14(金) 15(土) 16(日) 17(月) 19(水) 21(金) 22(土) 23(日) 25(火) 26(水) 27(木) 28(金) 29(土) 30(日) 31(月)
7月14日(金)
6月24日に相京氏からこの日記を贈って貰った。すぐその日から──と楽しみにしていたのだけれど、どうしたことか、ペンを持つ気にならない。ペンを持つ興味が湧いて来ない。5分間も10分間も大切な作品のひとこまだ、とそれは理屈でなく、肉体的にわかっている〈たのしみ〉であり、私のつとめ、私に課せられた運命と知っていて、どうしてもそういう気にならない。大きな責任であり、相京さんに対する裏切り、もっと大きくいえば自らを否定する行為だと知っていて、それでどうにもならない。
この間、相京さんには2回会ったが、少し苦笑して、まあこのところ全部回復するまでは何もかも忘れて休みなさい。元気が出てくるまで──、と言ってくれた。こうでも言ってくれるほか、相京さんも言いようもあるまい。
『あるはなく』の休刊は大きい問題だ。いまだに呆然として虚空を仰ぎ、日を暮している。が、どうにもならない。この峻烈な、酷烈な暑さでは。医師と事務所とのあいだで何か暗黙の申し合わせでもあるか……、こんな愚劣な気をまわすことそれ自体が変だ。書く──夏とともに、あの『あるはなく』の復活が問題となる。復活。私は近く復活する。死したるものの蘇えるときだ。私は元気回復し、八木秋子として復帰する。書くものにおいて。今、78年4月30日に遡る。そこから出発だ。悪夢が去ったと思えば良い。──悪夢とは何という言葉だ、私はあまりに順調すぎた。
相京君を知って、相京君を信じて、そのすべてに同感し、彼のすべてに傾倒した。信ずるということが如何なるものか、少なくとも二人を知るものは理解したであろう。信ずるということ、その上に実行力とまず信念である。
今2ケ月半に及ぶ疲労回復の道程で、私はまだ私自身がいかに地に堕ちても持てる力は全部失うことはない。残る傷口に油をさせと自ら言う。過去83年、自ら内なるところに堅持して譲らなかった私自身の本質を、83年の生存を、これ位の衝撃で喪ってよいものか。年齢の、したがって老化、老衰の速度はさまざまだが、その脅威と闘うことが今の私の最大の闘いであることを銘記せよ。
7月15日(土)
お昼に赤飯がでた。15日だから。おかずは煮魚と野菜の煮つけ、昼飯に少しおくれて帰って、ひとり食堂で食べた。きょう、お茶の配給、いまはこの室は3人だけど、すぐ4人になるそうだから、4人分とMからチエをつけられて行ったら組長にうんと怒鳴られた。現在のことだ──と。私はなんの行動をとるときにも動きがにぶい。あとで、受領した茶を分けた。Iが喜んだ、いままで、あの人、配給を貰ったことがなかった。
昨日、14日、隣室の松尾輝子さんが歌集、逝かれし良人との思慕のうた、神、仏、幻影のあくがれ、そういう文集だ。まず亡き夫君はまだ30代ぐらいで永眠されたらしいが、愛妻を想うこと切。妻に寄せる愛絶の情はもう非常なものだ。その切々たる思慕を書簡に切々たる表現で誰はばからず表現している見事さ。ここまで妻を識り、愛し得る男性は少なかろう。ただ、その愛絶の良人はヨーロッパ各地を回って自転車の売り込みを本分として、虚弱な肉体を酷使した人だ。しかも自転車の売り込みという強行日程で虚弱な体の不安を秘めつつ、大企業の利益のために早逝を覚悟の上で酷使し、その間自己の仕事にたえず不安を感じていたのだ。自動車ならぬ自転車の売り込み競争とは。どうしてそれを峻拒しなかったのか。しかし、この人の信仰は夫婦の愛を超え、さらに我が子の死さえも超えて全身が燃えていたのだ。歌集には随分自由な、佳いものがある、大きな何か、悠々たる何かを持っている人だ。
