■第6号(1978年5月30日発行)目次
・転生記
・新緑の中で ―著作集出版記念会―
・後記
■転生記
新緑の中で ー著作集出版記念会ー
去る4月29日、文京区立新江戸川公園会館において、八木秋子著作集Ⅰ 『近代の<負>を背負う女』の出版記念会が行われた。
1時より3時の予定が4時近くまで延長されるほど楽しい、有意義な時間を過すことができた。
あれから一ヶ月過ぎ、参加された皆さんいかがですか。
あの場で感じられたものをそれぞれの場で表現され、それが次回の集いにまたお話しされれば本当に八木秋子の心を伝えられることだと思います。
また都合で出席されなかった方々のために、当日の会を紙上で再現したいと思い以下掲載いたします。
どこまで言葉の行き遣いがお伝えできるか不安ですが。
会場の全写真、反時計回り→1978出版記念会全写真.pdf
相京範昭 まず僕から『八木秋子著作集』出版記念会を今日こうして持った理由といったものを二、三お話しさせて頂きたいと思います。
一つは八木秋子の通信として『あるはなく』を出してきたわけですが、その間友人達に八木さんのことを話すわけですね、でも僕が八木さんに直接会って触れた感じとどうしてもズレるわけです、また話し切れないものが話せば話すほど出てくるわけです。
だから直接会って、顔を見て話し振りとかを感じで欲しい、そういった想いを友人達に話した後で感じる訳です。ですから八木さんを囲む会合をなんとか設定できないかという想いはずっとありました、そこで著作集の出版記念会を機会に皆んな集って頂きたいと思ったのです。
第二に、これは僕等若い世代の者にとって八木さんが活躍され盛んに文章を発表された時代の生証人、つまり当時一緒に活躍された人達から八木さんのエピソードみたいなものをお話しして頂きたいということです。それによって僕等が八木さんの文章の中で感じる謎のようなものがとけることもあるかも知れないと思うからです。
それから、八木さんのことだけではなくて皆さんがそれぞれ御自身の事から問題を語って頂きたいと思います。そのことと八木さんから感ずることの原点が一緒だったらぜひお話して頂きたいと思います。はっきりいって、八木像が同心円的なものになることよりも、それぞれが持っている円の重なり合う所で八木さんを語れたら、と思うからです。
八木さんは好奇心に関してはとてつもないほど旺盛な人ですからお話し願いたいと思います。
ですから出版記念会ということに限定されずに自由にいろんな話を自己紹介を含めてこれからお話しして頂きたいと思います。
その前に八木さんから一つだけ、ぜひこれだけは話しておいて頂きたいということがありますのでそれを話したいと思います。それはこの本の題名のことです。
この『近代の<負>を背負う女』という中の〈負〉という言葉がなにか勝ち負けの「マケ」ということを想像させるような気がするのでそれについて話してくれということでした。これは僕らが決めたものですが、言葉に対するイメージが違うなという印象でした。
私達の頭の中には「カチマケ」というイメージは入っておりません。「フ」という意味は言葉を変えていえば、近代というものによって切り捨てられてきた部分、というものなんです。
そういうものを八木さんは八木さんの個人的体験の中で背負い、だからそういう部分に対していつも目をすえて来られたのではないか、そういう思いという事と同時に「フ」というのは「マイナス」、つまり何か行動する場合というのは、じっと腰をかがめてぐっと飛び出す、その状態ではないか。「フ」というものがなければ、〈正〉・「プラス」というものになれないのではないかと思うわけです。ですから「フ」というのは、「フのバネ」という表題を「あるはなく」の一号でもつけましたが、そういう意味です。これは僕の責任で話しておかなければと思いまして話させて頂きました。
では八木さんから一言お話しして頂きたいと思います。
八木秋子 今日はようこそおいで下さいました。大変有難いということと嬉しいということで一杯です。もう、なんとか御挨拶の言葉を原稿にでも書いて稽古の一つでもしていかなければならないかと思いましたけど、それはもう固定してしまったことになるからそうではなくて、私らしくあるがままの私で御挨拶したいとこう思います。
今度のことに関してもう思いがけないことで、本当に、私はこんなによくして、こんなに自分の持っていることや考えていることについて、こうして一つのものにまとまって読んで頂けるということは、本当に思いもよらないことでした。それだけに嬉しさが一杯です。本当にお世話になりました。
実は、色々皆さんからおうかがいしようと思って、私はむしろ自分の思うことを御挨拶の代わりに申しあげようかと思いましたけど、それよりもお集り下さった皆さんからいきいきとしたいろんな御意見や思うことを私にぶっつけて頂きたい、とそんな気がしました。
それは若い友人の方が多いということを承知しておりましたから、色々思うことをぶっつけて頂きたい、とそう思いました。それには相京さんが書いておりましたが、まだ私が全面的に紙上で暴れていない、自分の本音を出してもらいたいということを要求しておられる、それはよくわかります。なかなかそれがスムーズによくいかないということもいろいろ事情がありますが、何を皆さんが要求されるのか、その本音というのは何かということを追求して頂きたい、そこで私は一杯ものを言いたいと思います、それはこの幼い口では言い尽せないことですが、ありきたりの会合とか、ありきたりの書いたものの応答とか、そういうものではなく本音をぶっつけて頂きたい、遠慮のない注文を出して頂きたいとそう思います。どうかよろしくお願いします。
染谷ひろみ、加藤朱美 今日は八木さんのお話しをうかがいたいと思いまして参加しました。
加納実紀代 八木さんにはうかがいたいことが一杯あるのですが、先ほど相京さんが「近代の負」ということがおっしゃってましたけど、私も女の解放というものを考えた場合近代というものが随分女の解放をしたことがあると思いますが、その中でやっぱり切り捨てられたものがあるという気がします。
