■第7号(1978年9月25日発行)
・転生記
・旧交回想 故郷の面影豊かな木曽
・著作集未収録評論 婦人公民権の本質に就いて
・書評 「叛く」(竹内てるよ著)
・著作集発行の経過と言うべきこと 相京
・後記
■転生記
■旧交回想 故郷の面影豊かな木曽
この一文は1973年(昭和48年)9月11日の『中日新聞』の「旧交回想」という欄に掲載されたもの。
旧友といっても、私たちのように八十に手の届くあたりまで来ると、長い長い歳月の過去があっての、気の遠くなるようなはるかな思い出である。
木曽福島小学校を明治四十二年に出た。鉄道などはまず夢でしかなかった。役場前に初めてアーク灯がついた時には木曽中のショックで、木曽街道を馬車に揺られたり峠を幾つも越えて泊まりがけで見に来た。
その峠を越えて見に来た旧友の一人を、つい最近訪ねた。開田高原の西野に「やまか旅館」を経営する家の千村はやさんである。この由緒ある旧家も、つい四年ほど前に火事で全焼した。
それが今度初めて見た「やまか旅館」は、新装成った宏壮な近代建築で、明るい玄関にその懐かしい人は立っていた。
「あんた、年寄ったわねえ」
「あんたも腰がずいぶん曲がってお互いにいいばあちゃんになったねえ」
これが七十年ぶりのあいさつであった。窓には御岳山が、その美しい姿をいっぱい広げていた。大きな家業をいまは娘夫婦に譲って、カナリアの世話をしたり、愛犬と散歩するのが楽しみだという。ゆったりと、おおらかなこの人の老後であった。
木曽福島町長福寺での”おせがき”をすませて年来の同級生として文通を絶やさなかった林藤太郎さんを、上の段のお宅に訪ねた。食料品のお店はりっぱに拡張され、これがあの林藤(りんとう)さんの店かと目を見張った。階段を上って通された二階にはまず応接間が、その奥には見事な日本間があって、明るい新築の光と色に満ちている。金婚式の記念に建てたという。
ここへ来る前に、林藤さんの案内で木曽鳥獣博物館と、民宿「くるみ家」を見せていただいた。くるみ家には古き良き木曽の面影が豊かに残っていて、箱階段があり二階の客間にはゆかしい書院窓、まことに繊細ならん間や、袋戸だなのしつらえなどに時を忘れて見ほれた。
長い歳月のさびに、木曽の古い歴史の移り変わりがここに”ふるさと木曽”の回想となって、息づいていた。
林藤さんのお座敷には、歌人の石橋桂さんも顔を見せた。頭がいまはきれいに光っている。
「あんたも太田水穂先生の”潮音”の会を覚えているでしょう。私は徴兵検査で合格になるとすぐ宮城のすみの近衛連隊に入りました。日曜になるのを待って、いつも太田先生のお宅へ伺うのがなによりの楽しみでね。奥さんの四賀光子さんのそばで校正を手伝ったり、よい思い出ですよ」。石橋さんは静かに誌してくれた。
座談会の形で準備されたであろうのに、私は一人でしゃべった。とめどもなしに-。小学校の卒業記念写真を見せてもらい、その一人一人への懐かしさの興奮かも知れないし、この日の喜びかもしれない。木曽へ帰ったというふるさとの実感が、私に長い人生行路を繰り広げて見せ、現在の孤独の心に火をともしたのかも知れない。
私は若さと情熱の赴くままに社会の動乱に飛び込んで闘い、幾度かざ折し、そして自らふるさとを離れた。
しかしふるさとは、私を捨てもしなかったようである。私はまた東京に戻り、いつまた木曽に帰れるであろう。この家の会合は忘られそうにない。
写真は大正十一年(1922)、文学少女だったころの私
■著作集未収録評論 婦人公民権の本質に就て
ブルジョア議会が私たち女性に婦人公民権をむりやり押しつけようとしている。これまでも婦選 運動で騒いできた婦人といっては、一部知識階級の野心家たちであったが、いま公民権がむりやりに、また棚からボタ餅式に落ちようとしている際、一般の女性 達はまるで無関心な、人ごとのように黙りこんでいる。これは社会批評家などにいわしむれば、婦人の社会的無自覚とでもいうところであろうが、実際は要求し ていないのだ。ブルジョア、インテリ婦人達はいざしらず、一般の無産婦人大衆は、公民権など与えられても今さら腹の足しになるわけではなし、生活が少しで も楽になるわけでもないことを知っているから、無関心なのである。
ところが、いつでも解放運動の誤った行きかたである無産党や、それに所属する 婦人たちが、婦人公民権を獲得して市町村会の議席を占めると、日常生活の利益が現実において獲得される、たとえば家賃値下だとか、減税だとか、ガス電燈料 の値下げなどが実行され多少の利益を得ることが出来るから、婦人公民権がほしいというのは、全く間違っている。