有馬政義氏からデパートの小包着、私の著作集出版のお祝いなるらし。あの人の篤い志、義理堅さには驚く。有馬政義氏に礼状とともに、村田昌三氏に出版の報と礼状を出すこと。
早く曇ったべールをぬぎすてたい。読売でみると、かっての李香蘭、山口淑子が環境問題視察団を率いて中国へ。眼に映るかぎり中国の山は坦々とした耕野、整然たる農業国になっていた、という。彼女は長春の、かっての満映に行ったという。大きく変転する中国に思いをはせる。見たい。共同通信であったか、八木の書評を大きくのせてくれた中に、八木が当時の農村の実情からして、日本の農村に思いをはせ、いま彼女は中国の人民公社の相を想像している、と書いてあった。毛沢東の動きもいろいろ変化したが、私はやはり中国の人民公社の在り方、発展に注目してきたのである。
矢次一夫氏からのハガキを頂いて以来返事を書くことに気をとられていたが、最近、日韓両国の間に経済的な何かがあり、その解決というか、秘密交渉のために矢次氏が動いでいるらしい、と新聞に出た。大体岸らとの連絡で為されるのであろう。
明日あたり、私達の部屋はまた新顔が補充されるであろう。老人のIばあさんのために寮母さんが一度にどっさり新装の夏物を買いこんだ。第一に、入れ場所がなくて困るだろう。衣類を買う、という女の欲求は、ここでは本人の老婆には関係なく、寮母の頭脳の計算でなされる。自分の懐中とは無関係なのだ。
7月16日(日)
洗濯物をひきずり出して、と思ってとりかかっても、どうしても気が落ちつかない。バス旅行は19日だ。これは不参にしようと思う。トゲヌキ地蔵や後楽園ではどうしょうもない。汗ばかりでは仕方あるまい。金もない。バカげている。
夜、隣室の松尾輝子さんと面会室で定刻まで話す。彼女は私が貸してあげた『あるはなく』の5号までを読んだという。そして、彼女は「アナキズム」とは何ですか、という質問から始まって、私の経てきた軌跡を話したら、何か感じたのか、何からどう聞いたら良いか分からないらしかったが、久しぶりで生きた社会の勉強をさせて頂いて、久し振りで人間社会へ帰ったような気がします、と言っていた。
彼女は類いまれなよき良人をもち、熱愛され、富豪ともいえる家に嫁ついで、その夫が結核になり財産も凡て注ぎこんだ末に死なれ、子供も死に、ここへ送られてきた。幻影の仏さまは絶対である。夫の生前から、生花、茶湯、書道、俳句、日本画の修業をして、いまも相当その名残りが光っている。絶対の仏と神を信じ、それの安心と信仰に全く安心し没入している。その人が私の思想を知りたがり、興味をもっているとは。だが軽々しく人を信じてはならない。彼女は私の文章の若さと男性めいた断定の仕方などに興味をもっているらしい。
7月17日(月)
流汗淋漓。木曾をおもう。木曾へはいつ頃行けるか、強行になろう。奈良井といえば辻凡さんに会えるだろう。昔のボンさんに。
相京氏から来信。『あるはなく』の読者が53名に殖えたという。驚くべく、おそれるべきことだ。朝日新聞という有名紙の影響が大きいと思う、と。同感。そうしてもう一つ、相京氏が一社一社前もって根廻わししてくれたことを挙げる。著作集は増刷する、という。増刷するというのだ。おそらく、全部相京氏の手になったものだ。
ゆうべ、寝床の中で、長く忘れていたメリメの『マテオ・ファルコネ』という題名を想い出した。記憶の底から呼びさました。まだまだ見限るな。あの遠い想い出が今静かに私を甦らせてくれている。
