■「あるはなく」休刊号(1982年7月20日発行)
- 転生記 (転生記掲載終了について)
- 少女小説 オルガノ笑 (原本より複写)
- 海の哀話・少女小説 悲しき伝書鳩(原本より複写)
- 少年少女小説 タア坊の旅 (原本より複写)
- 著作集未収録評論
都会への遠慮はいらぬ(上) - 著作集未収録作品
人ちがひの…… 再会(上)
人ちがひの…… 再会(下) - 著作集未収録評論
自覚と準備へ 知識階級の行くべき道 - 編集後記
■転生記掲載終了について
◆注 転生記は第5号から連載し、八木秋子が現在を語る同時進行形で進めてきたが、体調等の理由でむつかしくなり、入寮以来の日記を既に発表したものと重複しないように、また一部を省いて連載してきた。このサイトに載せるにあたり注釈した。
以下、原文 サイトの「転生記」の最終ページに続くものです。
転生記はこれで完結した。ここで書かれている頃は、ちょうど著作集Ⅰが発行され、出版記念会がもたれ、そして八木さんが脳血栓で倒れた当日までの期間だった。
私にとって、初めて経験することばかりだったので、無我夢中で過した様子がその日記を通じてよくわかる。
私に関しての記述は、全く持ちあげすぎで、いくつかの思い過しもあるが、八木さんの気持を一番大切にすることから出発した通信なので、そのまま目をつぶって掲載した。なお二人を除いてすべて実名とした。
この頁から一挙に掲載する少女小説と「新愛知」に載った評論はすべて堀場清子さんから送って頂いた。小説は当時の雰囲気を伝えるためそのまま手を加えなかった。八木さんが農村青年社運動に関わっていたころ、童話小説を書いていたはずだ、とは星野準二氏からうかがった記憶もあったが、目にすることはなかった。ロシア・ウクライナ、教会、横浜、に八木さんの心象風景を想うが、それ以上は私の手にあまる。なお、『タア坊の旅』は通信第15号のあるラジオドラマと内容は同じで、約20年後に改めて書いたものだろう。
著作集Ⅲ「異境への往還から」の発行に際して書評して頂いた各新聞・雑誌を左に記す。
毎日新聞夕刊7月1日号 西川祐子
神戸新聞7月18日号
信濃毎日新聞8月6日号
婦人民主新聞8月14日号
出版ニュース8月号
日本読書新聞11月9日号 三宅義子
思想の科学1982年1月号 西川祐子
■少女小説 オルガノ笑(原本より複写)
■海の哀話・少女小説 悲しき伝書鳩(原本より複写)
■少年少女小説 タア坊の旅(原本より複写)
■著作集未収録評論 都会への遠慮はいらぬ(上)
新愛知 夕刊 昭和4年8月30日号
この夏、私は九州地方へ旅行に出かけることになつた。何にしても名古屋以西は生れて始めて見る土地なので、どんな小さい一つのものをも見遁すまいといつた貪欲にちかい眼を瞠つて、疾走する車窓から珍らしい風景を迎へたり、送つたりして飽くことを知らなかつた。瀬戸内海の水面に浮ぶ島も見た。九州地方の大工業地に空を焦す黒煙も見た。そして私が最後に得た感じは、「日本はやつばり米の国だ。この広い水田を他にして日本の風景を考へることも出来なければ、産業について論じる事も許されるものではない。」といふことだつた。これは実感である。
◇
吾々は毎日三度の米の飯をたべて生きてゐる。一日として米を離れた生活はあり得ない。それは吾々が農村に育ち田を耕すことをみづからも為しまた永年見なれて来ながら、しかもこれほど切実に実感として胸を搏つたのはどうしてだらう。実際、東京を一歩離れた時から吾々の前に展開される風景は嘘も誇張もない水田と森である。いかなる海辺でも炭坑地でも、必ず僅の地面も利用されて稲が青々と風に靡いてゐるも米といふものが吾々日本人にとつて、これほどの因縁をもち、これほどの宿命的な関係におかれてゐることは、不思議にも平素の吾々に無論価格の問題として生活的に感ぜられる以外には、割合気のつかないほどそれほど密接なものである。