八木さんの文章だったかちょっと確かではないのですが「革命という(アナキズムかな)のは一個の自覚である」という言葉があって、解放という場合にはその自覚とか自立とかいうものを一人一人の中に造り出すような形であるべきだという感じがありまして、飢えから解放されるのも一つの解放で、それが前提であるのですが、それと同時に一人一人が人間として自立することがない解放、革命というのはおかしいのではないかとの思いがあります。
が、運動としてはやっぱり負けてしまうという感じがあるのですね、それでいつも一人で放り出されるのですが自分が間違っているとは思えないのです。そういうことを考えている中で八木さんに触れた気がします。何か失礼なんですが、自分に近さを感じるのです。そして常に過去を振り返るのではなく前を見ていらっしゃるという気がします。
私は今「銃後史ノート」という、戦時体制の前線銃後ということがあったと思うのですが、その銃後というのが結局女たちによって支えられてきて、侵略戦争が行なわれ得たのではないか、という思いがありまして、で、なぜ女達というのは生命を守り育てるということが自然性としてあるにもかかわらず、そうなっていったかという疑問がありまして、それを自分達の中で明らかにしてゆきたいということでやっているのです。
今度2号で十五年戦争の前段階として大恐慌の中で女の状況を明らかにしてゆきたいという思いで、たまたまその時機に八木さんが農村青年社運動などに入る直接のキッカケになっているというので具体的に、私は信州の製糸の女達をみてみたいと思っておりますのでその辺でも八木さんのお話をうかがいたいと思っております。
中山雄二 組合運動を少しやっております。相京さんの友人です。言葉に出していうことは特別ないのですが、どこで飯を食って生活していても、とにかく息を吸って吐いてちゃんと歩んでゆきたいと思っております。それができればあとは何でもできると思っております。
「あるはなく」を読んで感じることは一つの鬱屈した想い、情念みたいなものを引きずりながら、それは人間常にあるわけですが、それをどれだけのびやかに何か言えるかということを考えさせてもらってます。
加藤祐子 八木さんとは25年になりますね、一緒にある会(注:土曜会)を終戦後作りましてそれから顔を合わせているのですが、でもその間にいつの間にかどこかに行ってしまっていなくなってしまうのですね。そしてそのうちどこかとんでもない所から便りがきて、あれあんなところへ行っちゃったのかしら、というようなことを何回となくくり返して、今度清瀬にいらっしゃったと思いましたら、またわからなくなってしまって、そうしたら今度老人ホームにいるということを、それも他から聞いて今度初めて一番私の家に近い所にいらっしゃったので、それでちょくちょくおじゃまさせていただいております。
年をとり、腰はかがんでも頭の脳細胞は全然衰えないで立派な文章をお書きになるということは、これはもう、若い人達は特に見習って頂きたい、始終頭を働かさなければ、とまた私もそうしたいと思っております。
それでこちらは昔しそういう活動をされたということで、丁度一昨日そういう番組を作るということでテレビの方で誰か適当な人はいないかということの相談を受けまして、御紹介しましたらぜひ一緒に来てくれということで行って録画しましたからご覧になって下さい。5月1日11時20分の「お達者ですか」という老人番組です。佐々木孝丸さんという俳優さんを囲んで、あの方がインターナショナルの歌の翻訳をなさったとかで、そのことや築地小劇場のことなど話しました。女の人でそういうメーデーのことなど知っておられる人がいないので、よい人を連れて来て下さったと感謝されました。(最後尾写真参照)
八木 それが大失敗でした(笑い)。途中の車の中で気持が悪くなってね。吐きっぽくてね。その場で「起てよ……」と歌い出したのはいいけど2節までは何とか歌えたのですが、それからはピタッと止まってどうにもこうにもならなくなって。とうとう黙って引き下がりました。
小沢磯子 ちょうど20年前になりますけれど加藤さんと同じ会に入っておりまして八木さんを知ることができたのです。同じ北区内にいらしたものですから2・3回ほどおたずねしていろいろのお話をしたと思います。その後私達の会報に原稿は送って下さるのですが、お住いが遠くなりまして今日まで御無沙汰しておりましたけど、先日加藤さんよりお誘いを受けまして大喜びで飛んでまいりました。
丁度初めてお会いした時、第一次安保の時で、私は現役で都の婦人部長などやっておりましたので八木さんに何かお聞きした思い出がございます。
和田房子 私は八木さんと同じ木曾の福島の生れで、娘時代からずっとおつきあいをさせて頂いてまいりました。代々木においでの時は八木さんの家にごやっかいになった思い出がございます。随分お世話になりました。そして八木さんという方は随分人様のお世話をなさる、そして人に尽したことをはじめから忘れていらっしゃる、そういう方なんです。そしてどんな苦境に陥っても汚れない、いつも天真爛漫で決っして埋没しない、そういう方だと思います。尊敬しております、そして相京さんにお会いになったということはとっても嬉しいのです。それも八木さんのお徳だと思います。
渡辺恭甫 私は思想的な八木さんというよりも生活的、或いは情緒的な八木さんにお世話になったものです。今日は先程の相京さんの〈負〉のお話しを借りていいますと、正と負、ポジとネガということに代えていいますと、八木さんをはじめとする年輩の方と相京さんはじめとする若い方達との接点、私の知らない、そういったことをうかがいたい、これは受け身の形ですが、そう思って出席したわけです。
牛山ゑい 私は八木さんがお生まれになった木曾の近くの松本にずっと住んでおるものですが、丁度上京しておりましたものですから今日おじゃまさせて頂きました。私はあきさんよりもむしろお姉さんのみつさんとずっと親しくさせて頂きました。去年養育院で娘を連れてお目にかかりました、その時に娘が非常に八木さんに感動いたしまして、ぜひまたうかがって八木さんのお話しを録音にとっておきたいと申しておりましたが、ちょっと弱かったり忙しかったりしてそのままになっておりまして。