相京君はいま大へん忙しいらしい。それで会うことよりも電話のほうがいい、らしい。相京君の全精力、全努力を集中してくれた結果が私の著作集であり、6巻の『あるはなく』に結晶したのだ。まだまだ私の年譜の誤りや有島氏への私の傾倒において私が補足しなければならないところがある。その中で、有島氏からいただいた原稿、その名、題名、子供社への原稿、など忘れていたことの多いこと。有島氏から木曾の八木宛に『一房の葡萄』をお贈り下さったらしい。
そして、相京君は有島さんが私に与えた思想的、生活的に及ぼした影響の大きさ、「たとえば、キリスト教からの脱出、離婚などに現われたのではないか」という。これは再考、三考の余地──必要あり。課題──キリスト教からの離脱についてはなお熟考の余地あり。それには有島氏の諸著作を精読する必要。有島氏のあの瞳、あの声等。
有島氏の住所が何度か年譜を見ると変わっているが、私の記憶では麹町区何番町という大きな武家屋敷ふうの堂々たる構え、それ一つだったと思う。友、飯塚友一郎宅の舞台けいこに誘われたときもその大きな家だった。精読、熟考のこと。
7月19日(水)
バス旅行の日、行先、巣鴨とげぬき地蔵、後楽園、博物館とりやめ。参加を寮母から勧められたが、私はとりやめ。清瀬の有馬政義氏よりハガキ。1週間ほど前、出版のお祝いとして虎屋の羊羹の折詰を送って下さって、その礼状も出さないうちに。
過日、朝日新聞にて先生の著作集が出版された記事と、先生のプロフィルが紹介されたそれを拝読いたしました。心から──。そのうち著作集を購入して拝読いたしたくと──。
この有馬氏と村田氏には著作集が出来次第贈呈すること。また有馬氏は著作集の続刊を請求してくれている。蒲田の奥原慎太郎氏からアップルジュース一箱送付して下さる、やはり出版の祝意であろう。奥原氏の篤い志にはまったく敬服する。やはり新聞で見たのであろう。
7月21日(金)
19日に1階、希望者をつのって巣鴨のとげぬき地蔵ヘバス旅行。おとなりの松尾さんも欠、1日を礼状書きに過そうと思って欠席した。帰って聞いたところでは、地蔵堂だけで、外にはどこへも行かなかった由だ。どうせそんなところだろうと思った。
先日は清瀬の有馬氏から水羊羹一箱をデパートから配達された。そのハガキには八木秋子先生侍史となっている。著作集を贈ろう。読むか否かは考えなくていい。思想は別だ、と彼氏も言っている。亡き指宿さんを偲ぶ、どんなに喜んでくれたことか。21日に礼状を書く。松本の渡辺映子、京都の宮木典子、など永いご無沙汰の人々にハガキ7枚書いて出した。しばらくの間に、これほどまでの悪筆となった。秋子、何にも捉われるな、飛躍し、滑り落ち、勝手に、自由に、紙上で行動せよ。
先日、久しぶりに、ずっと以前、北多摩福祉事務所にいて、しばらく文通をしたことのある喜多氏がここに来て、会った。今日も来て、私の部屋にきた。今は東村山に在勤で、ここへはちょいちょい来るという。あの人は伊豆にもいたし、東村山の様子を聞いてみたが、やはりいずこも大同小異らしい。伊豆も東村山も粗密の部屋割りなど、公営の事情になって動くのだ。想像とはちがうらしい。まあ落ちつくことだ、という思いもする。
結局、落ちつくことだ、とも思う。
有島氏の年譜をみて、有島氏からいただいた原稿は「僕の帽子のお話」で『童話』という月刊雑誌に掲載された原稿と判定、まちがいなし。コドモ社発行の雑誌『童話』。発行の年月日が少し早いが(7月)父の死が2ケ月程早い。それだけのズレで他はピタリである。
相京氏の考える有島氏から受けた影響、キリスト教から離れたこと、文学に与えた影響など、子供を捨てたこと、夫──家を捨てて自我に生きたこと、等々。
