■馬頭星雲号(1983年5月発行)
- 私と八木秋子(一) 相京範昭(小平市)
- 私と八木秋子(二) 相京範昭(小平市)
- 私と八木秋子 病棟記 相京範昭(小平市)
- 私と八木秋子 佐藤房恵(札幌市)
- 私と八木秋子 富沢 透(小田原市)
- 私と八木秋子(一) 光田全璃子(京都市)
- 私と八木秋子(二) 光田全璃子(京都市)
- 私と八木秋子 神田由美子(横浜市)
- 書評 「時」に踵をつかまえられながら 西川 祐子
一 手づくり手わたしの本の独り歩き
二 著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』
三 著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』
四 著作集Ⅲ『異境への往還から
五 未完のつづき - 編集後記
- 弔電 急告 合本について 楢山節考
■私と八木秋子(一) 相京範昭 (小平市)
私は八木あきさんの葬儀の翌朝、5月2日に、八木さんの”ふるさと”木曽へ着いた。その3日前、29日に、群馬県前橋市の岡照子さんから八木さんが危篤との連絡を頂いた。昏唾状態の続く八木さんの傍に行ったのは午後3時だった。それから斎場にて、完全に燃え尽きた八木あきさんの、軽い、真白い骨を拾うまで八木さんと過すことができた。
私が通信「あるはなく」を発行するに際して、心に決めたとおり、八木さんの骨を拾い、見るべきものは見せて頂き、私なりにケジメをつけた。私たちの生活は出会いの連続といえる。しかし、終焉を見届けてゆくことこそ必要なことだ。ひとつ一つのことを刻む作業は歴史を語ることである。歴史をつくることでもある。私はそう思う。
競馬の予想家は自分では馬券を買ってはいけない。それが鉄則だ。私は八木秋子の個人通信「あるはなく」の協力者である。その立場を踏みはずすことなく、私が表現したいことは編集でやりきった。私が八木秋子を語ることはそれで十分だと思っている。
しかし、いかなる形にせよ、八木秋子が私たちに直接表現することが不可能になったいま、私は八木秋子を私の中で日本の近代史に刻み込み、位置を明確にしたいと思う気がする。プロテスタント史、自由民権史、アナーキズムと、日本近代を辺境からじっと見据えていた〈負〉の系譜の中で。
4月30日の未明、八木さんが息を引き取られた夜、前橋の地は風が吹き荒び、大粒の通り雨が降った。満開の八重桜が道路に散っていた。私はその前橋で1年ほど生活したことがある。そこから電車で20分ほど行った所が3年間通学した高校の所在地でもある。私にとって、八木さんが、群馬の、前橋の地で終焉を迎えたことは、不思議なことのような、至極あたりまえのような妙な気持で一杯だった、私の気に入った映画の一つに「貸間あり」がある。川島雄三監督のその映画は最後を次のセリフで締めくくった。
”花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生だ”
私は葬儀の日、東京へ戻り、そのまま新宿から夜行列車に乗って、八木さんが生まれ育った、木曽福島に初めて行った。道を尋ねてまっすぐ長福寺へ向った。長福寺は臨済宗妙心寺派の由緒ある寺のようだが、その日は、とにかく八木さんが埋骨されるであろうお墓を探すことしか眼中になかった。門を入ってみると、墓所らしきものはなかった。いったん門の外に出て、裏へ向う道を見当つけて行ってみると、やはり裏にあった。山吹が咲き乱れる裏山の傾斜に立ち並ぶ墓石の中を、ひとつ一つ探すのは思っていたより困難なことだった。4、5回探してみたが、ない。あるいは寺を記億違いしていたのかと不安になり、途方に暮れた。いよいよ住職に聞かねばならぬかと思い、ふと何げなく下を見ると八木の文字があるではないか、よく見ると”八木あき”による「施餓鬼」の供養を書いた卒塔婆が墓石の陰に二つあった。その墓は「八木家之墓」とはなく、ひとり一人の戒名がその正面に20名書かれてあった。
墓地のあちこちに咲いていた山吹を手折り、駅前で買った線香と著作集のパンフが灰になるまでそこにいた。静かな、さっぱりとした気持のよい朝だった。鶯など小鳥のさえずりが木曽川の川音と共に聞え、昨夜来の雨があがった土の上を蟻が動きまわっている。墓はコケムシてよいものだった。八木さんで八木家も最後。その意味でも八木さんは目分にかかわることは全て処理し終わったのだ。八木さんの骨はまだこちらには届いてないが、私は無性にその場所へ、意識せず、すうーと移動したかった。その点、酒はその役目を十分に果した。
途中、東京で飲んだ酒を醒まさぬよう、ウィスキーを飲みつづけ、ほとんど寝付けぬまま松本に着いたのは4時。白々と明けつつある空は、雲が飛ぶように走り、湧き立つように乱れていた。
初めての木曽は、『夢の落ち葉を』の冒頭に出てくる描写どおり<山は折り重なって窓に迫まり、山また山、せまい空、山から空へ、山肌をはい登る霧>。松本からの列車でウトウトして”はっ”と気づくと、その風景が突然、窓外にあらわれた。驚きとともに胸にわきあがるものを禁じえなかった。嬉しかった。
嬉しかったことは他にもう一つあった。八木さんが世話を受けていた岡さん宅で、私が着いてから葬儀の終わるまで、次から次へと八木さんを知る方から八木さんの甦りをお聞きしたことだ。
私は休刊号を2年出さなかった。また、休刊第1号を出しても、1号分だけは八木さんの懐ろに預けたかった。私は八木さんからのどんな形でもよいから、メッセージを待っていた。必ずあるはずだと確信していた。思ったとおり、八木さんは精神の最も苛酷なところで、みずからの肉体で周囲の方に表現し、メッセージを残した。私は今、それを伝えなければならない。
通信「あるはなく」は八木さんのその時点でのメッセージだった。しかも「書く」ことから「語る」ことへ、そしてそれすら困難になった時、著作集Ⅲを編み、休刊号を発行した。私はその順序を私の八木さんへの緊張した関係の中で判断し、決して見誤ってはならぬと心に決めていた。こちらの単なる思い込みで手を差し伸べること、それは八木さんの「生」を冒漬することだと思っていた。八木さんの肉体が、自然の条理ゆえひとつ一つ消えてゆく、その所を私が補ってゆくこと。それが私と八木さんとの黙契であった。
養育院における八木さんは、休刊号を出した時点で一つの限界を示していた。もう、八木さんのメッセージは、その「生きざま」においてさえ、私に語ることも困難を思わす状況だった。そのあたりについては、”病棟記”でも窺うことができるかと思う。1982年2月、彼女の精神はその前年夏からの状態がいよいよ悪化し、限界を示していた。退院のたびに戻っていた和風寮の寮母さんたちの受容の範囲を逸脱し、もはや個人の思いやりの及ばない状況だった。残る道として八王子の精神病院へ送られる手筈が整えられた。私がそれまで付けなかった八木さんとの話「病棟記」を書こうと思ったのは、そのことを充分予想させたからだ。1978年夏の、脳血栓、大腿部骨折。その入院生活から脱し、暮に退院してから、周期的に、八木さんの精神は病みを繰り返した。八木さんは自分を確かめるために自分から困難なものに身を投げ出して行った。それで八木さんは自身の存在を証明していた。しかし、その方法でしか証すことのできない彼女の尊厳は、現在の機構からはみ出さざるを得ない。それは寮母さんたちも十分に理解できる行為でもあった。現代の福祉のギリギリの所を突いていた。
そこへ救世主のごとく現われたのが、岡照子さんだった。八木さんの姪にあたる方で、それまで長年つきそってこられた夫を失われ、看護婦さんを大勢かかえた大家族が崩れて数ヶ月たち、娘さんの出産のため上京された。
帰郷して半日あまりぼんやりされていて、はっと気づき、上京中聞いた八木さんの病院への移動をなんとか自分が引き取ることで、じぶんは一人で歩けるようになるのではないか、と思い、いてもたってもおられず、とんぼ返りして、養育院をたずね、申し出た。院は個人で世話をできる限界を越えていることを理由に、強く諭したが岡さんの決意は変わらなかった、とうとう病院は折れ、岡さんの住まわれている群馬で引き取られる病院をはっきりさせることなどを条件に3月末、八木さんは群馬の前橋市に移られた。
それからというもの、八木さんが亡くなられるまで、八木さんは幸せな日々の連続であったと思われる。6年有余の養育院に比して夢のような時を過されたに違いなかった。同時に、私はそこでの八木さんの行動を聞き、知るに及んで、八木さんが周囲の方に与えた波は予想以上であったことに気づいた。
最初の頃は、落ちつかず、不安な日々を送っておられた様子で、彼女にとって、常に管理されている意識はどこへ行っても抜けないものだった。そんな彼女も、岡さん、ご家族の、心からのお世話で、平穏な日々を送るようになった。それは、八木さんの尊厳を十分に認めた形で接っせられたことを、特に、排泄に関して、意識ある最後まで、全て岡さんが処理することで解決されたことをきき、本当に八木さんよかった、と言いたかった。
岡さんのご家族はキリスト教の信者であるし、八木さん自身、晩年に洗礼を受けておられた。八木さんは幼い頃よりキリスト教に接っしていたが、小川未明らの意見やその紹介するロシア文学、特にドストエフスキーなどによって八木さんの宗教観は変わった。岡さん宅で、岡さんやご家族の識別も明確でない状況の中に、このような会話がなされた。
「私はあんたのようにキリストを信じたい、信じたいが私の自我がね……。その葛藤なのよ:…」
といって、1日中テーブルのまわりを歩きまわっている。岡さんには、八木さんのそのような世界は立ち入れない、距離をもって接っするしかない、しかしこの場を離れるわけにはいかぬ、と1日中八木さんの側でミシンをしたり、食事の用意をしたり、ただ讃美歌を歌っておられた。私はそのような八木さんへの岡さんの接っし方をうかがい、全て了解した。
その環境だから、八木さんは甦った。そのひとつ一つのことを私は納棺式で、また着いてから前橋を離れるまでずっとうかがった。一言でいえば、その中で八木さんの魂が甦り、その魂に周囲の方々の魂が照応したということだった。日常の生活がほとんど不明であったにも拘わらず、それぞれの人への対応は見事であったともいわれる、日曜礼拝の時の姿は堂々とし最後まで威厳に満ちていたという。埴谷雄高さんが竹内好氏の追悼の中で、存在自体が教師であった、といわれたが、姿、形自体がその存在の証しであることはとても素晴しいことである。ある人はあの大きな眼でじっと見られると、目分を見透かされているようだったともいわれた。
私はキリスト教に接っしたこともない。唯一記憶を辿れば、私が学生の頃、街頭で機動隊に抵抗していた時、群集の中から血を流している私をみて中年の女性が止めに入り、それらしき言葉を聞いたことで抵抗をやめ、逮捕されたことしかない。しかし、第1号の会話、第13号の「往還抄」における宗教に関する八木さんの言葉は深くその周囲の方に響いたように思えた。葬儀の時も前橋キリスト教会舟喜牧師は「あるはなく」の文章を引用しつつ、それぞれの生きざまに還ることを強調された。
私はその方たちから、否定、死、革命について質問され、また話をする機会を得た。私は私の信条とするアナキズムの位置から話をした。と同時に、アナキズム文献の照会をたずねられたが、私は八木さんのものを読んで頂きたい、八木あきさんに対し、それら一切の予備知識なしに認められた方々ならば、他のものの必要を認めません、ともいった。その意味でも、私は通信の初めに書いたように、今、通信の最初にたち戻れる、交通できる、負のバネたり得ると、はっきり断言することができる。八木さんの終焉の場において、私は岡さんと、農村青年社について、アナーキズムについて聞かれるままに答え、心から語り合えることができた。八木さんを、主義からでもなく、過去の業績からでもなく、生まの八木さんを通して、それらを語ることができ、満足感でいっぱいだった、八木さんは4月29日の天皇誕生日を越えること3分、4月30日午前零時3分に大きく息をし、安らかにねむった。翌、5月1日は労働者の行動の日、メーデーである。大正10年4月30日、健一郎を家におき、出ることを決意し、翌1日、第2回メーデーに子を背負ってその会場に行ったことを聞いている。私はあまりそのような運命的なことを信ずるほうではないが、八木さんは日を選んだ、ともいえるような気がする。八木さんが前から言っていたように、棺の中に、著作集、あるはなく、香月泰男、有島武郎、そして北斎による「七小町(小野小町)、卒塔姿」を納めた。望んでいたキリスト教による葬儀もやれた。さすが、献花のとき、硬直した八木さんには何度もサヨナラを、その冷たい体に触れつつ告げたはずなのに、こみあげる涙を押えることができなかった。八木さんが幼い頃から愛唱していた讃美歌493、その2節を知ったことも、私にとって、ああ!八木さんよ!ということでもあったか。
二、そむき去りし子をしのび
夜もいねぬ母のこと
父のかみは待ちたもう
ただ侮いてかえれよと
母を想う子、子を想う母。八木さんは全て知っていながら生きてきたのだ。
私は東京に帰り、思いを巡らしている。私は八木さんの何に魅かれたのか。もう一つ明確にできないそれは、八木さんが獲得した思想を辿らなければならないし、それには時間を必要とする。
八木さんが受けた影響を、人物でいえば、まず姉のフジがあげられる。『夢の落葉を』の三千代はアメリカへ写真結婚で移住する。彼女から八木さんが受けた影響は、単にキリスト教の感化だけでなく、そのような行動から受けるものの方が強烈に残ったにちがいない。八木さんが子供を置いて家を出るとき、一つのバネになったと思う。
八木さんは対話を繰り返してきた。それは常におのれを客体視することでもあるし、深い倫理はそこから発生している。対話の相手は彼女の中で次から次へと変わったが、最初のキリストと、古武士の風貌さえうかがえる父親との出会いによる、その基底のところでの精神の構造は変わることはなかった。だから、その深い倫理観の装いをもつ精神と、アナーキーな、全ての呪縛からの解放を叫ぶアナーキズムと結びつく。一見矛盾するようなそれは、人間そのものである。
私はそこで考える。自分とアナーキズムとの出会い。それは風土だけの問題ではないが、その影響を無視することはできない。私の生まれた群馬県は明治10年代に廃娼運動が展開された。その中心になって動いたのは、明治7年に帰国した新島襄によって影響されたキリスト教徒たちであった。湯浅治郎らを中心とする安中教会は、その後戦時中も体制に抵抗しつづけた柏木義円でも知られる。日本で初めて廃娼県となった群馬の地は、いわゆるキリスト教人道主義の土壌があったといえる。
しかし、一方、強制される倫理観ほどいやなものはない。個人の精神まで支配されることは拒絶したい。自由でありたい。そもそも善なるものは自らが獲得することだ。与えられるものは全て偽善に通ずる。私はおそらくアナーキズムに接っした時、そこを無意識に感じたに違いない。
私は八木さんが幼い頃に感化されたキリスト教をあまり深く考えなかった。むしろ、アメリカへ写真結婚で行ってしまうフジのエネルギー、そして、その地で”穂高クラブ”が生れるほど大勢の青年達が、安曇野から出立したのはなぜか?という事実が心にかかっていた。自由主義者で知られる『暗黒日記』の清沢洌が十代でそのメンバーであり、その地でフジに会っており、八木さんに会った時、その面影があまりにも似ている、と言ったことを八木さんから聞いていたこともあり、その安曇野で彼らを育てた井口喜源治に関心を抱いていた。
しかし、その井口にせよ、フジが直接教えを受けたカナダ聖公会の牛山雪鞋にせよ、それらが明治初期におけるプロテスタントの歴史の大きな流れの一つであったことをそれほど意識はしていなかった。東京へ戻って近くに住む脇地炯さんとの話からそれを偶然紹介され、啓示を受けた。明治のプロテスタントの歴史に興味が湧かざるを得ない。紹介された『明治キリスト教の流域』(太田愛人、築地書館)によると、信州の教会のルーツが「静岡バンド」にあり<徳川300年の伝統を担った者たちが、維新の動乱により江戸を離れて静岡に無禄移住するところからキリスト教に接し、なかでも若い幕臣の系譜に属するものが入信したという、日本プロテスタントの典型的な歴史を>もち、<幕臣のプロテスタントキリスト教受容は、やがて薩長藩閥政府に反抗者としてたった自由民権運動と深い関係>があるという。武力によって日本を制圧した薩長政府が富国強兵の道を天皇を担ぎ出して押し進めた時、辺境に種を蒔きつづけたプロテスタントがいたのだ。そこから輩出する抵抗者たちをあげることはたやすい。アナーキストたちにもそれはいえる。
私はそこで、日本近代での抵抗者の源泉はそこにあるのではないかと考える。私が関心を抱き、共感した人たちが、その大きな流れの中に属すると思う。「回心」後の田中正造しかり。私〈たち〉が十数年前、許すことができなかったのは、単に、社会に対することだけでなく、のうのうと、左翼面をして物を語り、戦後社会にどっぷりつかる腐り切った人間たちだった。俗にいう”人の道を踏みはずす”ものたちだった。倫理とは否定の精神である。自律は自治、自立である。私<たち>と老人との間に属する人たちは、価値観を国家によって強制され、国家によって躁躍された。その国家を徹底して突きつめた誇るべき人間として吉本隆明をあげることができる。否定を問い続けていけば国家など必要としない。私はその位置から私の求める道を歩んでゆきたい。それが、私の夢想する八木秋子、八木あき、の世界でもあるのだ。1983/5/8