そしたら「あるはなく」を送って頂きまして、ああよかった、と思いまして全部お任せいたそうということでした。どうもおめでとうございました。
大谷玲子 学生です。今日は友人の鈴木さんという方に誘われるままについてきてしまってご本も読んだこともございませんし、予備知識ないままですが、八木さんという方のお姿とお顔を見ただけでなんだかとても私は感動していて、その姿だけでも私の胸にとどめて帰りたいと思っております。
館野セツ子 今日ここで八木さんの本を手にして感慨無量で、何から何を話せばよいかちっともまとまらないのですが、八木さんに初めておめにかかったのが『婦人戦線』の高群さんのお宅で、その後50年に『婦人公論』の高群逸枝を偲ぶ会で会うまでその間半世紀にもわたる長い間、何をどうされていたか何もわからないのです。
が、こうしてお元気で83歳でいまもなおかつ新しいことに、若い方達に目をむけていられるそうした八木さんを見るにつけ自分はこれでよいのかという気がするのですね。
今日八木さんのお話や本やまた「あるはなく」を読んでもまだまだ自分は老いてはだめだと思いますし、また私達の50年に何があったかなんていうものは吹き飛んでピタッとくっついてしまうような気がして、体は衰えても気持だけは若く、そして皆さんの若い方達のお話を耳にして余生を生きていきたいと思います。八木さんのようなお年でこういう方がいらっしゃるということも何だか若返った感じがむしろします。こういう会に今日参加した甲斐があったと喜んでおります。
橋本義春 相京さんから頼まれて新宿の方で「あるはなく」の印刷をやっているものです。私達の年代というのは1930年代ですから八木さんが活動されている頃に生まれたということで、どうも中間世代ということになると思います。
最初八木さんという方がいらっしゃるということを聞いたのは今日出席されている大島さんから6・7年前に「清瀬の方に八木秋子さんという立派な方がいますよ」ということだったのです。女の方というから若い方だと思い「そうですか」ということだったのですが(笑)、そのうち秋山清さんが「八木秋子さんは自分の足跡を消しながら生きている」というのでこれでは追いかけても間に合わないなと思ったのです(笑)。まあいらっしゃるということだけでもお聞きすればあとは農青の資料とかお書きになったものを読めば、と思っておりましたら今度は若い相京さんが聞き書きを作るといってきたわけです。
でどういう関係でどういうふうに作るのかということはわからなかったのですが、私どものような年輩のものから見ますとお婆さんとお孫さんとは仲良くなれるという感がないでもないのですが(笑)。文章を拝見させて頂きますと八木さんという方は文体を持っていらっしゃる方だなと思います、他の林芙美子とか吉屋信子らと活動された時から文章を発表し続けてきた、そしてそこから離れたのはおそらく主義者としての運動であったろうと思いますが、とにかくその文体を持っているために、ためにというと語弊がありますが、文体を持っておられたからこそ、今では林芙美子や吉屋信子らは遠い文学史の中に閉じこめられているわけですが、現在を通じて未来までも文章でもって発言する場を確保されていらっしゃる、その点ではいくらお年を重ねても変わらないだろうと思って遠くからみているわけです。
熱田優子 私は女人芸術の時代からの知り合いです。私が22・23歳の時からですが、何かご縁があるのですね、八木さんがどこへ行っても切れないんですね、戦後私のところにアルバイトに来て頂いたこともあるし、またどこへいらっしゃっても訪ねてこられる、何か縁というものを感じます。
女人芸術の方達とも特に親しい方も少ないのですがその中の一人です。今度こんな立派な本が出来て、ちょっと開いてみたら私の書いたカットなどがありましてなつかしく思いました(注=『留置場点描』のカット)。だいたい雑誌のカット・レイアウトなどほとんど私がやっていましたものですから。
あの頃八木さんはすごく感動家で、ハァーとね(笑)、今でも変わらないですがね。そういった表情がいまでも思い出します。いつも感動していてむしろ冷えた眼というよりその中に入り込んでいるといった感じがして私達の方がむしろ冷えているような感じがします。
この頃あの時代のことを若い方がほじくってますね(笑)。いい事だと思うんですね。なぜかというと、戦後育っている若い方は、何か一足飛びに、アメリカが占領したことで、民主化したのだという観念を持っていらっしゃる、或いはそこまで行かないかも知れませんね、生まれた時もうそうだったということで。ですからそれ以前に民衆の中に、あの時代で解放するためにあがいていたということが、そのために苦しみ積みあげてきたというようなことがわかっていないと思います。先日も女人芸術を書きたいという人がきて、あの女人芸術に書いてあったことは本当ですか、というのですね。あの投書欄や読者の声は本当なんですか、編集部なんかで書いたのではないですかというのですね(笑)、だから本当ですよ、文章かなにかで間違っているものは手を加えますが、そのままですよ、といったのです。それぐらい信じられないのですね。
当時工場やなんかで圧迫されましたし、特に女の人はそうでしたからね。だからそういわれた時こちらの方がびっくりしてしまいます。また何人ぐらい運動に参加していたのですか、といわれても困るのですね、日本中に支部があったし沢山いたわけですから。勿論弾圧されて獄から出た時転向した人もいますし、離れていった方もいますが、プロレタリア解放運動に参加した人達は沢山いるわけですから。そういうものを経てやっと戦後ああいう時代が来たのだと思いますからそこを踏まえてお勉強なさって頂きたいと思ってます。
よい時代に生まれてきたと思います、私達の時代を踏み越えて発展していってもらいたいと思います。勿論どういうふうにいけば発展になるのか、そこは問題ですが。いずれにしても若い人達に話したいと思ってます。
