■第8号(1978年12月10日発行)目次
・転生記
・著作集未収録評論
朝と展望の配列
素裸の詩ー林芙美子氏の処女詩集「蒼馬を見たり」を評す
九州の旅行から帰って
・未発表作品 X先生への手紙
・著作集Ⅱ発行
・後記
■転生記
著作集未収録評論
●朝と展望の配列
プロパガンダは資本主義社会の哲学である。
この哲学が何ゆえに古来のどの哲学者の説もいち早く、万人の実践にうつされたかということは、いかにして美味しいものをらくに食わんかという人間の欲求と、もひとつは時代の流行をコンドビーフよりもありがたがる現代人の心理が説明する。
この哲学をまっさきに生活したのは政冶家、次に女性、次にマルキシスト。
この哲学のもつ特質は所有と、摸倣と、分裂。
この哲学の第一の功労者はジャーナリズム、映画、ラジオ、警官、理論闘争--しかし、この哲学の必要が決して資本主義社会にかぎられるものでないことは、ソヴィエートロシアが事実に於て証明するところである。
政治家がまっさきの実践者であったことに不思議はない。それは御国のためであるからだ。彼等はその足もとに地震にあっても崩れないビルディングや、超高射砲や、高等警察保安課のうづたかい書類を、民衆から献上させることに成功した。
女性は、愛人のために、コンドビーフをいかに料理すべきかという感覚よりも、もっと鋭敏な恋愛の感覚を以ってした。いつの時代でも、恋愛は哲学のパイロットであり、また忠実な証人でもある。で、この哲学が彼女等に与えた最大の功績は、世界の辞書の中から-恋愛のプロセス-という文字を完全に抹殺し得たことにある。
女は、そのスカートの短さを以て各大学の中に映画研究会を設けさせることに成功し、処女の血液検査の発明という学界の名誉をたすけ、また明治大正先覚婦人全集の刊行に貢献した。
マルキシストは、この哲学に「全無産大衆の要求」という赤い大きなマークをつけた。彼等は祖先崇拝の故をもって当局から表彰状をもらった。この表彰状は近く宗祖マルクスとレーニンの墓に奉納すべきことを、今度の準備協議会にて決議せんとしている。そのうえ彼等はソヴィエートロシアの政府からも、摸倣の創造という最高勲章を受ける二重の名誉をになった。
この哲学は彼等をして農民と労働者に「支配と権力」「排撃と分裂」とを教えた。彼等のひもとく翻訳書の高さは理論闘争での雄弁のバロメーターとなり、雄弁は理論の把握の実証論に役立ち、また「祖先崇拝的恋愛」をたたかいとることに成功した。彼等はたまたま海の外から聞えて来た革命政府治下にあがつた共産党の民主化宣言のこえは、これを黙殺することにしたのである。
だが、彼等の戦列かその行進の途上にあって、第一にぶつからなければならなかった難関は、彼等の文芸陣という陣宮そのものの整備にあった。彼等の行手には-文芸の本質-という摩天楼が雲をついて頑張っており、その周囲には--人間性の探求--愛欲の諸相--本能の凝視--主観の燃焼--表現技巧の練熱--取材の自由などという大小あまたの砲塁が楼をぐるりととりまいて、あたかもまもり顔に控えているばかりか、いかにも堅固な城壁か万里の長城のようにながながとうちつづいているではないか、そして壁には大きく「出版界」と彫られている。
ここにおいて、彼等はまづこの堅牢な城塞に向っていかなる方法をもって攻め入るべきかという方法論を決定すべき必要を生じ、第二には味方の陣営をいかに整え、また戦線におくるべき将卒をより多く獲得する手段と、そして軍隊の機能をより活発に、より効果的に展開して行くことについての対策を根本的に講じなければならなかった。で、つまり彼等が決定した実践の哲学というのは、現代の社会に最も効果的な資本主義の哲学…プロパガンダ…であったことに格別の不思議はない。