■私と八木秋子(二) 相京範昭(小平市)
八木さんが養育院を退寮されてから1年たった。その間、自分の生活に変化が生じたような全く変わらないような、妙な気分が続いている。
夕方になり、会社を出ようとし、八木さんがいた大山駅のある東武東上線に乗れば、そのままいつでも八木さんに会えるような気がしてならなかった。だから、養育院に八木さんがいなくなった、ということを確めることもしなかった。実際、全く連絡の道がとざされていた。ひょっとしたらまだ養育院にいるのかも知れない、という気にもなったことがあった。9月に八木さんの近影と近況を伝える手紙を岡さんより頂き、「ああ、やっぱり行ったんだな」と思ったぐらいだ。正月、帰郷した際、八木さんを訪ねた。お元気な、旺盛な食欲を発揮している八木さんを見て、よかった、と思った。玄関で辞去する時、八木さんはサヨナラとも、お元気で、ともいえなかった。ウッー、ウッ、と言葉を引きずり出そうともがいていた。ただ手だけ強く握るばかりで、その時まで話していた〈言葉〉を見失っていた。扉を閉じてもドアの向う側で、まだウッウッという八木さんの肉声が響いていた。
私は、この5年間、自分が予想した以上の展開にただただとまどうばかりであった。しかし、1つの行為が次から次へと予想外の展開になる、ということは多少の経験をもっていた。私<たち>が1970年前後、学園において、予め計算されたあらゆるまやかし行為に抵抗し、抵抗したことが、また新たな偽善を衡く、といったふうなことがあった。それは今考えると、熱病に患ったように、何かを求めていた時季でもあった。善悪2元論で切って捨てていた単純で、しかし最も嫌悪すべき偽善者たちが支配する社会に、感覚的にノンと叫ぶことは、彼らへの攻撃や、私たち自身の紐帯を強めたものの、その後、やってきた政治の中においてはあまりにも無防備だったのだ。私<たち>にとって、その時の政治に最大の関心があったとは思えない。むしろ、もっと日常的な、小さな単位への関心だった。管理された体制が、かなり強固であることは直感していたからだ。そして、知識人を標傍する人間たちが、左翼を旗印にして私たちの前に出現し、生ま身をさらすことなく、ポーズをとって私たちに接っするのを見た時、彼らも同じ体制に属する人間たちだ、と観た。私にとって、関心はその人間そのものであって、化粧をほどこした、あるいはその背後にそびえる看板ではなかった。
しかし、私たちが日常的な精神に関心が向っていった時、同時に学生という環境が逆に私たちの身を互いに傷つけあっていた。私<たち>は自らの米、パンを汗して稼ぐ前に、箸のあげさげが気になってしまったのだ。私は「大衆」がみえないまま、イラつく時を過し、自ら働く道を選んだ。私は、私自身に区切っていえば、あの時代に特別意味があったとは思えない。自分に何か確固としたものを築いた時期とも思えない。唯いえるのは、友人たち、あの時代でもまれた友との人間関係を通じて自分の中に遺したものはある。それは70年代というよりむしろ、人が通過する20歳前後の、といったほうが正しい。だから、あの時何が私のウェートを占めていたかといえば、自分で確かめられる所のものをまず信用しよう、ということだった。それまで、左翼も現在の体制も、政治=組織=国家というような枠組でものを発想していた。そこからの発想ではひとり一人の顔は見えない。そのような体制から、少なくとも自分の所で一線を引きたい、ということが一番切実なことだった。
私にとって今あの時代を考える時、一つの行動をする時の気持のふっきれ方と、組織に関しての考え方、この二つは今でも有効性をもつ。この点に関してのアナーキズムの思想は私に一つの確信を与えた。アナーキズムの行動性と組織における自由連合論は正しい。しかし、それがアナーキズムだけのものか、はたまた、イズムというより、人間としての自律精神のことだけを言おうとしているのか、私自身よくわからない。私は、アナーキズムとか、マルクシズムとかいうよりも、むしろ、その人間としての思想といいたい。
前にも触れたように、私はその思想が有効か、正しいか、などということより、ある人間の、他人への目差しとか、立ち振るまいとかにより関心が行く。それは程度の問題であって、どちらがどうとかということではない。関心がないわけではないが、それでどうなんだ、といつも思ってしまう。別な言い方をすれば、自分で手に触れ、自分で確かめられることをまず考えたい、と願っているだけだった。
私は八木さんに最初出合い、その言葉を聞いたとき、言葉を大事にする人だとの印象を受けた。また、私と似た考え方をする人に会えた、と思った。その話を聞けば、かなりの深い蓄積された知識をもっていながら、それと自分との距離を保っていることに驚きを感じた。
その最初の出合いとは、こういうことだった。私は学生をやめて、印刷所へ勤めオフセットを動かしていた。そこへ現在の会社の社長、白井新平氏が仕事をもってきた。たまたま私が競馬の馬券を買ったりしていたこともあり、その社長が著名な馬主で、また戦前、アナ系の労働運動に参加していたことを知った。何回か話をするうちに、自分の社に来ないかと誘われた。馬の仕事をさせてくれるなら、ということで結局移った。2年ほどしたある日、八木さんから彼へ手紙が来た。彼が書いて発行していた個人誌『ながれ』を読んだ感想がそこに書いてあり、私も読んで、彼女が、私が彼にもっている関心と似た発想をすることに興味を引かされた。それから数ヶ月後、彼が八木さんを訪ねるから一緒について来るように、勤務として命じた。それがそもそも八木さんの当時、清瀬のアパートを訪ねたきっかけであった。1975年9月某日だった。
家が近いこともあり、また彼女の本棚に私が当時も、また今も関心を抱いている人達、吉本隆明、内村剛介、竹内好、埴谷雄高らの著書が並んでいることへのショックを確かめるため再訪し、内村の『生き急ぐ』を借りてきた。四畳半の部屋はダンボール、タンス、テレビ、コタツ、文机、本棚、食器棚が部屋に高くつみあげられ日の当たらない、決っして快適とは言えない八十媼の質素な部屋だった。社長がそういう形で訪ねたのは、八木さんだけではなかった。その意味では、私は老人に、戦前アナ系の活動をしていた老人に何人も会っていた。しかし、彼らは自分の過去を披瀝するか、または卑下するか、または野次馬性を暴露するか、いずれかであった。八木さんは過去を語ることをあまり快しとはしなかった。あなたにどこまでわかるか、という強い意志を言葉に感じた。八木さんは自分のことは自分でしかわからない、自分自身でそれを綴るという自負があった。私は八木さんに自分の考えていることを素直にぶっつけた。そして、輝くような貴重なヒントをその度に得た。それは、あるいは物の考え方、物への対処の仕方といったふうなものであった。また、子供が翌年の夏、誕生したことも無関係ではなかった。私にとって生きるうえで、八木さんから貴重な言葉を、私の意志を固める意味で受けた。だから、長女を初めて遠くに外出させる時、八木さんの家を選んだ。よろけるような腰つきで八木さんは長女をあやしていた。「ブル……飛行機だよ、ブルブルー」といいながら、泣きそうな長女を抱いていたことを思い出す。
私は大学へ入る前、友人にすすめられて、谷川雁と森崎和江の本を紹介された。その影響は自分ではっきり確認できる。炭坑の男、女たち、自然発生的闘争形態、アナーキーな軍隊に魅きつけられた。そして森崎の語るオモニ、与論島、炭坑の女たちに私自身の農村の女のイメージを重ねた。母親のもつ強さに私はある羨望さえ抱いていたのだ。体内に他者を共有できるという点において男は欠けると思った。少なくとも男である以上、それは実感できぬことであるからだ。その母がもつ、時間や生命に対する世界を知りたいと思ってきた。今村昌平監督が描く、女の強さも影響した。特に都会での生活に、まるで砂をまいたトタンの上に裸足で立っているような感覚を抱いていた私にとって、森崎の描く世界は時間を長く待てといわんばかりに私の中に入った。私はそこに関心を抱いてきた。
八木さんを子供と一緒に訪ねた1976年11月初めから、しばらくして電話し、八木さんの身に変化が生じたことを知った。老人ホーム入りのことだった。詳しいことに立ち入らず、生じたことに対してどのようにも対応しようと決めていた。入る数日前、連絡して訪ねたら、部屋の真中にぼう然と座っている八木さんを見た。あわててリンゴやお茶を出す八木さんに聞くと、片づけようにも手がつかない、自ら整理する能力のなさをしきりに言うばかりであった。そこで、数晩、整理するために通った。書籍類は親戚の方に預けられるということであったので、それは廊下に積みあげ、また家具などは福祉事務所で整理するということであった。老人ホームでは、ほんの少しの身の廻わりのものしか許されないのだ。最底限、人間が食べ、暮らしていくのに必要なものは保障する、だから皆平等に持ちものを削るということだ。だから、捨てるための整理であった。ひとつ一つ確認して、新聞の切り抜きなどの詰まっているダンボール箱などを押し入れから出し、整理するうち、みんな捨てるといい始めた。中にはもう捨ててしまったものもあるという。
私は、八木さんのホーム入りについて入る入らないということに関しては立ち入らないことと決めていた。しかし、八木さんに会って、八木さんの話しから原稿が書き留めてあることを聞いたから、それを捨てることは認めることかできなかった。翌日、友人に頼んで(著作集に全て関わってくれた)、車で前述の私の会社へ運んだ。社長は了解してくれた。
そして八木さんは老人ホーム、養育院へ入った。
それから以降のことは通信で触れた。いろんなことがあったが、とにかく、通信と著作集の発行に関することだけが公けにされることであって、それ以外の養育院、親戚の方とのことは、そういうことがあった、という事実のみ、私の胸中におさめ、自分からは何も語らず沈黙を選びたい。 1983/3/11
■私と八木秋子 病棟記 相京範昭
1981年7月21日
7月21日、数日前約束した毎日新聞の酒井記者と東上線大山駅改札口で待ち合わせた。9時半にそこへ行くと数分遅れて彼がやってきた。安易なパターンで戦後を問い直す(女、無名の)企画でなく、しかも酒井記者の顔と態度が好感もてたので、一緒についてゆくことに決めた。
今までの例だと、たいてい記者とホームとの直接交渉にゆだねたので、特例だといってもよい。NHK、朝日、信濃毎日と、いずれも病状悪化のため面会を拒否された。
今回は企画と記者の謙虚な態度と、そして、私の側からいうと、著作集の完結という時期と八木さんの肉体的老化の問題から、最終的な局面でのマスコミとの接触と考えていたからだった。そこへ酒井記者の独断で龍渓書舎のMさんがこられるとの話を酒井記者から聞いた。小事、ということで了解した。ただし3人で訪問するのではなく、2人でいってMさんは廊下で待っている、ということにした。
例のように、玄関で面会票を書いて和風寮1階をおとずれたとき、看護室で山之上婦長さんが電話をされていた。「ちょっと待っていて下さい」といわれたので廊下のソファに腰かけて待っていた。電話が終わって話を聞くと、八木さんはまた精神病棟へ入ったという。19日だった。そして今回は今までより全く調子が悪い、担当の木戸医師によると、もうホームという施設では看護不能ではなかろうか、精神病院行きを指示した、という。
しかし寮母の人たちが、その申し出を断わって、とにかく入院させたという。婦長としては、薬を用いて安定剤を飲ますと、八木さんは食も細り、体力、気力が急激に落ちる、薬づけにしたくないので、今はほとんど薬を使っていない、木戸先生は薬も利かないといっていたといわれた。症状というと、寮母、看護婦のあとをついて回わって、じっと落ちついてすわることができずにウロウロ、イラだたしげにいるという。自分で物を考え、考えたことが実行できない自分に腹がたっているようだ。そして、ウーウーと胸をかきむしるようにしてしゃべろうとしている。また、胸の名札を取るようにしきりに訴えるそうだ。いうなれば、プライドが傷つくということでしょうか、と山之上さんは話された。寮の世話をする人たちは確かによくしてくれていた。勿論、特別八木さんだけにそうしているのではないが、私が十日にいっぺんぐらいいくと、よく皆さんあいさつをしてくれていた。山之上さんは最後にこういった。「そのソファーにすわっているおじいさんみたいに、全く痴呆になるか、動けなくなればこちらで世話もできるのですが、八木さんは動いて自分の状態を確め、そして自分に怒っている」といわれた。
「宿命ですか……」と。
私と酒井さんはお礼をいって、別棟の精神病棟へ向った。
面会できるかどうか不明だったが、どうにでもなれといった心境でエレベーターに乗った。2階、鍵のついている入り口の外からブザーで職員の方を呼んで、面会を告げた。面会簿に記入して、職員の方にたずねて部屋へ入った。すると、目もおちくぼみ、深刻そうな表情をした八木さんがいた。例のごとく、「よくここがわかったねェ」といって、落ちつかない目をキョロキョロしていた。部屋は騒々しい。フロアーに行ってすわったけど、ソファーから畳、そして椅子といったふうに移動して、話は私の長女、りえと長男トモヒロのことだけだった。消息をたずねるといった感じで、それ以上は無理だった。
酒井さんに引き取って頂くことを了解して貰って、私だけ病室へ送った。「八木さん、自分を追いつめることは自重して下さい。額にたてじわがよって貧相ですよ」、といったら「しわが」といって初めて笑った。話しているうちに落ちついてきた。が、やはり時間がかかるような気がした。そして、この病いがある周期をもってやってくることは、埴谷さんがいわれるように、数年のうちに生ききってしまわれるかも知れないと思った。もし、精神病院に移されるということが決まった時、私はどう対応したらいいだろうか。
あまりにもそれは悲惨じゃないか、という人が多いかも知れない。しかし、私はこの道は八木さんが選んだ道だ、だからそれを私らが変えることは許されるべきではない、と思う。八木さんは自分で困難な状況を切り開いてきたし、これからもそうするに違いない。八木さんも、そして私も金がない。金や地位で老後の安定を買うことができないという現実をキチンと見たうえで、考えていきたい。金の亡者の如く小銭をため、人に批難を受けながら老後の安定のために必死に稼ぐ人に拮抗するのは、自分の道を生き抜くしかないと思う。それを私は記録することが今一番八木さんにとっても望まれることではないだろうか。
7月27日
地元の花小金井での自主上映会「襤褸の旗」を昨日すませ、その田中正造の生きざまに興味をもって八木さんを訪ねた。昼は昼で鄭哲さんが社長と話をして、自分の考えに一番似ていたのがアナーキズムだった、といい、とまれ一様に「感」「直感」を話されるのには合点がいった所があった。大杉の「昆虫記」の世界だろうか。社を出たのがもう6時すぎだった。
大山についたのが6時40分近かったので、30分ぐらいしかいられないと思っていった。受けつけ簿に名前を記入して病室へ行くと予想以上にすっきりしている感じだった。今回も子供の安否を聞いて、昨日がりえの誕生日だったことを話したりしていたら、問う前に、調子が戻った理由を話し始めた。
それによると、病室に入っている人で、仮にB子さんとする。そのB子さんは病人の世話をよくする。それぞれの部屋に入って毛布をかけてやったり、食事をもってきてくれたり、「あんたを元気にさせるためにやる」「だれも疲れないためにやる。あんたを生かして退院させるために」とにかく一生懸命やっている。その人が、こういったのだ。「私はそういうふうに暗記してしゃべるような言い方はきらいだ。なにか緊張して完成するのはうそだ。普通の人間はできない。それは長続きしない」っていうのだ。それを聞いたら、胸のあたりが自由になったように私は思う、と八木さんは言ってすっかり気持が落ちついていた。「自由にならなければならないね」というが、その言葉のあとに「でも緊張してた方がいいものはできると思うよ」と念を押した。
そのあと間をおかず、「最近読んだ中で何かよい本はあった?と聞かれた。私は田中正造のことについて書いた林竹二の『田中正造の生涯』を話した。田中正造の思想的大変化、「回心」。自己否定の部分は八木さんも大層喜んでくれた。回心という言葉に”それはいい言葉だなあ”と感極まったように言った。村上一郎の『人生とは何か』にも出てくるが、回心とは、キリスト教などで過去の俗人的意志を侮い、改めて神の正しい信仰へ心を向けること。そして同様に(仏)では〔えしん〕といい、邪心を改めて仏の正道に帰依すること。
いずれにしても、今日の八木さんは落ち着いていて、一つの作業を終えた顔をしていた。彼女にとって己に対する責めのいらだちが積み重って、それがウロウロする所作となって現象する。彼女は自分の状態をはっきり認識している。そしてはたからみると、病気と思われる行動をとらざるを得ないのだ。
8月1日
