをして玄関の扉の外へ、腰かけてじいさんを待っているのだ。さらに12時近くに面会室の長椅子でお菓子をボリボリ食べている。連れて自室へ帰った。この前の盗みのこともあり一度寮母に話しておこう。この館の老人たち、老人の氾濫をどうするか。

 雨、スト等で、メーデーのデモは振わなかったらしい。

5月2日(火)

 言葉も、身動きも、第一、頭脳もつねに器械的に、機動的に働くよう自ら訓練せよ、眼光と行為の諸器官を。

 窓下の花のそばにおいた移植ゴテ─スコップが探してもない。盗られてしまったらしい。掃除のおばさんから催促をうけた。買って弁償をすると考え事務所へ聞きに行ったら貸してくれた。

 きのう1日で、本が7冊売れた。寮母の斎坂さんをはじめ大野、沢田、Tなど。朝希望棟へくる。

 昨日は朝からテレビの時間が気になった。私の番組「お達者ですか」は11時20分から。佐々木孝丸が出て、その当時のメーデーのデモなどについて──。前奏もなく私ひとり。一小節だけでストップ。私だけひとりの──。でもそのままで、しばらく沈黙のまま、映像だけ。なんという顔だ。顔じゅう白い反歯、白い歯を出して笑っている。テレビは止めて食堂へ行った。し〜んと静かだ。食堂はいつものように一同座して、どうだろう、テレビを見ている。まだ放送中なのだ。一同とともに私も平然として食卓の自席でみた。寮母が八木の放映時間だと告げて食事を待機させたのだそうだ。ようやく終了。たいへん若い、八木さん一人の番組だった、など。これで失敗の番組は終った。

5月3日(休・水)

 憲法記念日。希望棟で岡村さんに会う。同室のIの盗みのことを確かめる。違っていた。事務所に届けることを承諾。疲れ、感冒。事務所で係長が著書を3冊注文、相京君より電話。本の売れ行きを話す。彼は私に5日〜7日と2泊3日の予定で自宅に来るようにと誘ってくれた。私も行きたい。私は非常に疲れている。

 部屋はIの行状について騒いでいる。腰巻の洗濯のこと、毎晩男がきて待ち合せ、どこかへ出かける、等々。感冒で不快。部屋の人たちにおすしでもと考え、大山商店街へ行っておすしの太巻2本、柏餅、たばこ3、買って帰ったら部屋は空っぽ。お昼飯で─ 一同食堂へ行ったあとだった。

 寮母の斎坂さんが大変な剣幕なので不思議に思ったら、食事を食堂から取り寄せたという誤解だとわかった。私ののんびりのなせる業だ。ふとんを敷いて本式に寝る。咳がひどい。全て中止だ。

5月8日(月)

 男。風貌がここの収容者かと思ったら、この中で共産党と戦っているという。81歳とか。この中の詳しい事情を知っており、グループの話もする。男の職員はだめ、若い寮母によい人がいるという。著作集を買った一人。だが、いまは知られずにやっている。場所をかえてやっている。このグループには多少見るべきものがある、とのことだ。この人は恵風の3階にいるそうだ。まだまだ私は動かない。

 Tは巣鴨のとげぬき地蔵へ参拝にゆき、おみやげにくず餅を買ってきてくれた。このあいだの、私のおかずの失敗をみせつけるようだが平気で食べた。Mは相変らずIの洗濯をしない無精、男の訪問などをがなりたて、私に”あなたは何の関係もないわよ、だけどね、誰れもがあなたのように無口で、おっとりして喧嘩の中へ入ることをしないで黙っている人の真似は出来ないわよ”という。どうしても腰巻のきたない処置をいい立てる。今日、村山から来たという老女が大野カネの部屋に入ったらしい。紹介があった。

5月14日(日)

 感冒でずいぶん寝た。田中英子から手紙がきた。名前に記憶がない。読んで行ったらむかしの母子寮時代の高山のおかみさんだ。高山とは15年前に別れ、宏道と芳子を育てあげて、今は町田市役所に勤め、宏道も学校の先生、金に不自由のない身分らしい。この寮を訪ねたい、何かみやげに欲しいか、というわけだ。

母子寮時代 子供を抱いているのが八木秋子

5月15日(月)

 相京氏より電話。感冒のことで心配してくれる君よ、私の健康を気づかい、通信の次号として先日の著作集出版記念会号としてかなり長いものになる予定だが、全頁それで占める、だから八木定義の残り部分も次号は久しぶりに休め、というのだ。ゆめのようだ。一度に解放感に包まれる。

  この部屋では難物のMより後から入ったTが、これが難物。部屋を空けるときは留守番を勝手に頼んで出かける。今度はIの洗濯物の命令を自分でやりだし、私のことまで不潔だといいだし、洗濯ものの干渉にまで進展。洗濯は私が原稿書きで夢中だった時しばらくためていた時以外は、そんなことはありえないのだ。

 とうとう15日、今日寮母の斎坂女史に頼んで私に言わしたのだ。今日は洗濯に出すもの10点を出した。係長までここへやってきて、著作集の代金、3冊分、もう少し待ってくれ、から、他の連中とくだらない世間話をやっていく。惨憺たるものだ。

 13日、例の加納実紀代さん、電話どおり12時頃来訪、農青運動の思い出から渡満を決意したこと、その行動、従って当時の植村姉、当時京城にいた原四郎一家、鞍山の芦沢みつを目当てに、満州鞍山に一人住んでいた芦沢みつの家に落ちついた。それから老先生から貰ってきた3人の名刺をもって初めて新京に出てきての一幕。あの人は聞き上手なので、その時の失敗談からいささか脱線気味に満鉄入社を受諾まで話した所で夕食、そこで帰って頂いた。

 あとで農青運動について私の話したことをまとめた『銃後史ノート』、加納さんのコピーを読んで、〈他へ〉〈あるいは先日の〉随分私の意図とはちがった点を発見して驚く。話者の私が独りよがりで気軽に話したことが不用意に書かれているのをみて、自分の甘さを痛感し、言葉を選ぶべきと、発言のときの心の用意を痛感した。〈甘え〉を去れ。

 江古田の松田解子からハガキと「民主文学」を寄贈して下さった。まだ礼状も出さず。

 14 日、雨、病院行。眼科、耳鼻科。感冒で熱。前夜、大声で呼ばり、どなり、あたりに迷惑。病院、その前に熱のことから内科へ行けとの命令で。医師はどこともはっきりしないが心臓に故障あり、とのこと。薬を続けるよう。耳鼻へ行ったら医師から大声でどなられた。昨年春、1年服薬を続けろと命ぜられたのに、10日分でやめてしまった。耳の遠くなったのは当然、このままで行けばまもなく全聾となる、と叱られ、脅かされ、補聴器の注意まで。脳神経には大したことはないらしい。今日から私のきらいな服薬が始まった、14日分。

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