そこで、彼等はその外敵にむかう攻撃の方法として、一度に喚声をあげることにした。文芸至上主義…ブルジョア・イデオロギー…アナーキズム文芸…目的意識文学の確立…取材の限定…月刊雑誌の作家の地位を俺達にゆづれ、等、々、々、また大衆にむかってはこういって叫んだ…向うの陣営はまさに崩壊せんとしている…そして将卒は老衰した…勝利は我々のものだ…大衆は我々の陣宮へ…と。夜をこめて楽の音をひびかせ、大衆の前に人生を踊った。
彼等が用いる弾薬は用意された。それは工場の生活、ストライキ、淫売婦、監獄部屋、貧民窟、等、々、々、そして彼等は集会やストライキや、また或る時は私娼窟やカフエーの生活感情をたたかいとるために、あらゆる契機をとらえて人民の層へとはいって行かなければならなかった。曝露の快感を味わった。勿論…これはマルキシズムという彼等のミリタリズム精神の鼓吹のために…
ところで彼の陣営にあっての困難は、外敵に対するよりもむしろ内部の統制の困難にあった。で軍紀粛正のためには兵士達を組織と統一によって訓練しなければならなかったし、更にまた隊内の集会や、決議や、討論などによつて武器を磨くことをも教えなければならなかったのである。不幸なことに、この兵士達は心臓をもっていた。心臓をもつということはいつの場合にも不幸な事実である。そしてこの事実が文芸辞典のなかに「分裂」という頁を発見させることになった。
彼等は戦線の中にいくつも兵舎をつくり、塔をきづいて戦備を整えることに熱中した。それはおどろくべき勤勉さと辛抱づよさをもってしたにもかかわらず城の内外からはいろいろな矢が飛んて来る。矢はますます多くなった、兵士達はその原因をさぐってまた新な戦術を講ずる必要を生じた。第一に隊内の軍紀粛正の薬品か適量を超えて兵士達の心臓の機能がにぶりかけている傾きがありはしないかという事だ。つまり缶詰の肉はとり出して太陽にあてる必要があるという論理を得る。武器製造法もこれまでのようにストライキの応援やポスター張りや、検束などの方法だけてなく、大衆の生活感情-を把握する事をもってせよ、という。彼等は文芸の陣営の中に、心臓の価値を認識したのだ。
プロレタリア作家の陣営はかくして次第に戦列をととのえて行くであろう、何故に他の陣営内の兵士達が自分の陣営をすてて此処をめざして来るようになったかということは、人間の労働量と賃金の高と、活字の名前の相互関係がこれを説明する。まことに彼等の戦列はととのいつつある。しかるに或る将軍は、人間の年令及び頭の5あたらしさと古さの差を測定するに、唯物論的経済学者の功績と不朽の作品を遺した文豪の偉業との対比をもってして、小手をかざして敵の陣営を見ながら感慨深く、敵の将軍達にして自分と年令を同じうしながら、尚お且つその陣営にとどまる者の頭のふるさを、憮然として嘆いた。いうまでもなく新らしい時代の感覚というべきである。敵陣の士気にも次第に高まる城外の喚起につれ動揺の気運が見え、城壁をくぐって彼等の陣営に弛せ参ずるものが生ずる事になっても、敢てひきとどめる気力もないかに見える、
賑かな戦いではある-七月の太陽が朝のまどにカーテンを笑いゆるがせている。哲学のコンドビーフがハムにかわる日があろうと、微風は頬をすべってふりかえらずにゆく。野に出よう、露にぬれた青草の上で、桃の実の赤んぼにやわらかな接吻をおくろうよ、風、風と薔薇の感覚がはろばろと踊っている朝だ。(七、八)
●林芙美子氏の処女詩集 素裸の詩 「蒼馬を見たり」を評す
時事新報 昭和四年七月十日号
林芙美子氏の処女詩集「蒼馬を見たり」が世の中へ出た。この詩集が七月の深緑の時をえらんで生まれ出たことは、まことにふさわしい感がある。
これまで何千の詩集が世に送り出されたことだろう。とてもその数はたくさんで挙げきれるものではあるまい。それは美しく透明な硝子のように磨きあげられた 言葉の配列、洗練され、高く白百合のように匂いやかな詩人の情緒をうたったものもあったろう。またプロレタリアの炸裂する火のような詩もあったことではある。
