あるはなく第三号

第3号(19771120日発行) 目次
わたしの近況
八木ノートより 
父・八木定義のこと
八木への通信  西川祐子
八木秋子著作リスト
後記 お知らせとお願い

★わたしの近況

 こう書き出しては見たものの、改めてじぶんについて生活のうごきとか、変化などについて外部の人びとに事あらためてお知らせするほどのことがあるかどうか-と戸惑いを感じる。老人ばかりの、それも何かの病気を抱えて朝晩の寝床のあげおろしや部屋の整頓などにも苦労している人びと、長年不自由な躰を物心両方面で痛めつけながらようやくここに辿りついた老人たちの、その視力のうすれた眼や、耳のとおくなったという事実、それから誰もが悩む腰から下の脚部の痛み、不自由さなど、殊に老人にとって頻繁になってくる排泄の脅威、など、悩みはつきない。

 誰しもが悩むのは現実に「あたま」が呆けてくること。過去の回想だけに生きる、それが生活の全部といえる老人にとつて「忘却」というのは救いでもある筈なのだが、1室に3人、4人という雑居生活のなかでは、「救い」どころか混乱のもとになり、整頓の能力にからんで「所有」ということが意外に大きな問題に拡がって諍いのもとになることはいつものことだ。

 最初入所するとき、「一切の私物の持ち込みは最少限度」という鉄則があって、夜具蒲団、寝台、机、洋式・和式の家具調度類、洗濯機、冷蔵庫など生活必需品類は、みなそのときそれぞれに処分して、衣類(着がえの最少)とわずかな身のまわりのこまごました雑貨だけを持ってこの集団生活のなかにのりこんできたのであった。

 私は最初からこういう雑居生活の寮にはいる気はなく、生活保護法とは別種の「軽費老人ホーム」を志望してみずから養育院本院を訪ね、諒解を得たつもりだった。その科長殿の話では、現在その軽費老人ホームへの入寮希望者が多すぎて、2年ほど待機しなければならない。若しその上抽籤に外れたら、また待機、をくり返さなければならないがその間の生活維持をどうするか、それに、身許確実の保証人が必要で、病気した場合は保証人が引きとる義務がある、とのことであった。保証人を引きうける血縁者はあるし、その縁者が軽費老人ホームの場合、月々の捻出する費用(といっても月平均1万円~2万円)を出すから、と約束してむしろ軽費老人ホーム入りを勧めてくれたいきさつがあったので安心して志願したのであった。

 ところがこの血縁のつながりは脆くも崩れ、私の唯一の目ざす灯は当然のように消え去った。一口にいえば、血縁の者が将来保証人として負うべき義務、責任の重さについての理解の甘かったことを理由に、きっぱりと拒絶してきたからである。そのとき私はすでにいまの寮に入り、雑居生活の中のひとりとして生活していた。

 若しこれが生活といわれるものならば、83歳というじぶんの年齢もわきまえ、前途には老衰と死があるだけだと思う。その覚悟を肚に据えて、まだすべての終焉までにはいくばくかの時間的余裕もあろうし、わずかな能力の残滓も生活のなかに身をおいて老衰と退歩に抵抗する、抵抗を継続するその闘いの中に、現在の私の生命が光りを得て燃えることもあり得るにちがいない。ちがいないという楽観的な予測は、私が過去80余年に経験し、思考のなかで摂取し、生活の中で思索しつつ闘ってきた、その闘いの中で徐々に蓄積してきた現在の八木という存在を善かれ悪しかれ信ずるほかないと思うからだ。

 私は日常性にたいして如何にのんびりと楽観的であるか、日常の生活技術にいかに拙劣で理解がおそく、そのために無意味な誤解を招いたりする。それを私自身の資質のこととして反省し、反省から自虐に近い心理におちこんで悩んだ歴史のくりかえしともいえるかもしれないが、現在ではその束縛というか、反省というものの自己閉鎖癖から少しづつ解放されつつある。これは私の現在の生活に、ほんとうに少しづつではあるが「慣れてきた」ことの証左であるかもしれないし、慣れ、からくる反射神経の鈍化ともいえよう。

 だが、もっと大きな、もっと私自身の魂にまで鳴りひびき、重い瞼をあげて朝の清洌な光りを見たいという欲求が生まれつつあることの発見である。この発見はまだちいさく、季節はずれの狂い咲きを思わせる花のようではあるが、季節も肥料も栽培の手入れもなかばお構いなしに、私から生まれた変種の芽として愛して育てたい。