大道寺房 八木さんとの関わりは婦人戦線でした。私は肩揚げの、本当に取ったばかりのあどけない文学少女でした。アナキズムだとか何かちっともわかりません、小説、社会派ですね、それに憧がれて、また高群さんに可愛いがられてその中でやりました。
八木さんに関してちょっとお話しさせて頂ければ、一番印象に残っていますのは、「ボストン」の舞台ですね、あの時の八木さんの端麗な素晴らしいお姿だったのです、それから四谷のバーでちょっとお姿を見たことがございました(笑)。それを今でもはっきり覚えております。その頃の八木さんはもう恐れおおいといいますか大変な存在だったのですよ(笑)。
そのあと先年何十年ぶりかでお会いしてその変わりように驚きました。その間の長い年月に私もいろいろなことをやってまいりました、私も年でいえばゾロメですか(笑)、66歳になりました。そして到着するところは、なんにもない婆さまなのです、それで八木さんのようなしっかりしたいろいろなお仕事をされて、私達、後をついてきたのですが、ぜひ八木さんにこのお仕事を続けて頂きたい。八木さんの存在を自分の心に深く留めてゆきたいと、それが今の私の心の支えなのです。
今地域の婦人会をやってまして、原水爆(反対)運動をやっていますがこれをずっとやりたいのです。どうか八木さん頑張って続けて下さい、今日は本当にありがとうございました。
おめでとうございました。
永田真一郎 私はこの本の表紙を描かせて頂いたものです。何にも知らなかったのですが、こうしてデザインさせて頂きましてこういう会に出席させて頂き、本当によい巡り合わせになったのではないかと自分自身喜んでおります。
私自身大学を出て絵を志している訳ですが、全然食べられなくて労務者やっているわけです。いろんな場面でくやしさというか、コノヤローということにぶつかってきたと思っているのです、そういったことがあるからこそ食べられなくても絵か何かをやりたいという欲求が出てくるのではないかと思っているのです。本とか絵とかいうのが、食うことで精一杯の人達にどれだけの価値があるのかということが私自身ものすごく疑問ですが、やはりそこらへんを問題にしながらやってゆきたいと思っております。
保阪正康 昭和史に題材をとって一応ルポルタージュなどを書いております。6年ほど前にたまたま農村青年社を調べてみようと思いまして宮崎晃さんをとっかかりにして2年ほど調べてみました。宮崎さんの御紹介で八木さんをお訪ねいたしました。
あの昭和初めの時代に農青がどの部分で有効性を持ち、どの部分で持ちえなかったかをテーマにして書こうと思っておりました。ところが宮崎さんとの話し合いの中で、私は有効性を期待していたのですがそれに反するような形で宮崎さんは心情を吐露され、お互いに納得できないところでは書かないということでそのままになっておりました。
昨年あたりから逆に体制の側から見てみようということでまた始めております。この事件は功名心にはやる検事がでっちあげ、またそれが年譜の一頁を占めているといった皮肉な面もあるわけです。
また八木さんとその間お会いした時感じたことは、八木さんはあまり農村青年社事件を語りたくないということでした。それは私なりによくわかるわけで、他人に理解されないのではないかという恐れもあるわけで、そのあたりをこれからもお聞きしたいと思っておるわけです。あの事件を歴史の中に正しいポジションを決めたいと思います。
また八木さんをおたずねして感じたことはとにかく頭がいいというか、自分のおっしゃることを全て整然と整備されているということに驚いたわけですが、それを短時間の中でお聞きするのは無理だなということでした。
吉田貞子 今日は皆さんのお話しをおうかがいしたいと思いまして出席させて頂きました。
ただ八木さんとか大道寺さんとかふだん活字を通してしか存じあげない方達が目の前にいることによって、皆さんが歴史の中のどの部分にいるかということは自分の中でこうではないかと思うわけですが、だったら私達の世代の、今生きている、何とか、とか、何か、とかいつも混沌としている私達は一体どこの場所にいるのかというようなことが、こういう席で少しとっかかりができるのではないかと思っております。
相京邦彦 相京の弟です。今日は写真の係と、もう一つは個人的に歴史をかじっていまして興味を持っていますのでお話しをうかがえたらと思っております。
田谷満 相京君とは悪友といいますか昔からつきあっていまして、今本屋で修業しております。八木さんが施設から一度出た時、丁度相京君のところにいらっしゃってる時初めておめにかかったわけです。魅力のあるヒトだなあ、と、それは男だから女性に魅力を感ずるのは当然なことですが、単純に年齢というものを問題にしない、老化とか年齢とかを抜きにして非常に屹立しているという感じでした。
僕らよりずっと自分に対して厳しいしそれに若さを持っていますし、それに何よりもひかれるのは現在を生きているということです。過去のことも僕は深くおうかがいしたこともないのですが、今度の本もゲラの段階で読ませて頂いたのですが、いわゆる姿勢というのを全然崩さないで、肝の据わったヒトだなあという感じがします。
特別何々をやったからということではなく僕の場合は現在の八木さんに会ってひかれてお話しをおうかがいしたということです。もっともっと人間の出会い方というものはあってしかるべきだと思うのですが、それぞれ限定はありますが、若い者だけ同士が集って進めてゆくのではなく、なま身の人間が会っていいのじゃあないかと思っております。さきほどから会場にこられるみなさんの、年輪の、顔をチラチラ拝見させて頂いています。
寺木紹子 「あるはなく」を読ませて頂いて、過去の人でない八木さんというものを少しづつ知りまして、今初めて八木さんにお目にかかって、本当に若々しくて情熱家でいらっしゃるということを感じました。人と人との出会いは偶然なんでしょうけどもいつも不思議だな、と同時に大事にしたいなと考えているのです。また八木さんと相京さんとの出会ももう少し詳しく聞かせて頂けたらと思っております。素晴らしい著作集がまとめられましたけど、これからもさらに色々と書いていって頂きたいと思います。