だが私達はいま「蒼馬を見たり」から初めて女の赤裸々な、真実な裸の心臓を見た。迸り出る自由な魂の叫びと、高い霊性を胸に受けとめることができたのだ。林さんは永い間の処女時代から人妻時代を、貧乏と放浪との谷間で小川のように生きてきた。岩が、樹木が、いくたびか流れをせきとめようとし て立ちふさがった。しかも林さんは悠々として、こうぜんとして、時に月を浮べ哀しい歌をうたいながら小魚を背中にのせて険しい渓谷を流れてきた。むしろ放浪の旅だった。海はもう近くに見える。
彼女はいくたびかカフエーの女給に住み込んだこともある。男を恋い、男に捨てられた。そして貧乏とはつねに一緒の旅であった。しかし、決っして彼女は人生へのあこがれ、情熱を失うことなく、躓きながらも、転び傷つきながらも珠玉のような真実を求めてきた。
「蒼馬を見たり」は、いずれもその血塗な生活時代の赤子である。それにしても何という明かるさと自由さ、酒脱な愛らしさ!林さんは詩によって救われた。そして稀にみる自然の才人であることを知るのである。
彼女の詩は反抗と、白い飯と恋愛を求めて貫かれている。蒼白いペーソスは巧みにかるいユーモアによって明かるく塗りかえられた。プロレタリア詩人はこの詩をもって、或はプロレタリアの詩ではないというかも知れぬ。だがー言葉のみの暴発する反抗、生硬な感情の噴怒と陶酔!それがプロレタリアの詩だというならば何も言葉はない。
林さんの詩はそれ等の一切をふみ超えた無産者の、若しくは人間の詩である。ここではブルジョアだのプロレタリアだのという、概念の言葉を恥じなければならない。
石川三四郎氏、辻潤氏のふたりが序文を書いておられる。林さんの詩には最もふさわしい人だ。
芙美子さんは「私はひとりのニヒリストよ」といっている、今後彼女がどう動いてゆくであろうか? 私達は興味をもって未来を期待する。しかし、私はあまりに多くの讃辞を呈したかもしれない。だが-
林さんよ、あなたはその豊冨な才に負けないように、力をぐっと制御して蓄えて下さい。そして往く往くはあなたの哲学が一つの世界観に方向づけられるようになったら!と私は期待します。
*これを載せるにあたり阿部浪子氏にお世話になった。
また著作集の書詳を週刊ポスト10/10に北沢洋子氏が、「ロマン・ロラン研究」131号に蜷川譲氏がされた。(相)
■九州の旅行から帰って
女人芸術昭和四年九月号北九州の講演旅行をすませて七月二十九日暑熟の東京へ帰りました。鹿児島から別府の方面まで行くはずでしたが途中いろいろな都合で長崎県早岐町を終点としてきり上げ、佐世保、長崎、熊本から先きを中止して帰る事になったので後で佐賀県有田の有志と、関門の早大校友会及び大阪朝日新聞九州支局の主催て俄に有田と門司で講演会を開く事になり、その間には大阪朝日新聞主催の海上見学団に加わったり、門司の近傍を見て廻ったりする事の出来たのも望外の幸せてありまし た。
九州の地は一歩門司へ上るともうはっきりした色彩で現われました。沿線につづく大工場の煙突、ことに八幡製鉄所の一大偉観は殆ど想像以上で堂々たる近代機械工業の姿とそこに働く労働者の集団とは私達に多くのものを教えてくれましたが、一方には福岡市のあの上品な智的な市街や、おっとりと大柄なしかも明るい線の人と、それから佐賀県武雄温泉の静かな優雅な情調、早岐の海の面白さ-
九州は近代資本主義の代表的地方であると共にまた詩の国でもあります。この間に、私共は毎日あちこちと汽車にゆられて飛びまわりながら、殆ど言葉にもつくせない人々の温かい心に浸る事が出来ました。手足を思うさまのばして子供のように喜び、いい度い気持を憚らず朗かに語った、ほんとうに我まま一パイの旅でしたが、九州の自然よりも何よりも私達が受けた印象の探さは、その地の皆様の心からの声援でした。
最初に、まづ林芙美子さんのお父さんを挙げなければなりません。八幡市中本町に商売を営んでおられますが、芙美子さんとは十六・十七年振りの再会で、私達のために尽力して下さったことは、単に父娘という感情以上に、私はお父さん宮田麻次郎氏の人間そのものに負うところが多いであろう事を信じて憚りません。