 「あるはなく」の出生は、私じしんの何ものかを露呈し、善も悪も美も醜もあるがままに投げだして、知己友人の前に女性の一個の生き様として批判を乞いたい希いがあった。もう年月を経たいまとなっては引きかえす道程ではなく、やり直しのきく歴史の素材ではない。

 わたしがこの養老施設に身を沈めたのは一切の環境から離れて、孤独の境地に自分自身の存在を眺めたい、そこから長い年月の生存をたしかめたい、という希いもあった。が、ここへ移ってきたという事実は、老年の私にとってはまったく思いもかけない大きな断絶であり、突然変異ともいえる変化の大きさであった。長いあいだの木造アパートの独りぐらし、貧しく素朴で簡単な独り暮しの中で、静かな読書や思索の日々であった単調な日常性は、まことに意外な他者との生活体に代り、そして組織と機構という網の目にとりかこまれた中での単純な思考方法は、それを身につけていない者にとっては、まったく遠い異国の距離を思わせる。突然変異とも隔世遺伝現象ともいえるかもしれない。常識を越えた常識が支配している広大な近代的建築の一廓である。

 いつでも眼ざめれば手近なところに読みさしの手なれた書物があり、ノートがあった、といったような些細な習慣がそんな微細なことに気づかせる。その長い日々の為すこともない長い時間-ことに三度の食事は広い食堂に整えられてアナウンスによって始まる。ニュームの食盆を抱えて順番を待つ列のなかに、最初わたしはソクラテスの顔を見いだし、またつぎのときにはルオー描くキリストのかおを発見したこともあった。境遇の激変した砂漠への彷徨という形容詞の中で、ものを書きたい衝動にうごかされ、変種の生長を覚悟の上で、これからあらゆる困難や支障と闘いながら、自由に奔放に書きつづけたい、それを一つの意志のもとにぜひ実現させたいと、知人の方々に表白したいと思う。

            1977・11・12

■八木ノートより ①

 死ということについて、私はこの来るべき絶対の事実について、ほとんど身近に考えたことがないのはどうしたことか。人間は必ず死ぬ、わたしも死ぬ、この決定的な、しかも近いところにあるものを、実感として身に心に感じられないのは、まったく奇妙だ。あまり考えられないから、ぐうたらな日常を長年空しく過したのであろう。考えられないのは、私の度はずれて健康な肉体の所有者であるせいかもしれない。私は身体は自然に衰えるのは自然の現象であるにしても、最後まで頭脳は衰えさせてはならないと思う。死はまず頭脳からくる、これを常に守り、訓練させてその働きを最後までやめさせたくない。鈴木大拙先生はどうか、九五才をこえて、いま尚禅の大著と取リ組んで倦まない。壮者を凌ぐ。こういう人はその終焉も鮮やかだろう。Mさんももう一年半近い病臥生活だ、Kさんは10年近い歳月を中風を床の中でロも利けず、動けもせず、人任せの生ける屍であった。

 そういう老年は送りたくない。

  想えば、私はこの二〇年、世から離れ、何もせず、無為でよけい者として生きてきたようだ。その間、日本はめまぐるしく変化し、今日に見る繁栄だ。おそろしいテンポで住居は変わり、向上し、飛び狂って血眼となり、みな誰もが生活に追いまわされ、事業に追っかけられてとどまるところがない。

 この中で、何もしない、愚かでよけい者の私はなんのために生きているのか-思いに決然と起き上がり、まっしぐらに走り出す、という勇気も力もなく-この私の生き方は、とりも直さず現実社会に対する意識的な消極的であるにもせよ、反抗・抵抗でなければならない、現実に適応する能力がないのだ、また適応する興味もないのだ。

 私は想う。眼に見える現実しか信じ得ない人間、そうした人間によって造られているこの日本のような国に、どうして深い神の信仰や人間生活やまして革命の精神が生まれよう、育つわけがあろうか。模倣と常識、物質にたいする渇くがごとき憧れ、他人におくれまいとする現実への焦燥、こういうところに精神の芽は出てもこないし育つはずがない。世に背かないまでも、人間本来のもの、創造はそこから離れたよけい者、無為の人間から生れるのだ。それも経験と認識から生まれるのだ。

 わたしは将来のことはわからない。生きている意義についても知らない。だから自から進んで自殺しようとは思わない。どんなに惨めでも屈辱でもそれは耐える。自殺は簡単だ。抹殺することは何でもない手軽な手段だ、だがそれは自分に全く絶望しきったときだ、と考える。

