4月30日(2006)は八木秋子の命日です。23年前のことです。
第10夜は、あえて周辺にいた人たちのひとり、児玉はるさんのことに触れ、八木秋子の世界を拡げたいと思います。
児玉はるさん(1906~1988)は、18歳からアナキズム系の東京印刷工組合で解版工として出発し、74歳まで仕事を続けた方で、八木秋子より一回り若い世代ですが、私は八木秋子が亡くなった1983年から児玉さんが亡くなる1988年まで、お話を伺う機会を得ました。
紹介してくださったのは古河三樹松さん(1900~1995)でした。初めてお目にかかったときは、満州新京にいた八木秋子を児玉さんが訪ねた際のことを聞きましたが、古河さんがおっしゃったとおり、彼女は江戸っ子らしい潔さと遠慮深い人柄の方で、たいへん魅力を感じました。そして、川柳の作品を読ませていただき、その句を多くの人に紹介したいと考え、そのころ私が発行していた八木秋子に関わる冊子「パシナ」(編集人相京)に聞き書きを数回掲載しました。
これから読んでいただく一文は、その「パシナⅡ」(1984年春)に書いたものを「くろ」(2001年刊)という冊子にまとめたものですが、手を入れました。
八木秋子の世界を「あるはなく」とすれば、児玉はるさんの世界は「なきもまたあり」と言えます。
*古河三樹松さん(1900~1995)
大正末期、アナルコ・サンジカリストとして活動し、その後下中弥三郎の平凡社に勤務。1980年ごろは四谷で小さな書店を開いており、時々訪ねて行った私を可愛がってくれて、たいへんお世話になった。子どもができたとき「相京さん、子どもなんて勝手に育つもんだよ」と言ってくださったことを思い出す。また戦前のアナキストや文壇事情に非常に詳しかった。大逆事件で殺された古河力作の実弟。著書に『江戸時代大相撲』『庶民芸能-江戸の見せ物』がある。大正時代から児玉さんとは親しい間柄で、児玉さんと最後の別れをされるとき、小柄な古河さん(88)が踏み台に乗り、棺の中をのぞきながら人差し指で涙をぬぐっていた光景は忘れがたく、思い出すと今でも目頭が熱くなります。
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◆気配を残して立ち去った人たち
―「児玉はる」川柳の世界―
雑草の中に一本紫蘇であり
生き方のほかに死に方はなき
失敗の自分らしきは悔いもなし
わが問いにわが身をもって答えんか
草の葉を掴んで死ねるとも思う
川柳作家児玉はるさんの句の中から珍しく強い調子のものを書き並べてみた。小さな身をいっそう縮めて「どうもきまりが悪い句なんです」と言うに違いない。
なにゆえにこうもうつむく春のくれ
つかれ果てて花のうつくしさにまける
黄昏る芙蓉の紅へ振り返り
うしろ手に閉める障子も秋のもの
蚊遣火秋の気配に流れたる
どちらかと言えばこういった、情感たっぷりな句が多いし、私はそれが好きだ。
児玉はるさんは1988年になくなった(享年82歳)。私は彼女の晩年、およそ4~5年にわたりお話しする機会を得た。まず句そのものからただよう気配を書いてみたい。勁さ、潔さ、瞬間をとらえる作風、ただよう情感。初めて彼女の句を知った時、その精神の源泉は彼女の若いころの環境にあると思った。「パシナⅡ」(文責:相京)の聞き書きから引用したい。
★ちょうど引っ越した佃島の家の前が石川島造船所で、大正10年に大きなストがありました。私の義父が勤めていた関係で、ストの時、私の家がそのたまり場になって行商隊などが家で支度をしてました。行商隊は日用雑貨を下町を中心に売り歩ってストの資金にしてたんです。そのストが影響したのでしょうか、幼いながら、どうして働く人があんなひどい目に会うのか、と思いましたね。で、大正13年、18歳ぐらいになって印刷工になったとき、すぐ東京印刷工組合へ行きました。
そしたら、和田栄吉さんがいて<運動やるのはいいけど、その前に、一人前にならなけりゃだめだ。勉強して仕事を覚えなっ>。そういってくれことを良く覚えていますよ。その頃の30代と20代の差といったら、大人と子どもでしたから、ハイって聞いていました。
