あるはなく第四号

■ 第4号(1978110日発行)目次
独房
薪の火を焚く
編集後記

■独房

 背中の皮膚のすぐ近くで、金属の、するどい、もの狂ほしい引き裂くようなひびきが、静かな空気をふるわせ、尾をひいて全身のすみずみにまで泌みとおった。あとは、無に包まれたような静けさである。

 わたしは佇んでいた。眼のまえに現われたすべてのものを一とおり瞳のなかにおさめるのにひまはかからなかった。

 時代のついた長ぼそい木箱の、箱の底につっ立っているじぶんを見出したのである。とほうもなく高い煤けた天井、その不安定にすぼまってみえる天井のまんなかに、黄いろいビー玉のような光りのない電球がはりついていた。向きあった板かべの高いところに、ちいさい窓があり、その額ぶちから初夏の茜に染まった夕映えの空が乳いろをふくんでやさしくのぞいている。足もとには、一畳のたたみ、隅におかれてある小さい便器、箱の底はこれだけで、残りのわずかな面積を板敷が占めていて、それが奇妙なつやを浮べているというわけだ。

 これが全部なのだ、よけいなもの、どうでもいいものを見事に拒絶した、人間の生きるのにこれはぎりぎりの条件というものであろう。差入れの食事、睡眠と排泄-。一畳のたたみは人間ひとりが身を横えるには狭ますぎもせず、広すぎるということもあるまい。

 わたしはとうとう、ここへ来た。あちこち道草の果てに、辿りつくべきところに着いたのだ。

 ここはわたしの故郷N県の刑務所で、独房の一つである。

 しかし独房というものは、どこも似たような装置で大した変りもありはしない。と思いながら、畳のうえに身をおいてみる。畳表のささくれた目が足の甲にこたえて、すぐくたびれてしまい姿勢をかえなければならなかつた。どこかで喉に含んだような鳩の暗きごえがする、消えのこった空のあかるいなごりと、はやくも膝のあたりに漂いはじめた夕暮のいろとが絡まりあい、まもなくやってくるながい夜のなかにすっぽり包まれてしまうまでの眼にはみえない混とんの一とき……。やり場のない、時間である。鳩のこえのほかには微かな一つの音もない、やはり死の時間というものであろう。

 この独房は入口にちかい位置にあるのだが、あついこの壁をいくつか越えたどこかの房に、ここへきた彼も坐っている。やはり高い窓を見あげる畳に、こうした姿勢でひっそりと坐っているのであろう。あるいはひろい廊下をはさんだ向うがわの房かもしれない。そして九人の同志たちも、どこかの独房に坐って、このひとときを呼吸をひそめ、沈黙のなかにいる。わたしにはそのひとりひとりの表情が、姿がはっきり見える、思いもよらない身近さで浮んでくるのである。もしわたしがここでひょいと一言声をあげれば、たちまち彼等の胸にはびいんとひびくものがあろう、そしてわたしの存在を知り、互の存在を知りあう。うなずきあう。だがそんな子供じみたことをするまでもない、彼はもうちゃんと感じているのだ。

 -ほほう、奴さんとうとう来たな。

彼の微笑が、わたしの眼には見える。”こんなまじかなところに。なんだ、これからも暮すことになるのかよ。”……と。

 それは夕食の片づけも終り、雑役も房にかえって少時たったころ、静かな空気が二三のみだれた靴おとでゆらぎはじめた。靴音にともなって、何かひきずるような、さあぁというのは、幕をひく気配だ、廊下を遮断しようとしたためにひかれるのであろうかなり長い大きい幕らしい。それが消えると同時に、舎棟の重たい扉のきしむ音がする、はいってくる靴の音と、そして女のあしおと。カラ、コロとかわいた音でひびいてくる、女がはいってきた……。女がひとりであるらしい。お!あいつだ。胸のなかが波だつ。が、まもなくそのあしおとはとまり、ふいにはじけるような錠前のひびきが、ついで扉のしまる重たい音。それと間髪をいれないような速さで例のもの狂おしい金属のひびきである、その余韻が消えたころ、再び長い幕が緩慢に引かれはじめる、あとはもとの水のような静寂にかえった。何かほっとしたものが空気の中に流れはじめる。

 彼はひとりで微笑している、わたしにとってもこれはまったく思いがけないことであった。最初舎棟の入口に立ったとき前方は何かまっ黒で視界がきかなかった。編笠を少しずらして、よくみた、すると空間と思ったのは黒い幕で、ゆるく波うっている、端のほうがすこしゆれているところを見ると、これはあわてて引いたのかな……。そのときふいに、これは男の監房で、男ばかりの世界なのだという直感がきた。それにちがいない。女をこれだけきびしく拒絶する世界というのは。まったく男たちの視界からとおい外にあるとしてもだ。とすると、……? こうして私はわたしなりに了解したのであったが、いまの黒い幕はとんだ効果を生んだものといわねばなるまい。ここが男の舎棟でわたしが送りこまれた性格から考えると未決であることにはまず間違いない、とすると、彼と同志たちの居る場所と考えられることも当然だ、つまり彼等と私は同じ棟の中に寝起きすることになったのだ、みんなもそれはわかった。どうしたまわりあわせかしらないが……と考えると、必しも偶然ではない理由もありそうである。そして、このようなまったく予期しなかった条件も、官の規則や都合でいつ崩れ去るか、いつ奪われるかしれたものではないのであった。どうして? どこに? などというわたしたちの質問というものが此処にあってどれだけ無意味な無価値なものかを知っている。何ごともあなた任せの運命におかれていることは、現にここへはいってはじめて発見した偶然であったことでもわかる。

 わたしは改めて箱の内部を眺めた。板壁はすべて黝んだいろに焼け、今までここに寝起きした人々の数しれない瞳や感情が歴史の厚みになって泌みついている。永年の歴史が刻みこまれている……というふかい思いのなかに、そのときふいに、一つの想念がわたしのこころに閃いた。ああそうだ! そうにちがいないというもう一つの発見が忽ちわたしのこころをゆさぶり、わたしはその感動のなかに身をゆだねるのであった。

 そうだ、十年、十五年ほどまえになるだろうか。わたしの父親が未決に105日をすごしたのも、やはりこの棟であったのだ。依然として古いまま建っているこの建物、父はどの独房であったのだろうか。この壁、この畳、この便器、そしてこの窓。何一つちがいはしない、同じなのである。そのときの匂いが、ふかいこの夕暮の沈黙がいまそっくりわたしを包んでいる。いまはもう亡き父、夙のむかしにわたしの前から永遠に消えた父のそばにわたしは帰って来た、そしていま父のそばにいる、何という不思議なことか。不思議な宿命というものであろうか。

 今日までの生涯に、わたしはかけがえのない二人の人間をしっかり抱いてきた。そのひとりは娘として尽した父、もひとりは彼。この肉体的に結びついた三人の人間が、ここにかたまりあって座っている。生きている。