 いま満州ものを7枚ほど書いているが、やはり観念の束縛で自由になれない。解放とは容易なもの、ではない、とわかった、自分自身を投げ出すことは。書き進めているうちに、継続のうちに、その自由はやってくるだろう、私は待つ。

 罪と罰の終末( … 二人は何か言おうとした、だがなにも言えなかった。二人の眼には涙が浮んでいた。彼らは二人とも顔色が悪く、やせこけていた。だがその痛み疲れた二つの顔には新しい未来への曙光、新生活への完全な復活の曙光がすでに輝いていた-。)

 二ーチェの言葉 ::: (墓のあるところにのみ復活がある)

                     一九六六・六・十五

註)この文章は彼女が書き続けてきた日記から摘出し、了解を得て載せた。内容には一切関知せず私の判断で選んだ。連載の予定。

■父・八木定義のこと

  院長室のドアを静かにしめて廊下に出た。ひろい二階にいまは人影もみえず、静まりかえっている。一歩、一歩と歩を運びながら、わたしにはそのながい廊下の静寂が、その茶いろのリノリュームの光沢がさながら死のいろをこめているように感じられた。父の身じまいをみて廊下に出してやり、つづいてわたしは最後に会釈をしようと立ちどまったとき、院長の左手の指がわたしを招いた。

「お気の毒ですが」と院長はわたしを椅子に座らせ、

「お父うさんは胃癌ですよ」といった。長い年月、信州の山の中から毎年一度はこの高名なドクターの診療をうけに上京するので、院長は父をよく知っていた。

「先生、そのお言葉は、それほんとうのことでございますか?」

と私は、もいちど訊いてみた。

「本当ですとも。間違いはありません。しかもお父うさんの癌は大きく発育して、いまは触診だけで判るまでになっていますよ」

「先生、手術をして、いただきますのには…」

「もう、その時期はすぎました。失礼ですが、お気の毒ですがもう、手おくれです。信州の涼しいところとおききしていましたが、おいおい暑くなりますから納得させてあげてお帰省になった方がいいですね、その方がいいですよ。それからね……」

「……は? それから……」

「病名のことは、最後まで御病人に仰言ってはいけませんよ、癌という言葉は。どんなに追及されても……言わないほうがいいです。それからお父うさんは癌の寄生個所が幽門部なので、あのとおり昼夜の別なく痛みに襲われるのです。この痛みはいまの医学ではどう鎮めることもできない痛烈なものですが、なるべく一時的な注射などは、なるべく避けるように、よくお話しになったほうがいいですね」

では-と腰をうかせた院長はなおも、食事の注意など与えることを忘れずに-。

廊下の奥が待合室になっていた。待合室には壁際の椅子にからだを凭せかけたままの姿勢で父の定義がのろのろと半身を起しかけた。

「こっちへ……」と父は娘を手招きし、

「院長先生は俺を……胃癌と診断なさったかい?」

 短刀直入、鋭ぎすまされた刃物の味であった。受けるも。かわすも、一瞬の閃きである。

「まあ、お父っさま、あんまり叱驚りさせないで下さいよ、馬鹿なことを言わないで。とんでもない。……」

「これが莫迦なことか、どうか……じゃあ、どうしてお前ひとりをあとに残したか。院長さんは、おれに言えないことがある。言っては差し支えることがある。言ってならんことが……おまえひとりをのこして、話すことがあったのだ。」

「あとにわたしがひとり残ったのは、それはわたしが進んで残ったのですよ、いわれて残ったのじゃあない、患部の痛みのことや、それから食事のこと、食べられないことになると、いけないから。…あれこれ看護の注意についてですもの。」

「これはどうだ、これは。院長は最初の質問で、俺にこう訊いた。嘔気がありますか。嘔気は? これは胃癌の患者に、患者だけに、まず第一に発する質問だ。ああそうか。そうだったか、と俺はおもった。この猛烈な胃の痛みも、ここから発するのかもしれ ん。発するわけだろう……」