無名の人といった時、自ら無名たらんとする人とそうでない場合とは違う。しかし、無名であることは特別に意味を持っているわけでない。何かを表現するために無名を看板にするのはまちがっている。名があろうとなかろうと、その人が表現する点においては何ら変わるはずがない。名が知れる知れないは関係ない。それは人から人へどう響くかだけの問題だ。要するに有名に対し無名を対置するだけでは、その人の位置はでない。双方に対する距離が計られていない。ジャーナリステックだといえる。
8月2日
毎日新聞に28日載った記事、特に写真についてハガキがきた。1人は明々寮に入っていて八木さんのところを訪ねているBさんという73才のお婆さんからだ。要するに、毎日新聞の報道ぶりをみて、八木さんの過去は触れさせないで、そっとしておいたらどうかという意見だ。養育院で8年すごした人だそうだ。
たしかに最初の最初から、八木さんのことをやって周囲をあわただしくさせるより、そっとしておいたほうがよいのではないか、とか思ったこともあった。それは今もある。また、今後もずっと私の中で問い続けることだ。
しかし、八木さんがジャーナリズムに振りまわされるようならば、それへの対応は私の守備範囲だ。八木さんの生き様、その時点で有している思想=思考を表現するために、八木秋子通信に協力した私としては、その存りようを皆に知ってもらいたいために通信、本の宣伝謀介としてマスコミを利用した。そのことで、八木さんの周囲に波風がたつことは充分承知していた。第Ⅰ集の時、明々寮での取材攻勢の場合もそうだった。私はかろうじて間に合っていると思っているが、他人は私がいるから、と思う人もいるに違いない。しかし、他人の眼を気にしていたら八木さんはそれこそ養育院の、もっといえば管理一般の現代の中で異常として切り捨てられてしまうに違いない。いや、違いないというよりむしろ、八木さんの軌跡の中でそれがなかったら、〈負〉は〈負〉でしかなくなる。感性の突出した部分が現代を拒否する形で、八木さんの中でふつふつと燃える時、それを一方で抑えこもうという意識が内省という形で、ある意味でキリスト教の悪い形が表出してしまう。もちろんその内省が、彼女の魅力なところであるわけだが、諸刃のヤイバとはよくいったもので、ツボの隣りに弱点がある。
いずれにしても、この人の手紙の中にある、過去の電灯はひとつ一つ消して、前へ前へと電気をつけてゆく、という言い方はひっかかる。心やすらかに死ぬために生きる、というようなことだ。死ぬために生きるんじゃない。
八木さんは自らに絶望した時以外は死を考えないといっている。死、自体、どういうことはないとよくいっている。正直なところだと思う、私自身、別に八木さんのことをやっていることは、たいしたことはない。はずみもあろうかと思う。人間、生きていてもやれることはたかが知れている。それなら人と変わった、人のやらないことをやってもいいと思っただけだ。誰かのために何かをやろうなんてことをあまり考えなかった。いや、かつては解放しようと考えた。が、解放してやるのではなくて、自分がその解放される階級に属しているし、自身がそういう思想から解放されなくては何にもならないと思った時、胸が実にスッキリしたことをよく覚えている。八木さんと私との信頼関係はそんなところものじゃない。昨年夏から様子をじっとみていて、通信も発行せず、調子をみてきて、それすら不可能になったと判断して、著作集Ⅲの刊行に踏み切った。そして、八木さんの病状はもう読者に報告する必要はないと判断した。今日は写真が載ってしまったから、ちょっとまずかったが。
8月4日
昨日、八木さんを訪ねた。田舎へ子供たちを連れてゆく途中寄った。相変らず暑い日ざしが照りつけている。
ホームの中は冷房が効いていて涼しいのだが、八木さんの調子はあまりよくなかった。たずねると、ベットに横向きで寝ていて、子供たちと来たことを告げると八木さんは急に立ちあがろうとして、ああ苦しいといって動悸が静まるのをじっとまっていた。本当に苦しそうだった。顔色もあまりすぐれておらず、何だか青ざめて心なしつやも悪かった。反対側の60代の女患者がしきりに私を呼んでしばってあるヒモをほどいてくれ、とか柵をはずして欲しいとかいっている。りえが驚いていたが、看護婦がやってきて、私が「子供を連れてきたから興奮されているようで……」」と言ったら「子供さんが驚いちゃうからね」といっていた。八木さんは以前よくやった。抱こうということもせず、りえの頭をなでて、「大きくなったね、おばあちゃんも早く元気になってみんなと遊べるようになるからね」とまるで教育者のように話していた。
聞いているりえも神妙な顔付でじっと聞いていた。トモヒロもじっとみて、「おおきくなったね」といっただけで、あまりにその患者がうるさいので、香代子とトモヒロを外に出してしまった。八木さんは、「あんたよく育てたね……」と大げさにいうので、笑ってしまった。調子はよくない。しかし、国分さんにも書いたが、あの写真は、ホッとした老人とそれに協力したニコヤカに笑う若い友人という美談から遠く離れたもので、それなりによかったのではなかったかと思っている。今回八木さんに無理は一つも頼んでない。全く私の所に帰する、私が踏まえてゆければよい。
結局、今まで私が八木さんとつきあって、話してきたこと「私が何かなったらあんたしっかりみていて欲しい」「もうあんたに全部まかせているんだから」ということなので、なおさら慎重にならざるを得ない。だから、今度の老婆の人もキリスト教的見地からいっているのか、それとも純粋にそういっているのか、判断がはっきりしないので悩むわけだ。すぐに返事を出そうと思ったけど、やはり八木さんにちょっと聞いてから出そうと思う。田谷さんとも今日、映画会の集まりのあとベンチで話したのだが、その人達が持続してその問いを自らのものとして背負っていくかどうかに全てがかかる。
現代のいわゆる良識的マスコミは、他の世界が見えるから、なおさらその視野は狭くなってきている。感動して、それを契機に事態を切り開けないのだ。その意味では毎日新聞の酒井記者がまとめ切れないところに八木さんの大きさが表われているし、一生懸命さが出ている。私が誤解されるような点は出発時点から覚悟していることだ。
それまでの、そしてこれからの自分の世界を信じるしかない。そして信ぜず変えてゆくしかない。カッコよく言えば、八木さんの修羅場を私が見てゆくことだ。りえやトモヒロを見て広間に集ってきた老人たちが、オレの孫だ、と口ぐちに言う世界を見ることだ。<現代の果て>がそこにある、人間の果てが。
8月21日
今日、一番調子がよかった、落ち着いていた。前回、田舎へ行く前会った時は、テープにとることすら不可能だったので、今日は心配していた。8月2日だったか、子供を連れて行ったことをまた話した。子供はもうあんたを越えている、子供の成長は早いとかいう。オンブしたり、ダッコしたりしたから興奮しなかったか、などと心配している。そんな事実はないのだが、彼女の世界では繰り返し、繰り返しやった行動なのだろう。病室は、相変らず騒音だ。一番元気な、だから人一倍、人のことを世話をする女の人が、とにかくうるさい。人のオシッコをとにかく面倒をみる。それは彼女自身が前に行ったとき管をつけていたように、彼女にとって苦痛だったのだろう。看護婦を呼んでくれ、といったり、あれこれイラだっている。また窓際のオバアさんは、全然関係のない方を向いていながら、ちょっと大きい声で私が喋言ると、全くトンチンカンなことを言って私に応える。以前などその2人で意味不明の言葉のやりとりをしていたこともあった。自分の世界しかなくなっているのだろうか。幼児語や方言がとび出す。
八木さんとの話しは、とぎれとぎれになり、他の人がオヤツ(7:00)に出かけていく。全く静寂な時間がやってきて、落ちつく。「友人というものはいいもんだ」などとゆったりと話す。そして、最近読んだ本の中で感銘うけたものをあげるということになって、灰谷健次郎が「波」に書いていた山本周五郎の中で、「作品の中で自己変革してゆく作家は、自ら創造した人生にいつも未完のものを残している」という文章がよかったことを話した。帰る時、看護婦がドアのカギを閉める時、「普通ですか」と聞かれたので「ええ、普通です」と答えた。
9月28日
今月は2回しか訪ねることができなかった。どうやら体調が少し悪くなってきたようだ。9月18日の時も風邪を引いているらしく、声があれていた。周囲の人も変化があり、入院、退院と、人が入れかわりしている。ベッドの上に正座して話をするのだが、そのうち思い出す言葉が出てこないので、ウンウン捻り出し、息が苦しそうになっている。体全体をゆすって、ノドから絞り出すようにして。そのまま苦しくて心臓も破裂してしまうのではないかと思われるような具合だ。今の状態は頭の中がドスンと倒れているようだといっている。言葉を手軽に覚えて手軽に忘れられる。以前は、私に、いらいらするでしょう、こんなになっちゃって、といっていたが、今はもういわない。昔のこともとりたてて話そうとしない。
私の方からもしないのだが、話す言葉が出ないことで苦しくて苦しくて、そのつらそうな姿を見ていると、もういいや、ということになる。ここ2回も、行くと、しばらく、頭痛、息遣いを整えるかのように大きく大きく息を吸って、そして横になる。
同室は相変らず独り言をいう人達ばかりだ。八木さんは耳が遠くなったといっていたが、だから声を大きくして話していると、他のベッドの人が返事をしたり、話をしたりしている。男はいないし、面会者もほとんどいないので、私に対し、オトウチャン、などといったりする。
八木さんがこのまま和風寮へ戻れず、病院へ入ってしまうようなことになったとしても、私にやれることはこれ以上のことはできない。病状はもはやそこではない。また、私はどうしても、彼女をなんかの形でホームの外へ出して住ますことに抵抗がある。そうすることが何の解決にもならないことだけはわかっている。どんな人間でも老いは必然的にやってくるのだということを、冷厳と見詰めていかなくてはと思っている。いずれ、ここは整理して書かなければならないが、しかし、入っていることが八木さんの状態に対しよい結果を生まないことはわかっているが。
10月19日
北茨城の鉄についての古代史シンポジウム(10/11)や映画会の準備などでしばらく行けなかった。5時頃会社を出た。日が沈むのがずい分早くなってきた。これからの季節は八木さんにとっては迎えやすい。しかし、夜が早くなると、同室の人たちが早く寝てしまうので困る。
だいたい老人たちは寝ていることがほとんどだ。起きてテレビを見るか、食べるか、便所へ行く以外は横になってねている。
実は今日行ったのは、八木さんの入院が3ケ月になるからである。3ケ月を過ぎると籍がなくなる。入院しての治療の見込みがたたない場合は精神病院に行くようになるかも知れないというのであった。結論的にいえば、私はそうなったらそこへ訪ねることしかできない、と思っている。山之上さんが言っていたように、寮母の人たちが面倒をみていてくれていたのだ。それは八木さんの力というか、彼女自身の産み出す人間関係によるものだと思っている。それがかろうじて精神を保っている所だといえよう。不安な気持を胸に、2階へ行ったところ、なかなか看護婦が出てこない。ふと食事の黒板を見たら、八木さんの名がのっていないので、これは退院したな、と思った。案の状、カギを開けた人は、「ああ、八木さんなら退院しましたよ」と言った。すかさず、もとの和風ですか、と聞いたら、そうですよ、といった。あわてて頭を下げ、エレベーターの所へ行って、1階へ降り、廊下伝いに和風寮へ行った。5号室に八木さんはいた。ねむっているようだったが、かまわず起した。
割合しっかりして落ち着いていた。14日に退院したそうである。食事をしていたら、そのあと急にお迎えが来たといって、何のお迎えだと思ったら、もう安心してよい、といわれたので本当にうれしかったそうである。ああいう施設においては、外に出たいという気持と裏腹に出て送られる先はどこかという不安がたちまち生ずる。だからそう聞いたのだろう。そして、その前に精神科の担当の木戸先生から、本のことをほめられたそうである。立派な本であるということ、勤めながらよく書いたものだ、本を発行しているというからよくある本の類だと思っていたが、いやはや本格的な立派な本である、そして内容も立派だ。これは院全体の誇りでもあると言っていたそうである。八木さんは本当にうれしかったといっていた。『うれしいことは、ポツン、ポツンと少しつつ時間が経って出てくるものだ。急にいっぺんにはやってこない』よい言葉である。
西川さんからのフランスの景色をとった写真を見せた。地平線が延々と続く風景である。フランスの伝統、ロングレンスで見ることを感じた。「あんたがた若い人は行ってみたいだろう」といわれたが、いやまだ九州を見ていないので、まだまだ先にとっておくよ、といっておいた。西川さんからはフランス社会党の綱領を約してもらった。”生き様”が語られていると海原峻が書いていたので、興味があったのだ。それに類するものがあった。子供、家庭のこと、精神分析など、人間の精神を正面にすえているようだ。何よりも次の言葉がいい。
『社会主義を選ぶことが自由を選ぶことになるような社会主義を目指す』
というのである。八木さんもいっていた。「内身が問われるんだねえ」と。ポーランドの革命を見よ。
11月10日
風邪を引いたりして訪問できなかった。映画会「自転車泥棒」が26日に終わり、数日して急に寒くなったためか、自律神経がおかしくなり、ちょっと暖いと汗が出、冷えると猛烈に寒く、調子が崩れてしまった。一昨日(8日)秩父の蓑山に登り、秩父の街を山上から見下して気分がスッキリした。今日は5時15分頃訪ねた。すっかり日の沈むのが早くなり、大山駅に着く頃は真暗だった。和風寮の部屋で寝ていた。しばらくして起した。顔のつやは悪くなかった。しかし、足先など白くなっていた。手も肉はだいぶ落ちてしまっている。
いつもの通り家の子供などのことを聞くので、元気だと答え、子供のことを話したら、いいねえ若い人が活動するのを見ていると、いいなあ、と嘆息をついている。でも八木さんもそういう時期はあったでしょうというと、「ウフフフ……」と笑っている。「八木さんはその時点からいつも何かやれると思っているから、過去をなつかしんだりしないんでしょう」といったら、「そうだ。本当にそうだ」。といって、「私は片一方に熱中したと思うと片一方ですぐあきっぽくなってしまう。だけど好奇心をもっているから何でも食ってしまう。食うけど、興味がないことでもやったことがある、自分は彫刻などを本当に勉強したかった、研究ということがあればそれだ」といっていた。だが研究といってもおそらく基礎知識を一番切実に感じたのが彫刻の時なのだろう。じっと一つのことに精進することが、一方で気になってきたのだろうと思われる。
少女小説を読んで、次の変化を楽しみにしているうちに何だかあきっぽいというか、そういうふうになったと思うといっている。「少女時代というのは、やはり思い出があるでしょう。家族のことや父のことを書きたかったからでしょう」と聞いたら「そうだ『夢の落葉を』というのはそうだ」といった。それだけを八木さんは書けたのだ、自分のことというより、木曽で生活している人々、家族、そして父親のことを書きたかったに違いない。だから、書けたのだろう。唯一の自伝はその場面でしかない。また、フジさんの足跡の強烈さをあげた。やはり気になっていたのだそうだ。八木の行動のエネルギーは、子供を置いて出るそれは、おそらく姉のフジの影響が大きいだろう。写真結婚で日本を出ていってしまうそのエネルギーは、八木さんにとってあこがれていたのだろう。それが八木さんの結婚、破婚につながるのだろう。
父親は大沢家からきた養子である。藩士であったおじいさんに子供がいなくて、父親が迎えられた。名門大沢家の出で、女房も名家。八木家は名門であった。今日は父親の養子のことを確認できた。いつかそれを.尋ねた時、強く否定されたので、どうかと思ったが。それからフジさんの存在をかなり意識していたことは、八木さんの初発のエネルギー源として非常に了解できることだ。
1982年1月11日
11月下旬と12月中旬に行った。12月中旬にまた入院した。暮の25日りえを連れて行った。騒々しい街中とはうって変わった、真白い空間があった。りえは帰りにいった。「八木のおばあちゃんはパリパリね」。最初、何のことだか解からなかったが、それが顔のことを言っていることに気がついた。成程よくひかっているが、まるで甲羅のようにやわらかさがない。一つ笑うと連動して顔中しわだらけになる。りえをみて喜んでくれていた。ホッペの赤いのが、いかにも田舎の小娘といった感じなのだろう。11月の末に行った時、いつものように八木さんは聞いた。「あんた最近読んだものの中で感動したものはなんだね」その時は深沢七郎のものを言った。
それから、最近特に多いのだが、会って話を始めると胸の動降が早まるらしくて、胸を押えて苦しがることが多い。「ああ苦しい」という。「むりしなくてもいいですよ、寝てて下さい」というのだけど、足が動かないようで、正座から横になろうとして足をバラすことができない。こちらは別に手伝わない。どうしても無理だったら手伝う主義だ。また寝る時も枕をしなくて、そのまま首を宙に浮かしてしばらくいることがある。背がかなり曲っているせいなのだ。