 安らぎが、静かにわたしのなかに生まれた。満ち足りた豊かな平和に似たものが徐々にひろがり、わたしはこの宿命をあるがままにうけいれて、逆わず、おそれず、身をゆだねようと思った。

 この刑務所にいずれは送られるであろうという運命はもう、警察の留置場で予想したことであったが、そのときも、それ以降もまだ父という感情は実感としては来なかった。今日の午後わたしは、七ヶ月を送った県下の小さい警察から送られてここへ来た。護送してきた二人の警官が改まった表情で “では気をつけて、おだいじに” という言葉をのこして去り、自動車の音が遠ざかった頃、別の扉があいてひとりの中年をすぎた女看守が現われた、黒衣の人で、青白い仮面のような顔、くぼんだ眼窩の奥に妙にひかる瞳をほそい金縁眼鏡がささえていた、そのひとのあとについて外へ出た。久しぶりの眩しい陽光とあふれるような新緑であった。瓦屋根をのせた白壁がつづいているところに扉があり、鍵をあけてはいると、ふるい木造の平家建が三方を崖に抱れた恰好でうっそりと眼の下にあった。

 この建物にはいった最初の印象はまったく奇妙であった。奥行もあさく、右側の大きな硝子窓からさす光りが剃げ落ちた混和土のでこぼこな廊下をよけいみすぼらしく浮かべている。古びた机と椅子が一脚。ふと左側に視線をやった私は、思わずたじろいだ。なんということだ。これはまさしく牢屋ではないか。内部は暗い。黒ずんだ五寸ほどの頑丈な角材の組み格子で、出入り口は金属の錠前の光りでそれと判る。今にも中から白い腕が、白い足がのびて、ふわっと現われそうである。この角材に手で鎚りつき、こえの願いで哀訴し、号泣した人もあったのであろう。江戸時代そっくりのお牢屋なのだ。佐倉宗五郎や、吉田松陰、橋本佐内などから花井お梅などがもろもろのお仕置きになった人びとの名前や顔がうかんでくる。今が昔なのか、むかしがいまなのか、ここには時代が錯綜し、思想が混乱している。

 わたしは組み格子をはいって一畳のたたみに身をおいた、板壁に背をもたせ、角材に近いところへ横向きの姿勢で座っていた。中から手をのばせば届きそうなところに、女看守が、時代を超えた表情でやはり横向きにかけている。彼女はときどきさりげない視線をわたしに送っているだけで、無言である。ほそい片肱で頬を支え……気のとおくなるような静けさ。迷いこんだらしい虻の小さい羽音が耳をかすめるだけでいつまでたっても微かな物音ひとつないのは、おそらくここはわたし一人だけの存在なのかもしれない。とすると、きのうまではずっと無人で……人気のないこの牢屋に、このひとは終日こうして夢とうつつの間を椅子に座りとおしていたのであろう。規則どおりの姿勢で。おそらく青春を、この牢屋に埋めつくしたと想像するのは誤まりがあるだろうか。上眼つかいに見上げるその横顔は何か得体のしれない脱け穀のようだ。そしてこんなことを細い顔がわたしに語っている。

 「おまえさんはどう思うかしれないが、わたしはおまえとは同じじゃないよ、大へんなちがいなんだ。わたしは一足門を出れば家庭があるしそこには自由がある、女の生活があるのだからね、べつにおどろくことないよ」

 そうだ、まったくそのとおりだ、家庭は牢獄ではないし、女の自由や幸福はあなたのいうとおりのものなんだ。とにかくこの人には家に帰れば女の生活がある。しかしわたしたちには時の流れに運ばれていつか自由の世界に出られる日が前途にあるのだ、家庭は素晴しい自由な愛情と信頼の箱なのだと、かつてはわたしもそう信じた時代もあった。箱のなかを居心地よくするために、家庭の幸福のために胸をいっぱいにふくらませて働いた自らでもあったのだが……。

 わたしはふかいおもいで二人の遠いへだたりを今さらのように眼ではかってみた。おもえば彼とわたしの短い生活は、家庭と名づける形のものではなかった。いつもまわりに同志達がいた。彼は二度海外にわたり、わたしはこのN県やほかの県に同志たちを訪ねて農村の状況を調べ、レソラクの役目を果したりした、私たちはいつも共同生活であり、運動と結びついてどうにも分ちがたいものであった。私は実業家の秘書を勤め、新聞雑誌の記者をしたり金のためにバーのマダムになったりして、明暗の二股道を歩いた。緊張の一刻一刻が、不安と安堵と恐怖とがまざりあって、充実したものとして過ぎていった。転々と居をかえ、姿をかえて街を歩いた、こうした緊張がますます闘いへと私たちの心を駈りたてた。私たちは革命が必ず起きるものと信じて疑わなかった。私たちは行動した、そして敗れた。

 私は昭和七年東京の未決に入れられ、独房のなかで否応なしに自分自身と対決せざるを得なくなったとき、裸の自らと向きあった。わたしを行動にかりたてたもの、思想に対する信念、行動者としての自らの性格や思考などについてみずから仮借なき批判の鞭をあてなければならなかった。私たちはひとりとして英雄主義の人間、もしくは英雄主義的性格の人間はいなかった。これだけは確かである。私たちは社会のために-というより、もっと自分自身の解放のために闘った、そして貧しいもの、虐げられる人間の、それは共通のものであった。

 ところが私にいたっては、ほんとうは彼の自由と解放のためだったのだ。六年越しの潜行生活をつづけている彼を安全に守ることが精いっぱいだった。彼の置かれてある閉鎖された暗い束縛から、一刻もはやく彼を解放する道を開かなければと心を燃やしつづけた。彼はわたしにアナーキズムの思想を与えた。わたしは感謝し、彼の行動を扶けようと心を定めたのだ。このことは、だから必ず一個のアナーキストとみずからを信じる理由にはならないのである。わたしはずっとアナーキズムの方法と可能に懐疑をもちつづけた。わたしは思想について何も理論的に知るところはほんの貧弱なものだったし、とはいえ、私もそれに参加し、長い傍観者の立場から行動へとふみきって、不況の最も深刻な故郷のN県へと同志を訪ねて歩きまわることになった。

 私たちの生活はいつ捕えられるかもしれない不安と緊張の日々であったが、わたしはそのなかでけっこう愉しく、愛する時間も、働くことも、この上ない生きている充実感で一刻一刻を満たされていた。女としては異常なこの生活は、苦しみが多いほど喜びでもあった。これは私の性格の中に平凡に落ちつけない異常な要素がつよいせいかもしれないし、未知の世界、冒険への飽くことをしらない好奇心であったかもしれないのだ。私は生きることが愉しくてたまらなかった、もっといえば、人間というもの、人間の生活について既成の価値感を排したじぶん一個の生き方を追求したかった。この情熱がわたしを行動に駈りたてたのかもしれない。思想から何を得たかといえば、こういうことなのであろう。