こまかいことは有島全集を精読しなければ判らない。そして、私の娘時代の読みものといえば、角間広助から借りた文学全集のきれぎれで捨い集めたものだったから、有島氏の影響とはっきり解釈できるものの根拠は少ない。我ながら記憶にあるものは〈性に悩んだ〉迷路の武郎氏の深奥の悩み、農地解放、財産分与の氏の真剣な〈富める者の所有〉の悩み、〈惜しみなく愛を奪ふ〉にみる氏の悩み等ではなかったろうか。
氏の言葉。「百の芸術を創造して、なおまだ芸術家足らざる人がある。一つの芸術を創造せずして、なおかつ芸術家たる人がある」。
人と人との出会い、この意味の深さ、大きさについて。
日本の彫刻家、矢内原伊作氏(矢内原忠男氏子息)が、ある夏休みにパリに遊び、ふらりと仏蘭西の彫刻家、ジャコメッティをそのアトリエに訪ねた。おそらく紹介状もなく、〈おそらく〉ジャコメッティはじっと矢内原の顔を見詰め、一つの椅子を彼にすすめた。そして何も言わずにその前に座わり、黙ってデッサンを始めた。第一日はそれで終わり、描きかけの画に布をかけて、彼は客に会釈をした。矢内原氏は、その表情から、続いて明日もデッサンを続けたい意向を感じたので、翌日もそのアトリエの扉をたたいた。扉はあけられ、矢内原氏は無言のまま彼の指さす昨日の椅子に腰を下した。ジャコメッティは、昨日のように、彼を前にして無言のまま昨日のデッサンの続きを始め、無言のまま描き続けた。こうして1ケ月の日は経ち、矢内原氏は大学の夏期休暇が終わる日を迎えた。そのまま別れ日本に帰った。
翌年の夏、氏はまたパリへふらりと来、そのデッサンに再会し、その彫刻家の指さすままに、黙ってモデルの役割を果した。が、まだその絵は完成しなかった。次の夏休み、氏はだまってジャコ氏のアトリエに来て、モデルの役割を果した。これの完成したのがあの「矢内原伊作氏の像」である。人はこの作品に何を感ずるか。
人間の心情に深く潜んで在るものが、ここに目覚めて火花のように燃え、凡てを越えて相牽引しあう力、〈相互に共通しあうもの、理解──融合──尊敬、発見の喜び〉等。未知の世界に分け入る予感。喜ばしき自己の発見、発掘等。他者には感じ得ぬ、理解の他なきその発見。
最上の沈黙、内なる豊饒の富、出発の喜び。歴史への冒険の勇気。全生活の獲得。運命に対する勇気。偶然への目ざめ、勝利。この目と耳による発見、等々。私はこの発見を相京君との出会いによってみずから経験し、体験した。人間の相識る動機は生きている相手の姿、言葉、生きているその人間、そのもの。それが素材だ。この生きた体験を身に、感性に所有する人は真に少ない。
7月22日(土)
最高の暑さ。斎坂寮母が病院行を誘いにきた。近く予告してあったことなので、その言葉に従う。病院行。内科の望月医師なり。診察の前、寮母から私の最近の状況、生活のことなど低声で聞かされた医師は、結局、高血圧の心配の外は無事、という診断なり。83歳いう年齢に意外という表情だった。最後に”若い”という言葉を私に残した。
寮母の話によると、昨日秋月氏へ電話して私の信州行の計画を話したら、25日に私がそちらへ行く、信州への付添いは私が──という返事だったという。8月にはいってもう一度医師の診断を待って決めようという。私は木曾行の計画も話し、予定表を作って出しておいた。相京氏のことは前もって打ち合わせ。寮母は私に10万円出して見せ、これをその日渡します、と宣告した。これでよし。あすは日曜、朝電話のこと。
7月23日(日)
あまりの暑さに器械のどこかが狂ったようだ。相京氏にかけたら、日曜で家にいた。忙がしくて行きかねる、という。奥さんの不在でりえちゃんの守りをしなければ、ということらしい。いま、仕事の方が忙しくて、という。そうであろう。それに気がつかなかった。いずれの日にか姿をみせてくれるだろう。