南沢袈裟松 私は八木さんと同郷でして、八木さんは南の端の木曾で、私は浅間の麓の小諸というところです。今度は八木さんの過去に執筆されたものの一部がこのような立派な本にまとめられて出来たということは私共心から喜んでおります。
私共は八木さんとは既に半世紀にわたるおつきあいと申しますか、お世話になりました一人でございます。八木さんのことで一言申しあげますと、あの忙しい、農村での座談会やまた講演会などにいかれまして、よくこういうものをお書きになっておられたなあと、私はびっくりしているわけです。
もう八木さんの場合には情熱家でしたから、ゆっくりと著作などにふけっている気分になれないわけです。今の、現実ですね、その中で苦しんでいる人達のためにどうすればよいのだというふうなことを念頭にいつでもあるものですから、村々を回わって講演会をやり座談会をやったわけですが、ことに八木さんの場合は座談会が素晴しくうまいのですね、もう引きつけてしまうわけですよ。
私達の農村を廻わって座談会をやっておじいさんもおばあさんもそして若い人達も集まった中で、その当時八木さんのお年も女盛りの時分でして、素晴しく説得力のあったものでした。とにかく情熱を傾けて、今日おかれている農民や労働者の位置というものがどういうふうなものか、どうすれば私達は抜け出て自分達の生活を、本来の生活に取り戻すことができるか、権力者の手から自分達のものに、つまり自由自治の世の中を作るためにはどうしたらよいか、ということを村の若い人達と話し合って、その時も見張りなどをつけて座談会をよく開いたことがございました。
八木さんは一面詩人と申しあげたほうがなんとはなしにぴったりするようなお人柄でして、それこそ本当に理屈抜きにして私達の本来人間としての生き方について、どうあるべきかということを真剣に考え、また村の人達と話し合ったということを私もお伴して一緒に村々を廻わったことを想い出します。
ある時岩佐作太郎さんなどもご一緒に、これは岩佐さんですから話はベテランですからうまいわけです。村々の小さい畑に境をしているわけだが境などとってしまえ、そして馬で耕やせば能率があがるし、実際みなが一緒に生活することができないか、できるじゃあないか、只これを搾りとっている連中をなくせばいいのだから、問題じゃあない。と若い人達にハッパをかけまして、若い人達も”ウンそうか”というわけでした。まあ田中元総理が刎頸の友とかいたそうですが、私達の場合は農青社事件で反乱予備罪でひっかけようとしたわけでしたが、一応その運動はストップしたわけでしたので、幸い体刑何年という程度でよかったわけなんですが。
その約50年前のことを思い出しますと、八木さんの足跡というものは非常に大きいわけです。各県に渡って歩かれた。ただ文筆を業として生活することをお考えならば、林芙美子さんやその他の女流作家の方もいらっしゃるわけですが、そこをじょうずにいわゆる世渡りもできたでしょうが、そんなことは大嫌いな方でして、体を張ってゆこうという方だった、幸い80余歳でまだお元気ですから今後も頑張って頂きたいと。
ロシアにも有名な革命の情熱家はおりましたけれど、それにも負けないような八木さんにも過去があるわけでして、相京さん始めとして皆さんによって軌跡を、功績といったほうがよいかも知れませんが、一つそういうことを具体的にこういうふうにして頂ければ沢山の方に見て頂けると思います。
今回は〈負〉という言葉を題名に書かれたことは非常に私はよいことだと思います。なぜなら社会制度の中で婦人の地位というのは常にこの〈負〉の状態に今日まであったのではないか、昔女性は太陽の如き存在であったといった人もありましたけれど爾来<負>の状態におかれてきておりますから、これは近代の女性の一つの縮図だと思います、こういうよいテーマをつけられたことは私も大変ありがたく思っております。
山田彰 私は八木さんに40何年来の指導を受けてきました当時の農村青年社の運動の一人でございます。当時のことを振り返ってみますと、今生き残っているものは半数の者にしかおりません。八木さんが長野県にいらっしゃった当時は、農村が非常に貧しかったと同時に先ほどいわれた製糸工場もみじめな状態であったのでした。私は14歳の時にその製糸工場に入りまして20年近くそこで働いてきました。そこで私は農青の諏訪地区のメンバーとして加わったのでした。私の家内がやはり製糸工場の女工さんでした。私の家内が当時はクリスチャンだったので、私と毎日思想論争をくり返していましたが、八木さんがいらっしゃっていろいろ話し、とうとう起訴はされませんでしたが農青社の運動をやってくれるようになりました。
小野ふみ子 私も農青社にちょっと顔を出したのですが20歳前の未熟者で、うちの主人が運動に参加していた関係で八木さんとはお知り合いになり、途切れ途切れ、いまでもおつきあいさせていただいているものです。
星野準二 八木さんに関しては、私共、随分苦しい闘いといいますか、そういう中で過した時期がありまして、以後今日まで年に何回か顔を合わせています。
私の八木さんとの出合いというものは、昭和の初め『黒色戦線』を私共が出していた時に八木さんに書いて頂いて、それからおつき合いが深くなり、農村青年社の運動に入ったわけであります。その時から互いに生涯消すことの出きない軌跡があるわけです。
八木秋子という人は信州の典型的な女性であると考えておるわけです、情操豊かで、半面意志の強固なそういう二面をよく兼ね合わせた女性であるということで、私らの闘いの中ではよいお姉さんであったといえるでしょう。5年ぐらい前、農村青年社運動のことを本にまとめるということで発行したのですが、以後八木秋子なるものを取りあげ、何物であるかを引き出しておかなくてはならない、というように常々考えておりました。ところが、どういうことがあったか知りませんが、ここにおられる相京さんがそれを始められた、私は相京さんは白井新平さんのところで働いておられるということしか知っておりませんでした、がどういうことでか相京なる人物によってはからずも行なわれつつある、そして今日このような一つのものにまとめて頂いた。ということに私は真に感激に堪えないものがあります。今後も引き続いてやって頂きたいとお願いしたいと考えているわけです。