「お父っさまの胃の痛みはもう何十年になりますか。きょうの御診断も同じで…胃癌では決してありません。」

「じゃあ、きょう、院長の診断はどうだった。……どんな病名だった?」

「いつもと、まい年と変らず、ですよ、毎年のとおり、胃酸過多に…肺気腫……」

「なに? 胃酸過多に……もいちど……胃酸……肺気腫? ……」

「そう、そのとおりです。そのとおり……胃酸過多に……肺気腫。」

「それは確かか?それは間ちがいないか。胃酸過多に……肺気腫?」

「まちがいありません。ぜったいに。そのとおりです」

「しかし、院長さんはその肝腎なことをお前に話して、このわしに、どうして黙っていられたかな、だいじなことを……」

「もう、お父っさまはよくご存じだと思って、お思いになったからこそ、改めて言わなかったでしょう、判りきったことを、いまさら」

父親は袂からハンカチをとり出して眼もとを拭った。そしてその手で鼻がしらを拭った。

「そうかい。そうか……。おまえの言うことが真実だとするなら、いや、真実なら、俺はたいへんな思いちがいを、したわけだった。こんどの胃の痛みぐあ いはな、いつもの痛みとは歴然とちがっている。ただの痛みとはちがうとばかり、俺は思いこんだのだ。だがな、不思議なことに、きのう夕方上野へ列車がつい たろう。列車を降りた。お前が出むかえてくれて。……それからおまえに誘われるままに、立派な西洋料理店へはいった。ところが、その西洋料理の美味かったこと。うまかったこと。俺はおどろいた。胃の痛みなどどこへけしとんだのかとおもわれるくらい。これは、東京のせいだ。東京病院と俺が名づけるせいにちがいない。だいいちに、おまえのところへ着いた、着いた。

 いく日かしらんが、おまえと一緒に暮せる。おまえといっしょに過ごせる日を、時間を俺は大切にしよう。大切にしなければならぬ。」

 六月の陽光があかるく外濠の柳に影をおとしていた。京橋の槇町にある青柳病院は三階建ての白壁を多少にごった水に浮べて、ねむたげに建っているのであった。

  呼べばすぐにも帽子をかむった頭がふりかえり、なんとか応答のありそうな距離をおいて二台の人力車が走っている。わたしが呼べば、眼のさきの父の後頭部は うごいて禿頭の光りのあたりがふりかえるであろう。このまま外濠を走って、それから? 父の好きな人物(父の甥にあたる)を訪ねるために九段から飯田橋へと……その辺りのそば屋の横をはいったところだ。

 あともう何分ぐらい で、その飯田橋の親戚へ行きつくだろうか。あいつはどんな顔で伯父の父を迎えることか。会うだろうか? あれ、彼は生家をまるで突然の颱風のように、突如として起った颱風のように一挙に根こそぎ壊滅させた男だ。生家ばかりではない。一家一門を、わが故郷である木曾の貧しい住民を根こそぎ貧と生きる不安のどん底につき落し、前途の生活を絶望の渕につき落したのだ。それがただただ政治というものの行き着く、墓場であったのだ。陥し穴であったのだ。

 政治を悲劇の墓場と知りながら、彼は虚名に突き動かされて民政党と政友会の政争の中に自分自身を躍りこませた。親子二代の県会議長をふりすてて中央政界へ乗りだした。長野市による補欠選挙で政友会から県下の財閥として知られる小坂順造…信濃毎日新聞社長一 家の係累にあたる笠原忠造が推挙されて政友会から立候補し、これに対して民政党は誰を推薦するか、誰を擁して闘わしめるかが長野市を中心とする北信一帯の 興味の話題であったともいえる。

 そこへ新顔として登場したのが、現長野県会議長大沢辰次郎であった。彼は木曾福島町出身。旧山村家士族、長野県師範学校卒、以来長野県訓導として勤めること十五年、それ以後は県会議員として県政に尽力、などと履歴書には記載されているが、学歴が師範卒だけではと彼 は内心不満でもあったが、克己鞭撻などの点から、彼は自身の学歴のなさを自己跳躍と自己防衛の双方に活用してその堂々たる躰躯の押し出しのバネとした。

  政友対民政の一騎討は初めから結果は歴然たるものがあった。ように見えた。新聞はゴシップ欄に大沢は長野市南県町に妾宅を構えて、本妻ならぬ愛妾とともに 暮している。その愛妻という女性は、かつて長野市権堂の花柳界にそのひとありとしられた美人芸者(ぽんた)そのひと。かつての長野における醸造業界の大資 本家諏訪部庄左衛門に落籍されてその人の有になったが、大沢県議が忘れられず一年足らずで脱出、ついに大沢の有に帰したのであった。その美貌とともに諏訪 部財閥との恋仇の噂で有名になった女性である。

 大沢が民政党から出馬を表明した。彼が多年の宿願である中央政界への第一歩の大冒険である。首途の表明であった。

  大沢が衆議院選に立候補を表明したときから八木の父は、木曾の山また山の襞のあいだにひっそウと身をおいていることに堪えられなくなった。俺の甥が衆議院 選に打って出た。という想いと、果してこの乾坤一擲の大勝負に、果して勝味があるかどうか。勝味というのは、彼一流の人を呑んでかかった己惚れではないだろうか。だとすると、危ない。大勝負にみずから進んで挑む者は、それに相応する富と財と、地位、経歴などが必要ではないか、冒険もよい、飛躍もよい、挑戦もよい。しかし、しかし、それにしては?

