■第5号(1978年3月10日発行)目次
・転生記
・父・八木定義のこと(2)
・◇八木秋子著作集Ⅰ 3月末完成
・八木への通信 相京
<松本市・牛山>
<小金井市・赤松>
<厚木市・しのだ>
・後記
■転生記
■父・八木定義のこと(2)
長野市における衆議院補欠選挙の結果は翌日早くも明かになり、開票の結果は、当選者大沢辰次郎(民政党)三、六五二、次点笠原忠造(政友会)三、三三八と発表された。票差はほんの少数で制限選挙の時代をそのまま描きだしたものであったが、それにしてもたとえ小差とはいえ大沢が政友会のしかも長野市の堅い地盤たる信濃毎日新聞社長一族の脚もとに、そして中央の政友会本部に小さくとも風穴をあけたという事実は決して軽視すべきことではない、と思わせた。長野地方は長年の政友会管掌の選挙に多少飽いていたという事実もあったが、こんどの対抗馬大沢が多年教育者として実地に研鎖を積んだという経歴は、教育県としての県民が惹かされたところがあったのかもしれないし、愛妾云々のゴシップにも、型やぶりの政治家出現、といった好奇心も多少うごいたのかもしれない。
だが、たとえ小差にしても地盤といえるものも金もない白面の大沢が、どうして比較することもできない強力な敵を敗って当選したか、その関心と詮索の興味は、落選の発表と同時に政友系の幹部を闘志に目ざめさせた。
「大沢は隠れたところに、想像以上の選挙費を注ぎこんだ形跡がある。大沢の買収費、運動費はどこから出たのだ。彼が立候補を決意したとき、三井財閥の豊川良平と堅い握手を交したという。その後の豊川の身辺にはうちの者等をも東京に送って然るべく内偵を進めて来たが、彼等の報告には大した見るべきものはなかった、というのが真相といえそうだ。なお豊川の身辺を尚お当分のあいだ監視させるが、ただ一つ、大沢には小規模、小資本ながら銀行があるな、小さい、………」
「そうさ、彼は地元の木曾、諏訪などを地盤に零細な預金をかき集めて甲信銀行の頭取となって……」
「甲信銀行の頭取か、なるほど。甲と信、それで上諏訪に本店をおき、木曾福島に支店を置いて諏訪の製糸産業に小いさい触手をのばし、木曾の零細預金をも吸い寄せようという訳だ。」
甲信銀行木曾支店をまず発掘してみなければならぬ、何がでてくるか、でて来ないか-。
大沢は二日目の夜東京へ発った。まず豊川良平氏に選挙当選のあいさつを述べ、政治家として今後の支援というか、密接なさまざまな希望と期待の握手をしなければならぬ、握手に全身の力をこめて言外の意味をガッチリと全身をもって受けとめて貰わなければならぬ。
時は大正三年の四月にはいっていた。
信濃の春はおそいけれど、山吹の黄、連翹の花の眼ざめは年ごとに明るい黄の鮮かさをふかい谷間にちりばめた。木曾の春はしずかに明けようとしていた。その日、父の八木は昨夜からの胃痛のためにまだ床についていた。前日から役場の町会は二階の会議室で開かれていて、小学校の教員補充のこと、異動についての郡視学との協議、冬期の児童たちの木造火鉢の点検や新品の購入手つずきなど、殊に重要なのは清洌な木曾川の急流を挾んで両側の山腹にひろがる福島町の、消火施設の改革である。昔ながらの板葺きの屋根に石をおきならべた古い建築は、建築というに価するかどうか、春さき屋根の雪が消えると思う頃から大雨警報の聞きちがいのような錯覚でひどい雨もりが頭の上から板敷きまで襲来する。仮りにも火災が起きたとすると、川の急流をはさんで山の中腹まで火焔が猛威をふるう。二台や三台の手押しポンプでガチャン・ガチャンとやったところでどうなるものでもない。これを補充する新式ポンプの選定、それの予算など、町長としてきょうの欠席はまったく痛いのだが、どうにもならないこの胃痛なのである。
眼のまえに拡がる畑の道を縫って、ひとりの中年の女性が小舎のかげから現われ、近づいてくる。
「だれかくるようだな」
父がそう言って寝がえりをうった。
「大沢の姉さま」とわたしが応えた。
大沢辰次郎の本妻である。良人の大沢が長野市から立候補して中央政界に登場した華かさにはべつだんの興味も関心もなさそうな冷静な表情である。良人が長野に妾宅を構えて別居を宣言されたときから、彼女の心の姿勢は静かな不動のものになりつつあった。老衰のせまりつつある姑の身辺の世話から、五人の子女の養育を一身にひきうけてその重味に耐えながら、良人が県会議長当時以釆寡婦に似た凄艶な美しい寂しさを眉根からくちびるにかけて湛えていた。かって長野県女子師範開設以来の、当時の才媛といわれていたひとであった。