木曾との関係について、またしても──だが、千葉の手塚氏の意見を聞いてみたい。その心情が動いて、電話してみたら、千史ちゃんが出た。手塚氏も。26、27日に東大へ行く。それまでは都合が悪い、というのだ。新聞の記事を見た、という。とにかく、その日には電話をくれるであろう。あるいは、もう事情を知っているかも知れない。その電話を断ったあと、自分の愚鈍さと不甲斐なさがこみ上げて、こんどの旅行がなんだ、何の価値があるのだ、と馬鹿らしくなり、旅行なんて取り止めにするにかぎる。
まず、書くこと、書くことを中断してどれだけ経過したのか。何もかも堕落の継続ではないか。これで私の志操は亡びるのか。これで私の生存の意味は中絶のまま、滅亡に終わるというのか。いまは真夏の烈日で何もかも沈滞の時、間のびした空想に遊んでいいのか。
病気以来、わたしの闘志は事実上ぐんと低下している。全快、健康、と自覚しても、病院ではなく事務所の方で認めない。徒らなる無為と自重の日を送っているのだ。強請的に。こんなとき、旅行が何をもたらしてくれようか。偏見もからんで、いよいよ無意味な思考と行動の迷路に踏み入るばかりだ。何もかもがいやになる。
八木秋子の実生活の愚鈍と痴呆を思いいたるばかりだ。ただ、私自身の自省そのものよりも、「呼吸を長くして時を待つ」という心の長さ、余裕がなければ。私にはやはり相京氏が実に必要なのだ。あの人の思慮の深さ、考え方の自由さ、何よりも実生活の力がなければ。だが、無意味とばかり一方的に考えず、とにかく行って来ようか、相京氏不在の冒険と危惧の中で──。
暑い、34度。
24日。酷暑。何もする勇気もなし。
7月25日(火)
今日秋月氏がわざわざ来て下さる日だ。朝から2人の老婆は内職に出かけて留守。ふいに相京氏が姿を見せた。僕が木曾へ行くことはやはり無意味だ。身の置き場所もない感じ。福島の林藤太郎氏からの手紙で、著作集を10冊以上注文あった、という。原文子夫人、平源、その他を考える、とやはり相京氏に行って貰わない限り木曾行は無意味だ。行かぬことを決意。
相京君の話によると、奈良の徹生から著作集の注文(『あるはなく』も含め)が来て、あくまでガンバレ、との伝言があったそうだ。
書くものについて、相京氏に話すと、何も気を焦るな、自分も今は勤めの方が忙しくて手がすかないし、第2回の会のことも準備しつつある。加納さんもよい原稿を『思想の科学』に寄せていてくれるし、ということで。
私が八木の父に、私の最初の家出の夜、かくれ家から父に家出のことを書き送った文章、そして、平源の志げるから話を聞いて感じた父の理解のこと、牧師と信徒に対する父の言葉、その態度などで、父の私に対する理解・愛情などは、やはり『あるはなく』の最初に戻って理を深めてもらったほうが賛成だといった。
父らの公判の結果、判決の意義など、もっと父親の心理を書きこむべきだと思った。京氏の言葉によれば、父の死、あの最後を書く必要をもっと感じる。子供との面会の不可能だったことも。
相京氏に旅行とりやめをはっきり宣言して彼は帰る。帰ったあとに彼からの手紙着。著作集(Ⅱ)の原稿には60年頃の、私の母子寮生活のルポをあてる(注:著作集Ⅲになった)、として褒めている。私が苦しんで働いている頃らしい。読んでみたい。はっきりしている。苦悩がはっきりしていると書いて、私に、現在の私にそれを要求(本音を吐くことを)している。
彼が帰り、まもなく秋月玉子来室、はっきり旅行とりやめを表明する。結局そのことで松代や木曾関係各位が救われるのだ。福島も。斎坂氏と玉子を前に、旅行とりやめを語る。これで決定。