◇
坦々とつづく平野は眼の届くかぎり青田である。そこには手拭被りや檜笠の村人が点々と置かれて田の草取りに余念もない。吾々は車窓からこの風景を即興の短歌に詩に思ひ浮ぶべくあまりにそれは現実的な色調をもつてゐる。田の水は烈日には百度近くもあろう。終日身を跼めてこの熱湯の中に労働する百姓の姿に、わけてもうら若い女性達の姿に、吾々は詩情を唆られるにはあまりに生活の痛苦を感じる。-米が食へない-この言葉の中には、真実にどれだけ百姓の血と汗の共感が含まれてゐるか。私は何も人道主義的センチメンタルな同情から言ふのではない。また観念的智識階級の怒号する階級意識の言葉でもないのである。もっと深い、実感なのだ。吾々もプロレタリアートの一人でしかない限り-。
◇
今日の社会思想家は、無産運動者等は農民悲惨な生活に就て叫んでゐる。事実農村は今日全く行詰つて最早救済の道なき状態にある。併し彼等は精細な統計をあげ農村の窮乏の事実に指摘し得てもそれは多く表面的なもので生活の内面についての理解はあまりに把握されなさすぎるかに思はれる。生活の窮乏とそれによつて起る一般農民の絶望的無気力について、観方はあまりに狭いのではないだらうか。
婦人労働者の問題があらゆる方面から、視点から叫ばれてゐる。深夜業の問題は一とまづ片づいたかに見える、その他同一賃銀要求だとか時間短縮問題だとか、産前産後の休養であるとか、または寄宿舎制度の改善等々-。社会的に政治的にいろいろな運動が起りつつありまたそれは確に重要な社会問題の一つとして取扱はれてゐる。職業婦人の聞題もさうである。
◇
然し、一般的に見て今日はまだ非常にいはゆる家庭婦人の数は多く、これ等の婦人達は階級闘争はおろかまだ封建主義の時代をすら抜けきるには遠い、一般婦人が何時まで経つても進歩がおそく、社会意識のレベルが低いとされるのは当然である。が婦人労働者を観る場合、殊に農民の婦人が全く片手落といふべきほど等閑視されてゐるのは何故であらうか。
近代資本主義は金持と貧乏人の二つの階級を生んだ、同時に都会と農村といふ対蹠的な存在を必然的に招来した。資本主義がより高度に発達するに従つて、この二つの存在は次第に相容れない存在として溝を深めてゆくのは当然である。マルクス主義運動の指導者等は簡単に「我々労働者農民諸君よ」と叫んでゐるが、都市労働者と農民は常に利害の相反する立場におかれてゐる事を忘れる事は出来ない。成程今日の農民はまづ資本主義制度のもとに資本家地主に搾取されてゐる事は事実であり、米を売るほどの余裕をもたぬ多くの小作人は生活上米価の廉からん事を願つてゐる。而し、都会生活者の多くは人間の生活になくてはならぬ重要な生産に随つてゐる者ではなく、また文化的にも必しも社会に有用なものを作り出す仕事もしてゐない。反対にその大部分は資本主義帝国主義の存続に役立たしめる役割さへつとめて生活を保つてゐるのだ。都会労働者は大工場に於て吾々の日常生活に必要ないろいろの物資を生産する。その第一の消費者である農村の人間は自然価格の廉からん事を望み、都市労働者は価格の低下する事を恐れる。
冒頭に書かれているように、この文章は林芙美子と一緒の九州講演旅行直後に書かれたもので、続きがあると思われるが、現在のところ発見されていない。(相京)
■著作集未収録作品 人ぢがひの再会(上)
新愛知 夕刊 昭和5年5月27日号