「伯父さま、お電話をお伝えにきました」
「ほう、どこから? 誰からかね」
「銀行からですよ。伯父様に御面会したい方が待っておられるので、すぐおいで願いたいと……」
「銀行のことはあんたも知ってのとおり、全部杉本支配人に一任してわしは名義上の支店長なのだから。しかし誰だろうかな、わしに会いたいというのは」
「なんでも、長野の地方裁判所の検事さんに、判事さん、とか申して……」
「え? 検事に判事? さて、いまごろ何の監査だろうかな、前ぶれもなく、とつぜんに。」
しかし八木はまもなく平静をとり戻して、きょう病臥のため行かれない旨の伝言を大沢の妻君に託して、ふたたび横になった。八木は町長に就任したとき町費による自宅の電話架設を頑強に断わり、電話は町はずれの助役の家に架設して貰った。いちいち電話の応待だとか伝言を頼まれる、などの煩わしさもあったが、何よりも彼の老妻がこのごろ老いの呆けというよりヒポコンデリーの症状にまで進んでいるので、電話という便利な利器で、夫の不在中にでもどのような不測の災わいを招かないとも限らない、という危惧の念もあり、そのように強いて取り運んで貰った。
町会の経過やいきさつは午後になって母の弟にあたる町会議員の角間が来たことでよく解った。この母方の叔父は何代もつづく生薬屋で、薬草の匂いがいつも家の中に立ちこめていたが、生来の洒脱な気軽な性向で、町会の議論が沸騰したり対立したときなど、このひとの一言で期せずして爆笑が湧き起り、行きづまった議場の空気が一転して思わぬところに妥協ならぬ素朴な結論へと導いたりする。父の八木はまずしい夕餉の箱膳をまえにして、義弟の角間のことを妻と娘に語り、おれは、あの人物のようにはとてもなれん、と真実羨ましいもののように上気嫌に笑ったりした。老妻はだいぶ呆けて話し相手にもならないが、彼は娘には何でも語り、語ることを喜びとした。
夕暮れが窓にせまるころ、父な病床に横たわり、痛む患部を私に抑えさせていた。そこへひとりの来客が台所との板戸をひきあけて現われた。甲信銀行木曾支店の実務をとって完壁と支店長や支配人に信認あつい入間という人物であった。父は枕を片よせ、居ずまいを正した。
「けさは早々の電話をもらったが、この始末で……。長野から判・検事が出張ときいたが、失礼した。それにしてはなんの豫告もなく、いったい、何の監査だったかね」
と父が訊ねた。入間はそれに答えず膝のあたりを凝視していた瞳をあげたが、その顔面は透きとおるほど蒼白であった。
「とつぜんの……とつぜんのこと……でした。」
私は、何か重大な話が、語られることになるらしい空気を感じて、席をはずすべきかと考えた。
「八木さん、よほどの、……重大なご覚悟をお決めになりませんと。……」
という入間の声が背なかにきこえた。台所との板戸を音を抑えるように引きながら、私はその言葉を噛みしめていた。茶菓のお盆をもって座敷にひきかえすと、父と入間は額をよせあって、無言のまま座っていた。興奮ではない、限りなく重たい沈黙であった。
入間がひっそりと帰ったあと、父は私に何も語らず寝床に横たわったまま眼をとじていた。一カ月ほどまえ、父が長野の遠藤病院へ入院していたとき、大沢が当選の歓こびと幸運の得意さを満面に湛えて病室に現われたときの、叔父と甥との対話をおもいだした。
「とにかく、一生一代の幸運の絶頂、とでもいうかな、この勝利は。おまえの満腹の得意さは、この俺にはよくわかる。辰次郎、これを第一歩としておまえは、雄大な抱負の実現にむかって踏みだすのだな。」
「ありがとうございます、心に銘じます。しかし私にとりましてはこの勝利のかげに、●●(ばんこく)の恨みと申しますか、男としての哀しみがあります。」
「なに悲しみ。お前が? 」
「悲しみです。これは取り返しのつかない悲しみです。当選を一ばんに御報告し最高に喜こんで戴くはずの人、その人はもはやこの世にいません。訪ねて行って逢える、そういう人ではないのです。」
「……桂さん…かえ? お前が崇拝していた」
「そうです、その人。あのひとはどう探してふたたび見いだすことのできない人です。」