大島英三郎 ギロチン社事件の中には非常に退廃的、ニヒル的な部分があったと思います、その中に古田大次郎のような人物がいたから救われている面もありますが、農村青年社の皆さんこそまさに殉教者だと思います。一人といえども退廃的な人はいない、みな体を投げ打って活動されたと思います。
八木さんは女性の良寛だと思います。生きているホトケサマだと思います、こういう人の存在が私の絶望感を救って下さるのです。どうかずっとご丈夫でいて下さい。
阿部浪子 八木さんには平林たい子と女人芸術のことでお話をうかがいたくおめにかかったものです。八木さんという方は非常に記銘カのある方だと思います。
森田勲 相京君とは同郷でして、たまたま大逆事件のことについて調べていたところ、うちでもこういうものを出しているというので「あるはなく」をもらったのです。農青について思うことは、アナキズムの当時の運動というのはやはり人間的な魅力に引かれて入っていった人々が大部分ではないか、ということはずっと思っていたのですが、今日のお話しをうかがってもそれを余計強く感じたということがあります。
割田恒志 相京君の高校1年の時からの同級生なんですが、その縁で本日出席させて頂きました。八木さんのことでは通信を第1号から送って頂いておりましてその方で勉強させて頂いております。群馬県の吾妻郡で6年前から百姓をやっております。私自身はアナキズムについてはあまり知識はないのですが、具体的に毎日百姓をやったり、またそういうつきあいもありますので言葉の一言一言自分の身に引き合わせて聞かせて頂きました。それから相京君について一言いわせて頂きますと、苦節10年苦労してよい仕事を始められた、と思っております。
鈴木裕子 今日はそちらにいらっしゃっている加納さんから八木秋子さんの出版記念会があるということを聞きまして出席したのです。が今日初めておめにかかったのですが、活字のうえでは、私が5、6年前に高群逸枝にひかれまして「強権主義の否定」という文章を『婦人戦線』で読んだことがありましたところ、八木さんの文章をその中で読んだ時の印象と実際の八木さんと重ね合わせて印象を深めているわけです。
私自身は婦人運動の勉強をしているのですが、どちらかというとアナ系というよりもボル系のものを追っているのですが、この本の「資本主義経済と労働婦人」という項を読ませていだだいたのですが、非常に細かい分析をされている、どうも私、読み過してきたのだろうなあと不勉強を感じているわけです。アナキズム運動といいますと組織論がないのではないかと感じ、当時やり切れなさを感じましたが、もう一度八木さんを通してアナキズム運動が持っていたものを、この帯にもありますが、〈女〉としての解放と階級としての労働婦人の解放というものをアナキズムの婦人運動がどのように取りあげてきたのかという点をもう一度勉強しなければいけないなと、今日いろいろ皆さんのお話をおうかがいしていて感じました。
根来宏 この本を作る過程で、相京さんが最初自費出版しようということでしたが、たまたま私が仕事の関係で白井さんのところに顔を出していた時、そういう話を聞いて、「あるはなく」を読ませて頂き、それでは発売の方はうちでなんとかしよう、という形でこういう本が出来たわけです。
地味な仕事というのはどうしても世の中に出る機会が少ないわけですが、少しでも多くの人の目にあたる所においてゆこうというわけです。ゲラでこの本を読んでいたのですが、今読んでも僕らが何かの壁にあたり対応する仕方という時に、八木さんに書物の中を通して感じるのですが、誠実に対応して生きてこられたのだなあと感じるわけです。今回は初期評論集というわけですが、2巻、3巻と続けて欲しいと思います。
相京香代子 八木さんとは予備知識のないままに主人に連れられておつきあいをさせていただいております。とても自分に厳しい方だなあという印象と過去に活躍されたということは少し聞きかじったのですが、生きてこられた重みがずっしりと感じられたのです。とともに少しも年を感じさせないという所で気楽におつき合い出きました。丁度この子が生まれて3ヶ月ぐらいだった時だったので自分自身これからどうやって生きていったらいいのだろうと、とてもピリピリしていた時だったのでした。
間もなく養老院に越されてそのショックで八木さん御自身も大変だったようで、八木さんが今生きていること自身が大きな闘いなんだなあということがヒシヒシと感じられました。また家に度々来ていただく中で人と人との関係はこうあるべきなんだな、とか、生きるということはこういうことなのか、ということを実感として感じられることができ非常に嬉しく思っております。
例えば私達に御自身とても気を使っていながらも私達には気を使わせないようなおつきあいを堂々となさっているのですね、それはまさに生きてきた中で主体的という言葉以上の重みを私は感じて、私もこれからも堂々と生きてゆきたいと思っております。また若い私達に夜を徹っしていろいろなお話をし、また私達が何を考えているのかということを話しあうことができるということを非常に嬉しく思っております。これからもよろしく、また皆さんともどうかおつきあい頂きたいと思います。
八木 私、最後に奥さんという方を知ってその家庭に私もいって空気の中に入れていただいて今日まで来たということが本当に幸せだったと思います。相京さんが何事にも積極的で、これは!と思うことは、その決心は必ず実現しなければ止まない、その時には主体性は御自分で握って、考えの通りにそれを実行してゆくという恐しく純粋な方だなあと思って、私はこういう方があったかなと思いました。
清瀬の頃、ちょいちょいと見えられていろんな話をしましたが、その話がどういうことだったかということもあまり印象にはっきりしておりません。が、相京さんは私とお話ししたことを覚えていらして、何かにつけてさあっと切り込んでくるその鋭さその確かさが私の胸をひどく打ったのです。そして相京さんがどんなに自身の生活を愛し、どんなに家族の方を思っていらっしゃるか、そのことがよくよく私にはわかりました。