仕事を先輩から後輩へと伝えてゆくシステムっていうか、伝統があったように思えます。職業意識というのがありました。職人肌っていうんでしょうか。でも、もののいいようはやさしかったですね。
いまはほとんど見られなくなっているが、鉛の活字を組んで版型を作る活版印刷の作業のひとつ、活字をばらす解版が彼女の仕事だった。その仕事を彼女は74歳まで続け、印刷工の先輩から川柳を教えてもらったという。冒頭にあげた句にみられる勁い芯のようなものがその印刷工という職人意識、その世界との関わり方と大きく関係が深いということを書きたいのだが、もう少しその影響を彼女の言葉から引用したい。
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★わたしはノンベンダラリと生きてきましたよ。組合運動をやってても、いよいよ修羅場になったらみんなに迷惑をかけるんじゃあないかと思ってましたね。なんだか隠したお米がこぼれていた、といったふうにね。だから、自信がなかったから、いろんなことを知らないほうが人の迷惑にならないんじゃあないか、というように自分をね、もっていきましたよ。
でも、それでいいって思ってね。きちんと町の人になればいいんだ、というようにね。そうならなかったら、何をいったって中味になりませんもの。浮きあがってしまうでしょう。さっきいった和田栄さんの話と通じる所があるでしょうねえ。
★あとで思い出してみると、よくあんなことが出来たなあ、と思うときはたいてい、自分が若いときはこうだったじゃあないか、へんなことは出来ないぞ、そう思ってきたように思えますね。自分が若いときよりダメになったんじゃあまずいぞ、そういうことですね。
なにがどうだ、ということじゃないんですが、満州にいた時なんか、なんかしら力になっていたように思えます。決断するときなんかにありました。そんな時、自分のなかに何か自分が出来ているんじゃないか、そう振り返ってみたことがやっぱり何回かありました。だから、人にも、会わなければならない人と会って来たと思いました。
★わたしは思うんですよ、思想だけでモノを見ようとすると考え方が狭くなってしまうんじゃあないでしょうか。人間全体に対して興味を持っている人にひかれてきましたね。
よく、自分の思想のあれでいろんな人が死んじゃったりしても平気な人がいる。ああいうのはとてもいやなんです。だって、どの人も自分で考え、生活を持っていて。こういうことが正しいといったって、時が経てばそうじゃあないこともあるんです。ですから、人のそういうのを見るのはいやでたまりませんね。
ここでいう、満州・中国東北地方にいた時というのは、敗戦後の満州での混乱の中で、周囲にいた若い女性たちを集めて遼寧印刷協会というものを作った時のことを言っている。その数ヶ月間、お互い助け合って生活し、「能力に応じて働き、必要に応じてとる」という相互扶助のシステムが自然にでき、クロポトキンの相互扶助論を知らなくても普通の人がみんな自然にそれを行ったという。「わたしはああいう思想に接していてよかったなあ、そういった感慨と、普通の人にならなけりゃいけない。そう思いましたね」と言っている。
その頃、若い娘が結核になったが、看る人がいないということを聞いて、世話をしようとしてそこへ向かった。しかし、行ったらすでに死んでいて、部屋には小さな荷物がポツンとあった。
少女亡し寮舎の壁の白きのみ
さて、児玉はるさんが参加した印刷工組合は明治・大正期の労働運動、とりわけアナ系労働組合運動の中核として活躍したが、その中心的活動家として前述の和田栄吉(大正10~11年、二部制、八時間労働制を要求した新聞製版工ストの中心人物、大杉栄らアナキストと交わり全国労働組合自由連合会でも活躍)や布留川桂、水沼辰夫らがいた。その組合紙をみると児玉はるの名前が大正15年、全国労働組合自由連合会の機関紙「自由連合」第一号(六月五日発行)に出てくる。
■同年、「五月二十四日、全国自連第一回全国大会において、児玉はる子が<婦人労働者の運動が振はないのは遺憾だから応援して欲しい>と希望」した。また、東京印刷工組合の定例会(十月)において、「婦人部復興の件」として「深川支部設立以来婦人部が復興の気運になるから各部門でも応援して欲しい」と希望があり、婦人部の宣伝ビラを作成する事に決定。起草委員に児玉はるの名前が挙がっている(『自由連合』第六号、大正十五年十一月五日発行)。