父のあたまに一つのことが閃めいた。桂太郎といえば変転自在の、複雑な政界を泳ぎまわってつねに政界に波紋をおこし、その変幻自在の動きから無節操の名をほしいままにしている明治の元勲といわれる。父の記憶からこの人物の名が消えないのは、明治四十三年に起った幸徳秋水等の、あの大逆事件であったのだ。父はそれについてどれだけの知識があったのか、どうか、父はそのことについてかって何びとに語ったこともなく、きいたこともなかったし、子どもたちから訊かれても黙して語らなかった、というだけのことだったが、まだ小学校の生徒だった私はいつかこのことをいちど父から聞いてみたいと思っていた。それだけだったのだが-。
父と大沢との話をきいていると、桂前首相はまだ未熟で政治に野心をもやしている大沢にたいして、ある程度胸襟をひらき彼に相当の夢を与えたのではなかったか。あるいは信州生まれの土のにおいと野性に目をつけたのか、とにかく上京すれば桂の私邸にしげく出入りし、ともに酒を汲むことを悦こんだ。将来の政界への野心には相当のかたい口約が与えられていたように見えた。このとき、桂前首相の病死を迎えたのである。桂亡きあと財界の豊川良平に次第に近ずきつつあったのは、その密度において到底桂との比較にはなり得なかったのである。
大沢が当選と勝利を笑顔にのせて叔父の入院中だった遠藤病院を訪れてきたとき、叔父と大沢のあいだには次のような会話があつたのを、娘としての私は胸にうけとめた。
「しかし、豊川良平さんはよくやって下さったものだな、ことにお前の選挙費の件については。わしの心配はただそのこと、それだったのだ。切角とお前のために、大隈さんだの加藤高明だののお歴々が、一度ならず応援に来て下さった。これ以上の応援は望めないからな、地元の降旗さんほかの真剣な骨折りも当然のこととしてもだよ。わしの心配はそれだけ、選挙費用のことだった。」
「どうにか間にあいました。いづれあとから大略御報告しますが……」
「辰次郎、おまえ木曾支店の帳簿の件は? 」
「完壁です、ごしんぱいには及びません。大沢が責任を負うているのですから……」
「そうか、わしはお前を信じとる。」
そのとき、わたしの眼に、大沢の瞬たきがうつった。その光りに暗いものがあった。
(つづく)
●八木秋子著作集Ⅰ 3月末完成
——————————————–
八木秋子著作集Ⅰ
A5判 上製 1300円
本文200頁 9ポ2段組
口絵
——————————————–
八木秋子の著作集がいよいよ3月末に出来あがる。収録したものは「第3号」に掲げた『女人芸術』(座談会は除く)『黒色戦線』『婦人戦線』『農村青年』そして『婦人公論』の「回想の女友達 吉屋信子」、『埋もれた女性アナキスト「高群逸枝と婦人戦線」の人々』の中の「明るい肯定の人・高群逸枝」「マルキスト・永島暢子との思い出」である。そして、その他に小川未明らが発行していた『種蒔く人』の婦人欄に投稿した「婦人の解放」、また昭和2年『婦人公論』に載った「優れた女性」等、京都の宮木典代氏、西川祐子氏、東京の関陽子氏の御助言で加えることができた。一応彼女の著作集第1巻としては満足のいく内容である。
彼女の最大の魅力はその紀行文、文明批評的ルポルタージュにある。その予言者の如き言葉は様々な意味を持って私達に問いを投げることは、第3号の西川氏の文章の中でも語られている。中篇小説「1921年の婦人労働祭」、「ウクライナ・コミューン」はロシア・ナロードニキへの当時の血のたぎりを感じさせる。
私は現在の「あるはなく」の文章とこの著作を重ね合わせて是非読んで頂きたいと思う。また末尾に彼女の略歴を載せた。その必要なことは発行以来、耳が痛くなるほどいわれたことだが、「あるはなく」の出発が私信の延長線にあることで、つまり彼女を多少とも知っている人に送り続けてきた事情で今までは載せなかった。が、読者が読者を誘って下さり、もはや私信といってはいられなくなった。そこでこの著作集を購入して頂くことでその点も補うことができるかと思う。是非沢山の方に読んで頂きたいと思う。<相京>
■八木への通信
発行以来沢山の方からお手紙を頂戴した。その数は80通近くにのぼる。「あるはなく」はその人達によつて支えられていることはいうまでもない。八木さんと親しくおつきあいされてきた人達や若い世代、特に女性の立場から人間の解放といったものを問い直そうという人達であり、皆さんのお手紙を全部御紹介したいが私の独断で一部に留めさせて頂く。<相京>