 八木は宿痾の胃病の療養という名目で長野に出てくると、県町の遠藤胃腸病院に入院した。付添いという名で、私をつれて。

 夕方大沢は鉄無地の揃いという隙のないいでたちの姿を現わした。

  八木の父は甥の大沢の立候補を知って長野に出てきたが、むろん表立ってその選挙事務所に出入りする、あるいは参謀めいた顔ぶれのところには近づくことを遠慮した。いきおい病室へまで訪うのは大沢の過去をふくめた別の面の、権堂、新地などの狭斜の巷にふるい暖簾と仏都にふさわしい由緒ありげな建築の構えでもあった。これらの女将として知られる初老の女たちはそれぞれに着物の着付けや身じまいにピタリと身についた型があって、話題はなかなかに豊富、ひとを外らさぬ機微を秘めていた。

(つづく)

■八木秋子への通信

西川祐子(京都在)

 「あるはなく」第1号の「知れば知るほど、それ(困難さ)は魅力あるものとなり、生きる興味の素材となって、苦しみが新しい生活を発見して行ったようである。」という文章にとくにひかれました。困難が苦しみといわれるのでなく魅力(そのとおりであったろうと信じます)といわれるところに、通俗でない魂と、もっと底しれぬ、だからことばは届かないかもしれない魂の深淵を感じました。どうか通信が私たちにことばの橋をかけてくださるようおねがいいたします。

 秋山清の八木秋子論の題は、「己れの足跡を消しつつ生きる」でした。この文章が再録された記録「埋もれた女性アナキスト、高群逸枝と『婦人戦線』の人々」のなかに、「太平洋戦争下のアナキスト、八木秋子の場合」があり、そこで八木秋子さんは、その秋山清の文章をさらに消しつくそうとするかのように、終戦時の満州における友捨ての話を語って自己否定をしていらっしゃいます。これを読んだとき、私は自己否定の徹底していることにうたれると同時に、「永島さんを1人おいてきたことで積極的に生きる意欲がなくなった。」とこだわる、こだわりの内容はこれだけ語られてもまだわからないと思いました。

 こんど子捨てを語られてすこしわかりました。子捨てと友捨てはちがうのではないでしょうか。女にとって幼い年齢の子どもは完全な他者ではない、子捨ては自己否定の一種で、八木秋子は自己否定においてはいつも捨身で勇猛果敢、それゆえに救われている。だがあのとき語られた友捨ては、他者(満鉄少女社員他、彼女の庇護のもとにあった人たち)を捨てられなかった結果として起っている。他人の人生や生活や生命や自由を素材にして作品をつくることが政治ののがれることのできない一面であるとしたら、八木秋子はもっとも政治的でない人で、その人がおそらくはそれゆえに、いつも政治に吸いよせられ、またときには友捨てのような主観的にみて、客観的にみてさえ苛酷な極限にさそいこまれるその悪夢も「魅力」のなかに数えられるのでしょうか。

 私は雑誌「婦人戦線」(昭5)を図書館でみつけて、そこではじめて八木秋子の文章を読みました。「調査欄・日本資本主義の鳥臓」という文章は紡績業における合理化の動きを見ることにより、このとき(昭5)すでに満州事変、支那事変、太平洋戦争さらには敗戦とその後までを正確に洞察、予言したものであり、読んだときのおどろきは忘れられません。この明晰さが、自身の予言どおりに終局へ向う時代の奔流から無事にはなれるのに役立つのでなく、合理主義も非合理王義も共に渦の破滅的な中心に吸いこまれる、ことを考えて、私にははじめて恐怖の実感がわきました。自分たちの問題と重ねますと、戦後民主主義世代に属して、いまその理念の変質を感じつつ、何を守りとおしたいのか、という肝心のものは少しも形にもことばにもならない。しかし相手はある、と確信するようになる。それは張子の虎的な安心して批判できる敵でなく、日常性そのものといったおそろしさであって、このおそろしさについてもっと知りたいです。