相京さんのアナキズムについての批判なんか私とよく似ていて相通ずる所がありました。それはやっぱり婦人というものを、婦人としてのアナキズムの運動はどうあるべきかということをよく話してくれました。そしてかつて私のやった荒削りの運動に婦人と家庭と子供、そういうものの配慮が、策があまりにもなさすぎた。もっとこの社会を動かすという、仮にもそういう運動ならば、女性の為の、いかに在るべきかということが先に来なければならない。生活というものから考えて女性の為のそういう配慮が思想的にも政策的にもなかったということは間違っている、ということがだんだんとわかってきました。
どんな方だろうなと奥さんを想像しておりましたら、ある日子供さんを抱っこして私の家にいらっしゃった時、初めてお会いしたわけです。ああ、そうだったかと、私にはよくわかりました。相京さんが仕事に熱中し、自分の思う、自分に密着したものをまず掘り返さなければならない、というその気迫やその熱意というものをそのまま家庭に注いでいらっしゃるということがよくわかりました。私は本当に嬉しかったのでした。
今回のこの出版に関してのことを考えまして、本当によくこそこれだけに、御自分のこととしてやって下さったことに、ただ感謝です。皆さんも本当に喜んで下さって、私なんてお礼の言葉を述べてよいかわかりません。だけど、私の結果ではなく、もっぱら相京さんと、相京さんの周囲の友人の方たちの熱意であるとその協力のたまものであるということを私はよくわかりまして、今日この席をお借りしてそのお礼を申しあげたいと思います。
ありふれた言葉になるかも知れませんけど、ありふれていないのです。本当に有難い、本当に嬉しい、と底から申しあげているのです。どうかこれからも、私を鞭撻して下さい。「あるはなく」を続けていきますけど私はどちらかといいますと、今までの女人芸術時代、婦人戦線時代などの書いたものの中で考えてみますと、やっぱり最近身を置いている養育院で書いたものの方に愛着があるのです。本当に馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいし、可哀いそうといえば可哀いそうだし、この人達がどうやったら少しでもしあわせになるかと、そういうことから考えますと、今の生活がとても意義あることだ、大事なことであると、そういうふうにだんだんと思想が変わってきました。
実は、私は昨年どうしてもあそこがいやで出たことがありますが、やっぱりこういう世の中のどういう組織の中に入らなければ生活ができないかということが歴然としている以上、やっぱり今の生活に腰を下して掘り下げてゆくより他ないと考えまして、中の人達とよい友達になり、そういう人達と共に複雑な大勢の人達の中でもまれていって、本当のよいものが見出されるのではないかと、どうしても愛想つかしてしまうのが一番悪い事だと、そうではなくて自分自身を学びつつ一緒に暮してゆくのだということがやっとわかってきたのです。これからも少しいくらかは、まだ本当の最後の終焉にはいくらかはあるかと思いまして、それを最大に生かしてゆきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
それから後から来ましたのは私のメイでございます。
丸山千恵子 こんなに沢山の方がおばさんを力づけていただいて……。これからもまた力づけていって下さい。
相京 どうもありがとうございました。それから、今日の記念会には出席されませんでしたが今日まで私達を見守って励まして下さった人達が沢山いらっしゃいます。これからそれを御報告したいと思います。
まず長野の松代の原四郎さん、この方は八木さんのお義兄さんですが、90を越えてまだお元気で先日もお電話を頂きました。その長女の方で岡山の豊福さん、僕が丁度関西へゆくことがありまして、八木さんと御一緒に岡山の豊福さんの所へ3月末いってまいりました。群馬の大野さん、北区の秋月さん、今日おいでの丸山さん、皆さん御姉妹でおられますが、本当に暖い励ましのお手紙やらお葉書を頂いております。それから京都の西川さん、この方は「あるはなく」発行以来ずっと何かにつけ協力して頂いている方で、先日も岡山からの帰り八木さんを東京まで送ってこられました。第3号にも書いて頂きましたが、ずっと八木さんに人間的魅力を感じられておられる方です。次いで長野の渡辺映子さん、この方は私が八木さんにお会いする以前ずっと交流されていた方で、「あるはなく」の題名に関する由来は第1号に八木さんが書かれておられますが、今出産間近かですので残念ながら出席できませんとのことです。また森長英三郎さん、「法学セミナー」に農村青年社に関してお書きになられた方ですが体の具合が悪いのでよろしく、ということです。また、しのだ・もりのさん、この方はこのようなガリ版刷りの「くさ」というパンフを自力で発行され、その中で八木さんのことに再三ふれて頂いておりますし、現在「反原発」に関して大きく紙面を割かれ、原発というものが私らの問題でいえば切り捨ててゆく近代化、現代化の最たるもの、将来にわたって大きい問題を残してゆくものだと思っておりますが、そのことやロシア革命の「クロンシュタット」のこと等、私達が八木さんに関わる時感じる共通のものを追っておられます。次に和佐田さん、農青の同志の方ですが今原水爆禁止の運動をされています。次いで白井さんから八木さんあての出版おめでとうというお手紙を頂いてます。このように今日参加されてない沢山の人達からも支えられてこの本ができ、「あるはなく」が出版されているということがおわかりになった、かと思います。