◇
京橋ぎわのパー・グリル、酒の香とジヤズと、ほの青い照明にうごめく男と女の中から、私は容易に彼女をさがし出すことが出来た。広くもない酒場である。鉢植の棕櫚竹がかぶさつてゐる蔭の卓子に彼女の横顔を-相手の男はこちらへ背中を向けて両肘をついた姿勢の、妙にいかつい肩を彼女の方へくねらせてゐる。
あの漆黒の断髪だ。あの整つた鼻すじ。私は連れのSに素早く眼と小指とで示すと、Sは帽子の庇からのぞくやうに点頭いて、ゆつくり憐寸をすつた。
◇
もうニケ月になる。その時毛皮のオーヴアだつた彼女はいつか薄ものの、胸も腕もあのとほり露はな軽い装ひにかはつてゐるのだ。彼女よ、こつちへお向き-。
◇
森閑とした留置場の真夜中-ガラガラと扉のあく音で浅いねむりをさまされた私は、とたほれる肉体のひびきにつづいて驚くべき、全くすばらしい発見に思はず眼をみはつた。ひとりの女が、溌剌と私の寝てゐる横へ転がりこんだのだ、仆れさうな身体をわづかに片腕で支へて憎悪をこめた鋭い眼で扉の方をにらみ返してゐる。
◇
おおすばらしい新入者よ、ゐらつしやい-だが、鳴咽に波うつ胸にうごいてゐる真珠の粒、泣きぬれたまるい頬からのびた白いおとがひ-肩のはしに毛皮のオーヴアが真紅の裏をみせて滑らかに波をひいてゐるではないか。この瞬間が、このポーズが、全く私を捉へてしまつた。
「おとなしくして寝ろ、此処へ来てしまつたらいくらじたばたしても追つかないんだぞ、何だその妙な面は、馬鹿だな」
看守が立ち去つてしまつても、放心したやうに彼女は扉をにらんでゐる。鳴咽して、腱毛をぬれるにまかせて。この悲壮な女性の姿はあまりにも痛々しく、だがあまりにも美しかつた。私は彼女とだまつて一つ毛布にくるまつて寝る光栄を得たわけである。
◇
あくる朝、差入れの弁当を見ると彼女ははじめてくすりと笑つて見せた。まだ充分に熟しきらない果物のやうな、どこか少女のにほひのある笑ひは私をたのしくさせた。
「わたしね、ゆふべあなたを見たとき、林唯一氏の挿絵によく出てくる、あの女性を思ひ出したのよ」
お世辞のつもりでもなくかういふと、彼女は一さう無邪気にほほ笑んだ。
「ええ、さうですつてね、皆さんがよくさういひますのよ、でもあたしどんな絵かしらないけれど…」
■著作集未収録作品 人ちがひの再会(下)
新愛知 夕刊 昭和5年5月28日号
◇
彼女は想像とほりバーの女給だつた。ゆうべ真夜中、客の大学生とふたり待合を出て歩き出した所を「ちよつと来い」だつたさうだ、男の方は某政府大官の息子といふところから直ぐに帰されたが、彼女はさうはいかなかつたのだ。
「なぜそんな夜中歩いてたんですの?朝までゐればいいのに。」
「だつて、お酒を呑んでゐたら女将が上つてきて、部屋の都合がつかないから帰つてくれつて、断られたんですもの」
◇
彼女の入つてきたことは、確かに留置場に一つの波紋をなげた。官服や私服がぞろぞろとのぞきにやつてくる。だまつて帰つてゆく人、「やい、モガ、警察の飯はどうだつた、美味かつたらう」中には思ひきり猥せつなのもゐる。美しい女性は男の好奇的な慾情を満足させるためにあるものらしい。午すぎ元気で呼び出されていつた彼女はまもなくひどく泣きながら帰つてきた。十日の拘留-すすりあげ身もだえする毛皮の彼女。
◇
「女給だつて人間ですわ、人間ですとも、上流の家庭の息子たちを堕落のふちへ落すのはお前みたいな淫売だなんて、あんまりです、あんまりです、山口さんがあたしを忘れるもんですか、あの人からあたし恋されて、かたい約束したんですもの-ああ口惜しい」
「…………」