 1975年に、八木秋子さんから、「『婦人戦線』の全存在を知る上には当時1930年代の社会状況を知るべき」であるというお手紙をいただきました。1930年代の主な社会問題が整理してありました。以来、くりかえし読み、昭和5年と50年代とを重ねて、考えています。 1977/8/22

■八木秋子著作リスト

書名・年
◆女人芸術
昭和3年9月号北海道の旅より(1)
10月号異説恋愛座談会
公人腐敗検察談話会
北海道の旅より(2)
12月号姉を持ってきた父
昭和4年1月号男性訪問-安部磯雄-
言葉・表現
2月号誌上議壇
3月号議会見聞
チャルメラの記録
4月号黙る
6月号向日葵のある朝餐
7月号藤森成吉氏への公開状
8月号断たれた両面
林芙美子「蒼馬見たり」の批評
9月号簡単な質問
黴びた水瓜の種
10月号凡人の抗議
ツェッペリンと女人連盟
12月号隅田氏の妄論を駁す
昭和5年1月号ビルディングと鼻
2月号爐辺雑記
文芸時評
3月号神宮裏断片
4月号留置場点描
◆黒色戦線
昭和4年12月号1921年の婦人労働祭
昭和7年1月号詩 薪の火を焚く
◆婦人戦線
昭和5年3月号ウクライナ・コミューン(1)
4月号ウクライナ・コミューン(2)
社会時評
5月号資本主義経済と労働婦人
◆農村青年
昭和7年2・20総選挙に際して、青年諸君に訴う
3月号満州新国家建設とは

「回想の女友達・吉屋信子」(婦人公論・73・11月号)

埋もれた女性アナキスト「高群逸枝と婦人戦線」の入々(自費出版)

付回想談・大平洋戦争下のアナキスト-八木秋子の場合- 76・9・30発行

★八木秋子評伝

・己れの足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト八木秋子 秋山清(婦人公論・72・5月号)

・日本市民列伝

自立することの難しさ-農村青年社と八木秋子 保坂正康(市民・75・12月号)

『女人芸術』は日本近代文学館で閲覧可能。『黒色戦線』(第1次)は大島英三郎氏(黒色戦線社)が復刻。『農村青年』は『1930年代に於ける日本アナキズム革命運動、資料農村青年社運動」に所収。『黒色戦線』(第2次)は大島氏が所蔵。『婦人戦線』は「思想の科学社」図書室にて閲覧可能。

他に八木秋子にふれてページを割いてあるものに、アナ・ボル論争に関する秋山氏の著作『自由おんな論争ー高群逸枝のアナキズム』(思想の科学社1973)、『アナキズム文学史』(筑摩書房)『婦人戦線』の評論にふれて西川祐子氏の『高群逸枝と「婦人戦線」(思想・1975・3月号)、農村青年社事件として森長英三郎氏の『史談裁判』(法学セミナー・1974・9月号)がある。また『有島武郎全集』第10巻(叢文閣・大13)に彼女宛の葉書が収めてある。(相京)

■後記

私の可能な限りの『目録』を作成した。その他、読者の方で補足されるものがありましたら是非御一報載きたい。読者からも指摘されることだが、通信の限られた枠内では彼女を識ることに一定の限界がある。そこで、ここに掲げた彼女の著作を復写印刷で来年3月を目標に発行する計画を進め、それを通じて、彼女の現在のひとつ一つの言葉に込められている「闘いの中での蓄積」を感得する一つの手段にしたい。正直いって、僅か数号で彼女を識ることはできないし、何十号と継続する間でまた始めに戻って読み返せる通信を求めて行きたい。また、彼女の文はそれに充分答えうると思う。私が身近で接っする彼女はまだまだ充分に紙上で暴れ回つてはいない。読者が期待するものもそこだと思う。次号は彼女が書き溜めておいた活動中のものを一気に掲載し、12月中に発行したい。

■お知らせとお願い

会計報告

収入 28750円 定期購読料 11250円 他賛助金

支出 19650円 印刷費 14200円

          発送費 2700円

          複写代(女人芸術) 2750円

定期購読をして載きたいと思います。料金は5号分(750円)一括して申し込んで下さい。4号以後は送金された方だけに発送いたします。期限が切れた段階で振替用紙を同封いたしますので御利用下さい。

何かと不備な点があるかと思いますが、御助言、御協力よろしくお願い致します。

振替口座 東京4-40972

187東京都小平市花小金井南3-929

送料とも150円