その後、いまのところ資料の上にはあらわれていないから、聞き書きしたことと他の資料を重ねて推測するしかないが、児玉さんは、近藤憲二らの労働運動社、後に神山茂夫ら共産党の刷新同盟に関わる女性たち、八木秋子や高群逸枝らの『婦人戦線』の女性たちとの集まりを活発に持ったらしい。そして、連れ添った宇田川一郎とともに、ハンストと煙突男で有名な「日本繊絨ストライキ」や戸沢仁三郎らの消費組合運動などにも関わるのである。しかしその後、宇田川一郎が死に、後を追うように一人娘の千浪も失う。
一人ぎりおまけのように生きている
涙して自分の過去をよしとする
ものおのおのかかわりもなきたたずまい
そんなおり、出会ったのが川柳であった。
「はるは昭和11年頃から川柳に手を染め、川上三太郎が主催していた『川柳研究』の幹事をしており、婦人特有のほのぼのとして感情のこまやかさ、深淵さにおいて卓抜し、詩感においてもっとも充実していた。彼女は人間が思想をもつ以前に持っている実感が最終的には人間の行動を決定していることを明らかに示している」
『川柳研究』144号昭和36年9月発行、戦前・中・直前に於ける<女性川柳作家について>
と江端良三は書いている。
また、川柳作家の森中恵美子は若い頃仲間とガリ版刷りして児玉さんの句を写し、むさぼるように読んだと書き、「私はなにほどか盗んで、抱いてきたかも知れぬ。大事に思う人の作品は体の中にどこかに生き続けているものだ」と言っている。
児玉はるさんは、川柳をはじめてから満州へ向かうまでの2~3年のあいだ、このように川柳界で大きな地歩を築くが、1939年、奉天の満鉄印刷所で働くことになる。
彼女の師である川上三太郎は川柳についてこんな趣旨のことを言っていた。
「よく俳句を作る人たちの中で<これは川柳じゃあなくて俳句ではないか>と言う人がいる。だけど、季語がどうとかにとらわれることはない、もし、どうしてもと言われたら、俳句の人にこう言ったらいい、あなた方が欲しいと思った句は全部もっていってよ、残ったものを川柳がいただきましょう」。
さすが、飄々としたもの言いの中にたっぷり皮肉がきいている。
私もそう思う。そういうふうに要素に区分けをする発想の必要性は認めるが、割り切れずに余ったもの、あるいは空白になっているもの、そういったものから想像する世界を大事にしたい。人が生きた世界を対象とし、歴史として綴るならなおさら重要なことだろう。そこはゆずることができない一線である。私はこれまで、歴史と資料の関係についてそのような意識で『農村青年社事件資料集』(黒色戦線社発行)をまとめ、その「付録」で書いてきた。
彼女の活動記録はいわゆる機関紙誌の資料に残っているところはわずかだが、作品には、印刷工の職人気質の中に残っていた世界、消費組合など相互扶助が自然に形成されていた下町の労働者の世界を想像させるものが多くふくまれている。
私<たち>が伝えるべきものは、歴史の表面に表われた組合活動などを「支えたふつう」の人たち(ある時はその人たちのほうが突出したかも知れないが)、そういった周辺の「ふつう」の人たちの世界ではないだろうか。そして、その世界を砥石のようにして生きてきた彼女は「たくさんの人たちの気配を感じた」人なのである。それゆえ、気配は彼女のものとなり、作品に人間への哀慕が表れているのだと思う。
背をなでて犬の不安を知ってやり
ふりむいて見る一生は風の中
晴ればれとして何か起きるのかも知れぬ
気をつよく自分が困るほうをとる
限界があることにしてあんどする
彼女は寡作だったが、私がおつき合いをしている時期、とりわけ入院して半年あまりの末期ガンの病床で、奇跡的に句を多く作った。そのころの句を紹介したい。
かすかなる遠い音から夜があける
ぬけがらを置き留守になりたい
一碗の粥ゴマ噛んでゐる
闇に啼く鳥ひくく啼く闇深く
眠らうと病衣の衣紋正すかな
上布まとう存在というかろきもの
それぞれにその人らしき夢のなか
消えていく泡のひとつとなりきれず
病床に菜の花あかり眼鏡拭く
受胎告知の絵がみえている
最後の句
窓をすぎる鳥のゆくえのたしかさや