その前もりえを連れて、八木さんを訪ねた。その時のことをよく話していた。「子供の成長はすごいものだねえ、あんたはたいしたものだよ」「そんなことをいわれたって子供は自然に大きくなりますよ」「その自然がいいんだ」などと禅問答のようなことを話したことを覚えている。
また、「あんたは今でも奥さんに読書の方法などを教えているの?」なんて聞くから、「いや方法なんて目分も知らないし、うちのも別に、ただ読んで面白かったものはよく話しますが」。こういった類の話はきりがない、何を話したいのか、どうもよくわからないところがある。そのことを勧める意味で言っているのか、どうか。それから映画会の話になる。「皆、集っているんでしょうね」「何?映画会?」「そう」「集ってますよ、結構楽しくやってます」「いいねえ、若いってことだよ。どんどんやるべきだ。やってやってぶつかるまでやって本当のことがわかるよ、いいねえ…、足が痛くなって困ったよ、ところであんたいくつになったの?」「32ですよ」「若いねえ……」「八木さんが女人芸術をやっていたころですよ」「そりゃ、若いはずだ、ハハハ……」。
西川さんによい文章(『思想の科学』の書評)をもらってからまだ行っていない。
1月19日
1月15日、今年初めて養育院を訪ねた。取手の國分さんから送られてきた梅を持って届けた。12時頃、彼女は寝ていた。硬直したような空気が瞬間ぐにゃっとする。あの病棟は形のない人たちが多い。私たちは必死になって意味づけをする。形を造ろうとする。つくと、イビキをたてながら寝ていて、そっとうすめを開ける。そしてニヤと笑っている。「どうです、家に変わりはないの」「変わったことは……」といつものように彼女は話しかける。僕が椅子を取りに食堂へ行き戻ってくると起きあがっていた。
その日はテープをもっていった。話はなかなかかみあわなかった。が最後に、私ももっと頑張らなけりゃと久しぶりに言った。先程、西川さんから電話があった。17日に八木さんを訪ねたが、自分が最初はわからなかった。列車に乗った話からわかったようだった。大連へはどのくらいかかる?と、満州時代の話ばっかりしていたようだ。そして一緒に列車に乗って行こうというように話しかけてきた、という。15日、養育院を出て、石川すずさんを訪ねた。八戸の岩織さんを案内して一緒に訪ねた。
3月15日
先日西川さんに葉書を出した。一つのことが終わり、一つのことが始まる、ぼんやりした気持です、と。
実は、八木さんが養育院を移ることになった。3月5日に八木さんを訪ねたら、まあいつものように話をしていたが、かみあわないことが多かった。林藤さんから送って頂いたリンゴを届けたが、林藤さんがなくなったことを話したら飛びあがらんばかりに驚いた。私からいうと逆に驚いた。もっと淡々とした感じで聞いてくれるかと思っていたものだからだ。あまり激しいショックのようなので聞いたら、実は金を借りていた、その金を返却できない、その罪の観念が身にふりかかっているようだった。その直後、看護婦がやってきて、他の患者をみていたが、帰りに、八木さんが前橋へ行かれることご存知ですか、といわれた。今度はこちらが椅子から立ちあがらんばかりに驚いて、そのことを聞こうとすると、八木さんが何の話し?などといって聞き返し、林藤さんのことをしきりに言おうとするものだから、看護室へ行って話をきいた。つまり、義兄の原さんの娘、照子(岡)さんが引きとるということだ。前橋という地名を出されたから、ひょっとしたら前橋の精神病院かと覚悟したのだが、それが岡照子さんの家ときいて一応安心した。その日、会っていたら八木さんは姪の秋月玉子さんのことをいい始めて、オカシイなと思っていたが、それが岡照子さんのことだったわけだ。
看護婦の話によると、もう何度か来院していて、今度10日に来る時、移動する日を決定するという。もちろん私の方には何の沙汰もなかった。さすがに動揺した。1階におりて、ソファーでしばらく煙草を喫って考えた。つまり移ることで起こる自分の動き方である。少なくとも八木さんにまた会えるようになるのは、非常に少なくなることは予想された。あるいは、二度と生きては会えなくなるかも知れないと感じていた。養育院にせよ、あるいは精神病院にせよ、彼女の最後の時間に立ち会えるのは、立ち会いたいのはこの自分だと最初から決めていたことが、はぐらかされたような気がしてならなかった。
何度となく、自分で予感して、あれこれ空想して、その時のことも覚悟してきた。肉親がここにきて引き取るなんてことは予想だにしなかった。聞いたら、岡さんの夫が急死されたのだそうだ。さみしくて、心の張りがなく、八木さんが精神病院に移ると聞いて、あまりにも可哀いそうだといって、前橋に引き取ることを決心したという。
空洞を埋めるためか、キリスト教信者としてそれを義務と考えたのか、ふって湧いたような事情に八木さんはとまどうばかりであった。3月10日に移る日を決めに来るということだったので、3月10日に再び行った。
仕事で遅くなって、6時半を過ぎて、もう7時だったか?おやつが終わっていたから、あるいは7時も過ぎたのかも知れない。着いたら食堂にいて、部屋に行って話した。その日は実に落ちついていた。テープをもっていかなかったのが残念だった。
八木さんの大きなポイントを話されたと思った。それは空想=想像ということだった。彼女がいうに、「私の本質は空想することだと思う、私は年がいくつになっても、自分で魅力を失なわないものがある。それは小さい時から自分でもっている空想癖だ。ものを見なくても、ああじゃないか、こうじゃないか、と思いを巡らす。本当にあれこれ空想する。たとえば、天の橋立というのがあるとすれば、その風景を想像し、いろんなことを思う。実際みれば、それに失望することもあるが、そこではじめてわかる。その繰り返しばっかりだ。そういう空想がよかったんだ」と空想ということについて話した。
空想の世界ではみな平等だ。誰とでも話をすることができる、ああなりたいとか、こうなりたいとかの空想ではない。おそらく、そこで対話をしているのだろう。帰りは8時近くなったが、”あんた空想でもいい、そこに実際顔を出して、用があってもなくても来てくれればいいと思う”といっていた。
この間、夢と現実のあいだを行ったりきたりしていて、いろんな夢をみているだろうとは感じていることだ。信州の渡辺さんのことも言っていた。彼女は自分の子供をなかなか面白く観察していると。また、私の着ているコートを見て「いいものだねえ」というから、「売れ残ったバーゲンで買ったんだ」と言ったら「売れ残ったものにいいものがある、また同時に新しいものが好きだ」とも言っていた。また「何か書いている?」というから、「書いている」といったら、「書こうとする対象があるということはいいことだ。ボヤーとしたものを整理して、書けたら私に見せてくれ」と言った。私にとってこのノートのことだったが、そんなことをあれこれ話していて、時間が来たので帰ろうとした。
ちょうど一番窓側にいるお婆さんがかなり具合が悪いようで、木戸先生がきていた。看護婦に正式に移る日のことを聞いたら、23日ということだった。が帰る時もう一度木戸先生に聞いているので、中に入って聞こうとしたら、八木さんのベットから見えるところだったので、それでまた八木さんが気にかけてはまずいと思ったので、他のドアを互いに見合ってそちらへ行った。”よかったですね”。”はい”と一言いっただけだったが、入院、退院のくり返しの中で、始めからずっと担当されて、八木さんを見てきたヒトだから、そこに通う私もずっと見ていてくれたのだろうと思う。
病室の状況は相変わらずだ。すぐ隣りの人はひどくやせ衰えているにもかかわらず、くり返しくり返し起きあがる。まるで腹筋の運動をするようにだ。よくみたら、ひもでくくってある。下半身は動けないようにしてある。声もあまりたてないで、時々うなるばかりだ。表情もなく、食事も一人ではできない。目も死んでいる。一番窓側の人は点滴を受けていた。通路をはさんでの人は”目覚ましを盗まれた”とかいって、すごみのある目をしてぶつぶつ言っていた。また八木さんに言わせると”かわいそうだけどパァなんだ”という人は、入ってきて、室の番号をしきりに言ってここか、どこかとうろうろする。入院したての時はもっと物がわかっていて、私を受付で見かけると”八木さん、息子さんが来たよ”といって案内してくれた人だ。よく人の世話をしていた人だが、だいぶやせてきたようだ。白い静かな空間が次の瞬間ぐにゃっとして生肉をあらわにしたようになる。顔を”くしゃ”とするタレントがいたが、それを思い出させる。
3月17日
昨日行ってきた。少しひどかった。その前日あたり、送別会かあったらしい。そこで初めて、自分か退院するということ、岡さんが関係すること、岡さんの主人がなくなられたということ、それが断片的にわかったようだ。しかし、その断片が全体的に組みたてられない。こんなよいことがあっていいはずかない、と繰り返し繰り返し言っていた。もっといろんな話を聞きたいと思って行ったが、残念ながら周囲の変化に面食らって、その情況にどう対応したらよいのか、苦慮しているようだった。何か自分の身について情況の変化か生じていることはわかっているか、もう一つ理解できないもどかしさである。
しばらく説明していたが、最後まで変わらなかった。
3月19日
この苛立ちは何か。一つのことを予感する。前橋の岡家へ行った八木さんが、帰るといって家を出てしまうことだ。そして完全に手に余るということになって、老人ホームにも入れず、精神病院に入ってしまうというようなことを予感する。あるいは、そう考えることは、養育院から他拠へ移るということを全く予想をしていなかったからかも知れない。しかも突然にやって来た。だから心の準備というべきものが整っていないのだ、おそらくそうだろう。
岡さんから連絡はない。葉書に何か手伝うことがあったら連絡して欲しいと書いて出したが、彼女の引き取る真意がいま一つ不明だ。その体制が整っているのかどうか、どれだけ現在の八木さんの状態が理解できているのか。
今一つ不明なのは、最初からそうなのだが、八木さんのキリスト教観だ。彼女はその中にキリスト教に深く接触するところがある。あるいは人間キリストなのかも知れないが。葬式はキリスト教でやってくれと言っていた。聖書と香月の画集を一緒に燃やしてくれ、といっていた。あるいは革命家としてのキリストが八木さんの一番根底に流れるものかも知れない。
今一つ八木さんの意識がはっきりしないので迷う。もう状態としても困難なところに来ているのかも知れない。自分で周囲の状況を認識するのがはっきりしなくなったのだから。近いうち、家族を連れて八木さんを訪ねようと思う。これが最後の訪問になるだろうという気がする。和風寮もたずねようと思う。
八木さんが老人ホームに入り、それで通信が始まった。それは経済的な意味からも、八木さんを引き取って面倒を見ることができなかったし、もしそうやると美談になってしまうからだ。美談は拒否したい。ボランティアはいやだ。八木さんを周囲から守ってあげることで、八木さんが幸せとは思わなかった。集団の中で困惑し、迷う八木さんを見て、成程八木さんはどこでも八木さんなのだなと思っていた。八木さんが必死に、その集団の中で自分を自分たらしめようとすることは、八木さんにとってそれまでの生き方の中から自然に出たことで、別に不思議なことではない。その八木さんにとって、他の人間が犠牲になって奉仕するなどといったことがあれば、彼女もその程度の人間ならつきあうわけがない。通信を刊行している時は別にして、休刊以後は特に映画上映会や他のことに精を出した。八木さんとつきあえばあうほど自分で道を拓いていかなくてはと思うようになった。遠く離れることで八木さんに近づけるような気がした。実際八木さんは喜んだ。
いずれにしても、八木さんの老人ホーム入りに際して考えたことは、老後のために一生懸命小銭をためることをやっている人たちのことだ。彼女らは金で老後の安定を計ろうとしている。それを批判することはたやすい。しかし、老いというのはつらいものだ。特に肉親がいないものにとっては金に頼るしかないかも知れない。老いというものはもっと残酷なものだ。私はそんな気がする。
■私と八木秋子 佐藤房恵(札幌市)
八木さんの著作集や「あるはなく」等をまだ熟読しておらず、不勉強で恥しいのですが私の生きる姿勢の大きな道標となるべきものを与えて下さった八木さんと、その八木さんを私に与えて下さった相京さんに喜びと感謝の気持を伝えるだけでもと思いペンをとった次第です。
著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』の書評を朝日新聞上に見つけたとき、非常な興味を惹かれてすぐ著書を手に入れました。そのころ女性解放運動や女性史などの本を少し読みかじっていたのですが、女には選挙権もなく、一人前の人間として扱われていなかったような時代に、現代の女以上に自由に考え、自立を求めて苦難の道を歩み、そしていまも過去の人としてではなく、厳しい生活環境の中に高齢の身を置いて現在をひたむきに生きている八木さんの姿に戦前の女性解放運動が生々しく身近に感じられました。私自身の頭にも生気を吹き込んでくれました。
八木さんにとって根源的な問題である「子供を残して家出をした」ということについてですが、当時の様々な情況の中ではそうせざるを得なかったのだと思いながらも、子供を連れて出ることはどうしてもできなかったのだろうかという気持がもたげてきます。健一郎さんが同じことを再会したときに問うていますが、その答を聞かずに彼は亡くなってしまいました。八木さんが、彼にどう答えようとしたのかお聞きしたかった。
八木さんが不幸な結婚の中で真剣に悩み、苦しみ、その結果、家を出ることに決め、それを実行したというところは女の自立の第一歩であり、自己の確立への大きな羽ばたきだと思うし、そうすべきだったと思います。そしてこの時子供を捨てたこと、このことによってそれ以後ずっと背負う罪の意識-死を意識するほどの苦しみを伴うもの-が、その後の苦難の歩みの支えというか戦う力を出すバネになったといえるのではないでしょうか。八木さんが深い罪の意識を持ちながらも、堂々と自己を貫いて自分を表現できたことの精神的な支えの一つにお父様の存在があったと思います。常にどんな時にも彼女の味方であり、理解者であった尊敬する父親がいたということです。
著作集Ⅲ『異境への往還から』に載った日記によって八木さんの人間像をはっきり識ることができたように思います。私にとっては驚きとしかいいようのない64才の”お年寄り”の心の中の何と瑞々しいことか。何ものにも囚われない自由で柔軟な思考。深い自己への思索。胸に迫る純粋さ。冷静な自己分析。この日記によって、毎日家事や育児に追われる主婦でありながら、いまだ確と主婦意識さえ持てず、自己の確立にはほど遠く、曖昧で核心のない思索にふけり、無為の日々を過ごしている私は、慰められ、勇気づけられ、教えられました。そして「書く」ということの意味も少しながら分かったような気がします。八木さんの過去の足跡や、思想は立派なものですし、その気にさえなれば社会の表舞台で活躍できる方でありながら、常に身を底辺に置かれて高い精神を保っているということに驚かされ、また魅力を感じます。真摯で、厳しい自己を見つめる眼を持った方だと思います。
さらに、83才からの養育院での生活。この煩雑な環境の中での生活を知るに及んで、八木さんの精神がいかに屹立しているかを思い知らされました。
こののち、高齢の八木さんのご健康が心配ですが、お元気な八木さんにお目にかかってお話をうかがう機会があらむことを願っております。
1982/10/9
■私と八木秋子 富沢透(小田原市)
私が八木秋子に会ったのは都合3回だけである。詳しい日時は失念してしまったが、その記憶だけは鮮明に残っている。それは、その都度私に異った印象を与えてくれたからであり、あたかも波瀾の生涯を歩む彼女自身を象徴するかのように、多面体の宝石が視線の変化に併い様々な光を放つが如く、彼女の内なる世界をキラキラと照射していたからであろう。
誤解のプロローグであった。
ある日、私は相京氏を自宅に訪ねた。当時、氏が住んでいた保谷市に私も引越した直後であり、何かの用事に氏の助力をお願いしたのだったと思う。氏は生憎と留守だった。すぐに戻るからという香代子夫人の言に、そのまま帰宅を待つことにし、そして通された居間に、八木秋子がいた。それが初めての出会いだった。不勉強故に彼女の顔も名前も知らない私は、誰だろう? 一瞬訝しくは思ったものの、元来がものに拘泥せぬ方であり、近所の老婆であろうと、親戚の者であろうと、よしんば指名手配の兇悪犯人であろうとも、その正体は問うまい、氏と私が友人同士であるように、氏の家にいる限りは、三段論法の伝ではないが、友人と呼びたい、そんな心の位置のままに、雑談に時を過していた。
私が群馬県出身であることから、『私も群馬には何度か行ったことがありますよ』と、主に郷里の話が中心であった。途中、彼女は力無い口調で『あなたのように、若い人が羨ましい…』と言った。私の心は、瞬時に白けてしまった。ああ、またか……
老人の繰り言とは思いたくないが、私はそれまでに何回も同じような台詞を聞かされてきた。そして、その毎に反発してきたのだ。
”何故にあなたは他人の若さを羨むのだ?”あなたはあなたの道を歩み、今の私と同じ若さを満喫した時を持ち、あなただけにしか過せなかったあなたの人生を、何故に誇示しないのか?何故に他人を羨むのか?