なるほど日常生活の片々たる二三 のことはたしかに現実的な利益を得ることは出来るかもしれない。しかし、そうした現実においていくぶんでも改良していこうという意識が、社会運動の上では 一ばん大きな間違いの原因である。生活が苦しくなると、はっきりした自覚のないものは、ともすれば現実的利益にごまかされて、物事を根本的にたたき直すと いう革命の本筋からそれていき易い、二三の事がらは改良されるといったけれども、それはもとより極めて小さな部分でしかない。現に山梨県下のある農村で は、無産党員が自治体を占領して村長や村会議員の多数を占めて、貧農の負担を軽くするために地主や富農に累進税をかけたところが、彼等は一計を案じて本籍 を他に移して不在地主となり、課税をまぬがれる方法に出たので、結異はかえって貧農の負担は倍加した。これに似た実例は全国の農村でしばしばあることだ。 村のことは俺達だけでやろうと無産党員が考えても、現在の社会組織ではどうにもならぬように出来ている。
無産党が婦人公民権をにぎって自治体に 進出せよというがこれはみすみすブルジョア政府の欺瞞に私たちを陥れるものでしかない。生活の困難がましてきて一般の婦人までが社会意識にめざめてくる と、ブルジョア政府は巧妙な手段を講じて、高まってくる婦人大衆の反抗を緩和し、ごまかそうとする。政府は政治を明るく正しくなどと宣伝して、いかにも政 治を正しく運用すれば民衆の生活が幸福になるようにいう。無産党も結局は政府と同じことを唱えているのだ。政治そのものを本質的に解剖して、それによって は私達は絶対に解放されないということを知らない。
婦人が公民権を得て市町村の政治に参加すれば社会的に目ざめてくることは、ある意味ではたし かである。だが、この社会的自覚は非常にせまい分野にしかすぎない。それは今の政治がブルジョアや地主の勝手気ままに運用されているということにめざめる ことだ。だが、こうした自覚は、では、どういう政治がいいかということに単純に結論づけられ易い。すなわちどんな政治か? 政治でなければぽ何事も考えられない、一切のことを政治を基礎にしなけれぽ考えられないという点に落ちついてくる。真の自覚はもっとよりひろいものだ。 「政治」という公理をうち破って、真理のように考えられている政治そのものを、本質的にいいか悪いかと考えてくる。それこそ本当の社会的自覚ではあるまい か。
大小無産党がこえを大きくして叫んでいる。「現在のブルジョア支配階級によってなされている政治はすべて悪だ。民衆はそのからくりを徹底的 に究明し、その勢力に反抗せよ」と、大衆をアジっているが、現在の政治がブル政治であるということを明かにするのは、さきにのべた狭い範囲の自覚にとどま る。彼等はこの自覚の上に次のように呼びかける。
「政治をわれわれの手に奪って、プロレタリアが政治権力を握ることになれば、生活は一変して幸 福になり、自由になる」と。だがこうした結論をつけるのはまだまだ早すぎる。ブルジョアの政治でなければプロの政治、どこまでもくっついてくる政治思想に ついては、全く考えが費されていない。
支配するものは元より悪いが、支配されるものも悪い。いつでも社会問題が論じられる時には、この支配するものが対象になって、支配されるものの奴隷根性について何もいわれない。自由といい幸福といい、それは与えられるものでなく自覚によって獲得するものである。
支配されるということに思いを致さない奴隷根性が人間に浸みこんでいる間はどんなことをしても解放されるものではない。ロシアの民衆は支配するものをたお したが、奴隷根性からぬけきれなかったために、今日共産党のもとに私たちがみるようなみじめな日を送らなければならない。アナキズムが一切の支配、強権、 法律、政治にたずさわらず、無産政党の撲滅を叫ぶのは、この奴隷根性を我れからすて、他人にすてしめんとする本質的な人類の大自覚運動である。
世の中にはこんな莫迦げた有識婦人たちがある。彼女たちはいう。「婦人に参政権、公民権を与えないのは、明かに婦人を一個の人間として認めないからだ。だ から私たちは人間として認められるために要求する」と。選挙権のあたえられる事によって彼女たちの活動の舞台は殖え、売名と支配の生活はひらかれるであろ う。だが、無産婦人ははじめから人間として認められていない。私たちは、政治的自由がなければ人間として認められないようなら、むしろ認めてもらわない方 がいい。政治の培かった人間の奴隷根性は、こういう思いもつかない政治病患者を生み出している。
婦人公民権は市町村の自治体に参加するのがたてまえであるから、かねて自治を提唱しているアナアキズムが、なぜそれに参加しないか?
