8月1日(火)
暑い、雷雨のまねごとが折りおり。流汗りんり。
相京君から「思想の科学」。今日原四郎、矢次一夫、京都の宮木典代さんからも。
矢次氏から「8月14日はご都合いかが、昼でも夜でもよろしく。帝国ホテルが涼しいので、久しぶりに食事を致しましょう。洋、和、華、何でもあるので。但し夜か昼かご都合を、誰かおつれになりたい人があったら御遠慮なく」と。
原四郎「相京さんからお手紙と写真と改めて本一冊を頂き………」
加納実紀代「屹立する精神──八木秋子論ノート」(『思想の科学』1978年8月)が送られてきた。厳しい視点に立っている筆者。その厳しさに屹立する精神、魂などの言葉、形容詞などがついて、迷い、苦しみ、結論までにひまのかかる私。愚な思考や迷路に踏み込んで、いくたび進路を失いかけたか。私の苦しみは何の足しにもならぬ。宗教や人種の問題、未開の生きることさえ不可能な人種、婦人、母などの生命の問題なのだ。現象以下の悲しき人々だ。あまり大きな問題すぎるが──。
このままの状態と、このままの生活線上で平気で死ねるだろうか。わたしは、この八木秋は──。
8月3日(土)
昨日病院の眼科で診断をうけた。そして、私の報道関係の面会謝絶の掲示について、不当な処置なので、森係長に話したら、担当の斎坂が出勤したら話すから待つように、との返事。この日、運動場に建設したパイプ製の踊り屋台でこの院の盆踊り。おそくまで、たいへんな費用であろう。老人たちの踊り、うた、職員たちの隠し芸。西瓜を一切づつ貰った。
森係長の指示であろうか、午後、斎坂寮母が来て、八木秋の面会お断わりという札をとりのぞき、今日限り解除を知らせてきてくれた。病院、眼科の診察を忘れず、定期診察して貰うため、毎月1回、寮母について病院行の注意あり。毎月1日前後。
今日も暑さにうだって、図書館に行ってもハガキも書けず、秋子よ、昨年の6月、遁走で帰ったときから始めた希望棟行、その冒険と未知の世界にひたすら相京君を信じてとりかかったこの冒険、この未知の世界を忘れるな。
8月5日(土)
例の岸信介の盟友、矢次一夫氏から重ねてハガキあり。いまさら岸の親友にゴチソウになるのも──と思って、暑さにまけて──とハガキの返事を出した。眼科の診察の結果は大したことはなかった。
庭の広場の盆踊りは昨晩(4日夜)で終わった。何もかも面白くない。第一に何も構想が湧き起らず、意欲が湧き起らない。
『思想の科学』の8月号を加納さんが送ってくれた。
冒頭に「八木秋子と相京範昭氏は心友ともいうべき間柄である。2人の会話をきいていると、私などほほえましいよりは妬ましくなってしまう」
「北斎の鵜図を私に示し、これ八木さんに似ていると思いませんか」
「八木秋子には自立ではなく屹立という言葉こそがふさわしい、その点にこそ私の限りない傾倒もあり、また反撥もあるようである」。
屹立──父(傾倒)、反撥、独房にとりあげた父との会話、彼女は神との対話という。反撥──母との対話。常に自分以外に主人をもたぬ女? 屹立といえる精神か。
私は迷い、悩み、その故苦しんだ。屹立という言葉の虚像にいまさら傷ついてはならぬ。ありのままに、自分自身の自由に飛翔したい。あるがままの自分、愚しく、中途半端な、芝居気の自分に──。ただ、私の前途はもう何程も残っていない。最後の大切な時間を私らしく生きよ。精神の強さを私の(女性)で包んで。
8月6日(日)
日曜、同室のI老婆は今日娘が迎えに来て家に帰った。1週間位の予定で帰寮するという。86歳になる。毎日内職で希望棟へ出かけ、月に5000円ほどの零細の金を稼いで倦きない。
その老婆が昨晩、私に老いらくの恋について語った。いつも、きたない老人が誘いにきて、出かけて行き、帰りはいつも消燈時間後となってわれわれを困らせている。彼女はいつも散歩を装ってぶらぶら歩いている。2人で会うのは、どこで、それからどうするのか。会うのは広い構内で、樹立が深いのだからどこでも会える。だが、道端で、建物のかげで──というわけにはいかない。