 ベルが鳴った。女の看守はうつらうつらの睡りからさめ、わたしは回想に彩られたよしなしごとの夢からさめた。陽ざしはかげったがまだ梧桐の葉に輝きが消えのこり明暗をたたんで漂っている。静かな夕暮である。

 足ばやに立ち去った看守はまもなく岡持ちのような箱をさげて戻ってきた。蓋をあけてとりだしたのをみると、ニュームの食器。手にもって、”さあ、食事”と組み格子のあいだからすっと差し入れた。麦飯だ、つづいてもう一つの食器が、これは副食物で、鰊のこぶ巻きだった。中くらいのみがきにしんがお椀のそこに一尾ころりとして尻尾が昆布からのぞいている。まことに田舎じみた野生のあるのに、思わず微笑みがこみあげてくる。

 食事はおわり、看守は岡持をさげて出ていった。あとは寝るだけのことだ、さてそれまでの無聊な時間をどうすごそうか、この格子の見とおしの中で、しかもこの牢でただひとりで長い夜を過すのかと思うといささか無気味だった。これから先き何ヶ月、あるいは何年の歳月をここにこうして長い日々をすごすのかとその遠さをおもいはかってみると、ただ茫とかすんでしまう。彼はいったいどのへんにいるのだろうか、やはりこうした舞台装置の中なのか、などととりとめなく考えていると女看守が例の響きをたてて錠前を外した。

 「さあ出るの」と扉をあけながらいった。

 「ほかの、あっちの房へ行くんだよ、寝るだけだから、チリ紙のほかは何も持たないで」

 「じゃあ朝になると帰ってくるんですね」

 「そうだよ、わたしは宿直するわけにゃいかないんだからね」

 白壁の、扉のところに男の看守が板のように立っていた。

 「異常ありません」

 女看守はぶつけるように言って身をひるがえす。黒いチャボのようなそのうしろ姿は何となく足どりも軽く足袋の汚れが眼にしみた。どこかのすみであの黒衣をぬいで女の姿にかえるのだろう。男の看守はわたしと肩をならべ夕映えの小砂利の道を無言のまま踏んで行く、爪先上りの両がわは芝生、老松や高い櫟や楓などが濃淡のみどりの層にうすいかげを包んでいた。眼のまえに高い木造の古びた建物が現われ、看守は衣裳から鍵をとりだした。扉があいて、あとはあの黒い空間である。

 しかしこの黒い幕はわたしにとって思わぬ助けでもあった。ながい廊下をはさんだ両がわの、あの陰惨な場景を視座から防いでくれたから。五年まえ、東京で未決へはじめて一歩を踏みいれたときのあの、魂の底の底まで凍りつくようなおどろきと恐怖の映像はまだわたしの印象に鮮かである。それはまったく「死人の家」であった。そこには、生命のあるものは何一つなく、あるものはただ死に対する人間の抗議の底ふかい瞳だけが光っていたのである。

私「お父さん、とうとう、ここで……。あなたにこんな近くで会えるとは、まるで、思いがけなかった。もっとこっちへ寄って下さい」

父「うむ」

私「お父さんの執念が、わたしをここへひっぱったのよ」

父「怨念か……ははは」

私「どこなの、お父さんのかつての家? 」

父「この並びさ、向うへ六ツ目の房。昔どおりで。何から何までこことそっくりだよ」

私「お父さんちっとも変らないのね、あのときのまま」

父「そうかい」

私「お父さんの死の床で、わたしはこんな美しい顔というものがまたとあろうかと思ったけれど、いまは、もっと美しい、そしてもっと輝いてる」

父「ほう。それァまぁあたりまえだが」

私「わたしねつい、お父さんを忘れちまって……申しわけないほどたまにしか思いださなかったの、お母さんも。ごめんなさい」

父「忘れるのが自然さ、おまえはわしのために何一つ、思いをのこすことはなかったのだ、それに、若さがそうさせたのだよ……。だが、わしはあれからずっと、いつもおまえのそばにいた。おまえと一緒だった、いまもだ」

私「え? いつも、わたしと一緒……」

父「そうさ。いつも見守っていたのだ、おまえはあのときの、わしの遺言をおぼえているかい」

私「さあ、そうね、……あ、”おまえは不幸な結婚をしてそうして結婚に破れて、可哀そうな奴だ。これからはどうかいい人にめぐりあって、どうか幸福な生活に生きてくれ”」

父「うむ、そうだったな、それから?」

私「それから。……ええと。おまえは財布にだらしがないからこれからも貧乏するだろう、くれぐれも注意しておく、これは忘れるなよって……」

父「そのとおり。もひとつあったな」

私「もひとつ? さあ……」

父「忘れたかい」

私「ええとなんだったかな、……あ、おもいだした、どうしましょう。まあ、……お父さんはこう言ったのね、おれは死んで、土にかえっても、おまえのそばを決してはなれんぞ、いいかい、わかったかい……」

父「やっと思いだしたか、ははは」

私「すみませんほんとうに。……ころり忘れて。だって、どうしたのかしら。わたしは死後の世界なんててんで信じないんです。永遠の生命なんてありゃしないもの、わたし神を失ったときからよ。われわれは肉体の死と一緒に無に帰ってしまうのだって」

父「そうさ、無にかえるよ、無になったから、わしはこうして生きているんだ、無だから自在に、どこにでもいる、空気のように、風のように。太陽の光りのように。よく言うね、六合に遍満する……あれだよ、わしは永遠に自由だ、そして自在だ、だからお前のそばにいるのだよ」

私「まあ、お父さん、あなたはなんて素晴しい。その輝いたかお。栄光の輝きよね、その光りは。……死ってそんなものなんですか、幸福そうね」

父「幸福だの、不幸だの、そんなものはどこにもないよ、人間が現実をそう考え、解釈するだけさ。善も悪もない。現におまえの現在を大へんな不幸だと人が考えるようなものだよ、そして生も死も同じだ、ではどこにその価値判断の基準をおいていいか、容易にわからんのだ。人間にあるのはただ存在だけなんだ。生きたいという生存の本能。それが遠く子孫へうけつがれていく生命の流れだ。愛し合い出来るだけ環境をよくして出来るだけ生存の条件を充実させたいということなのだよ。もっといえば生きることが動機で、生きているという存在が目的なのだ。おまえはじぶんの意志で思うままに生きてきた、と思っているようだが、わしからおまえ、おまえから子供へと生命の流れはつづいているのだ。つきるところはないのだ。後悔がないということだけがおまえのとりえというものだろう。結果などというものは何物にも計算できるものではないし、結果を恐れるのは人間の行為のなかで最たるものだ。人間の存在は、しかしそんなものではない」