それから福岡市の辻山春子さんです、最初の聯盟支部を設立して下さった方で、お二人のお子持であるのに、ご一緒に講演をして下さったり、十七日の聯盟支部座談会のあの盛会は、みな辻山さんの献身的な御骨折によるものでした。御良人の辻山氏も私達のために九大医学部のお仕事にも差支えはしないであろうかと気づかわれる程多くの時間を割いて御案内下さいました。私達はお二人のご好意に甘えてゆっくり旅装をといて泊めて頂いたりして-
佐賀県武雄温泉の田中醇吾氏-林さんは有田でやった楽焼のお茶碗に「偉大な人格者」と書いて贈りましたが、田中氏はむしろ至誠の人とても申すべきでしょう。私達は氏の家を「避難所」と名づけて自家へ帰るんだと喜び合いながらどこの講演にも夜おそい汽車で帰っては温泉で汗を流し、のびのびと安心の手足をのばしました。一家三十二人、親戚何百人という大家族で一門を挙げてあらゆる尽力を惜しまず援けて下さったことは感謝の言葉もありません、殊に、氏の長女治子さんが私達に与えたあらゆる意味での美しい印象は、長く忘れないものである事を申し上げたい思います。
有田の自治研究会の有志、並に深川隆氏の御親切-自治研究会の方々は陶器の職工あり釜焚きあり、神主さんあり、青年会長ありその人とが陶器で有名な香蘭社の社長探川氏と協力して私共を応援して下さいまレた。私達一行は深川氏の別荘でかつて見た事もない凋度や御馳走に戸惑いし、そして楽焼の寄せ書きに興じました。深川氏はリベラリストで高雅な風采研究会の人々は素朴なしかし溌剌とした野人だった、そのコントラストは私達が講演会のあとで招かれた川の河鹿をきく小亭で催された宴会に、遺憾なく表われたそれは愉快な一夜でした。
最後に、関門の早大校友会の諸氏、大阪朝日新聞九州支局長鎌田氏などに、深く感謝いたします。あの大朝支局の講堂に溢れた熱心な聴衆-それには校友諸氏と大朝支局のお骨折がどれほどだったでしょう。去りゆく船の上から門司の街上にまたたく灯火を眺めて、最後の大成功を祝し合った。
九州よさようなら。九州のよき人々よ、健在なれ-
未発表作品
●X先生への手紙
x先生
とつぜん、このような非礼でお伺いいたしますことを、どうぞ、いくえにもおゆるし下さいますようおねがいいたします。
私は文学をほとんど知らず、先生の御著書をもいくらも拝見していません。私には先生のお書きになるものはとてもむつかしいのです。
ただ過去、先生によそながら接する機会を二回持っていました。最初は、戦時中先生が林房雄氏と満洲へおいでになりましたとき、新京で「歴史について」という御講演をなさった時でございます。その御講演か私にどのような感動を与えて下さいましたことか。
先生は思ったより小柄な方で、静かな表情のお顔、そしてお声でしたが、お言葉の一語一語が胸に落ち、それから私はひどい衝撃をうけました。それに耐えなが ら、一語々々をじぶんの内面にあて、じぶんの生活の経験に結びつけて考えていましたうちに、ある何か啓示のようなものが私の経験に、私の歴史に、解明を与えて下さったのです。それによって私はじぶんの過去の歴史に新らしい解釈を得、鼓舞されました。過去の彷浪も、蹉鉄も、失敗というべき性質のものではない、わたしよ、決して失望してはならない、絶望してはならない、わたしとしての生き方でこれからも生きつずけて行くのだ-。と。
その夜、あの大同大街のくらい街路樹の下をひとり帰ってきましたときの、あの感動はいまもって私の記憶に鮮やかなのです。満鉄時代のことでしたが。
そのつぎは、二、三年まえのお正月「新春清談」? の番組で、先生が吉田さんと対談なさいましたね、ラジオの放送で。吉田さんが演技を意識してのお言葉であるのに対し、先生のそれは、これはもう、なんともいいようのないもので、わたしは思わず、ああまあ、なんといういい方なのだろう、と嘆じました。それはもう、理屈でも言集でもありませんでした。それ以来、私は何となく先生にいちどお目にかかりたい、お会いして、お話をして、先生の人間にじかにふれることかできたら、と思うようになりました、でも考えてみれば、これはもう愚かな空想みたいなものです。何からなにまて、わたしにはそんな資格はないのだから。そう思って長いあいだこらえてきました。