例えば、橋をかけたり、道路のこと、小学校の問題など、町村の生活に直接関係あることは自治体が行うのであるが、それは一面的な方面で、地方自治体は国家 機関の一単位として上から下を貫く政治組織であるということを見落してはならぬ。現在の市町村というものは自治体という名前がつけられているが、その名前 が人を誤らせ、欺瞞に陥れる。それはあくまで中央政府の指導による強権的組織網の構成単位でしかない。故にたとえわずかながらも民衆生活に関係あるにせ よ、私たちは絶対に参加することは出来ない。
婦人公民権を排撃し、無産党を打ち、一切の政治思想を否定する私たちは、では何を目標とするか? それは自由コムミュンの建設である。全く自由なる個人の社会活[動、それ以外には何物も存在せざる絶対自由の社会が目標である。
それ故に今日私たちはアナキズムの思想を宣伝し、ブルジョアと戦い、支配階級の反動勢力に抗して全国津々浦々に黒旗をして朔風にたなびかしめんとするのである。
黒旗 第二巻第四号 昭和五年四月号
発行・黒色戦線社。
これは堀場清子氏の御厚意で知ることができた。
●書評 「叛く」(竹内てるよ著)
この詩集が世の中へ出た事にこころからの悦びを感ずる。詩人高村光太郎氏が「はじめて婦人の詩をみた。初めて女が詩を作れることを知った」と評したという、この小著。著者竹内てるよ氏は永い病臥と窮乏のどん底にあって、燃えあがる熱意と明日への希望に寸時もたゆまず前進をつづけている。氏の生活行路は徹頭徹尾悲惨そのものであった。魂をつきあげてくる不合理と悪への反逆。妥協なき闘いの苦悩の歴史であった。一切のものに叛き、一切のものを棄て、離れた氏は、それに変わる一切のものを得た。病床にある彼女の明るき希望と人を愛する天真の笑い、憎しみと愛とを身を以って行動した竹内氏よ、アナルシスの旗は黙々と進み行く悦びをよろこべ。誰かこの書に打たれないものがあろうか。
婦人戦線 昭和五年三月
■著作集発行の経過と言うべきこと
相京八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』の発行の事後報告を兼ねて若干思うところを書いてみたい。
著作集は、実際のところ出版記念会(4月29日)の前日にようやく出来あがった。計画を思いたったのは昨年の11月頃で、それまでに、八木秋子の著作の諸々は近代文学館等で集めはしていたもののその本の発行にはあまり積極的ではなかったかと思う。それは著作集の発行に費やす時間、費用はまず「あるはなく」に全面的に注ぎ込むべきだと考えていたからであった。私は、過去を過去として引ぎ摺る現在の彼女の生きる姿勢に深く共鳴したからである。つまり彼女は”私はこれでよいのか!”という問いを常に持っており、かつての彼女、また年を重ねる私達の将来の時間の中で語ることは許さないし”今”が重要であって、過去も未来もさほど重きをなさない。
発行を思い立ったのはたわいもないことだった。印刷屋は2月は暇になる、「タイプが空いたのでどうだいタイプでやらないか」という誘いに乗って植字を始めた。ところがしばらくして、私が勤めている会社に出入りしていたJCA出版の根来君と私の会社の社長が企画して一冊の上製本を作った。それで、ある時、この著作集の発行を彼に話したら、上製本にして自分の処で販売しないか、ということになった。私は費用の点で300部から400部程度の印刷を考えていたが、同時に八木さんが正月、家にみえたとき、不特定多数の人に読んでもらいたいと話していたので、それでは、と思い1000部発行で上製本に踏み切った。それにかかる費用は何とか工面しようとした。そして発行したが末尾につけた年譜も第2頁(注:「あるはなく」第7号)にあるように、訂正するような粗いものになった。
ところが、八木さんが蒔いておいた種は各所で芽が出て、またじっと八木に注目していた人達が著作集の発行を機に出現した。そして八木秋子の存在を私達の充分の思い入れでもって知らせる必要から各新聞社に送ったところ、皆さん御存知のような反響となって返ってきた。まず、6月10日の東京新聞読書欄ミニニュースで取りあげられ、続いて6月16日婦人民主新聞の「ごめんください」という欄で『燃焼し続ける女』として人物紹介をして下さった。彼女が60年安保闘争のとき、婦人民主グラブのデモの隊列に加わったことを当時の日記で知ることができるが、その新聞で紹介されるとは、運命的な出会い以上のものを感じる。
続いて、三大書評紙の一つの図書新聞に、江刺昭子氏が書評を書いて下さった。その中で彼女は八木秋子を近代日本における女性アナキストの五人のうちの一人にあげて「日本の女性アナキストの思想と活動は、今以って大方が闇に埋もれたまま、婦人解放運動史やアナキズム運動史から看過されている。このいささか片手落ちな現状に、今まで毀誉褒貶の外にいた八木秋子の著作集『近代の<負>を背負う女』の刊行は異議申し立てをしているかにみえる」と書かれている。