やがて、帰宅した相京氏と共に氏の家を辞去した。車中、氏は八木秋子の過去と現在とについて語り、『あるはなく』の構想について熱っぽく語った。だが、氏を夢中にさせるものが何なのか、それが分からない。別れてきたばかりの八木秋子からは、私の感性の深部にまで届く何ものをも受け取れなかったのだ。
昔は何々であった人、何々をした人、そういう人には興味が無い。ああ、そうだったんですかと答える外にあるまい。
心を奪われるのは、現在を懸命に生きている人であり、長く尾を引く過去、あるいは全く断ち切ってしまった過去と現在との狭間で、その軋轢を試行錯誤し懊悩している人である。
今にして思えば、八木秋子こそ、私が大なる関心を寄せてしかるべき条件を十分に保持している人なのだが、愚かなる私は、彼女のたった一言に長い間こだわっていた。ただただ己の不明を恥じるのみである。
その後、相京氏の労苦の結実である『あるはなく』は、1号、2号と定期的に送られてきた。目は通すものの、それはある固定観念の上に立ってのものであり、八木秋子の実像は、未だ幻の彼方にあった。
Mは、私と相京氏の共通の友であり、郷里の姫路市の一小学校で教鞭を執っている。サッカー通じての生徒達との触れ合いの内で新しい教育の姿を模索している、真っ黒に陽焼けした青年教師である。
そのMの結婚式に氏と共に招かれ、開西在住の姪を訪ねて小旅行する八木秋子と同行することになった。2度目の逢瀬である。「ひかり」の車中、氏と彼女とは隣同士であったが、私の席は何列か後方だった、携えてきた文庫本の活字にも飽き、ビュッフェにでも誘おうと氏の席に向い、そして私は愕然とさせられた。『八木さん、お茶を飲んできますよ』氏の言葉も耳に入らぬかのように、また、車輌の微妙な振動すらも気にせず、八木秋子は、手にした大学ノートに一心不乱に鉛筆を走らせていた。その姿は何と表現したらよいのだろうか、適切な言葉を私は知らない。が、とにかく彼女の小さな身体が仁王像の如く私に迫り、他を寄せつけぬ孤高の内で、燃えさかる魂の炎が眩いばかりの光を放っていたのだ。
おどけたような仕種で両肩をすぼめる氏と共に、ソッとその場を離れた。
『負けた、という感じだな…』
『うん、その通りだ…』
私達は言葉少なに、大してうまくもないコーヒーの味は、尚のこと苦かった。
八木秋子の姿が脳裏を離れない。私の視界を閉ざしていたヴェールは、突如として地に落ちて消えた。
《あなたのように、若い人が羨ましい……》
全ては氷解した。
彼女が羨ましかったのは私ではなく、私の持つ若さだったのだ。何よりも自由を求めた彼女の心の雄叫は、その自由を制限された養老院の生活に耐えられなかったであろうことは想像に難くない。おそらくは一冊の本を読むにさえ様々なわずらわしさがあるだろう。あれもやりたい、これもやりたい、焦ってみてもどうにもならない。同時に、80余才の肉体は日一日と確実に老いていく、相京宅への逃避行は、そんな彼女を取り囲く状況と、その状況の内に我が身を安息させることのできない彼女の心のやるせなさ、その矛盾、その葛藤が共に表出されたものであろう。思えば、私がこだわっていた彼女の言葉は、私に対する叱責でもあるのだ。
”今の私にあなたの若さがあったなら、あなた以上にいろいろのことをやりますよ……”
「ひかり」の車窓には、近景が矢のように流れ去っていく。怪泥たる思いの内で、私は一刻も早く我が家に帰りたかった。そして、『あるはなく』の一字一句をむさぽるように読み直してみたい。今度こそは、嫣然と微笑む八木秋子の笑顔が見られるに違いない。「ひかり」は、しかし東京を離れ続けていった。
『花小金井映画愛好会』は、相京氏等が中心となって活動を続けている自主映画上映会である。在京中は私もその末席で微力ながら、お手伝いをさせてもらっていたが、ある時、確か『楢山節考』の上映会の時だったと思うが、八木さんを招待しようということになり、氏と私とで迎えに行ったことがある。
『あるはなく』は好調に続いており、著作集も刊行され、私の心の内で八木秋子の存在は絶対の位置を占めていた。だが、それとは反比例するかのように、彼女の状態は芳ばしくなかった。否、むしろ最悪だった。氏の言に依れば、風邪をこじらせて入院し、ベッドから落ちて足を骨折し、ようやく退院はしたものの病後の経過はおもわしくなく、老人性痴呆症というのか、所謂「光惚の人」の症状もあらわれ、気力、体力共にめっきり衰えてきたそうな……。
養老院は老人達ばかりの世界である。当然のことなのだろうが、初めて訪れた私は、異次元空間に迷いこんだような錯覚に陥っていた。「老若男女」という言葉が示すように、男がいて、女がいて、老いも若きも、様々な世代の人達が混在してこそ人間社会なのではないだろうか。ある一定年齢以上の老人達だけが生活している社会。異様ともいえる空気の内で、私は息が詰まる思いであった。そして、八木秋子の懊悩の深さと大きさとを改めて知らされた。
車椅子での生活を余儀なくされている彼女は、ただの一人の老婆でしかなかった。何故だ?「ひかり」の車中で私が圧倒された八木秋子ではない。何ものをも怖れず、何ものにも屈せず、凛とした姿勢を貫き通してきた彼女の迫力はどこに霧散してしまったのだ。小柄な彼女の身体は、一回りも二回りも小さく見える。私の内では訳の分からぬ怒りがこみ上げてきていた。ウォーッと発狂しそうな狂暴性に、必死の思いで耐えていた。
ハンドルを握りながら時折バックミラーを覗いては、リアシートの、めっきり覇気の失せた彼女の顔に、私は、思わず目頭の熱くなるのを禁じ得なかった。
根気も無くなったのだろう、30分も画面を観ているうちに『疲れた…少し横になりたい』小さく呟いた。私の心は、不思議と乾いていた。そして、愛しい恋人をエスコートするような思いで、車椅子を押して会場を出た。
八木秋子との出会いと思いとを書いてきたが、今、私にとっての八木秋子とは何かを自問している。結論から言うなら、それは、私の今後の生き様を以てしか答えられぬのではないかということになる。私が魅かれたのは、昔アナキストと活躍した八木秋子ではなく、貧苦の内で、恋もし、一人で懸命に生きている八木秋子なのである。客観的には昔これこれこうであった人が、現在こういう生活をしている。その関係性の妙で耳目を集めることもあろう。確かにその関係性は無視できない面もあろうが、しかし、私はあえてその両者を切り離したい。彼女の前身が平凡な主婦であっても、春を売ぐ女であったとしても、私にはどうでも良いことだ。八木秋子という一人の女性が、養老院という極めて限られた生活空間の内で、相京氏とのコンビで以って『あるはなく』を刊行してきたのだ。それに私が痛く感動し、今、絶大なる拍手を送るのだ。八木秋子の鋭い視線が常に今日と明日とを見据えているように、願わくば、私も昨日の惰性に流されることなく、今日を懸命に生き続けていきたいものだ。
親戚の方の家に身を寄せられたという八木さんだが、今頃は、のんびりと読書でもしておられることと思う。その余生を全うされることを祈ります。
1982/10/8
■私と八木秋子(一) 光田全璃子(京都市)
急に寒さが増してきました
八木さんの御具合はいかがでしょうか
遠くから、お会いしたこともない方に、思いばかりをはせています。
アンケートを送っていただいて、1年余りたちました。あれ以来、意識の中では、ずっと、あの問いを軸として、この十年程の私自身の総括をくりかえし、くりかえししてきたのですが、言語化するまでには至らず、時ばかり流れてしまいました。そして、正直なことを言えば、心のどこかに、きちんとしたものを書きたいという自意識と、そうはならないだろうという恐れがあって、よけいペンをとることができませんでした。
しかし、相京さんの言う通り、「とにかく行動することが大事で、いろいろな誤解などは、続けてゆく中で諒解してもらうしかない。そんなことを恐れてテラテラしていては何もできない」
まさしく、そうであると思い、ペンをとりました。
まず、のがれようのない、今の自らの場を自他ともに対して明確にすること、それからしか始まらないのだということは、十年余り前に既に身にしみて確認したはずなのに、いつのまにか、又、私は言葉を失う方へ失う方へと、ひきこもっていっていたようです。
72年に私は立命館大学文学部を卒業しました。
「あるはなく」を私に教えてくれた友人の青木和子さんが10号に少し書いていましたが、私にとっても大学闘争は、それまで背負ってきた様々な問題が厳しく凝縮していった「時」でした。あの時がなければ、あるいは八木さんとの出合いもなかったかもしれないと思います。
八木さんは、1号で「生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない」と述べておられました。
外的な情況と、自らの志とが、共に光を放ち、合致するかのようにみえる時というのは、おそらく人生において一瞬の時であるのでしょう。そして、その一瞬が去ってからもなお生き続ける以上、人には、生ぬるく風化して決して光を放とうとしない日常の中でその志を抱いてゆかねばならぬ時が、終りなく続いてゆくのだと思います。生きる以上、その志を裏切ることはしたくない。しかし、どのようにすれば、いつ、いかなる局面においても足をすくわれることなく、たしかな歩みを記すことができるのか--それは、貧弱な精神と肉体しかもたず、ともすれば風化に流されてしまい、ささいなことにも足をすくわれてしまう私にとって、切端つまった問いのようなものでした。
そんな私にとって、「闘う良心から身も心もはなさない」という八木さんと、その言葉を生みだした彼女の80余年にわたるひとつ一つの軌跡は、抗い難い吸引力を持ちました。
八木さんの歩みを、歴史の上に正当に位置づけること、それは、少くとも、彼女より後に生をうけた私たちのなすべきことだと思います。
しかし、正直にいって、今の私は、それよりもまず、今、在る八木さんそのものにひかれるのです。
(おそらくは究極において、この二つのことは同じことにならなければ、どちらかがおかしいということになるのでしょうけれど…)
過去の遺産を切り売りして生きることも彼女には可能でしたでしょうし、「相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま」宗教に限らず「絶対」へと跳び超して、そこに安住することも、可能でしたでしょう。
しかし、八木さんはそのどちらも選ばなかった。
力の構造からみれば、おそらく彼女の選択は、歴史の闇の中に無名のまま消えてゆく可能性が殆んどであるような選択であったと思います。無名のままという言い方には、くらしのありよう全ても含めてあります。
30余年生きて、わずかながら権力のありようがみえて、(表層的にしろ)生き残ってゆくためのずるさも多少は知ってみると、八木さんの、その選択は、本当にハッとする程一面では危うく、そして鮮やかに感じられます。
おそらくは、闇の中に消されてしまうであろう選択、しかし、じっと自らを凝視したらそれしかない選択--もし、本当にうけつがれてゆくべきたしかな正当さがあるとするなら、この世では危うく見える八木さんの選択にこそあるのだと、今、静かにそう思います。
「たとえ、われわれが滅びなければならないとしても、存在もせずに滅びることがないように努めよう」とは、シモーヌ・ヴェイユの言葉でしたが、八木さんはまさしく存在している方だと思います。
今も八木さんは困難な状況におられるようですね。
あるいは変更可能な困難さを、悲観も、美化もせず自らの軌跡として選びとってゆかれる八木さんのありようと、そして相京さんをはじめとする周りの方の八木さんへの関わり方は、ともすれば風化に流されそうな私を、どこか根の方でささえているような気がします。
おたずねしたなら、八木さんとお会いできる状態でしょうか。できれば一度お会いしたいと思います。
何でも召し上れるのでしょうか。
元気になっていただきたいと、心から祈ります。
相京さんも、寒くなりますので、どうぞ、お体お大事に、お元気でいらして下さい。
八木さんにとって、相京さんの存在は、とっても大きなものだと思います。1980/12/17
■拝復、
もし八木さんとお会いできる機会が作れるようでしたらそうして下さい。お手紙拝見しました。僕もおそらく光田さんと同じ、いや同じということはありえませんから、似た所で八木さんを見ているのだと思いました。
八木さんが養育院に入るちょっと前、秋山清が『婦人公論』に書いた、「己れの足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子」のコピーを読ませて頂きました。それには八木さんのメモが記入されていて、「八木秋子は己の足跡を消して身を犠牲にし、運動に献身するヒューマニスト」と書かれていることに対して、〔全否定の底のヒューマニズム、全共闘の自己否定、革命〕とありました。それを見た時の感概は70年以降の自分の不安に迫られた意識を勇気づけてくれました。そして八木さんの継続されてきた生の軌跡と同時にその現代性に限りなく親しみを感じました。単に自分<たち>の物理的に年齢を重ねた延長線上に八木さんはいるのではなく、いま生きているということを実感させられ、存在感をひしひしと感じました。ですから自分を確める為にも八木さんに協力させて頂いているわけです。
現在の八木さんの状態ですが、不調です。しかし何をもって人間を正常、異常と判断するのかということからすれば、その不調な状態とは僕にとって、たいしたことはないと思っております。たとえ〔影〕を僕や会う人が見ようとも、それは見るものの側の問題であって本人の問題ではないと思います。確かにおかしいことを言うようになりました。夢と現実がはっきりしない場合が多々あります。しかし、僕は会っている時、ほんの一言八木さんらしい言葉、表情があれば生きていると思います。ですから取材とか撮影とかを目的として話される場合は僕の言える範囲内で、期待もてないですよ、と話します。しかし、言葉を探し、しぼり出すようにして話す八木さんの表情を一瞬でも、その息遣いを感じたいと思われる方には積極的にお会いして下さいといっております。現在は精神病棟に再入院されました。これは前述の症状だけでなく、外出してしまうことに対して管理する側がその職務範囲を越えるということで入院ということになっております。
ですから、いつでも会えるということ、食事も普通にできる状態であること、しかし食べるものは持ち込まれないように(共同生活における欲望は様々な形で表出しますから)、上京されるようでしたら御連絡下さい。
※吉本隆明の「シモーヌ・ヴェイユ」についての講演記録、もし読まれてないようでしたらと思いまして同封します。特にヴェイユが「労働者」になってゆく点に言及し、宮沢賢治を評している所が圧巻です。ちょうど八木さんが、賢治と啄木について、「無理して生きた。たとえ、その行く末が悲劇で終わろうとわかっていても行ってしまった。しかし、その口をあけて待っている破局に対して、進む以外に道があったかどうか」と突然、語ったことがあり、その吉本のものを読んだ時期と重なり考えざるを得ませんでした。
1980/11/11
■私と八木秋子(二) 光田全璃子(京都市)
入院生活にやっと終止符をうち、自宅でこれからのことを半ば茫然としつつ考えている時に、『あるはなく休刊号』が着きました。それは、まさしく、ああ、来た!!という感じで、しばらく私は、いつもとは違う表紙を、見開きにし、『点呼』に見入りました。この絵に対する何の予備知識もありませんけれど(凍てるラーゲリではないかと感じてはいるのですが、分りません)、直截に訴えかけてくるものがあり、2年ぶりの”あるはなく”にこめられた思いが伝わってくるような気がします。
そうですか。八木さんは養育院を出られたのですか。いろいろな相反する感慨が一時に浮んできましたが、今は、相京さんの言う通り、本当によかったと思っています。そして養育院から、ある時はほとばしるように、ある時は生命を絞り出すように「生きているという証言」を送り続けて下さった八木さんと相京さんに、心から感謝します。