名もなく貧しく、-すでに青春は遠く去って孤独なこのわたしが。
先生は、あるいは御記憶でしょうか、そのむかし『女人芸術』という雑誌のありましたことを。私は長谷川時雨女史にたいへんお世話になりました、創刊の時から編集同人として働いたのてすが、あの当時、女人芸術は文芸春秋の皆様と親しく、菊池先生はじめ社の皆様とよくボントンだのレインボーグリルなとで御一緒になり、また市ヶ谷左門坂の社へもおいでいただいてそれはもう、この上もない時を送ったのですが、あの当時先生もいらしゃったのではございませんでしたかしら。私の記憶では菊池先生、佐々木さん、横光、直木、池谷さんなどそれから永井さんなどとも御一緒だったような気がします。大草さんなども。
その当時、私はもうアナーキズムのグループにはいっていまして、それでいながら、マルクス主義の陣営に急速に傾いて行きました女人芸術にあって共に働くことの出来ましたのは、ひたすら長谷川さんの寛容と、私にたいするふかい愛情のたまものではなかったかと、今でも胸のあつくなるものがございます。
それからの私はアナキズムの婦人たちと雑誌を出し、演劇運動にも参加しましたが、そうした文化運動にあきたらなくなりまして、昭和5年の秋ごろから農村運動に専念しました。マルクス主義の旋風が日本のほとんど全部を席捲していましたあの社会情勢のなかで、ひと握りの同志たちとアナキズムの啓蒙運動を、農村の青年たちに根を下そうという、まったく天に唾するようなはなしです。私はじぶんの出身地である長野県を担当し、そこであちこちとびまわりました。当時の長野県の農民はアメリカの●価の惨落とあいつぐ銀行の取付さわぎで、製糸工場の閉鎖繭価の暴落などでほんとうに惨憺たるものでした。
どうして私がアナキズムを信ずるようになったか、には、ひとりのアナキストを知ったのが動機と申せましょう、あまりにマルクス主義と違いすぎる発想、唯物史観にたいする自由、自由に基づく自己の発見、そこに目ざめる人間性の尊厳など。私は必然を信ずる気になれず、偶然をも信じたかったのです。図式による必然でなく人間の意志の自由と情熱、綜合されたエネルギーによって進展してゆく歴史の途上で、ときに否定と破壊が、肯定と建設がくり返される、この破壊と創造こそ芸術の素地ではないか、と考えました。でも、私は5年近く傍観者でした。アナキズムのそれまでの、なんの建設的プランもない感情的なテロリズムがいやだったのです。それが、少数の人たちによって農村を主体とする経済革命への展開が提唱され、初めて実践に参加する決心をしたのですが、お定まりの一斉検挙にあって活動は一年と少しの短さで潰滅したのです。そのときの私たらの革命のプランと申しますのが、その後中国の人民公社の発表で、ほとんど同じ形のものであったこと知り、妙な感慨に打たれたものでした。勿論イデオロキーも組織もまるで違ったものです。
そういうわけで、運動の再建も市ヶ谷を出てみますと全く望みのないことを知り、ひどい貧乏、彷浪、通信社の仕事でわずかにいのちをつなぎながら、なんと愚行ばかり重ねていましたうちに、昭和10年の秋、 二度目の検挙で長野の未決に、控訴して東京の巣鴨に、と、農村運動時代の蒸し返しで囚れの日を送り、13年の3月やっと世間へ出られました。日華事変の翌年のことで、職も何もあるはずはありません。そこで満洲にいる姉のすすめで渡満、満鉄新京支社長にお会いする機会を得まして、転向者なることを表明し、最初の面接で満鉄に入社させていただくことか出来ました。偶然の奇蹟ともいうべきものでしょう。それから終戦まで、新京支社でもっぱら社員の家族のために、母子保護の仕事にうちこんできました。あの大陸という風土と、おそろしくスケールの大きな自由の空気に満たされた満鉄の生活は、私にはたのしいものでし た。支社長のかげながらのあつい庇護と、当時の新京には転向者の吹きだまりの観がありまして、政府はじめ国策会社の主なポストに情鋭が中堅として働いていて、お互につきあっていましたが、私はなんとなく孤独でした。ただ、女人芸術時代の女の友達との友情が私の渇きをいやしてくれ、またその友もただそこに安らぎを得ているようでした。それが、あの8月9日朝の、ソ連の対日宣戦布告で、状態は一変したのです。