私「お父さん、ごめんなさい」

父「なんだい、それは」

私「わたしはもう、まるっきりお父さんの存在も忘れちまって。お父さんの期待をことごとく裏切ったじゃありませんか、わるい娘よ、わたしは。お父さんを悲しませるような生き方ばかりして、ほんとうに申訳ない愚行ばっかり……。前検挙の時ぱっと新聞に…姉さんは教員の恩給が……もっとも慰留になったようだけれど。初枝ねえさんはこの間雨戸をしめて女中と泣いたそうですよ。あのせまい山の中ですから。お父さんの娘が反逆者だなんてことになった上にまたしても……」

父「いいよ、わかっているよ、しかし、面白いじゃないか」

私「なにが面白いもんですか、わたしは真剣にお詫びしてるのよ、こうして、このとおり」

父「ははは。まあいい。ところで、おまえの彼は、向うがわの、端から九番目にいるよ、元気だ」

私「あら、お父さんご存じなの? 彼を」

父「知ってるともさ、奴は五年まえからずっと東京の刑務所で、そのあとこんど。きょうここへ送りこまれたが、この先は、またながいことだろう」

私「わたしあのひとのことは心配しないの、あの人は健康だし……ここの中で病気にやられるのはたいてい心理的なところからよね、わたしたちには自らの行為に罪って観念がないんですもの、だから気がらくで明るいでしょう、おまけに失って惜しいようなものは何一つありゃしないから。そうでしょう、何もないから。われわれは為すべきことをした、そして敗れた。これからも生きつづけていくだろう。後悔なんてあるわけないのよね、それに、初めっからここへ来るだろうことはわかっていましたからね、誰かの文句じゃないけれど、われわれの行くところは、牢獄か、墓場か」

父「恋愛か死か……だろう」

私「ふふ。もういいの、それでとことんまで来ちゃったんです、すみません、馬鹿もいいところよね」

父「つける薬はないか、ははは。馬鹿でも利口でもないさおまえは。女のひとりだよ、男で苦労した、そしてここんとこまできたということは、これあ容易なことじゃない。しかもああいう思想の仲間いりでな、ここがわしには面白いんだよ」

私「どうして? なぜ面白いの」

父「お前たちの思想というのは一見もう世間から忘られている滅びかけた旧家みたいでな。斜陽思想ってやつかな。今こそ満州事変以来の右よりで軍部が幅をきかせて二・二六事件などとさわいでいるが、お前たちのやったあの当時ってものは、どうだったい。マルキシズムの思想と運動が日本の全土を席捲した恰好だった、進歩的な人間や若い者は赤色革命近しと信じて闘った動乱時代だったな、そのなかで、ああいう季節はずれの時代から忘られたような色あせた思想におまえがはいって行ったというのは、これぁ面白い」

私「でもそれは、彼の影響だけでもなかったのよ、ほんとうはもっと、わたしの性格というより、気質にあったとも思うの。ほんとは孤独で、自由で……」

父「そうだな、おまえは小さいときからおっとりした娘だった、姉たちがみな一番を争って勉強しているのに、おまえばかりは欲も得もない顔つきで悠々たるものだった。ぼうっとして、いつも何か夢でも見ているようすだったぞ。そのくせときどき云うことやすることが、妙に閃きがあってな、思いきったことをやらかす。この変った性質はおまえがキリスト教へはいってから感傷主義に塗りかえられた、そのおかげで、ああいう世にもくだらん結婚にとびこんだんだが、失敗したのだが」

私「そうなの、それが結婚してみて初めてわかった、でもほんとうにわかるまでには四年もかかって、何しろほんとうの生涯は死後の栄光のなかにあると信じて諦めて疑わなかったんです。それをさとったとき、わたしはすっぱリキリスト教から離れたのよ。それからわたしの運命や必然に対する反抗がはじまったんです」

父「そこでだ、このまえお前たちが検挙されたのは、あれは運動の完全獲得のために非合法の手段によったんだな、ああいう馬鹿なまねはよくよく身をも欲をもすてた者にしか出来ることじゃない、思慮のある人間には到底できることではないのだが、お前たちは大まじめで情熱を傾けてやった。案のじょうお前たちはつまづいたが、警視庁では背後の運動をしりながら高をくくって-というより、マルキシズムの嵐に吹きまくられて眼の色をかえていたから、事件は簡単に限定された、わしは……」

私「お父さん、それいうのやめて。あの事件は」

父「いや、ああいうことはよほど知英の足りない奴か、さもなくば子供みたいな人間でなくちゃ出来ないんだ、わしはただ見守っていたよ。坂を上からころがり始めた以上誰もとめるわけにはいかない、崖っぷちがめのまえだ、お前たちがどんなに無念であったかは想像できる、もともとお前たちが行動にふみきったのはこれとはまるで反対な動機だったからな、つまり、お前の彼や仲間たちが、アナーキズムのこれまでの個人的な、もしくは感情的暴力主義を批判して革命の方法にもっと建設的なプランを立てようとしたのだ。そのために、農村へ強力な啓蒙運動を起さなければならんとした、その啓蒙活動の基本はちょっと面白い図式だったな。コンミュンを建設しようとする農村運動、あれはかつてなかった新しいプランだったが。将来農業と工業とを結合させるために立地計画をたてる、そしてその設定された地域の中では人民の労働も生産も集団の運営でやり、それから消費も、所有も、生活の全部を挙げて人民が自分たちの理想郷の建設で共産化する、この素朴な生産協同体の地域を次第に拡げていく。こういう革命方式だったな、これは現在の政治権力のもとでは到底実現の見込みはないとしても、将来の理想社会にたいする展望が、幻想が必ず農民大衆を鼓舞せずにはおかないだろう。単なる権力争奪のための政治革命ではなく、実質的な経済革命でなければならぬ、という見透しだった。この農村運動はお前たちによって二三の県で実験的にやられた、それが意外にも素朴な若い農民たちの間によく理解されたことがどれだけお前たちを鼓舞したかしれなかったな。ところが、ぽっくりああいうことで挫折して、運動は芽も出さないうちに土の中で葬り去られた。いやはや。しかしこの運動の失敗はおまえたちのやり方がどうのこうのというより、むしろ原因は思想そのものにあるのではないか、政治や権力を否定する自由の思想が、どうやって社会というこの厖大な人間の生活、組織に革命を起すか、民衆を動かすか、元来自由という思想は政治権力や大企業による集中経済とは根本的に背反するものだ、支配と圧迫、搾取と貧困、これはどこまでいっても果しのない闘いだ。お前達は社会革命の可能について限界も方法も考えなかった」

私「いいえ考えなかったのではないの。私たちは誰一人勝利だの可能だのと信じたものはありませんでしたよ。私たちのやってることなんて、天に向って唾するようなものなんですもの、ただね、私たちは、自由というこの思想は時代を超えて、永遠なものだと信じていたのです。だからどうしてもやらなければならなかったんです。