2年前、吉本隆明のヴェイユについての講演録コピーをお送りいただき、どんなにか嬉しく思いました。お手紙に、八木さんが賢治と啄木について「無理して生きていた」「しかしそれ以外に道があったか」と語られたという話を書いて下さっていましたが、私は卒論で啄木をとりあげた関係もあり、ヴェイユの「滅び方」とも合せて考えさせられました。
あれから2年近くが過ぎてしまいました、御礼状も書かなかったことを心苦しく思っています。しかし、再びペンを執るには、今度の入院で、もう一度〈あるものはこの身ひとつ〉という確認をすることが、私にとって必要だったのかもしれません。どうぞ、お許し下さい。
入院中、著作集Ⅲを読み返しました。<二十四時>の中で、少しづつ風化していっている自分に焦立ち、参っていた私は、その結果として貧しい体をベッドの上において、八木さんの姿にむかいあいました。
その中で、八木さんは、迷いや不安に揺れながらも、決して背をすぼめてうつむかず、その表紙の虎や鵜のように、常に空を見据えて立っていました。
帰る場所を削ぎおとすように生きてきたのは、自らの選択ではないか、そこで何をするかこそが、今の意味ではないかと、その姿は語っていました。
<あるはなく>の発刊まで、受けとり手の見えぬ言葉を、ある時は絶望的に抱き続けてきた八木さんのくらしぶりは、決して望ましいものではないし、彼女がこのような状況で生きねばならなかったこと自体が私たちの貧困を表わしていると言いうるのかも知れません。しかし、その中で、自らの思いを、他のものととりひきして切り売りすることを拒んで、その状況をひきうけていった八木さんの姿勢こそ、年代をこえて私たちに響いてくるものであるように思います。
しかし、本当にその八木さんの言葉を受けとめます、と言いうるのかどうか、私は全く自信を失っていました。
自分の寒々しさばかりが大きく、途方にくれていたのが正直のところです。
著作集の日記から浮んでくる八木さんの姿-一人、狭い部屋で。ペンを持っている老いた八木さんの姿に重って、いろんな人の姿が浮んでは消えてゆきました。
例えば、ヴェイユ、例えば、啄木、例えば労働者ワレサ、例えば森崎和江、例えばルオーのキリスト、例えば老いた親鸞、例えば、………
今、再び<娑婆>のくらしにもどって、半ば茫然としながらも、静かに湧いてくる思いがあります。加納実紀代さんが、『高群逸枝論集』の中で「昭和6年、もう若くはない2人の女が、それぞれの後半生を決した新たな道に踏み出した」と記しておられましたが、その八木さんと同年の36才になった私も、もう一度、踏み出そうと思います。
<これからだと思います>という相京さんの言葉を私も自分につぶやきます。
2年前の手紙の扱いは全て相京さんにお任せいたします。
風の底がひんやりとし、時折沈黙を周囲が感じさせるこの季節になると、感覚がいきいきしてくるようで、夏の健康さには弱い私にとっては、おりあいのつけやすい時期です。
しかし、ランボーのいう”慰安の季節”とせぬ緊張感も逆に求められるのでしょうが…
どうぞ、お元気で
次の紙面で、相京さんの言葉に出あうのを楽しみにしています。
追伸 これを記したあとで、香月泰男遺作展の図録を見る機会があり「点呼」が彼の作品であることを知りました。体験ということを考えさせられました。数年前、ルオーの画集の出版記念講演会で、高田博厚氏が「真実というのは自らの流した血とひきかえにしか手に入らないものだ」ということを、どこか沈痛な、しかし烈しい口調で語っておられたのを思い出しました。
1982/9/29
■私と八木秋子 神田由美子(横浜市)
相京様
今年もまた半年が過ぎて、起きぬけの風にも心なしか秋のにおいのする季節となりましたが、いかがおすごしでしょうか。
通信の発行、また本の送付など、いつもお世話になり、有難うございます。(京都にいる友人はたいへん喜んでおりました。友人の母もまた病床にあり、帰郷して、文字通り日夜看護にあけくれる日々の中で、やはり一気に読んでしまったとのことです。)
八木様のご容態はいかがでしょうか。”あるはなく”や、また著作集で、その人となり、息づかいに触れ、とても他人事とは思われず、かげながら、ご心配申し上げております。
中でも、著作集のⅢは、これをもってはじめて”八木秋子”の全貌をあらわすと、貴兄が自負されるとおりで、相京様ほか皆々様の御苦労に頭を垂れる思いでございます。
戦前における家出、子捨て、女人芸術への関わりと、農村解放運勤、そして拘留、恋人へのけつ別、-どれをとっても、現代における私たち-相京さん風にいうならば私<たち>の生きる姿勢に関わりのないものはなく、今なお、壮絶な魅力をもって迫ってきますが、満州へ、敗戦、そして友との死別と、これだけのいわば一個の歴史というべきものを生ききったあとに、なお、ニコヨンのたまり場で、「どうあっても生きぬいてやる」とつぶやく氏の眼が、どこを見ていたのかと思うと身のすくむような思いに駆られます。或いは、そうしたおのれ自身の生に対する深い絶望に裏うちされた強烈な生への意志は、ひとり八木秋子のものでなく、当時にあって、日本人ひとりひとりに共通のものであったかもしれません。そこのところがわからない。当時まだ生まれていなかった私が、もの心ついて育つ間、そして大人になった今、なお、触れることのできない部分、目は輝いているのに確かに感じる影は、そのあたりから発しているように思われます。
そして私がまだ両親の庇護のもとにいて、家から幼稚園まで通う範囲が世界のすべてだった頃、八木さんは母子寮という社会の縮図の中にあって、悪戦苦闘していたということ。”戦後社会”の形成につれて、八木さんの叙述の中にも少しずつ余裕がみえてくるように思え、閉ざされていた八木さんの心の片鱗が時おりきらめくのを感じる中で、一人の生というものが、その個体の死をもってはじめておうわれるのだというあたりまえのこと、人は死ぬまで生きるのだという平凡な事実の重みをあらためて感じます。或いは、母子寮というものがあったからこそ、目の前に闘わねばならぬ対象があったからこそ、八木さんが己れを失なうことなく生きてこれたともいえるかもしれません。けれど、それはどちらも同じことで、人が生きている限り、手の届くところに何かがあり、重要なのは、何を見、何に手をのばすかということだと思います。
年を経て
肉体の老いというものを識ったこと
日記に書きつける八木さんの姿に、一人で生まれ、一人で死んでいく人間というものの、他者の介在できない深淵を見る思いです。おそらく、個体がある限り、人間は、真につながり、融合しあうことなく、ただ一人で生きていかなければならないという冷厳な事実を見つめなければならないというのはおそろしいことです。けれど、この事実から出発してはじめて、近代的自我というもののとるべき位相も、方向も、明確にあらわれてくるのではないでしょうか。
出家、遁世の歴史をもつ私たちはいまだに藤村操や奥浩平、そして私の友人宇佐林を、芥川、太宰、新しくは三島由起夫の死の高峰との間にあって谷底をうろうろしています。明日は我身かもしれず、ただそれは永遠に明日のことであって、今日只今の些事にとらわれている、そのきょうの積み重ねがかろうじて己れを支えている危い状況の中にあって、しかも、その、きょうの積み重ねの中から生みだされてきた様々なもの-核兵器や、コンピューターや、文明生活という居心地のよい部屋が、その本来の機能ゆえに、私たちの精神や肉体をきりきざんでいくかもしれないという幾層にもわたった危機の中にいます。
こんなことは今まで何どとなく叫ばれてきたことではあるけれど、それを真に自己の危機として感じとるものは、国家でも共同体でもなく、生身の小さな人間なのだということが、どうどうめぐりのようにかえってぎます。或いはこの危機こそが、人間どうしを互いの重さ軽さを認めた上でつなげる一つのかぎなのかもしれませんが。
思いつくままに書いてしまいました。最後に私事になりますが、私、5年間勤めていた店をやめて、この9月にカイロへまいります。
アラビア語の学習というのが第一目標ですが、アラブ世界という私にとって未知の世界をみてきたいというのが本音です。これはまたしても試行錯誤の第一歩だけれど、相京さんが八木さんに出会ったように私にとってアラブはめぐりあいの一つのように思われます。9月以降連絡を横浜にお願いしたのはそんなわけで、横浜は両親の居所です。カイロでは、アメリカン大学のアラビア語のコースを受講し、できれば大学の寮に人るつもりです。あちらに着きまして落ちつきましたらまたお便りいたします。
それでは皆様のご健闘をお祈り申し上げつつ…
かしこ
8月25日
相京様
カイロの街-ナイル中洲の島ザマレックにある自分のフラット(アパート)で昼の電灯をともして今、何を申し上げようか。しばし迷っています。同封の8月25日付の手紙、すぐにも出そうと思いながら、とうとうここまで持ってきてしまいました。
8月31日、私の母が突然倒れ、意識不明のまま9月16日に亡くなりました。58歳でした。ふだん、病気らしい病気を何ひとつしたことがなく、人の3倍は元気にとびまわっていた人だけに、ほんとうに突然としかいいようがありません。死因は右大中脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血と脳内血腫-ということですが、手術の手おくれのせいか、(最初の救急病院では見はなされていて、脳外科手術のできる病院にうつしたのが倒れてから3日後でした)最初の出血が多量すぎたのか、それもよくわかりません。
自分は80までも90までも生きるつもりでいながら、一方では自分の死後は葬式も香典もいらない、検体に出して、戻ってきた骨は毎年旅していた室生寺に納めて欲しい、と友人達に語っていたようですが、-2年前に脳軟化でなくなった祖母の看病や葬儀の生きて残る人々への負担を身にしみて知ったせいでしょか-特に、具体的に検体の手続をしていたわけではなく、父の気持もあって、ごくふつうに葬式を出し、お坊さんにお経をあげてもらって、父方の墓へ納めることとしました。
2週間足らずの病院通いの中で、私は気持ちを固め、葬儀から初七日までのはんざつな毎日(私は2人姉弟の長女です)を送る一方で、再びカイロ行の準備を遂行して、10月3日に成田を飛び立ちました。
有難かったのは数多い母の友人たちの主だった人が、皆、口をそろえて最初の予定どおり行った方が良いと、こちらが言わない先から言ってくれたこと。父もまたそのつもりでいたこと(60過ぎて、3度目の会社へ片道2時間かけて通う父の心中は私には及びもつきません)。そして、葬儀の間中と出立前の3日間、私の友人達が泊りがけでやってきて、何から何までやってくれたこと。-香典返しの整理なんぞをしている私にかわって、持っていく荷物のつめこみも全部彼女たちがやってくれて、私は、何がどこに入っているのか何ひとつ知らないという有様でした。東京に住む母の妹も、小学生の子をかかえて自分も昼間働きに出ていながら、何度となくやってきては、そうじ、せんたくをしてくれます。
ここカイロへ来てからも、私は数多くの人の世話になりました。現在カイロ市内に住む日本人は約1千人その多くが、ザマレック地区に住んでいます。カイロには誰一人知人のいない私でしたが、私の友人や、また以前の勤務先の紹介で尋ねていった方たちが、皆、親身になってくれて、こちらでの生活をスタートするまで、私は何の不自由も感じないほどでした。今住んでいる所は、街中で偶然声をかけてきた日本人の女の子2人が、適当な住居が決まるまで自分たちのところに居候をさせてくれ、また幸いにも、彼女たちのとなりのフラットが1月125ポンド(1エジプトポンド=230~270円)という格安の値段(仕事できている日本人たちは皆300~700ポンドのところに住んでいます)で空いたので、移り住んだものです。カーテン仕切りの2部屋とキッチン、冷蔵庫、シャワー、トイレ、湯わかし器付きで、1階の通りに面していて窓が開けられないことを除けば、水の出もよく、文句なしです。同じ1階に住むパワープ(門番)の家族が、私の部屋よりひとまわり小さいところに、母親と夫婦、子供(13才、5才、2才)3人が住んでいることを思えば、私でも彼らよりは、はるかに金持の存在なのです。同じ学校へ通う日本人の一人に、1階は泥棒に入られやすい、日本人が1階に住まないのはそのためなのだと忠告されたものです。けれどここの門番のムハンマドはまじめで、そうじをしていないときは必ず門番として見はっているようです。(人によれば、門番がぐるになって盗みを働くということもあるようです。急に金持になった日本人という立場を思わずにいられません)
13才のナリーマは、働きもので、父親を助けて、アパートのそうじ、上の階の人たちの洗たく、そうじをしています。読みかきはできません。それでも、私の下手なフスハ(文語ーアラビア語の共通語でもあるのですが、エジプトでふつう使われているアレミーヤ<方言>とはだいぶ違います)を何とか理解してくれます。そして身ぶり手ぶりで話しかけてくるのは、私の部屋のそうじ、せんたくは自分がするといっているようなのですが、私はラー(NO)と答えます。彼女の営業妨害をしているようなものですが、そういうことは、やはり、自分でしたいのです。(最も、砂ぼこりがひどく、3日もするとざらざらとしている部屋に住んでみて、この国の高級アパートに住んでいる人たちが、料理用、買物用、そうじ用と使用人たちを使いわけている理由の一端もうなづけるようです)5才のパヒータは、いたずらっ子のガキ大将で、自分の遊び仲間の女の子をつきたおしていじめるような悪ガキなのですが、この娘が私になついて、部屋へ遊びにきては、父親や母親に叱られています。ムハンマドが何やらかにやら私に話しかけてくるのはどうも大家にないしょにしてくれと言っているのでしょうか。
尤も下働きのエジプシャンが、勤め先のフラットへ子供や孫をひき連れていくのはわりあいふつうのようで、私の前に住んでいたサウジアラビア人のところへは、ムハンマドも娘たちとよく出入りしていたようです。パヒークも1度、母親にスリッパで尻をひっぱたかれて泣いてからは、ドアの所までついてきてもここで待っていうという合図をすれば、おとなしく待っているようになりました。2才のザイナブが姉の真似ばかりして、バヒータが私にくっつけば、すぐそのあとからバヒータをおしのけて、すり寄ってきたりするのを見ると子供のすることはどこでも同じだと思わず笑ってしまいます。自分のことばかり書いてしまいましたが、八木さんの具合はいかがでしょうか。”あるはなく”の続編をまた読みたいと思います。
1981/11/4
■「時」に踵をつかまえられながら
書評 八木秋子著作集・全3巻(JCA出版)西川祐子
この文章は、著者である西川祐子さんと「思想の科学社」の快諾を得、掲載することができた。
思想の科学 1982年1月号
一 手づくり手わたしの本の独り歩き
昭和のはじめに長谷川時雨の『女人藝術』高群逸枝の『婦人戦線』などの誌面に活躍し、農村青年社運動の中心人物のひとりであった八木秋子は40年にわたる長い沈黙ののちにとつぜん語りはじめた。だが、《八木秋子著作集》(JCA出版)は、第Ⅰ巻『近代の〈負〉を背負う女(1978年4月)、第Ⅱ巻『夢の落葉を』(同年12月)につづく第Ⅲ巻『異境への往還から』1981年5月)をもって終わるのだという。読者としてはこれで完結とは思いたくないので、ここではとくに《八木秋子著作集》の未完の魅力とその意味について考えてみたい。
著作集の出版よりも前、1977年の夏、八木秋子は東京都立養育院から個人通信『あるはなく』第1号(8頁 〒187、東京都小平市花小金井南3の929、相京範昭方)を世に送り出した。1号の送り先は30数名であった。その年、八木が年賀状を交換して住所が手元にあったひと達と、若い編集人、通信という場をつくって八木秋子との対話をはじめた相京範昭の同世代の友人が送り先の範囲であった。最初の数字はそのまま、当時82歳で独居をあきらめぎるを得なくなったときの八木秋子の孤独の境遇を物語っている。