8年間の満洲生活のうちに、ふいに先生によそながらでもお会い出来ましたことは、私の生涯にとって記念すべきことでした。なんという幸福でしょう。
さて、その歳の暮に朝鮮を経て引きあげて来ましたものの、廃墟にひとしい東京は目もあてられない状態でした。私はそのよき友といつも語りあって、何ごとか勃発したときは満洲にのころう。どこまでも二人は行動を共にしようと誓いあっていましたのに、運命は二人をひき裂き、友は出張で奉天から帰れず、私は満鉄の応召者の家族を守って朝鮮の疎開先に送り届けて、引き返すことで出発したのが、永遠の別れになりました。友は翌年の一月、新京で自殺したのです。友は絶望したのです。私は列車とともにずるずると南鮮に下り、引き返して満州に一人立とうとしましたときは、38度線がピシャリと遮断されてしまったのでした。
東京で、引揚者の援護団体に役員としてはいり、私はそこで何を見、何を感じたのでしょう。その団体は政府が外務省の失業救済のために作ったもので、役員は殺到する引揚者の身に迫る訴えを軽くいなして相手にせず、つめたく追っぱらいました。争って、引揚者のための救援物資を闇に流して儲けることに狂奔していました。哀れな人達の切実な言葉に耳を傾けるのは軽蔑され好意は抹殺されました。同じ室内に事務所をもつ大学生の援護団体の青年たちが欲くもなく、無私の美しい情熱と愛でほんとうに寝食を忘れて引揚者のために働いている姿を見て、私は涙を流しました。ほんとうに泣きました。
まもなくそこをやめて長野の近くに製糸工場か再建されることになり、舎監と女工達の世話、監督ということで就職。三年ほどで上京しました。満州ではあれこれ文筆の仕事もしていましたが、日本へ帰る気の全くなかった私は全然日本を離れ、断層は埋めるべくもない今はひとりのエトランジェでした。そうして、私にあるものは祖国喪失というような虚無感だったのです。共産党はたいへんな勢いで活気づいていましたが、近づこうとも思わず、ふるい同志も探す気にもなれません。就職が切実な問題だったのですが、女人芸術時代の先輩や友人を訪ねて今更ら何を語ろう、私の年令はすでに就職を人に依頼すべくもない、ただ迷惑をかけ、自卑の淋しさに陥るぐらいが落ちです。戦後世に華々しく政界や文壇に活躍を見せている昔の友人に、ただ生きている、というだけの出合に何の意味があろう、私はそこで労働者になりました。そして浮浪者収容所ともいうべき施設にはいりましたが、その人生の複雑さ、そのおもしろさは汲めどもつきぬものがありました。焼けだされ、 生きのこり、引揚者から復員軍人と生きる方向も、手段も失くした人間が全国からふらりと集まってきた、ここは大きな「どん底」の舞台でした。
今日一日をどうして食おうか、女はいないか、男が恋しい-。むきだしの、裸の欲求です。そこに私は女子班長として女の人たちのめんどうを見ながら、働きながら、ともに笑い、おどろき、何もかも分けあって、そうして心のなかでは静かに観察の眼をあてながら暮しました。そのとき思いがけなく園長に見出され、新しく赤羽に母子寮が開設されるについて、職員に推薦されましたので、8ヶ月の夜の宿に別れを告け、母子寮に就職したのでございます。