父「うむ、わしにはわかる、しかしこの悲劇のあとにはなにが残ったのだ。マルキシズムのあの組織的な運動もほとんど潰されて、その後は世は挙げて軍部による独裁偏向だ、見てるがいいよ、来年あたりはたぶんおおっぴらな日本軍部の大陸侵攻がはじまるだろう。こんなことをくり返しながら日本は大きな破局に向っていっさんに歩むだろうさ。とにかく、おまえたちはあれから五年もたって当人も世間も大概忘れてしまったあの当時の活動が、こんど変な動機から、このN県で摘発されることになったのだ。新しく蒸し返されることになった。こんどは中味より何十倍かの大きな宣伝で、全国的な規模でやられることになった。舞台に上演される瓢箪から駒がとび出すみたいだな。だが、これは却ってよかったじゃないか」

私「初めわたし、こんどのこと何の検挙かわからなかったの、ぼんやり送られてきたから……」

父「そうさ、しかしおまえにとってはよかったよ、以前の、あれではまるで蛇の生殺しだ、こんどという今度は徹底的に何年かかってもやっつけられるんだな、人間は落ちるときには徹底的にやっつけられるんだ。徹底的に落ちて、死ぬときには死にきるんだな、中途半端がいちばんいけないよ」

私「お父さん、わたしはじめてわかった」

父「なんだい、彼のことかい」

私「いやよ。わたし、何もしらなかったけれど、法律だの、裁判だのって……」

父「なにを? 」

私「瓢箪から駒が出たって、いま仰言ったでしょう、あれ……」

父「……とは? 」

私「なんだか、わたしを、実際より、どうやら大物にでっちあげようとしてるのよ、彼らは。調べでわかった」

父「ほう、やっとわかったのか、今ごろになって」

私「ねえ、まじめに聞いて。たとえばよ、警部の調べでは、お前はその結社の組織者だったか、それとも加入者だったかということでずいぶん問題になったの、わたしは組織者なんて思いもよらない、そんなこと第一気はずかしくって。せいぜい加入者くらいのところでしょう。だからそう答えたんだけど、どうしても承知しない、あんまり執拗こく聞くから、なぜだろうと考えてみて、わかった。組織者といえば罪が重くなるし、加入者なら、軽いんだって。ははあ、法律とはこういうものかと感心したの、紙一重の、まるでテクニックね」

父「おまえのやった実践なんて、まるで高がしれてるさ、事件からいえば。お前自身は異常な熱をあげて悲壮がっていたかもしれんが、何ほどのこともないよ」

私「いやあね、こんなこともあるのよ、何年何月何日にどこそこで行われた会合は、どんな協議内容だったか、と訊かれるでしょう、さあ、と考えてみても、さっぱりよ、まるで。五年の歳月とはいえ、ここまで記憶を喪失したのかとわれながらおどろいたの、ところが、あの当時のことを想いだしてみたら、どうでしょう、馬鹿馬鹿しくって」

父「どう? 」

私「わたしはね、同志たちのお茶のことだの御飯のしたくだので、台所でせっせと働いていたでしょう、そうして、手がすくと、しぜんと身についた習慣で家のそとへ出てぶらぶらしながら、観察の役目」

父「はは。それはどうも」

私「てんで記憶にあるわけないじゃない、知らないの。だから。記憶の喪失じゃなくて、初めから何も知らないのだから。いくら追求されたって、阿呆みたい。これはどうにか抵抗で通りぬけたけれど、もっと困ったことがあるのよ、こっちのほうは絶対絶命」

父「なんだい、それは」

私「手記をさかんに書かされたこと。思想にたいする認識、ときどきに出された出版物の内容にたいする認識、なんて」

父「そうだな、珍らしい思想で、調べるほうもわからんからな、みんなに書かせることで、調べの手がかりにしようとしたのだろう」

私「あんまりびっくりして、危うく椅子からころげ落ちるとこだった。このわたしに、認識-まっ先に命令されたのがね、フランス大革命及びロシア革命にたいする認識、その次が、アナーキズムに対する認識。どう? このわたしにですよ、呆れかえった。生まれながらに論理のあたまがなくって、そうして理論だ歴史だなんておよそなんの興味もないわたしでしょう、だいいち忙がしくて読んだり考えたりするひまなんてどこにもありゃしなかったもの。しかも命令は絶対で、のがれる道はどこにもないのだから」

父「ない知恵をしぼるんだな、せいぜい」

私「いくらしぼろうと努力したって、ないものは出てくる気づかいないでしょう。空っぽだもの、でも、やれごまかしだの、言いのがれだのって頑として背かない、これが悲劇でなくて……。こんなことと知ったら、平常からもっと勉強しておくんだったと後悔しててもおっつかない」

父「そこでどうした」

私「ない知恵をしぼって叙事詩を書いてやった。傑作をね、これ以上も以下も書けません……て」

父「そうだな、おまえには思想運動をやるような素質はないな、考え方は論理的じゃなくて、直観的だし、それにつよい意志もない、革命家にもっとも必要な冷酷さ、厳しい非情さというものがないしな、根本的にそういう性格とは異質なのだ、おまえはひとりの風がわりな女なんだよ。同じ夢を描いたとしてもだ、おまえのゆめはひどくロマンチックで……」

私「お父さん、そうお思いになる、よくわかって下さるわね、ほんとに。わたしはあの事件のあとで、そのことを、徹底的に自己反省したのよ、自分を裸にして、自らと対決して」

父「まあおまえの罪を罰するとしたら、愛した、ということだな、ひとりの男性を愛した、そして人間を愛したということだ、ところが法律にはどこにもそんな条文はないよ、第何条の第何項にもそんな文句はないのだ、法律というものは元来そういうものなんだよ、条文に掲げられた犯罪だけだ。ところが美とか愛情とかいう心情こそ、人間の行動にとってもっともふかい大きい動機になるのだが……」

私「お父さん、あなたもかつて世にあるとき、ひとりの女性を愛したわね、真剣な恋愛をなさったのね、わたしだけが知っています」

父「晩年になってからな、あれはわしにとって、一生にただ一つの恋愛だった」

私「わたしは小娘だったからよくわからなかったの、お父さんの恋愛が。とてもあの人がすきらしいということだけよ、ところが、お父さんのお使であの料理屋へ行ったでしょう、あの女将がどんなにやさしい、どんなに温いひとかがわかって、それから心機一転。このひとならお父さんが愛するのは無理ない、あたりまえと考えちゃったんです、まるっきりうちのお母さんとは反対な感じでしたから。どこにも一点として似通ったところがないのだから。このあまり商売気もなさそうな静かなひと、この若い美しい人が、わたしのお父さんを愛していてくれる。なんだかわたしは幸福な気持になっちゃって……」