☆「わたしの近況」を読み、八木さんが元気であることを識り、又この一年彼女が持った出合いや相京さんの努力などによって彼女が本来の面目をとりもどしている、という感じを強く抱いております。<松本市・渡辺>
☆(あるはなく)深い感動を持って拝読致しました。丁度尋ねて来られた方にお見せしましたら是非読み度いと仰って持ち帰られましたので……お見せした方今日いらっしゃって、やはりよいものを見せて頂いたこの続きもぜひ読ませて頂き度いと仰って……八木様と私との出合いは五十年以上前にて、昭和の始め山田わか女史が出してこられた婦人新聞の後を引き受けられた山田やす子先生のお宅でした。時々来られて疲れたと仰ってやす子先住のベットで横になっておられるのをお見受け致しましたが、私はその頃駆出しの田舎娘でお話しも出来ませんでした。<松本市・牛山>
☆3号まで一息に拝読いたしました。それから毎日胸と頭の中があれこれかけづりまわっています、あれもこれも口に出したい事ばかりです。明々寮へいらしゃったおば様の事も、「あるはなく」の事も、おば様と母のことも、そして私の事も。とんで行っておぱ様の深いしわと大きな歯とをみつめたらお話ししたい事、おききしたい事ばかりです。…(中略)…。そして木曾福島にこんなに素晴しく生き抜く女性が生れておられる事も皆にしらせたい気がします…<木曾福島町・原>
☆八木さんという人は人を寄せつけないきびしさを持った人だと思う反面、人をひきつける魅力を重く秘めている人だナァと思ったわけで、今日は横顔と雰囲気を感じとれるだけでいいやとカンネンしたことでした。<小金井市・赤松>
☆クロソシュタットのことでございましたか、小説を拝読して嵐のふきぬけるような衝撃を感じたこともございます、このたびの「あるはなく」の読後感とその作品(1921年の婦人労働祭)の読後感とに共通した感動があったとのみお伝え申し上げます。それと誰れもが迎える老年を見事に乗り切るには……と自分も考えなければならなくなりましたので、八木さんの近況は、ルポとして待たれるものでございます。何卒、いつまでも、御健在でこの社会の暗黒面を切り開いて私共をおみちびきいただきたいと祈り居ります。<厚木市・しのだ>
★第5号 後記
あわただしい一日が実感を伴って過ぎてゆく。しかし彼女の内にある時間には未だ及びもつかない。ぐっと地に潜む時は気を蓄え、一気呵成に空を飛ぶ、風を起し、そして批判を乞いたい。
私は彼女の何に一番関心があるかと尋ねられたら、こう答えようと思う。それは宗教と思想の混じり合った世界に60余年棲息してきたということだ。だから彼女の用いる「神」だとか「愛」だとか「絶対」とかは一般的な言葉でとらえられないと思う。たとえば健一郎さんのことに触れて「相京さんわたしは本当に母性愛が無かったのよ」と突然私に語り始めた。
私は丁度その時彼女と同時代に華々しく活躍したアナキスト詩人竹内てるよの超然的な母性愛自叙伝を読んでいたので、それと異なるという意味で「そうですか」と肯定の抑揚で答えた。があとで「はてな、彼女ほど他人に無償の愛を振撒いた人はいないし、まして子供にだって最後まで見守ったじゃないか」と思い不審だった。が前述の竹内てるよや高群逸枝の戦争中の問題と重ねて彼女が母性と母性愛の言葉を峻別する姿勢に気づいた。母性愛、父性愛、夫婦愛、郷土愛、祖国愛、そして同志愛。その世界を吸いあげて造りあげたのが国家であリファシズムであるなら、今一度私達は彼女の世界を探る必要があるのではないだろうか。彼女は少なくともその「愛」なるものの虚妄さを拒否して生きてきた、そして真の価値を求めて生きている。その秘密は第一号でいう「飛び超えたい」一線を、即ちその間合いを、彼女自身で切ることができるからではないかと思う。
会計報告(78年1/1~2/28)
収入
新規定期購読料 15000円
賛助金 28450円
支出
印刷費(第4号) 29700円
発送費 4580円
復写代 1100円
雑費(写真代・交通費) 2970円
——————————————–
▽
東京都小平市花小金井南3-929
相京範昭
送料とも150円
振替ロ座東京-4-40972 相京範昭