以来十年余、 どん底に生きる母と子供とともに生き、ともに生活して現在に至っています。現在母子寮は大きくなりまして900人に近くふくれ上りましたが、社会と隔絶された母子寮という女と子どもばかりの世界は、殆ど誰にも知られていません。はじめ5年間くらいは住みこみで働いていましたが、過労で病気になりましたの で、自分の生活を持ちたいという希求もあり、一戸小さな家をスラム街に借りて出ました、過労といいましてもそれは肉体的なものよりもむしろ心の痛切ないたみではなかったかと思いいます。
上から下までを貫く日本の徹底的な、形式と規則の官僚主義、人間性をまったく喪失した職負、母たちの無知とみじめな卑屈、裏ぎり-。ああ、これが日本の社会福祉事業の真の姿です。十年のあいだ、碌々として私は何一つ気の利いたこともせず、ただ母たちと、子どもたちとともに生きてきました。それはもう、この母たちと、子どもたちとの、裸かの生活が居ごこちがよくて、何もかもまっ直に通じあう(私の主観でありましても)涙をこえた魂の照応にあるのでしょうか。私は不幸な彼女たちを救う力もなければ、また救おうという大それた気もありません。ただ私がこの母子寮にいる、母たちも子どもたちも信頼してくれている限りここにいるという、ただ私の存在だけでいいのだ、というところに落ちつきを見出しています。
ただねがうところは、出来るだけ早く、こんなみじめったらしい施設の失くなること、施設を必要としない社会の来ることです。国家の保護をうけているという母たちの劣等感から彼女等を解放して、せめて西欧なみの、共産圏なみの、社会人の溶けあった生活にまで引きあげてあげることてしょう、そうでないかぎり彼女らの生活苦と、そしてもっと、彼女らの性の解放は望めません。土を噛むような欲求不満が、母をも子供をも歪めているのてす。
いま私は午後から家を出、往復四時間を電車にゆられて通勤しています。嘱託として、わりと自由な立場ですが、帰りは夜の十時です。
ずいぶんとながい自己告白になりました。
先生はいいかげんうんざりなさったでしょう、いつも感傷を自分に厳しく禁じていますのに、つい-。
どうぞおゆるし下さい。ごめんなさい。
でも、こんな自己告白が、本当に何になるのでしょう、むなしいことかも存じません。
■八木秋子著作集Ⅱ 『夢の落葉を』
1800円(送料込み) 12月16日発行
念願の八木秋子著作集Ⅱが、暮も押し迫った12月末に発行できそうだ。念願のというのは、次の事情が含まれている。以前から八木さんとの対話の中で「木曽もの」といわれる書き物があることを聞いていた。その言葉の端から、彼女のその原稿が活字になれば嬉しいだろうな、と思っていた。そして「あるはなく」を始める時も、もしこの個人通信か多少なりとも反響をよんで、どんな形であってもそれを一冊の本にすることができるような展開になればいうことないね、と話した覚えもある。だから一冊の本にする意志という点からすれば彼女はこの原稿に一番心を留めているに違いない、と思うからである。
最初の計画では(といっても今年の夏)この作品は著作集Ⅲとして予定していた。がそれをⅡとした理由は、彼女の入院という事態が招いた結果だということは申すまでもない。この作品は、彼女が4年余の歳月をかけて娘のように育んだものであり、ふるさと=木曽に対する彼女目身の様々な想念が出ているといえると思う。
私の預った段ボール箱の一つに「木曽もの」と書かれたビニール風呂敷に包まれたものがあり、その紐をほどいた中から出てきた原稿用紙はざっと数えて1500枚。そしてそれは三種類に分かれており、『ラジオドラマ、今はむかしの木曽』『ふるさと』『夜明けの山』とそれぞれ活糸でとじられていた。読み比べることによって、それはほとんど同じものを書き換えたものだということ、書かれた時期は1958年~1962年であることがわかった。ラジオドラマは母子寮の職員を辞め再度嘱託として勤める間ラジオのモニターを職業としてやっていた頃(1958年)に書かれたものと思われる。次にそれを小説に書き換え、また自伝風な部分を加えて「ふるさと」を完成させたのが1960年12月16日。その年は、8月に北区神谷町から勤務先まで往復4時間の江戸川台に引っ越し、「毎晩毎日少しづつ、非常に少しづつ木曽ものを書いた」(同年8月25日)と日記に書かれている。また脱稿した翌日の12月17日の日記は次のように書かれている。