木曾福島の福島小学校同級生林藤太郎さんからの手紙で知ったが、林藤さんの骨折りで、著作集15冊、同級生に1冊づつ贈って下さった様子(千村はやさんへも)。贈呈の言葉として、「この本の購入費は身障者(両眼緑内障により失明)手当の一部を有意義な使途として総計19500円充当したものであり、お気軽にお受け取りいただければ幸いと存じます。畏友、八木あきさんは、現在も東京で健筆を振いつつあります。私は同級会以来親しくなり、今も尚親交をつづけております。なお贈呈にあたりましては返礼等は固く御断わり……。」
えらいことになった。長い手紙の上での親交であった。彼氏はついに私からの真意を汲みとり得なかったかも知れない。しかし、生一本な真面目な人である。たとえ思想はわからなくとも、その誠実さを戴く。
奈良の芦沢徹生から振替で5000円届いた様子、彼、どうしていることか。
相京氏が私に求めてやまぬもの、私の本音、真の叫び、それは解った。間接な表現でなく、正面から直截に怒りと不満をぶちまけろ。そうでないと、われわれは物足りぬ、この意見は解っていた。
7月26日(水)
午後、お風呂にいたとき千葉の手塚氏来訪。ともに外出、駅前の喫茶店で話す。彼は私の朝日紙の記事を読んで知っていた。千史夫人は来春には退職するらしい。10年に近い勤務だ。よく思いきった。彼等の新居はやはり千葉に建築とか。私は簡単に松代・木曾行は止めることを話し、電話で面倒かけたことを謝した。
私は相京氏や友人と私との出会いを語っただけ。それから、奈良の徹生から振替用紙の裏に簡単に記した文章を語り、あくまで頑張って下さいという文句の記されてあったことを語ると、打たれたらしく、何度も繰り返し聞き、感慨深い顔をしていた。
それから朝日紙の私の記事の筆者、堀場清子のこと、夫との共著などについて聞いたので簡単に答えた。言葉はときどき詰ったが単純に、要を捉えて話したので、さっぱりした会話ですんだ。たぶん、そう私に失望したこともなかったろうと思う。玄関までわざわざついて送ってくれた。千史ちゃんはたぶん退社するには現在より、よい研究課題、テーマをもって独自の道を歩むことだろう。
芦沢真や手塚君のような存在と対すると、私は否定的な一面よりも、やはり何かいきいきした切迫感があり、充実感があって、東大という彼らの土壌に親近感が生まれるのも妙だ。寸時のひまでも。特権的なシンボルマークであることを承知の上で。言外の理、その理を感ずる快さにおいて、だ。
手塚氏は私の何気ない話の中でも、堀場清子氏を語った私の理解を認めたに違いないと思う。記者として、思想の解説者としてのだ。
7月27日(木)
昨夜はお盆の前ぶれで、広場には映画が(野外での)かかり、人出であった。この部屋のI老婆が消燈時間を過ぎても帰らず、宿直の男子事務員が心配して、映画の野外広場から見つけだし、連れて帰って、騒ぎにもならずにすんだ。老衰ということはおそろしい事実だ。食べものの残りを鳩にやるということで、押入れの中から戸棚の中まで腐敗した食物の捨て場になっている。そのことで事務所から老婆の息子(警視庁)を何度も呼び出して注意を与えたが効き目はあまりなかった。
老人のむつかしさ。彼女は朝から何もせず座って休んでばかりいる。家を買い、息子、娘の家族を住まわせていたが、2人の子供に相談せずに、全然話もせずにその10坪足らずの家を400万で売ってしまった。2人の子供との争いが始まった。彼女はこの老人ホームに入れられ、ときどき訪問してくると、彼女は子や孫に入学祝いとか節旬だとか、毎日の内職で得た金を5000円、入学祝いなどには2万円くらいもたせてやる。所有する財産を決っして子供に分与しないで小金をくれるのだ。