「ゆうべあたしたちお酒を少しつきり呑んだだけなのに、何かしたらうなんて-あんまりですわ、無理やり何かしたことにされて、さう言はされてしまつたんです、ああ。」
◇
鳴咽の中から彼女は顔をあげた「あたし、此所を出たら、うんと不良になつてやるからいい。みんなが、弱いものを苛めてるんです。ええ解りましたわ」
その大官の息子はたうとう顔も見せなかつた。前に働いてゐたバーからの給料の残りを警察にいくらか納めて、彼女は四日目にいそいそと帰つていつた。
「さよなら、お先に。またきつとお目にかかりませうね」
私はひとり残つた監房の中で、優しい靴音の遠ぎかつてゆくのをぢつときいてゐた。
◇
「あら、あら、あなたでしたの」彼女は近づいて明るく笑つた。「いつぞやは……」私は彼女が案外不良にもなつてゐない様子を感じて思はず微笑んだ。
「しばらく、よく此処にまだゐらつしたのね、どう、お元気?」
「ええ、でもお目にかかれて嬉しいわ、あの時の崇りがまだ今も続いてるのよ」
いひ終らないうちに、Sはふいと立ち上つて「出ませう」とそそくさ歩き出した。-何かに周章ててるな-
戸外へ出ると、Sはにやりとして私に囁いたのである。「あの相手の男、××署のあなたもよく知つてる高等でしたよ、確に-ふり返つた時判つたんだ。いやな奴!ああして警察へきた商売の女にはどこまでもつきまとうんですよ、可哀さうに。われわれまでつきまとはれちや堪まらん。いそぎませう。」(をはり)
■著作集未収録評論 自覚と準備へ 知識賭級の行くべき道
新愛知 昭和5年6月23日号
-インテリゲンチヤは何処へゆく-この声はすでに久しい間智識階級人の意識の中に潜んでゐたところの、甚だ好ましからぬ、またぜひ聞かなければならない警鐘であつたのだ。智識階級人よ、高等洋服細民よ、いづくにゆく-。
◇
失業は今日の日本にとつて結核菌以上の病毒と繁殖とをもつて体内を蝕んでゐる。もはや内服薬などを用ひても癒しがたい病状を呈してゐる。失業もインテリになると一層みじめであり、一層治療の方法がなくなるのだ。この3月に専門学校の校門を出た智識労働者はどうなつて行くか、その二三割の就職者を除くほかは、みな失業者群の中に転落して行きつつあるではないか。
◇
彼等を単にブルジヨアとプロレタリアートの中間層と一口にきめてしまふことには勿論異論があるに違ひない。なぜなら、同じく俸給生活者といつても大資本会社の重役もあれば、殆ど労働者と異るところのない受付子から外交子また芸術家などのやうな自由職業に依るものもあるのだから。しかしその共通するところは、等しく彼等の直接人を搾取すべき生産機関を所有しないといふこと、及び多少とも頭脳による労働力を売つて生活してゐる点である。
彼等はブルジヨアから搾取される点において明かにプロレタリアートと共通の利害関係を持つてゐる。事実今日の智識階級は生活的には全くプロレタリアの層に合流してゐながら、彼等はその智識人としての伝統的な感情や一種の衿持や、虚栄をもつて彼等に手をさしのべやうとはしない。またプロレタリアートとしても智識階級人の常に日和見的改良主義的な意識や、どこまでも独自の層の地位であらしめやうとするその態度によつて、決して資本家に向つて行く闘ひの共同戦線をはるべく我から手をさしのべるものではない。
◇
だが、智識階級が一番弱味であるところのものは、同じ階級同志共通の利害関係をもたないことである。たとへば労働者や農民が、資本家や地主を敵として戦ふときに、職業別はあつても共通の利害の関係のもとに結束し得るやうには、インテリゲンチヤは結束し得ない。大学教授と保険会社の外交官とどこに共通点があるか、大会社の重役と小学教員と、どこに共通した利害があるのか?