時はすぎゆく。わが怠慢のうちに。
きのう、16日(ふるさと)412枚脱稿。電通のT氏のもとに持参した。不在。置いてきたが、どうなることか。
私自身は、大した自惚れもないが、決っして悪いものとは思わない。この作品には、わたし、が出ている。プリミティーヴなものがある。子供の要素と詩人と低俗とユーモア、みんな一緒だ。しかしなんと愛すべきわたしの子供よ。風呂敷に包みなから、いとおしくて手放しにくい気がして、女も娘を嫁にやるときこんな気がするのかなと感じたわけだ。
しかしその原稿は返却されどこにも掲載されなかった。その理由の一つに枚数の量があげられたのかも知れない。その後三たび彼女は手を加える。が目的は減ページにあるかのように短篇の五つほどがバッサリ削られてしまう。そして「夜明けの山」として脱稿したのが1962年1月、住所は千葉県東葛飾郡流山町江戸川台と原禍の最終ページに書かれてある。当時年齢は六七歳であった。作品の書かれた当時の生活は母子寮に勤務していたわけだが、その生活・心情等はここで多くを語れない。それは「X先生への手紙」や日記・小説・記録そして「土曜会会報」への投稿等、著作集Ⅲに予定している作品を見て頂くほうがもっと正確だと思われる。
この八木秋子著作集Ⅱ『夢と落葉を』は、最終原稿の「夜明けの山」を基とし「ふるさと」から「夜明けの山」に書き換えた過程で削られた短篇を加えたもので、一応便宜的にⅠとⅡを分けた。Ⅰにおいては「馬市」「福島の氏神まつり」「お六ぐしの家」等にみられるように木曽の風物の短篇てあり、Ⅱにおいては、彼女の幼年期のことを自伝風に木曽の風土とからみあわせなが展開している。しかし、ⅠとⅡは別々に別れていたものではなくその作業は彼女の承認を得て私がやったことを読まれる方は心に留めて頂きたい。
ページが 336ページと前回に比べて130ページ近く増えたことも価格が1800円となった理由である。と同時に、今回の場合は郵送料が含まれている。そして、活字は一ポイント大きくして十ポイントにした。それが増ページの原因であるが、それは眼の疲れ易い方、特に彼女を今日まで本当に支えてきて下さり、暖く励ましてこられた御友人の方々に少しでも読む点において負担にならぬようにできたらという思いで彼女と一致したからである。
改めて読者の皆さんにお願いしたいことは『夢の落集を』を御購読して頂きたいということであり、またお知り合いの方にこの「あるはなく」と共にご推薦願いたいということである。最初の予定より製作費が増えてしまったのでよろしく御協力のほどを。著作集Ⅰ、Ⅱを手にとって読んで頂ければ、八木さんの意志にそぐわない商業ペースで発行が進められていないことは御承知願えるかと思う。私の願いは著作集の続篇を発行したいという一点にある。尚、送金は同封の振替用紙を、また通信欄にその内訳を書いて頂きたい。
■後記
棒のような光景と空気か漂っている病室で八木さんはここでも腰を据え抵抗の姿勢を崩そうとしない。芒昧と時が過ぎ冬に向かう季節に、ここでは光明が一筋みえてきた。願わくはもっと光を!か。
その時の彼女の声を届けることができぬならこの発行の意味はあるのか、と考えた。が、転生記は発行の動機となった養育院入寮以降の日記であり、今日の読者を想定して書いたものと判断し、1977年に遡って今後も連載したい。皆さんの御意見はいかがだろうか。
会計報告(78年9/1~11/30)
収入
定期購読料 25880円
賛助金(見舞も含む) 35520円
支出
印刷費(第7号) 19900円
発送費 12970円
雑費(事務・交通費) 7560円
東京都小平市花小金井南 3-929
相京範昭
送料とも150円
振替口座 東京-4-40972 相京範昭