生活保護によって暮らしていた4畳半のアパートをひきはらい、個室のある軽費老人ホームに入る希望もはばまれて、本もノートも置きほとんど身一つで、八木が「雑居」とよんでいる共同生活に入るまでには葛藤があった。その直前に八木に出会い、独立をつづけようとする絶望的な努力を見て手を貸そうとした彼女の若い友人は、最後に現実にはついにどこにも見つからなかった自由な空間を通信という場につくって、今や表現することを唯一、生きる目的にしている八木に提供したのであった。通信は少数の親しい人たちに宛てた八木の近況報告でもあった。
「80余年を時代の中に生きてきた。生きている証言として」最後の日まで書きつづけたいと述べた通信には、反響があり、15号つづくうちに読者は読者をよんで当初の十数倍に殖え、通信が届く範囲は遠く拡がっていった。八木の現在を綴る通信のかたわらで、彼女が通信以前に書いた文章を集めて著作集3巻が出版されたことにより、通信の読者は一層ひろがった。
著作集に収められた作品のうち、八木秋子自身が保存していたのは自筆原稿のみであり、活字になったものはスクラップ・ブックはおろか、記憶にさえおぼろにしか残っていなかったところにも、常に先へ先へと未知の体験をもとめた彼女のこれまでの生き方を垣間みることができる。著作集の原稿は編集人が図書館の古い雑誌、新聞、パンフレットの頁から丹念に採集し、あるいは古いノートから原稿用紙へと文章をおこして再生させたものである。著作目録は通信に載せられ、すると読者からさらに何枚か拾い残されていた頁が届けられるという協力もあった。こうして広く散逸して忘れられていたテキストが短期問のうちに集められた。
通信1号の発行から後の1年はもっとも充実した時期であった。そのあいだに通信8号と著作集2巻が発行されている。急ぎ足の緊迫感は、書くことに集中する決心がきまったとき八木秋子にはすでに残り時間が限られていることが自他ともに明らかになったことによる。八木は共同部屋の片隅においたダンボール箱を机代わりにして老いかがんだ肉体と精神の全エネルギーを集中して短い文章を刻む。読者は『あるはなく』各号に彼女が書きはじめた驚くほど若々しい文章にひきこまれて読むと同時に圧縮されてわかりにくい部分を理解しようとあせりながら、八木秋子のこれまでの軌跡をもっとくわしく知りたいと願った。
こうして、いわばこれまでの八木秋子の紹介のためにつくられた著作集は、通信とはちがって、まとまった本の形をとり、当初の自費出版の予定が、読者の一人でもあったJCA出版責任者の申し出によって書店を通した販売ルートにのり、新聞の書評欄の助けもあって、通信の読者数よりもはるかに多い未知の読者の手元に届けられた、増刷もあった、今この書評欄がとりあげているのも、著者と編集人の意図からすでに独立して世の中を歩きはじめた著作集という本なのであるが、各巻の詳細にふれる前にわたしはやはり、この本は手づくり手わたしの通信からはじめられたこと、その精神をとどめるために編集人は《八木秋子著作集》の編集を個人名とせず、編集・通信『あるはなく』と記していることにぜひとも注目しておきたいと思う。
二 著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』
この巻には、八木秋子が戦前に発表した日付のある文章と、この時代に彼女が会った吉屋信子、高群逸枝、永島暢子について後に書いた回想記が収められている。刻まれた最も古い日付は1922(大正11年)回想をのぞく最後の文章は1932(昭和7)年である。この十年間に八木秋子は離婚して職業をもつ生活に入り、雑誌記者、教師、新聞記者を経た後『女人藝術』、『婦人戦線』に参加して執筆、さらに昭和恐慌後の疲弊をきわめた農村に自治コミューンをつくろうとする農村青年社を組織して実践運動に入った。したがって収められている文章は二つの雑誌に発表された評論、小説とアナキズム運動のパンフレットに載せられた激文である。十年のはじめにあった離婚と、十年のその後にあった農村青年社運動の崩壊、逮捕という彼女の私生活に重要な影響を与えた事件はほとんど文面にあらわれていない。日付のある文章が語るのは普選と婦選でわきたっているころの議会探訪、アナ・ボル論争、昭和大恐慌、満州国建設といった社会的な事件である。
1930年3月の日付で発表された「調査欄・日本資本主義の鳥轍」(『婦人戦線』〉は日本資本主義の長期見通しを占っている。国際的商品の原料の欠乏、アジア諸国への国際的資本投入競争における力不足、各国の自国保護関税の壁といった日本資本主義の不利条件をあげたのち、米国資本主義の東洋進出は中国大陸における日本資本主義との正面衝突をまねくであろう、第2帝国主義戦争はいつ起こるか、と問うている。勝ち.目のない戦争は回避されるとおもわれるが、このままゆくと日本資本主義は米国資本主義に隷属して植民地化がおこる、日本の資本主義がほろびても他の主権のもとに植民地化されるのであれば社会組織はかわらない、したがって国際的資本戦をめぐる歴史の必然の展開を待っているだけでなく、労働者階級自身の闘争がなければ祉会が根本的に変わることはない、という予想がなされている。
日本はこの文章が書かれた次の年に満州事変をおこし、勝ち目のない戦争は回避されることなく、やがて日中戦争、太平洋戦争と展開する15年戦争に突入するのであるが、「鳥瞰」の予想は現在からみれば戦後日本にまで言及しているようにさえ思える。八木は同調査欄につづけて「資本主義経済と労働婦人」と題して不況の対策として操業短縮、首切りなど合理化を行ない、大量の女子工員の失業をだした紡織工業の分析を行なっている。この失業者の群れが村へ帰り、村からはまた農民のもつ最後の商品である娘の身売りがなされて都会へ出ていったのであった。先の長期予想は八木個人の洞察の鋭さというよりも、このときに時代をもっともよく見る視点は、八木が共感をよせた、不況のしわよせを押しつけられ、その身で世の矛盾を解決することを強いられて都会と村のあいだを循環した失業者の群れにあったということを教えてくれる。
これらの文章はたしかに事件と人物に間近に出会った八木秋子の証言、ユニークな現代史資料復刻版として読めるのであるが、忘れてはならないのは、なぜ彼女がつぎつぎと歴史的事件に吸いよせられていったか、事件をどういう立場から見たかということである。
その意味で、巻頭におかれた「婦人の解放」(『種蒔く人』、大正11年2月)は、八木秋子の発表したもっとも古い文章というだけでなく、彼女が自分に言いきかせた出発宣言として重要であろう。巻末の八木秋子年譜とあわせてみると発表時はちょうど離婚成立のときである。八木秋子はさまざまな人が女性の自覚をよびかけているが、自覚という語がなんと概念的、観念的に用いられ、自覚の基本である自我の追求のなんと臆病であることよ、とはじめている。「実際自己を容赦なく掘り下げて、確実なる自我の姿を発見せんとする努力ほど真剣な苦しみはないであろう。女性の多くはその恐ろしさに堪えないで、つとめて避けようとする、そして大抵はよい加減な所で妥協してしまうのである。深刻さが足りないのだ。/誰しも自我を確実に認識すれば、今まで安住して来た自己の全部に、またあらゆる周囲に対して、奇異の眼をみはると同時に、火のごとき憤りは猛然と自己の内部に爆発せざるを得ぬ。」(7頁〉とある。一般論をいうには高まりのすぎる調子は、「婦人にとって絶えがたき恩愛の絆がある。」という一句にしろ、一児を置いての家出、離婚の苦しさをちぎり捨てた直後の心境から発せられたものである。女には子どもがあるかぎり個にはなり得ない部分があるのであって、子捨てからはじめたがゆえに、家族制度から脱出した新しい女たちのなかでもとくに八木秋子のこの後の道は絶対の自由の探究の様相を帯び、近代の繁栄のツケをまわされる〈負〉の領域をえらんでは歩み入ることになる。著作集Ⅰに記録された十年のその後、農村運動-牢獄―満州、満鉄留守宅相談所-戦後の母子寮-そして現在老人ホームにおける孤独なひとびとの間での孤独な境遇にいたる道程はここから始められたのであった。人間の自発的創造的意思の集まりによってつくられる社会でなければならないという彼女のアナキズムもまた、裸の出発の体験にもとづき、おなじく率直な塊とのまっすぐな呼応をもとめる思想であったろう。
三 著作集Ⅱ『夢の落葉を』
二冊目の本の頁を開くと活字が大きくなり、行間もひろく、気持の良い造本である。ふるさと木曽福島で過ごした幼少期に取材した40の物語がおさめられている。これは八木秋子が創作として何度も書きなおし、出版の機会を待ち、唯一、一冊分の完成原稿としてのこした作品であるという。「著者に代って」(相京範昭)は簡単に、はじめ著作集の第Ⅲ巻に予定していた物語集を第2巻目にまわしたのは、著作集Ⅰの刊行後に八木が病気で倒れたため実現をいそいだものであると書いている。16年間ねむっていた原稿を著者の夢が形をとったような本にしてみせたいという編者の心づかいから生まれた著作集Ⅱであるが、読者にとっても著作葉Ⅰとはちがって、物語のなかに武装を解いた八木秋子の自然児としての本領に触れる巻となっている。八木が、日本人がまだふるさとをもっていた世代に属することもよくわかる。
木曽の風物誌が集められた第一部と、明治末年の木曽の一家族の物語である第二部とに分れているが、後者は八木秋子の自伝の一部として読むことができる。父母と7人兄弟の大家族、しんせき、近所の入たちがくりひろげる物語はやはり末娘スエ=秋子の眼で観察きれているからである。両親が若く生活にも余裕があったときに成人して上級学校へ行き、良縁を得る姉たち、抜群の頭脳と美貌のためかえって最初の結婚に失敗、写真結婚によってアメリカの新天地へ脱出してゆく大胆な三女、その姉の失敗のあふりをくって進学をあきらめながら華やかな姉を愛しているクリスチャンの四女、5人の姉妹の生命力に押され気味にみえる兄たちなどの姿が無邪気な最年少者の瞳にあぎやかに映っている。
最後の短篇が「サヨウナラ」と題されるように、子どもたちは次々と巣立ってにぎやかであった家は空になり、親は老い疲れてゆくのであるが、末の子は家族の最後を見届ける位置にある。後になって家出、離婚から新しい人生をはじめ、<人間は何故に夫であり妻であるか、親であり子であるか、また家庭という型の中で生きねばならぬか。>(著作集Ⅲ、218頁)という問を発して親友をおどろかせたという八木秋子なのであるが、物語集には次々と生まれ、寄りそって生き、やがて散り死滅する家族という集団のもっとも哀切な姿が描きだきれている。
四 著作集Ⅲ『異境への往還から』
著作葉Ⅰ、Ⅱがつづけて出されたのち、著作集Ⅲの刊行まではしばらく時間が空けられ、そのあいだに通信は9号から15号まで発行された。八木秋子は病院入院と退院をくりかえし、ベットから落ちて骨折という事故もあり、ペンを持つことが困難になった。通信は八木の療養を見守りながら、彼女の養育院日記である「転生記」、読者の通信、テープに録音した八木の短い語り、などを載せてゆくが、著作集未収の文章の再録など、しだいに著作集とおなじく八木の過去の軌跡を追う頁が増えた。書くことの困難の次に語ることの困難も予想された。
著作集Ⅲは八木の健康の回復を待って通信が15号以後、十ヵ月休刊していたあいだに準備きれている。著作集Ⅲは彼女が戦後に執筆した文章の収録が目的である。「満州最後の日」、「満州引揚日記」と彼女の職場であった母子寮の生活記録、戦後の焼跡で「どん底」生活を生きるさまざまな人間と自分を描いた「私は生きたい」、「火は消えない」、「誰も知らない」の短篇小説三部作などである。以上の既に発表した、あるいは発表を予定して書かれた文章の他に、最後に八木秋子がまったく自分のために書いていた1959年から1961年にかけての「日記」が八木の同意を得て収録されている。「なぜこの日記を載せるか」と題した編集人の注は例によって短いのであるが、「日記」のなかには生身の八木秋子がいるからということ、著作集Ⅱの物語集、Ⅲの小説類の執筆時の日記であるということが説明されている。日記掲載の決断は、現在の八木秋子の肉声を伝え、彼女と読者との対話を目的とした通信『あるはなく」の休刊に起因していたであろう。「日記」のなかの八木秋子は後の通信のときと同じく、自分は何者であるかをくりかえし問い、それを語るための読者をさがしもとめているからである。
著作集Ⅰの年譜と著作集Ⅲの「八木秋子の生涯のあらまし」(相京範昭)を参照すると、「日記」のはじまる1959年には八木は64歳になろうとしており、母子寮をいったん退職して自力でつくった母子更生協会が行きづまり、嘱託という不安定な身分で再び母子寮に主に夜間勤務をしている。母子寮の整理による最終的な退職は「日記」の1年後、}962年であるが、「日記」の時期にすでに八木は経済的に逼迫しており、夜だけでなく昼間の職場をさがして病院の賄いに志願したり、新聞に求人広告をだしたりしている。失業は一つには彼女の年齢から、他方ではようやく戦後が終わろうとする60年安保の時期に、母子寮はこれまで果たしてきた役割を失い、おそらくこの直後から母子家庭の性格も変わってゆくことから予想されたのである。「日記」にはこの先はじまる繁栄の時代にとりのこされる見通しが刻々と明らかになる様がみてとれる。
「日記」に八木秋子は「私はこれまでの歳月に幾度となく新しい出発をした。そのたび、一切を捨て、すべてから離れて無から出発した。」(217頁)と書くのであるが、このときも彼女はいくど目かの出発の淵にのぞんでいる。家出から自分の人生をはじめた八木秋子のこれまでの出発はつねに子を捨て、愛人を捨て、より広い社会へというものであったが、これからはじまる老年という未知の生活においては社会からの完全な追放という新しい事態がおこる。八木秋子は「私は最近まで実に作家たろうと志しだことは一度もなかった」と書いている。「『女人藝術』の時代からそうであった。私の関心はむしろ社会運動にあり、引き揚げ後は専ら社会事業。社会という観点から離れられなかった。故に私は今日まで作家たる修業をしたことは全然なく、私の読書は従って作家としてのそれではなかった。こうしたことが、私の現在の、空っぽの名称を与えたわけである。今に至って私は、初めて作ってみたい、創作を始めたいという願いを持った」(198頁)、とある。以後「日記」は何を、何故、どうやって書くかについての自問自答で埋っている。
必ずしも日記を持続してつける習慣はなかったらしい八木秋子がこの時期には日々、長い文章を綴ったもう一つの理由は、彫刻家、高田博厚にたいするほとんど一方的な恋愛にある。彫刻家の一文を読んで面会を求めたのがきっかけとなってアトリエを訪れるうちに、八木は祖国を捨ててヨーロッパに30年近く生き、再びパリを捨てて単身帰国した彫刻家のなかに自分と同じ孤独な魂をみとめ、自分もこれから始めようとしている芸術創造の世界を共有したいとねがい、また彼が自分の理解者、つまりこれから書く作品の最上の読者となることをのぞんでいる。若い日に出会って彼女をモデルにした別の彫刻家の面影もどこかで重なっている。八木は長い手紙を書き、沈黙の拒絶にあい、伝えることのできぬことばが日記に綴られているのである。
64歳の女は恋の不安について「先生は誰よりも美しいもの、豊かなものを愛する感覚の人だ。若さと豊かさを失った女に何の意味があろう。私がその一人であろうとは。〈美しかりし、オーミェール〉の像、あの像に象徴される女の悲しみをどうして男がわかろう。先生はやがて私をモデルにして、日本の女の絶望を表象した作品をつくるでしょう。」(224頁)と書くのである。