父「おまえはたった一人の理解者だったな、わしのために」

私「でもね、わたしは処女としての感情でわかっていただけ。それがじぶんで結婚してみて、はじめてお父さんの恋愛がどんなものかがわかったの、同時に、お母さんのあのひどいヒステリー、気狂いじみた嫉妬がどんなにふかい傷口から噴きだして来たか、それが初めて女になってみて、そうね、女としてやっと理解することができた。五十をすぎて燃えあがったお父さんの情熱が。生理的によ……。そこでやっとお母さんはなんと可哀そうなひとか、それもわかりましたよ、何しろお父さんが二十八年一日のごとく郡書記を勤めるあいだ、あの薄給のひどい貧乏の中で、七人の子供を育てあげ教育してくれた、それにしては、あまりにお母さんが……」

父「わしはあれを、永く苦労させすぎたよ、苦労が長すぎた」

私「役所をやめて、お父さんは銀行の支店長になった、つづいて町長になり、郡会議長-赤十字の何とか。ずいぶん表面は華かな政治的雰囲気になったけれど、家の中の生活は依然として変るところはなかったのよ、お父さんは町長になっても無給で、ほんとうの名誉職でしたから。武士は食わねど高楊子よね、お父さんはふふ。貧乏がお得意で、清廉潔白って言葉が大好きで-」

父「その清廉潔白の結果は、どうだったかい。わしは降って沸いたようなあの、突然におそいかかった瞬間で、忽ち官金費消、行金費消、背任横領という名の罪人さ、縄つきの身で、ここへ送りこまれた、六十三年の生活も、名誉も業績も、一挙にしてあと方もなく崩れ去った、あと方もなく……。これも瓢箪から駒というやつだろう。その事件というやつが、これが県の政友会ど民政党の政争にまきこまれたのだ、政争の具に供されて、つまり政党政治のおれたちは犠牲になったのだ。完全な没落だったが、挽回をはかるにはわしはあまりに年がとりすぎていた。敗残の身。生きる希望も力もなくなってしまったよ、わしは。わしには一銭の貯金もなく、財産もなかったからな、僅かな恩給と、親類どもの援助で。これがわしにとって実に辛かった。そうなってみて、あの女将の変らぬ愛情がどれほどうれしかったか。心に泌みたよ、そこへおまえが小学教員の検定試験に合格して、これからというところで」

私「わたしが初めて会った男性の泪にほだされて結婚-。それから何年だったかしら、あのひとがお父さんから離れたのは」

父「あれも結局はひとりの女で、料亭の女将だった。わしから離れたのはな、わしのかつての政敵だった政友会の中野、あの若い事業家の中野に転身したということさ」

私「ねえお父さん。あなたは没落なさったけれど、これでもし家庭がもすこし幸福でしたらね、わたしたちきょうだいはもともとお父さんの華かな社会生活には大して興味がなかったのよ、お父さんが全力を傾けて活動なさるのをむしろお父さんのために喜んだの、それだけの力がある方だし、何よりお父さんはたのしそうでしたから。ただ、あまりに家庭生活がみじめで、暗くて……」

父「暗いから、わしの心は外へ向いたのだ」

私「あまりにお父さんがお気の毒で」

父「末っ子のおまえは最後にひとり家に残って、わしと母さんの間でひとり苦労をした」

私「お母さんはヒステリーが昂進して誰の前でも発作をおこす。ちょっとしたことが感にさわってすぐに家出、みんなが協力して捜索してくれる、自殺をはかる……。どれだけこのひとはお父さんを苦しめたら満足するのか、納得するのかとわたしは恨めしかった、恨んだのよ、あまりにお父さんがかわいそうで。どれだけお父さんの社会生活を汚したでしょう、傷つけたでしょう。わたしはこのお母さんがもし継母だったら、どんなに気がらくだろうといつも思った。気のすむまで憎めるから。お父さんがやさしくいたわればいたわるほどまたもや反抗した、つめたい人でしたね」

父「母さんをああいう病人にしたのも、みんなわしの責任だったよ、ああいう悪妻にしたのもな。わしはまたおまえの苦労があわれで、実に同情したのだ」

私「なんとも、勝気な人でしたね、気の毒なひと、実家の裕福がいつも自慢で、貧乏が口惜しくていつもお父さんを軽蔑しつづけたわ、たとい母さんが夫や子供を理解してくれなくても、でもただ愛してくれればよかったのよ、愛してくれさえすれば。わたしたちは何よりそれがほしかった。お父さんのためにも、わたしたちのためにも。事ごとにお父さんに向って反抗する子供たちに教育を受けさせるからこう貧乏なのだ-て。悪妻にはお父さんがしたのでなくて、感がつよくて、心が冷えきったああいう性格だったのね、わたしたちきょうだいがお父さんにひきよせられてゆくのも不思議ではなかったでしょう」

父「わしは女の子供たちが好きだった」

私「お父さんは威厳があって、覇気があっておっかなかった。私たちは一度もお父さんの膝にだかれたこともなかったし、一緒に歩いた記憶もなかった。けれど、わたしたちはちゃんと感じたのよ、やさしいお父さん。父親ってことではわたしたちは満足だったし、たんのうした、ただし女の姉妹がね。私たちは小さいとき、お父さんからよくお夕飯のときなどこんなことをきかされたでしよう、-きょう役所へ警報がはいったぞ、あしたの晩あたり低気圧が襲ってくるとな、おまえたちも気をつけろよ。-内閣が変わったぞ、きょうの公報によるとまずこんな顔ぶれだ。まあ聞け、といって大臣の名を一人一人読みあげると、姉さんたちは眼を輝やかしてそれを聞いたでしょう、お父さんも楽しそうだった。こんな雰囲気が一々お母さんの勘にさわったんですね。あなたがそんなふうだから、うちの娘たちほみんな生意気になるばっかしだって。私たち女のきょうだいは兄さんたちを圧倒したし、お母さんまで押し出してしまった。いつか子供たちはお母さんから離れて行ったんです。お母さんは孤独になり、ぴしゃりと蓋をしてしまった、『おまえたちは大きくなるとみんなお父さんの味方についてしまう。お前たちは誰ひとりとして、このわたしが早く死ぬことを願わないものはないのだから』と、こうよ。どんなにお母さんの胸をなでさすってあげたくても。てんでつめたくはじきかえされてしまうんです。氷のようによせつけない。子供たちのめざましい心身の成長について来られなかったのよね、とりのこされてしまった。そうなるとわたしたちはいよいよお父さんに惹かれて、知らないまにお父さんをあこがれの男性として描いたらしいわ、決して愚痴を洩らしたことのないお父さん、そうよ、ふたりの息子がふたりとも頭がわるくて、学校はすべる、学問を断念する、ケチで、小心で、はらはらするような賎しいことを臆面もなくお父さんに訴える、さんざん方針に迷って心配ばかりかけた末に、ああしてお情けで山の中の小役人におさまり全肉親の期待を裏ぎって生涯を終った。そのとき、どうでした、お父さんの最後までつづいたあの温かい親ごころは。小さい兄さんは彷復生活で、たえず金送れの請求だったし……わたしはね、少女の頃から、何とはなしに親というものはなんとあわれなものかと思いましたよ、人間のあわれさが。ねえ」