一方科学の進歩による機械の発達は労働者も熟練工を必要としなくなりつつあると同時に、また智識階級人としての管理者、または事務家を次第に必要としなくなつてきた。産業の合理化による事業の縮少や中小企業の整理などで、労働者と共にインテリの失業者はどしどし街頭になげだされるばかりである。かくて生活的に急速に労働者階級に転落してゆくインテリは、今後プロレタリア化すとしても資本家の地位に上りうる可能性はまつないとみるのが至当である。
◇
現社会ばかりでなく将来社会においては、すべての人が生産者たるべき建まへである以上、即ち労働者であり同時に智識人である事を信ずるから、現在の不生産的な繁鎖な事務を取扱ふ特権階級であるインテリは、どの道没落し滅亡する運命のもとにあることは否まれない。
この運命を豫見して、極端にインテリの未来を悲観する者と、インテリはインテリとしての独自の地位を存続し得るといふ、わりに楽観的な見方の上にたつ論者と、二様の論者がある。楽観論者はどういふ見解からいふのか私はよく知らないが、現在のソヴェート・ロシアに独裁権力をふるつてゐる政府の幹部連は、みな労働者農民と対蹠的な支配的地位に君臨してゐるのを見れば、そしてこの対立を搾取関係がいよいよ深化して行きつつあるのを見れば、決してロシアの革命社会の進路が正当な、民衆のための革命でなかつたことを明確に理解することが出来るのである。
◇
マルクス主義の理論家はいふ。「中間層としての、それ自体何等の有機的連繋をもたない智識階級が、現在社会の終局にあたつて、ブルジヨア階級につくか、プロレタリア層に合流するか、問題はそこにかかつてくる。将来いづれの階級が勝利を占めるかは、今日の階級対立と闘争の現実をみればおのづから分明する。智識階級人は終局の闘争において当然プロレタリアに帰属せねばならない」と。
ともすればその生活環境において、また意識の上にも、反動的役割を演じやすい危険性のあるイソテリの行くべき道を指示し当然の警告である。しかし、人類社会の完全な理想は、一の階級が他の階級を克服し、その後に建てられる新しき階級社会ではないのだ。よしプロレタリア革命が行れるとしても、そこに階級としての独裁権力の存在するところ、何処まで行つても完全な解放のあり得べきものでないのは、現在の労農ロシアの社会がその失敗を事実によつて世界に示してゐる通りである。人類の幸福は階級なき自由社会、すべての個人に出発する全的解放にあるのである。
◇
この建まへからすれば、将来社会には財を所有する必要のない経済組織のもとにあつて、ブルジヨアや支配者の存在理由が当然なくなると共に、すべてのプロレタリアと同じく中間層インテリゲンチアも、当然自由人として聯合社会の中に解合してくるのである。そしてこの自由な聯合社会建設のための最後の闘争にあつては、日和見的随伴者的インテリゲンチァは実際にどれだけの役割を果しうるかは、殆ど問題にするに足りないほどの無力な群でしかないと思はれる。さうした突発的な場合には、すべての文化運動などは直接にいかほどの力となるものでもないからである。しかし、その際までの準備として、教化運動、宣伝運動の分野にあつて、イソテリゲンチアのもつ役割は、かなりに大きいものであつた。
だが、それも現在の場合には、思想運動の実践過程において、実践をはなれ闘争からはなれた別個の運動としての宣伝教化は、ほとんど問題にされなくなつてきた。
◇
かうして考へて見ると、智識階級の現在、及び将来における社会的役割ははなはだ心細い悲観的なものとしか考へられない。しかしかういつて私は全然インテリの前途の存在について悲観するものではない。なぜなら新社会建設にあたつて、すべての生産的労働、文化建設の基礎になるべき科学的智識乃至発明は、これを智識人に求めなければならないし、またその事業は今日においてすでに着手されなければならないからである。ここにおいて現在及び将来の智識階級の社会的存在理由と任務ははじめて重要性を帯びてくる。
インテリゲンチァの行くべき道は、自由の自覚と、将来社会の建設のためになされる準備であることを私は信ずるのである。
■編集後記
本年3月23日、八木あきさんは養育院を退寮し、親族に引き取られました。
八木さんの個人通信に協力して足かけ5年になるが、養育院に八木さんを訪ねることが日常化していたせいか、しばらく何ともいえぬ虚脱感に襲われていた。