<美しかりし、オーミェール>とは、彫刻家ロダンがフランス中世の泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの同名の詩に発想を得た老婆の像である。ロダンの作品がどこか日本の各地にある小野小町百歳の像に似通う姿であるせいか、ヴィヨンの詩も「兜屋小町長恨歌」あるいは「卒都婆小町」などと訳されている。八木秋子は彫刻家なら全てをさらけだして立つ自分の姿にロダンの彫像を見、ヴィヨンの詩を読みとり、何よりもひとりの女八木秋子の全てを読むはずだと空想したであろう。だが願いは空しく、「日記」には「これは一つの喜劇である」と書かねばならない。最後の夢を拒まれたとわかったとき、八木は「書くことから出発し、書くことで充実し、書くことでわが生涯は終る、他になにがあるのだ」(242頁)と記し、著作集Ⅲは「文学への可能性を信ずる。休みなく進め。」という日記の文章で終わる。終わりは始まりなのである。
五 未完のつづき
著作集Ⅲを読む人はこの巻の発行がこの本に収められている「日記」の20年後であることに心うたれるであろう。年譜によれば「日記」後、81歳で養育院に入るまで生活は失業、長野の姉と親族にひきとられるが再上京、木造アパートの独り暮らしが長かった。生活保護をうけての生活に余裕は無かったであろうけれど、八木は「貧しく素朴で簡単な独り暮しの中で静かな読書や思索の日々であった」と語っている。自分の時間と空間をなんとか確保していたこの時期の彼女の目標は「日記」に書いたように「私でなければ絶対に書けないものに、私の表現を与える」(著作集Ⅲ、197頁)ことであったにちがいない。いくつか自伝的な作品を書き、ついで真の創作を、という計画があったはずである。だが著作集Ⅲの著作目録をみてものこされた作品はほとんど「日記」の時期に集中的に書かれて、その後つづいてはいない様子である。
それがなぜ、通信『あるはなく』発行のあの時期に一気に書けるようになったかといえば、八木秋子が実に長いあいださがしていた読者にようやくめぐりあい、対話でなければ火花を散らすことのできない精神が燃えあがったとしか考えられない。通信において編集人の真剣な問いかけに触発されながら八木秋子は「常に私の戻るところ、負のバネ」は子どもを婚家において、捨てて家出をしたことであった、と語りはじめている。成人した息子との再会、しかも直後に彼の若い死に立会ったことを2号に書きあげて、八木はその文章に「私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギーがあの短い一文に絞りつくされた感じ」と語っている。家出と農青事件とは彼女が書くはずであった自伝的作品の主要テーマであるのに、著作集に収められた文章ではほとんど触れていない。八木秋子にはこれまで、もっとも書かねばならないテーマがもっとも書けなかったのである。
著作集Ⅰ、Ⅱ、Ⅲのあいだにある空白は通信『あるはなく』によってやっと埋められるのであるから、遠くにいる読者は通信全15号とそのつづきもまた、いつの日か読める本となって届けられることを待つのである。そのとき、八木秋子の足跡はつながり、個々の読者の想像力のなかに彼女が書こうとした幻の大作が結晶するのが見られるであろう。『あるはなく』を読まなければ、八木秋子はなぜ50歳年少の編集人の世代とめぐりあうまで、自分の読者をもとめて40年も待たねばならなかったかを理解することはできない。
「さらば、われ、わが生涯を迷いと不安に貫かん」と記した八木秋子のことばは、戦後の復興から繁栄にむかった時代に育ちながら繁栄の社会へそのまま組み入れられることを拒んだ学園闘争の世代によってはじめてうけとめられたのであった。八木秋子の側からいえば「通信『あるはなく』は私が書物や原稿のはしきれまで失って屍のような老人の姿を部屋の中に置いたとき、私の若い友が心に閃いた私のよみがえりの幻像であったかもしれない」(著作集Ⅰ「あとがき」八木秋子)のであった。
手づくり手わたしの通信から生まれた《八木秋子著作集》の短所は、通信と共に読まなければ著作集は説明不足でわかりにくいところである。著作集に前記の空白があるだけでなく、八木秋子の文章には自分にだけしかわからない表現も多い。だが編集人は事実をおぎなう他の解説をできるだけひかえ、その代わり著作集各巻の表題と表紙装丁にありたけの思い入れをこめている。著作集Ⅱ『夢の落葉を』だけは八木の物語の一つの題からとられているが、著作集Ⅰ『近代の〈負〉を背負う女』、著作集Ⅲ『異境への往還から』は編集人の命名であつて、一語で八木秋子という的を射ようと狙いさだめた緊張と、それとは逆に読者にさまざまな解訳をゆるす余韻が同時に感じられる魅力ある題になっている。著作集Ⅲの表紙は画狂老人と落款をのこした北斎90歳の「雪中虎図」であり、虎とも蛇ともみえる怪獣は、現在86歳、すでに「時」に踵をつかまえられながらなお激しく身をよじって生きている八木秋子の姿とみえる。
通信の読者でさえ、通信によせた著作集の読後感想に、読みなから頭が痛くなり苦しんだ部分があった、なかなか入りづらくもどかしいところがあった、もっと詳しく知りたいなどと書いている。しかし、わかりにくいという感想が生まれ、しかもその意見が大切にされているのは重要なことではないだろうか。読者は頭が痛くなるほと考えはじめているのてある。最近の若者の活字離れということかいわれ、本を読まないから物を考えないという意見がある。しかし考えない習慣はもしかしたら、本つくりの専門家によって解説まで周到に用意された本によってつくられたかもしれないのである。《八木秋子著作集》は解説にすっかり身をまかせて受身のまま読書時間を過こすことを許さない本てある。最近、これほどなぜ書くか、読むとはいかなる行為てあるかについて考えさせる本をわたしは他に知らない。
■編集後記■
積み残したものは沢山ある。
1967年10月8日の日記や当時の手紙。私あての、今は住所も定かではない、曹貞姫さんの手紙なとも心に残るものだ。また、八木さんを知る、数少い友人の方々から貴重なお話をうかがえたし、記者時代、農村青年社、満鉄時代の資料も見つかっている。
しかし、私は見切り発車てもよいから出発したかった。休刊号の後記で、私は酒落のつもりで十月十日をめどに原稿を締切り、発行したい、と書いた。正直なところ、いつ発行できるか明確にできなかったし、したくもなかった。しかし、八木さんはメッセージを残し、十月十日たった4月30日に息を引き取った。何か私をして早く発行させたかっているのか、よくわからない。たが”今”しかないという気がしてならない。
本号は、私の、八木秋子に関する文章か多く占めることになった。それらがこの誌面に必要かとうか、答は出せない。しかし、前橋の岡さんのところで、八木さんの甦り(私にとって、移るまえの病状からそうとしか言えない)を知り、その二つの文章か一気に息を吹き返したと信じ、載せることを決めた。
私はいつも契機を待っていた。これだ!と思うと一気に駆ける。不思議と私の直感はそれほとズレなかった、北斎の絵についてもそうた。あの偉大な北斎の代表作は「雪中虎図」に違いないと確信する。また、楢山節考の映画をいま見ることかできたことに感謝したい。あれはまさしく現代、そして未来を描いている。
八木さんを識るには自分の体験の中からでしかない。協力し、発刊することて、私は八木さんから離れられると思ってきた。
通信「あるはなく」における八木さんのイメージはパルサーだった。今はむしろ、ブラックホールを想う。私たちのあらゆる思いを吸引し、新たに星を産み出す暗黒星雲を、じっと向う側から見ているに違いない。<私たち>の「あるはなく」の表紙はこれ以外ありえない。
〒187東京都小平市花小金井南3-929
相京範昭
電話0424-63-9903
振替口座東京-4-40972・相京範昭
1983年5月発行
合本について
50部ほど合本を作ります。定価3000円。
欠号のある方、ご連絡下さい。1部150円、休刊号400円。送料は含みます。
こうして、「あるはなく」は皆さんの手元にあるものとその合本だけが残ることになります。 悪魔の囁き。
楢山節考 相京範昭
深沢七郎の原作を読んだとき、本当に心のやさしい人達の話だなあ、と思った。それが木下恵介監督の手で映画化され、「花小金井」自主上映会で観たとき、悲しいだけの映画にしてしまった、と思った。
今村昌平監督による今回のそれは、監督といい、俳優の緒形拳、小沢昭一、殿山泰司、坂本スミ子といい、製作段階から期待していた。これだけは封切りで見て自分を確かめようと思っていた。
ちょうど、4月29日が封切り日であったため、八木さんのこと、あるはなくのことで、5月11日の今日まで見られなかった。今思うと、これは今日という日に見るべきものであったのかも知れない。安直なヒューマニズムを蹴ちらしていた。〈否定の底のヒューマニズム〉だ。人が老いてゆくという自然なことに、他者が関われることは、ただ背負って行くことか、また、雪が降ることを心から願うことぐらいしかないのだ。
今村流の奔放な性-エロスを原作に脚色し、私が知るわずかな映画の中で、初めてといってよい、自然の摂理をドラマ化、映画化したものだった。人間は動物であること、しかも意志ある動物であることをしっかり見せてくれた。私は感動した。本当に”よかったなあ”と言いたかった。
1983/5/10
■読者の皆さんへ (馬頭星雲号に添えて)
本来ならば、皆さんへそれぞれ手紙を書き添え、お礼を申しあげなければならないのですが、私としては、前号で八木秋子通信にピリオドを打ち、本号は私<たち>から八木さんへの通信と考えておりますので、その点ご諒承ください。また出来上がってみて、私の文章を読んでみますと、何をいいたいのか不明の部分がかなりありますし、気恥ずかしい気持ちも残りますが、あれも、これも、といった弁解じみたことは、事実のみを私の心に留め、エイッとまとめて、お許し願えれば幸いです。
さて、同封の振替用紙の意味ですが、この号は定価をつけておりません。その理由として、本号の配布先は皆さんと合本(50冊)だけでありますし、今回で通信の経費について精算したいと考えるからです。
配布部数と印刷経費を計算しまして、一部500円と定価を決めました。現在までの通信に関する残高は、あらかた本号の郵送代になります。また、この振替用紙の送料は私の方で負担いたします。その点も加味した価でありますのでご理解ください。
また、欠号文(号数を明確に指示)合本(冊数)著作集の申し込みにもご利用下さい。その際、金額の明細をなにとぞ裏面の通信欄にご記入下さるようにお願いいたします。
次に、著作集に関し、発刊した時より考えておりましたことで皆さんのご協力を仰ぎたいと思います。残部はあますところ、約300セット。それを私は、全国のいくつかの図書館に寄贈したいと考えております。まず、手初めにこの5月長野県下約30の図書館に寄贈いたしました。出版販売元のJCAより入る売り上げ金から、ゆっくり、ゆっくり発送費を捻出しつつやりたいと思いますが、私が負担した著作集の制作費回収のこともあり、また、私個人でそれをすることに疑問も湧きます。
そこで、皆さんに、この件について、何セットかの郵送費(一セットあたり書籍小包料金400円、発送用箱代金50円)のご援助を願いたいと思い次第です。
これは私の願望ですが、作った本、そのものの納められている場所が明確にされればこれ以上望むことはありません。それが、かつて、また世界の何処で今も、様々な体制の中で、活字の命が人から人へとリレーされていることと、少しでも拮抗することではないかと考えるからです。勝手ながら、以上のこと、私のささやかな、八木秋子著作集にふさわしい”繁栄の時代への異議申し立て”として、ご協力ください。
なお、作業はゆっくり、ゆっくり、進めます。なぜなら、そもそも公共の図書館が進んでこの本を揃えることが、あるいは、リクエストという形で揃えさせることが、まず先行しなければならないと考えるからです。皆さんのお近くで、著作集が揃っている図書館がありましたら御一報ください。二重になっては仕方ありませんので。
私はこの社会で、思想や芸術を私の眼で感受し、八木さんや皆さんとの関係そのものを、私自身の表現として、追及してきました。八木さんの「書く」という一つの表現方法にどこまで肉薄できたかわかりませんが、私なりに精一杯やれたという満足感が残っております。
ありがとうございました。
相京範昭
(「あるはなく」編集人)
1983.5.24
■八木秋子通信「あるはなく」合本をお届けします。1983/9/16
こうして「あるはなく」が一冊の本の形になってしまうことは、何だか不本意な気がいたします。扉があって奥付があるということ、始まりがあって終わりがあることは、通信が本質的にもつ時間性、動きみたいなものを封印してしまうかのようです。ですから、おまじないとして小町の「あるはなく」のうたを見返しに目一杯のせました。そしてそっと50部だけ作りました。
今、私には一抹のさみしさと満足感が残っております。それは八木さんが逝去された時も感じたものですが、そのさみしさは一体何だろうとずっと考えてきました。あの時は、八木さんの存在感ある肉体と別れを告げることであったかと思います。しかし、今回は少し異なるような気がしております。
それは、通信「あるはなく」が積み残したもの、また馬頭星雲号発行以来邂逅したことをそのままにし、表現の場を閉ざしてしまうことに対するさみしさではないか、と思うようになりました。考えてみれば、通信を始める時も<表現><書く>ということが動機になっておりました。八木さん自身、他の誰よりも表現の場を欲しているにも拘わらず、自分から閉ざしていることに私は疑問を持ち、問いを重ねていきました。そして、健一郎さんのことは、その後の八木さんにとって、バネでもあり、また逃れようのない鎖でもあったことに気がつきました。それが第1号の対談型式による内容になったのだと思います。その後、通信は八木さんの迸るような鮮やかな文体で埋められました。
そのように考えると、私は八木さんの軌跡を辿り、通信を媒介にして出遭ったものを、私なりに書き留めて行かなくてはならぬと思いました。形はどのようなものであろうと、そう決めました。
鳴海美代恵さんにお会いしたことも契機になりました。私は八木さんの息子さんである健一郎さんの臨終の場に居あわせたのは古山文さんと八木さんの二人だけだと思ってきました。ところが思いもかけず、その時健一郎さんと生活を共にされていた美代恵さんから連絡を頂きました。訃報記事を読み「八木のおかあさん」が生きていたことを初めて知ったのだそうです。私は電話でお話をうかがうもどかしさに耐え切れず、お宅を訪ねました。夜行で経ち、早朝お電話するとご主人の運転する車で迎えに来られました。着いて辞去するまでの7時間余り、私たちの話は尽きることなく、パズルの一片と一片を組み合わせるように続きました。
32年間、美代恵さんだけの心の底に深く刻み込まれていた「健ちゃんと八木のおかあさん」の像は、私には信じられないほどの確かさで再現されました。いかにも八木さんらしいその言動に、私は感嘆しつつ美代恵さんの長い苦衷の時間も察せざるを得ませんでした。しかし、それにもまして、初めて語り出された事実をそのまま大きく包み込まれるご家族の方々の、互いに信頼に満ちた絆に心を打たれました。詳しいことはまた改めて書きたいと思います。
その翌日、小野小町の歌から表題をとった縁から洛北の小町寺をたずねました。そこで、近くの少年に書道を教えておられた女性に小町像を案内していただきました。東京に帰り、合本の題字をどうしょうかと考えた時、ふとその方に書いていただこうと思いました。「小町寺書道の先生」あてで、題字と小町の歌を書いて頂きたいとお願いしました。何日かして、その山本靖子さんと連絡が取れ、私の無理なお願いはかなえられました。後日の話では、山本さんは週二日小町寺に教えに来られていて、私たちが遭ったのは偶然だったそうです。
それもこれも一期一会。私は八木さんの古い著作や友人の方に偶然であうことがよくあります。まるで八木さんが予め脚本を書いていったかのように思えることがあります。ならば、何時幕が降りるとも知れないこの劇の、狂言回しを演じるのもオモシロイぞ、そんな気が今しております。
なお、本のケースは楜沢仲さん、和子さんの手で造られました。ありがとうございました。
1983年9月16日 相京範昭