父「愚痴ではなかったが、わしはじぶんの死期が近づいたころお前に述懐したことがあったな、-わしは一生涯、死ぬまで悪妻に苦しめられた。わしの結婚は失敗だった」

私「おぼえていますよ、それは。父性愛ってものをわたしは最大に味わったの、ほんとに感謝ばかり。……ですからわたしお父さんが死んだとき、ちっとも悲しくなかった。お父さんには胃癌の宣告をちゃんと謝したし、わたしもまたお父さんの人間を信じたから、決心して話したでしょう。立派な最後でしたね、お父さんは。でもお母さんの死は悲しかった、あれほど悲しくあれほど泣いた死ってものをわたしは知りませんでしたよ。もうとりかえしがつきませんもの、おわびしたくても」

父「わしはお前にいっさい後事を托して安心と満足して死んだのだ、結婚をぶち破って、うちへ帰ったお前だった。東京でのせっかくのいい職業も、前途もふりすててお前は、山のなかのうちに帰った、そしてわしを見送ってくれたのだ」

私「可哀そうなお母さん。つぎつぎに子を生んで、貧乏にうちひしがれてきたお母さんはめざましく変ってゆくお父さんにとり残されてしまった。あの心のなかに燃えあがる苦しみをどう表現できたでしょう。ヒステリーより外なかったんです、あの嫉妬の焔が、あの孤独が……。明治まえに生れた女がですよ」

父「おい、ところで、ちょっとそとへ出ようか、うなぎが食いたいだろう」

私「いやなお父さん、ふふ」

父「天ぷらもいいな、なんなら彼を誘ってもいいぞ。スキ焼、鳥……なんでも」

私「ここは東京じゃありませんよ馬鹿馬鹿しい」

父「わしはおまえと夜のあかるい街をつれだって歩きたいのだ。うまいもの、ぶらぶら歩き……わしは晩年に、年に一度東京へ出るのがたった一つのたのしみだった。おまえの案内で、あちこちたべ歩いたな、あれはよかったな」

私「もう昔のことよ、東京で、わたしが最初の結婚生活のころですよ、お父さんとよく毎日食べ歩きしましたね、ひるまよ」

父「そうさ、わしはおまえの御亭主が出勤した頃を待ちかねては旅館を出かけておまえのうちへゆく」

私「そうね、彼は強情だから、めったにひとから奢りに誘われてもうんといわないわ、でも、とてもおかしいこともあるひとよ」

父「そうだな、あの男は、そうかもしれんな、強情かもしれん」

私「こんなことがあったのよ、お父さん。あのころのことよ、東京でよ、なんでも出版物の手配が終ったときだったかしら。みんなほっとして、居あわせた仲間が慰労に何か食べに出ようという話になった、わたしが先頭に立って出かけたのが、あの東中野のお座敷てんぷら。わたしってふところのこと考えもしないでね。なにしろはじめての豪華な宴会でしょう、連中はよろしく一杯やって、いい気持になって、それから天ぷらにたんのうしたらしかったのよね、そとへ出ると、彼がわたしのそばへ寄ってきて囁くように言ったの、-おい、てんぷらってへんなものだなあ。わたしはその意味がわからないものだから、あら、あなたはじぶんじゃああんまり美味しくなかったのって。すると、まあこうなんです。-最初に眼のまえに並んだめが奇妙なうつわさ、これをどうするのかとみていると、おまえは平気なかおでつゆを小鉢についで、そこへ大根おろしをいれてまぜあわせたろう、ははぁと思って、俺もそうした、つづいておまえは、おじさんえびをちょうだいといったな、俺もすかさず、おい、ぼくにもえび、と叫んだ、鉢巻のおやじが、おれのほうへ先きにえびをよこしたね、だまって横眼で眺めているとお前は、自分のを小鉢のつゆにそっといれて、つゆをたっぷりしませて食べはじめた、だからおれもそのとおりにしたよ、連中はむろんおまえにならえさ、つぎにおまえは、おじさん、こんどはキスよといった、おれもただちにおい、キスをくれ、と、叫んだというわけさ、キスだのサヨリだのよけいなへんな名前をよくまあ知ってるもんだよ……」

父「ははは、てんぷらが……」

私「初めてだったのね、あのひと。なんといういいひとだろうな、とそのとき、しみじみおもったのよ、わたしは」

父「よし、じゃあ奴を誘おう。だがなあ、天ぷらを知らないくらいの男だから生命がけのことができるのだ、天ぷらをしらないような男だからこそ、花も咲かないとわかっている運動に精魂をうちこんでいかれるのだよ」

私「ね、いいひとでしょう、彼は。そうお思いにならない? わたししみじみそう思った。それからこんなこともあったの、いつの頃だったかしらね、わたしの友だちが来て泊った晩のこと、大雪で帰れなくなっちゃって彼のかくれ家へふたりとも泊ったのよ、停電になって、雪のあかりの部屋へ彼と三人川の字に寝たってわけね、おい、尻とりあそびをやろうじゃないかって話になって、さっそく友だちが、はいけい私儀、と出した、わたしがすかさず、ギン行破産のため、とつけたでしょう、すると彼は、メッカチに相成り……。いゃあね、銀行が破産してめっかちになるなんて、馬鹿馬鹿しい。友達がそれにつけて、リン落のふちにおチ、といったからわたしが、チ命傷をうケ、すると、彼はケッ判状をとり交わし……なのよ、言うことがてんで飛躍して処置なしじゃない、銀行が破産してめっかちに相成るかと思うと血判状と来る、ほんとに枕をならべてさんざん笑っちゃった。するとこんどは、おい餅を焼こうじゃないか、でしょう。わたしが起きて雪あかりに枕もとの火鉢で餅をやいて、みんなで食べた、あれもこれもみんなつきないおもいで。……それから、最後に世田ヶ谷の家で彼が挙げられたのも、大雪の朝だったの、まだ夜が明けはじめたころでドカドカ踏みこんで来たでしょう、彼はすきをみて、飛鳥のようにはだしでとびだした、みんなそのあとを追う。丹前の両端をひらいて雪の中に舞ってゆく野鴨のような彼の影を見送るとすぐわたしは、だいじな書類入れのトランクをもって裏口から素早くぬけ出した。ああもう何もかも終った、おしまいだ、と喘ぎながら……」