僕はこれに関して極めて独善的に作業を進めてきましたが、皆さんが今日八木さんに実際会われて感じられたと思うのですが、八木さんの人間的な魅力、言い古されていますが、その魅力ゆえ皆さんが八木さんに注目されている、そういう方に協力でき、手伝うことができたということは私自身にとっても非常にしあわせなことです。この本は、八木秋子さんが現在ある、その彼女の思想形成の秘密を探るための一つの資料であります、その意味では今回のものは照明にあたっていた時代が、大部分なわけです。まさに近代的女性になろうとして活躍された時代のことが大部分なわけです。その彼女が運動で逮捕され、満州に行き、引き揚げて母子寮の寮母をされる、例えば戦後の民主化だという時に旗を振ればある地位は約束されたであろうのにそうされなかった、その部分、その沈黙の部分に私は興味があるし、その所が僕と八木さんとの問題意識の接点ではないかと思うのです。単に生きた軌跡ではなく、批判する相手はわかっている、その流れには抵抗する、ということだと思います。それが僕達がこの10年間で感じたもので、それが八木さんによって形になりつつあるのではないか、と思っております。
それから、「あるはなく」を発行する契機になったこと、会ったことは単なる出会いであります、それを契機にしておつきあいさせていただいているわけですが、「あるはなく」発行の契機となったのは約1年前のことです。それは清瀬から消極的な意志で板橋に移られて1ヶ月ほどした、1月30日、日曜日の寒い日でした。突然八木さんからお電話があり、会いたいということで会ったら、実は今養育院を逃げ出してきたのですよ、今晩泊めて下さい、いいですよ、と言ってお泊まりになった。
その時のショック、逃げ出すことは当然といってはあれだけど、そうだろうなと思ったのですが、家に入ってから何を始められたかというと、すぐ本を読み始められるのですね、画集が丁度ゴッホと香月泰男のがありましたのでそれをずっと見始めるのですね。半徹夜みたいにです。すごいな、もうこうなると欲望だな、という気がしたのですね。
これほど見事に知的欲望を徹底し切る人は信じられなかったのですね、言葉としてわかっていてもその人というのが実際目の前にいる、その事実です。そして夜半に目が覚めても電気がまだついている、それが2日つづきましたけど、勿論昼は寝ていたようですが(笑)。で、そこまでやる人なら私がやれることは何だろう、と。書かれたものを活字にすることなら幸い友達がいる。じゃあやってみよう。というわけで始めたわけです。
けどね、八木さんは何十年間か活字に、関さんのお仕事は別にして、されていない、その恐さみたいなものがあるのだな、あるいはためらいがあるのではないか、とこれは最近わかったのですが、そこで、テープから起すことにしたのです。但し、誤解されやすいのは、その第1号だけがテープからの起しで、あとは全号八木さん御自身のものです。最初は書かれても途中で書けないとおっしゃって切ってしまわれるのですね、もうちょっと続けた方がいいんじゃあないですか、と最初の頃はその連続でした。
ですから普通の聞き書きというのではなくてそういう事情があって「あるはなく」は始ったのです。とにかく活字にして、発行すれば八木さんは信じてくれるのではないか、とにかく行動することが大事で、いろいろな誤解などは続けてゆく中で諒解してもらうしかない、そんなことを恐れてテラテラしていては何にもできない、という性質ですから。
とにかく形にすることが重要であって、そうすれば誰か後から言葉をつないでいくだろうし。また生きる姿勢のところを押えないと何をやろうとだめなのではないかと思っております長々と話しましたが、これからも「あるはなく」はずっと続きます、がそれも皆さんの御協力なくしては考えられません。ぜひともよろしくお願いいたします。
文責相京
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散会の直前、南沢さんが「ナロードニキ」の歌を歌われだ。八木さんもそれに唱和した。
私はそれを聞いて当時の長野の農村の雰囲気がわかったような気がした。
つまりアナキストの運動として東京から農村青年社が長野やその他の地方ヘパンフレットを送っていたが、それを受けとる側の問題意識としてはアナもボルもない混沌とした流動的な「運動」があるだけなのだ。それも未分化、未開の状態なのだという進歩史観ではなく、常に、運動があからさまに露出する時はその混沌さによって運動のダイナミズムの度合を語ることができるのではないかということだと思う。
後に残る問題としては、それをいかに主体の側に引き入れてゆくかという問題である。
また続いて山田さんが正調木曾節を歌われた。これも本来の民の謡なのだと思った。
ナロードニキの歌
イザベルシヤ/ニジナルク/フーフトマイハート/アイシヤラポーチ/ナロード/ジンナグロ/カージカ/ロードヌイ/アラージ/タイシヤクリフリンス/ナロード/ペリオドペリオド/ダブルシンペリオード
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星野さんより写真と中日新聞(5/2)『破調』の欄の切り抜きが送られてきた。
中日新聞(5/2)『破調』
(インターの日本語版を作った)佐々木孝丸が当時のエピソードを語った。
すると会場に集まったお年寄の中に、大正十年の第二回メーデーに参加したという婦人がいて、
インターの冒頭を若々しい声で披露する、という一幕もあった。
……単に昔を懐しむというよりも、動乱の時代を生き抜いてきた老人達の、たしかな足どりを感じた……』
→中日新聞「破調」1978/5/2.pdf
■後記
今号は転生記だけになった。それは彼女が感冒と疲労で倒れたからである。八木秋子の通信なのだから当然彼女のペースでゆく。それゆえ購読料は五号分の予約にして頂きたい。それ以上は賛助金として扱う。また彼女の周辺はあわだだしくなってゆくだろうが、面会の時間は長くて二時間ぐらいにして頂きたい。それは「あるはなく」を発行している責任においてお願いする。
この通信の発行に至る過程及び「著作集」の出版の過程はこの記念会でおわかり願えたかと思う。発行した反響は予想を上廻わる結果となって返ってきている。それも八木秋子の軌跡のどの部分をとっても金太郎飴の如く彼女の顔をみることができるからだと思う。
岡山でみた北斎の鵜図が彼女と重なり合う。
会計報告(78年3/1~5/31)
定期購読料(新規含む)二八五〇〇円
賛助金ニニニ五〇円
支出印刷費(第五号)一五二〇〇円
発送費一五四〇〇円
雑費(写真・交通費)一二四九四円