読者の皆さんへ
ごぶさたしております。
昨年はとうとう「あるはなく」を発行することはできませんでした。前半は著作集Ⅲの制作に全力を注いだこともあって、それなりの理由は考えられるのですが、後半は全く遅々として進みませんでした。現在「転生記」の清書が8割がた出来あがったところです。そこに八木さんの書簡と未発表の童話を加えて5月ごろまでに発行したいと思います。
八木さんの81年は、前年の80年と同様、入院、退院の繰り返しの一年間でした。現在(82・1・20)の時点では入院の状態です。しかし、養育院ナースイングホームの寮母の方々のご好意もあって院外に移されることは免れました。もとより、八木さんとのおつき合いの中から産まれた「あるはなく」と著作集です。八木さんが書くことも語ることも困難になった時は僕にとって通信を存続させる理由はありません。というより、通信を継続させるために八木さんを訪ねることはなくなりました。
ぼんやり行って、八木さんの調子で、ぼんやり居て、帰って来るというのがこの一年でした。でも、言葉を言葉として出せない苛立たしさを見せない日はありません、が、僕は八木さんの関心のもっていることを聞かれるままに応えてます。よく聞かれることは「アンタ、最近感動したことは何だネ」「子供は元気でしょうネ」「みんな集まっているんでしょうネ」(これは僕が住んでいる花小金井で映画の上映会を三年ほどつづけていて、二回ほど招待できたことからその会をさす)などでした。
特に昨年はポーランドのことを聞かれました。自主管理共和国とは、八木さんがかつて農村青年社運動で目指した方向のものですし、僕自身も希求しているものです。その時八木さんは「内身が問われているんだねえ」とポツリと言ったのを覚えております。また昨年夏その映画会で谷中村の田中正造を描いた「襤褸の旗」を上映しましたがその時、林竹二の『田中正造の生涯』を読んでそれに感動したことを話したこともありました。それは、田中正造の晩年における思想的大変化-回心-自己否定について書いてありました。彼は啓蒙者であった自分の精神を自己否定し谷中村人民と称するのですが、しかし農民になるのではなく、渡良瀬川、利根川の治水調査を自分に課せられたものとして、農民の世界と拮抗する世界として死ぬまで調査したのです。そういった話を八木さんはじっと大きく眼を見開いて聞いていました。「ふ~ん、回心か、いい言葉だねえ」
言葉といえば八木さんが昨年秋、退院された時、よい言葉を残してくれました。『うれしいことは、ポツン、ポツンと少しずつ時間が経って出てくるものだ、急にいっぺんにはやってこない』
86才の八木さんの肉体には間違いなく時は刻まれて行っております。僕は八木さんのその時々の状態について改めて『あるはなく』として書くことは遠慮させて頂きたい心境です。その点ご了解下さい。
昨年暮、思想の科学(82・1)に、最初からの読者の一人である京都の西川祐子さんが、『八木秋子著作集』の書評を書いて下さいました。僕の近くにいる親しい友人たち、遠方にいる友人たち、そして通信の読者の方の中でも敏感に応えた同じ世代の人たち、この世界を包んでいる精神は八木秋子の戦後の軌跡に間違いなく感応します。
そこを西川さんは西川さんの眼で語って下さったのです。そこが僕にとってとても嬉しく思ったところです。僕は自分でもよく明確にすることができない部分で八木さんに協力してきたと思っております。その部分はおそらく自分で行為に踏み出す時の一番核心の部分だと考えており、逆にそれを見つけるために八木さんに協力を続けているのかも知れません。そして少しずつ自分を見つけることができてきたと思っています。同様に西川さんの文章にもその意味で自分の中にあるヴェールが一枚はがれたように感じております。
どうか皆さん『あるはなく』を媒介にしての文章をご準備下さい。取捨選択は僕に任せて頂きますが、今年中に発行する予定の「休刊第二号」はそれで埋めたいと考えております。<終わりが出発である>とポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダも今回初めて日本で封切られた「世代」で語っております。少しずつ通信発行の作業を進めている現在、八木さんや埴谷雄高さんや先人の遺した文章がまた頭をよぎるのです。どうぞ皆さんもお元気でご活躍下さい。
なお、最近(正月早々)通信とは直接関係ありませんが、著作集の出版に関係する僕の近しい友人が逮捕され警察発表そのままの報道で新聞紙上を賑わしました。事の当否はともかくとして、彼にとっては今後の生き方でそれを証すしかないと思いますが、しかし見せしめを作るのが権力を握っているものの示威であることも確認する必要があると思います。
1982・1・30
「あるはなく」編集人
相京範昭