父「うむ……」

私「来るべき時がついに来た、そのときのわたしのおもい。それからあとまもなくみんな捕まって、私だけ猶予で先きに出るには出たけれど、それからの苦労といったら。そのときの胸にたまったものが、わたしをこうして生かしてるのよ、お父さん」

父「うむ……」

私「わたし死ぬまで信じるわ、人間を。社会を。自由を。人間社会はめまぐるしく絶えず変ってゆく。戦争はくりかえされるし、科学は進歩したといっても人類はべつに幸福にもなりはしない、ますます不幸の度が深まるばかりでしょう、でもね、人間性のつづくかぎり、こうした悲劇をくりかえしながらも、やはり、進歩するのね、生きたいという自由を求める人間の意志は永遠につづくからよ。それだけが、この一つのことだけがわたしの信念よ、信仰よ、お父さんはきっとおめでたいとお笑いになるかもしれないけれど」

父「いいさ、信仰は。愛することだからな、じぶんを愛し、人間を愛し人生を愛するのだ、信仰でだまされたとしてもけっこう。人間は生きていくのだよ、悔いるところはないよ、社会が大きくひろがり複雑になればなるほど人間の愛と革命が社会を新しくして次の時代を創造するのだ。社会に生きている以上は組織の中に生きなければならない、がその中でどうして画一からじぶんを守るかだ、こちこちに固定して、ひからびた圧力をはねかえして、どうやって社会が若々しく生まれ変わるかだよ。いきいきとした創造のないところで何を愛するのだ、何を信ずるのだ。社会が大きくひろがり複雑になればなるほど組織ということが絶対の威力をもち出すのだ。これから世は独裁の方向にむかうだろう。強力な政治権力の下で下積の人間は支配されるだろう、だがこれからも戦争はくりかえされるだろうよ。まあおまえも、くよくよせず永い気持で生きることだな」

私「そう、そう思うの、あるものをうけいれて、わたしらしく生きたいの、わたしはなんとしても苦しむ人たちとともに生きるわ、そのなかの、美しいものをひきだしたい、信じたいわ」

父「美醜を超えて……醜をも愛するところに信仰はあるのだ、生活は美しいばかりのものじゃないそ」

私「お父さん、こうしてお父さんと身近に会って、こんなにいいお話をして、ほんとうにうれしくて、勿体ないみたい。それでね、お父さんがかつて銀行事件でここへはいってから105日という月日をここでどんなふうに過されたか、どんなに……それはもう、言葉にもつくされないと思うけど、いまこうしてお父さんの顔をみていると、そのときのお父さんがわたしのこころを刺すようなの、お父さんの悲しみが」

父「すべてはもう遠い過去に消え去った幻想だよ、しかしあのときのことが、まだお前の魂には現実として生きていたのだな」

私「お父さんのあの事件は、あたしにとって大きなショックでしたもの、娘として。あまりに大きすぎたの。あれは人間の悲劇である以上に、社会の問題なんです。その後わたしの生き方はあれこれよろめいたけれど、結局人間や社会の不合理にたいする抵抗だったと思うわ、お父さんというひとはわたしの人間形成にとってどんなにおおきな台石になったでしょう。それは、おそらく、お父さん御自身も御存知ないかもしれないわ」

(了)

 以上の文章は、アナキズム運動の実践活動としての農村青年社運動の結果、二度目の逮捕された時の回想である。執筆されたのは昭和30年頃と明確ではないが、彼女の一貫した姿勢を感じとれる。

 次に掲載するのは、昭和7年1月号『黒色戦線』に載った私の知る限りでは唯一の詩で、農村の情宣活動中のものである。これは森長氏の『史談裁判』に一部紹介され大島氏の厚意で複写させて頂いた。(相京)

■薪の火を焚く    八木秋子

都会をはなれてニケ月暮した

腹の底から都会がいとはしい

理論でなく呪ひたくなった

なつかしいのは多数の同志

その他の人間も生活もみんないやだ

だがあの都会に生きねばならぬ人たち

頑張らねばならぬ人等のことを考へる

空き腹であの困難な仕事をやってゐる友だ。

都会を呪ふことは私の贅沢であらうか。

飢えた民衆をいっぱい呑みこんで

東京はいよいよ大きくふくれるさうだ

風船玉はふくれるときまってはぢける

どしどし毒瓦斯を送ってやらう

どんなに厚いゴムだってきっとはじける

すれちがった年寄の百姓が

破れた蛇の目をさしていった

「へえ、今晩は、どちらへおいでるな」

養子と寺の総代衆はこすいと話した人だ

頬かむりの孫がみおくってゐる

雨ふりの夜は爐の火が赤く燃えてゐた

手づくりの渋茶を汲んでくれる同志

同志のお母さんは疲れてねむってゐる

会ひたくて会へなかった

初めて見る同志たちの顔がやたらに嬉しい

七里の山道を不自由なその脚で

米を背負ってきたのですか、友よ

あなたの汗で作られた米だ

のびのびと御馳走になりませう今宵は。

握り飯にゴム靴で峠を越えて

未知の人を訪ねてゆく堅い足どり

青年会に處女会に青訓に

浸みとほってゆく黒き思想、勝利の確信。

一つの眼立たない真実の努力が

百千の叛逆の言葉にも勝る

ただ真実の愛哀しみと怒りが

わたしたちを駆りたてるのだ

ここには華かさも誇張もない

謙虚な魂が大地のやうに微笑んでゐる

村の土は静かに動いている、地の底から

農家の塀や壁にぴったり貼りついた

古新聞紙のポスターに陽がかがやく

山のやうに芝草を背負った村びと達が

凝っと見入ってゐる鮮かな文字である

村の権力者たちが恐怖をかくす今日だ

六年の月日を掘りつづけてきた石だ

だがあなたは想像するだらうか

農民をしばる因習と伝統の力と貪欲と

奴隷観念のさびついた鉄のくさりが

どれほど太く重たく固いかを

そしてあなたは知るだらうか

村に激しい労働で生きる少数の同志達が

圧制者の鋭い刃と眼のひかりの下に

鎖を断ち切れとうち鳴らす鐘のひびきを

理論や叫喚でなく事実の建設のために

生命をかけた闘ひの決意とすがたを。

月がけ十五銭の無尽講の金で

葺いたばかりの板屋根にあたる雨の音

見あげるわたし達のこころも楽しい。

友よ薪の火を、かきたてよう。

1931・9・17

■後記

黄ばんだ原稿用紙が糸で綴じられ、何度も手を入れた跡にまるで彼女の心の襞を垣間みた思いがした。しかし、基本的にこの通信は彼女が現在綴る文章で埋めてゆく方針に変わりはない。部屋の片隅でダンボール箱を机がわりにして言葉を刻む姿を御想像願いたい。次号から現在の彼女の日記を連載しゆくので御期待を。

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