彼女によれば、手を握りあったり、抱きあったり、キッスは出来、それ以上は、寝るということはとてもできない。だが、たまに寝ることはある。部屋は狭くとも、ふわっとした、きれいなふとんで。それには1時間ほどのことで、金が一度で、1500円から2000円とられる。だから、いつもというわけにはいかない。
こういうわけで、彼女は息子や娘の家に、お盆で帰るのを迎えが来ても喜ばない。娘、息子の家に帰るのには、彼女の話によると、お寺の読経料、あげもの、など近所へのおみやげ、ごちそうなど、それに孫どものおみやげの小遣いとして、彼女の貯金を下して3万くらいは懐ろに持っていく。皆、それを待っていて喜ぶという。3万。
彼女は18歳の時、発奮して一人東京へ来た、伊勢から。3人の年子を産んだ。××(2字不明)歳のとき夫が死んだ。その時から彼女の闘いが始まった。東京と伊勢を重たい荷物をかついで、文字通り死に物狂いで稼いだ。家を一軒買った。10坪に足らぬ家を、無我夢中で稼いで買ったその家を、息子にも娘にも相談なしで売った。2人の子から強い抗議が出たが、自分で買ったものは自分で売るのは勝手だ、と受け付けなかった。その頃から親子の間に別の感情が生まれた。そして、彼女は子供たちから、ほとんど命令的にこの施設へ送り込まれて今日に至っている。息子たちは、苦学して明大を出て警宮になり、結婚して結婚式場で働いている。彼女はたびたび夜遊びなどして規則違反をやる。警官の息子は心配で説諭などするらしいが彼女は平気。金のある事実は大きいのだ。いまこの部屋は平和だ。Tのいないことで。
広島原爆記念日。
8月8日(火)
猛暑、言葉なし。午後3時近く、ひょっこり加納実紀代氏来訪。Mの饒舌から脱れるため2人で外へ出る。出る前から、氏の私の呼び方、屹立せる魂、精神の屹立──について、私の反面(側面)の愚さについて語った。母との対話を希望することの反発として、父を理想化し、父を偏愛すると見る彼女に、父の実像を語りたく、ともに連れ立って、踏み切りの例の喫茶店へ入る。アイスコーヒーを2人で。彼女は私の言葉をよく記憶していて、2人の兄の愚鈍さ、姉の面白さなど鋭く突っ込んでくる。私は裸身の愚さをぶちまけて早く正体を見せたい情熱に押されてか、我が家の、我が両親の見方など思い浮ぶままに語った。私がいかに好奇心が強く、いかに愚であるかの正体。
実状として、長篇を書きつつあったとき迷いこんできた文無しの裸の彫刻青年を知り、その人間から何を感じ、何を得たかを語ったりもした。だが、これらは長い過去の放浪の産物、余技でもある。加納さんはこんな私の饒舌をどんな気持できいてくれたか。恐らく、現実暴露、深い失望と混乱で受応したか、反発したかとも思う。
こんな無意味な自虐の自己弁明も、これも(書けない)という私の精神のドン詰りの説明でしかないだろう。加納さんには愚鈍を愚鈍としてさらけ出しても済むだろうが、相京氏にはこのまま沈黙しているわけには行かない。天国からこの地獄への瞬間の変化がどこから生まれたものか、八木秋子の実状は何か、私に反省の余地ありやなしや。何もかも相京氏の前に曝け出して批判をこい、相京氏から徹底的な批判を投げつけて貰わなければ死ぬに死なれぬ気持だ。
私はさんざん相京氏を苦しめ、施設の種々相を調べて貰ったり、すべてが不可能(金)と判って無益な心労に終わることも考えずに──その徒労に終わったことの報告の末に、実によい、絶望の老婆に手紙をくれた。あの手紙は再読、再々読しなければならない。私は今相京氏から思いきり罵倒されたい、思いきり打ちのめされたい。
上野池の端で催された納涼大会に出席した人たち(M等)がいま帰ってきた。いただきものの大きな紙袋の重たいのを下げて、自院の盆踊りにも何かいろいろの景品がついた。
以上、転生記、完
八木秋子の「転生記」はこの日が最後となりました。
その後の八木秋子の状況は第7号からの「あるはなく」で報告されていきます。
凡例
*あきらかな誤字脱字は訂正した。
*文意を損なわない範囲で、句読点及び改行位置の変更を行った。
*主語が重複する場合、若干の削除を行った。(なお、一人称の表記は、あえて統一していない。)
*一部の人名については、初出のみ、〔 〕の中に名を添えた。