何度も書いてきたことだが、私は八木さんが、あの養育院という老人ホームで、誰れしもが予想できる様な形で老いてもらいたくなかった。いくらなんでもそりゃまずいや、と。そこで、ホーム生活の中で八木さんは何を希んでいるか、の一点だけに問題を絞って、それに協力しようと思った。八木さんにとってみれば辛い情況だった。しかし「物を書く」という彼女の積年の想いに対し、その情況だったからこそ私は決断と断念を求めることができたのだと思う。
前日、私は家族で八木さんを訪れた。すると実にはればれとした顔つきで「みんなに言われてるんだ、生きているうちにお迎えが来るなんて幸せだ、ってね」といっていた。
たしかに、八木さんがその時のこととして突然話すことがたまにあった。「アンタに言っておきたいことがある。私がイザとなったら、香月(泰男)の画集と聖書を一緒に燃やして欲しいんだ」と言われれば、やはり自分の胸の中ではその時を予想して備えていたと思う。その時はやってこなかった。その代わり元気に握手して病棟で別れた。本当によかった、と私は思った。
どう考えても、赤の他人が同じ部屋で共同生活することは大変なことだ。娑婆気の抜けない人たちの中では、強制された平等が支配している。そして、ナーシングホーム和風寮(特別養護老人ホーム)、精神病棟と移るごとにその煩わしさから逃れることができ、八木さんのいるベットの周囲は落ちついた雰囲気になった。しかし、同時にぼんやりした「白い世界」でもあった。その世界は八木さんが骨折で入院した時、同室になった「棒のような」人たちとは違って、体を動かすことはできる人たちである。しかし、自分の世界に固執する人たちだから、やはり奇妙な空間で、ちょうど「クシャおじさん」の顔のように、瞬間的に様相が変わってしまうようなものだった。落ちつけるが同時に現代からは隔絶された、生ける涯てのように思われた。そう考えると、「老い」の問題は吉本隆明ふうにいえば、人間が人間である以上最後まで残る問題としてある、ということだろうか。むずかしい。
さて、通信は八木さんの体の回復を待って2年間休刊していたが、残念ながら八木さんの生まの声すら活字にすることは困難になっていた。そこで休刊号を計画し、今回転生記の残り全部と小説、評論を載せた。私としては20頁ほどのものを、2回作るつもりでいたところがなんとこの号だけで40頁にもなってしまった。40頁ということはだいたい4号分の量になる。加えて、養育院からの八木秋子個人通信「あるはなく」であったからには、退寮したいま、私が協力し発行する環境ではなくなった。しかし、八木さんにとって終刊号という号はあり得ないので、皆さんから予約として頂いた5号分のうち残りの1号は、八木さんの懐中に預けたままにしたいと思う。
そこで、改めて提案したい。私が著作集を公刊した意味は『わたしと八木秋子』という読者の声を広く求めたいということに他ならない。だから、読者が八木秋子像を発表する場を私にもたせて頂きたい。通信は八木秋子のなまの声を送り続けた。まさに<「時」に踵をつかまえられながら>。しかし、それだけでは八木秋子の「あるはなく」は成立しない。読者の八木秋子像がまとめられることによって、初めてその関係は往還する。私の、大きく夢想する八木秋子の世界はそこで次の段階に向けて出発できる。一応、資料的にはほぼ出揃ったと思っているが、欠けている部分を”その紙面”で私も発言したい。事務的なことを言えば、できたら十月十日頃をめどに原稿の締め切りとしたい。予算は通信の残金を投入し、足りない分は出来あがった時点で定価をきめて発送したい。
最後に、この5年間、通信「あるはなく」は一人のタイピスト、山本一枝さんの手によって植字された。ご苦労さまでした。また、印刷はすべて私がかつて勤めていたバルカン社で進められた。判の大きさや綴じる穴の位置の不揃いの点は廉価と酒でゴマ化されながら。そして、通信を通じて沢山の人と「物」に出会えた。全く楽しかった。別れの時、八木さんは「アンタのお蔭だ」と何度も声をつまらせて握手をもとめた。だけど私からすれば、たかが通信や本を出した程度のことであれこれ言われるのは恥ずかしい。かえってその機会を与えてくれた八木さん、読者の方に感謝したい。自由な解放された二五時という時間を与えて頂いたことに対して。
では皆さん、またいつか、どこかで。
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