続いて6月末「共同通信」から各地方新聞に流された。それは現在判っている部分として、愛媛、徳島、中国、岐阜日々、信濃毎日、河北の各新聞である。それはたいがい「くらし」の欄で、老衰と退歩に抵抗する老女、としてとりあげられている。これをみても八木秋子の提起している問題が、現在を生き抜いているからこそ様々な形で扱われているのが判る。その中で筆者は『ひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には真の思想といえるものがある。知識の再構成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある』と書かれている。私も全く同感である。その原点というべきところを抜きにして何も語れない。ただ生活を露出すれば生活を語り、日常を語っていると思っている人達もいる。がそれはいくら積み重ねてもゼロはゼロである。ゼロはなければならないものだが、ただそれだけでは意味を成し得ない。
次に6月26日「朝日新聞」の書評欄で堀場清子氏が『アナキスト・八木秋子のこと』として八木の著作集Ⅰを評された。ただし、憶面もなく書かせて頂ければ、最後尾のところは若干の誤解がある。それは、題名の近代の<負>とは、フ、であって、カチ、マケではないということである。マケといえばマケているから現在の社会があるわけである。つまり、問題はマケ方にある。フとは権力との政治的力関係の結果を問題にしているのではなく、権力、反権力の両方を含めた総体としての近代、そのゴチャマゼになっている流れが切り捨ててきたものを<負>といっているのである。だから、単に反権力の軌跡を継承しただけではその意味する処とは異なると思う。八木の戦後の政治的活動に参加しないその沈黙の意味をどうとらえるか。それを無とみるならば、それはやはり近代の<正>に位置するのではないだろうか。
また、『思想の科学』8月号で加納実紀代氏が『屹立する精神ー八木秋子論ノート』を書かれた。著作集を丹念に評された中から自身の八木論を展開された。
さて、このように私は書評、評論に対して思う処を書いてきたわけだが、そのどれをとっても、八木に対する、或いは私に対する配慮がなされている。私に関しては、これを発行してきたという事実については別に何らいうことはない。が私への配慮によって、八木を過去においても現在においても、あたかも画面の向う側に葬り去ることになるのではないかと危倶する。私<達>が今行こうとしているのは、現在に生き、そして『出合い』を契機にして、世界を支配する政治状況を少なくとも私自身の処で切断してゆく作業であると同時に、一個の独立した人間として他者との関係を創ってゆきたいということである。彼女を評する時、評する者達がそれぞれの日常の中でとらえ返してゆかない限り、かつての知識人の犯した誤りを繰り返すことになると思うからである。それゆえ、この貴重な紙面を通じて、失礼かと思ったが紹介と共に若干の思うところを書いた次第である。もはや、言葉以上に沈黙が重きを成さねばならぬ時なのだと思う。
◆後記
5月以来4ヶ月になろうとして第七号が発行されたということ。八木秋子に或る事が生じたとは、おそらく敏感に感じられたかと思っている。 彼女は現在入院加療中である。5月に一度倒れその時は一週間ほどで床をあげることができた。そして、6、7月は静養に専念し、面会も原則的に断わってきた。そして7月末は傍目からみても健康が回復されてきたと思われた。が、この焦熱地獄のような1978年の夏は彼女に容赦のない試練を与えた。8月8日倒れ16日に入院した。しかも24日にはベッドから落ち左足を骨折という不慮の事故に会うという状態である。
この数ヶ月間、いや、通信の発行以来八木を巡る環境は私からみてもめまぐるしいほどの変りようである。と同時に彼女自身の肉体にもその時間は刻一刻ときざまれてきた。
この間、彼女がその周囲の状況を先取りし先行することが充分にできなかったのは残念なことであるが、少なくとも読むものに歩みをとめて思考する時間とショックを与えてくれたことは事実である。しかも、それは私達が時を重ね、多くを経験する時、累乗倍的な重みをもって接することができるという確信を予感として与えてくれた。私は彼女に表現する欲望がある限り紙の礫を送り届けることを読者の方に表明したいと思う。(相京)
会計報告(78年6/1~8/31)
収入
定期購読料 144000円
賛助金 31715円
支出
印刷費(第六号・増刷) 87225円
発送費 24350円
雑費 3840円