2人の子供は母親の有り金を知っているが金のことは語らない。息子は苦学して巡査になり、娘は子持ちで働いている。共稼ぎだ。そして2人は母を慰問するたび私たち同室の者にも高級なケーキを持参し、事務所にも気をつかっているようだ。この母親のガンコ一徹はどうにも手がつかない。配給のお茶を自分の分は大切にしまっておき、配給の石けんやタオルなど、帰りにもたせてやるらしい。だから、この母親ばかりはお茶を飲むこともせず、われわれのお茶を飲んでいる。洗濯がきらいで、汚い肌着や下バキまで押しこんでいて、いやな匂いを発散する。Mが洗濯や入浴のことを促すと怒って大声でどなり返す。
今晩も8時半だがまだ帰って来ない。行き先はわかっている。野天の映画。私も9時を過ぎたので行ってみた。大ぜいの涼客で人間はわからないから帰ってきたら、9時をとうにすぎている。事務所も平気で時間を無視している。黙ってほおっておいていいのだ。2人はやっと帰ってきた。
7月28日(金)
夜具、ふとんを出して干す日だ。朝早くから各自のものを押入れからとり出し、廊下へたたんだまま積み上げる。大さわぎ。古新聞紙のかわりに小包の包紙を使った。
希望棟へ行く、停電で冷房がきかず、暑くていられない。
7月29日(土)
木曾福島の平田志げるからハガキ、新聞掲載の記事で、木曾方面にも私のニュースが相当のショックだったらしい。福島の原文子さん、林藤太郎氏のこと。私からの音沙汰もないので不思議に思っていたと思う。松代の原兄からの送本を持ち、平田夫妻が八木父上の墓前に捧げてくれたこと等。みさをは9月頃までカナダのモントリオールに滞在するという。米・加の見物をはたして元気に帰るといい。志げるは秋ねえ様とくり返し、くり返し早速たよりを書かねばならぬ。
7月30日(日)
阿部浪子氏来寮。阿部さんの話に、神田へ出たついでに神保町のウニタ書店をのぞいて私の著作集の売れゆきを聞いてみたら、店員が、あの著作集はベストセラー第7位です、よく売れますよ、といった由。むろん、ベストセラーというのはウニタの順位のことだ。重版しても大丈夫だろう。
それにしても、この沈滞ぶりは重症だ。八木は。筆意転換のためにまたしても木曾行方向転換病か。かなり重症なのは事実だ。秋子を救え──。秋子よ、奮起せよ、老衰がなんだ。
木曾へ行きたい、とは何の夢だろう。ただただ沈滞を破りたいのだ。
読売紙に、鹿児島に住む椋鳩十の断煙の談話が出ていた。彼は1日に80本の愛煙家。年齢73歳。心臓の故障、運動不足が癒った。1日に入浴6回、タワシの様なもので全身を摩擦する。ぬるま湯の入浴。等々。この無気力、沈滞は? これをどうするか。いま、現在、この部屋は静かだ。しかし、起きあがるエネルギーがどこからも湧き起たない。この沈滞を突き破るものは?
あるいは、敏感な人は私を模倣し、真似る人間も出現するかもわからない。模倣するならしてみるもよかろう。アナーキズムの出発、生命を賭ける女の生き方を文学的な筆鋒で真似ることのできる者があるなら。
さて、わたしのしばらくの懸念、宿題としては、幼時、少女時代、父のこと、姉のこと、友のこと、少女期を過した木曾の自然、及び環境、銀行事件、検定試験の勉強、その頃の読書(『マテオ・ファルコネ』メリメ作等)の与えたもの。結婚の失敗、などを淡々と戯作めいて──。家出、子を捨てることについて母性の叙述など。
これらは逃れられない宿題、私の運命だ。
7月31日(月)
ひどく暑い、ぬぐう暇なき流汗。7月は今日で終わりである。私の〈面会おことわり〉は7月とともに解消のはず。だが、事務所の掲示は依然として撤去に至らない。斎坂さんに聞いてみようと思うが、あの人事務所にいない。思えば、ジャーナリスト撃退の手段にと思うと、面倒臭くなくていいな、とも思う。