あるはなく第九号

■第9号(1979320日発行)目次
・転生記
・著作集未収録作品
  松飾りに寄す
  新京時代の想出
・ラジオドラマ 今はむかしの木曽
  先生の言葉は
  赤いかお
書評     (大宮市・橋本義春)
随筆     (新座市・阿部浪子)
後記 『夢の落ち葉を』の反響

転生記

著作集未収録作品
小説 松飾りに寄す  【婦女新聞 昭和6年1月1日号】

 ある歳のくれ-。

 わたしは失業して、とある貧民長屋の一戸を借りて落ちつくことになりました。

 三畳ふた間の、ひるまも薄暗くてちょっと文字もはっきり読めないような家てす。

 はたはたと風に翻るおむつ、そのトンネル下を大八にわずかのガラクタをのせてきました。どこからか大勢の子供たちが蜂のように集まってきて車をとりまき、家のかげからお内儀さんたちの眼がいくつも覗いていました。珍らしそうにー。

 新しく這入ってきた仲間はどんな人間だろう-。というふうに。

 長屋は三尺ばかりの露路が横から裏へとクロスワートのように曲って、そこに「土」をみせていました。がそれは風やにおいの通路でもあったし、頭の上で干し物がいっぱいに陽の光りを吸いこむ場所でもあったのです。洗濯ものだけは高いところでないと乾かないから-。

 でもわたしたちは、二日もたたないうちに仲よしでした。

 日の暮れがたになると、長屋じゅうに大さわぎがはじまります。父っちゃんが帰ってくるからです。

「チャン、おあしおくれよう」

「いやだい、アタイにくんな、ね、」

 駄菓子屋のお内儀さんはそのころになると、七輪にかけた煮ものも忘れて店さきを覗きます。油断していると盗られるかもしれないから。

 わたしは生れて初めて松飾りのない町にお正月を迎えました。

 子供たちがめずらしく白いエプロンを並べてオメデトウにきました。小さい手はいつもよりきれいでした。改まった顔つきで蜜柑と飴玉を行儀よくポケットにしまい、おさない歌をうたいました。

「トッチャンは?」

「ねんねしてるよ」

「カアチャンは?」

「センタク」

「お正月はうれしいな、藪入りにアンチャンがお店からおミヤゲもってくるよ小母チャン」

「いいね、なんのお土産だい?」

「凧だの、お菓子だの、それから瓶にはいったお酒だの」

 長屋のお正月は静かです。

 おじさんたちが働きに出かけないから。お酒をのまないからです。飲めないのかもしれません。

 朝、わたしは雨戸をあけながら、前の家のおかみさんに呼びかけました。

「マアチャンどうなの、ゆうぺ夜中にひどく泣いてたじゃない? とても苦しそうだった」

「マア公ときたら、全く-。こともあろうに真夜中キツネに憑かれたんだよ。急に火のような熱が出てね、とてつもないことを喋言りだしたもんだからうんとどやしつけてやったのさ」

「まあー」呆然としてしまった。五歳の、それも重い麻疹を病んでいる子供に-。

「だって、ずいぶん乱暴じゃないの」

「性がないものね、背中だのお尻だの思いきり殴りつけてやったのさ…こいつふざけやがる、早く狐を追い出しちまえってね…」

 マアちゃんは隅っこで小さくなってねむっていた。土気いろの頬に黒い睫毛をふせて-。う、う、うーツ!と獣のように坤いていたゆうべのことも知らずに。

 雨戸をあげて、そこにトッチャンの源さんが腰かけて戸外の誰かと話をしていました。針のような寒い風か這入ってきます。

「いいか、じゃ早飯食って来てくんな大八ァ俺が借りてゆくからな」

「よし片棒坦ごう、ありがてえね、源公早速くるから」

 留さんの帰ってゆく姿がみえました仕事かみつかった-。京橋際の店から消火器を車に積んで南千住まで引っ張ってゆくのでした。マアチャンはよくねむっています。少し呼吸がはやいようです。

 夜中、ねむりこんだ長屋にドン、ドンと地響きがきこえました。どうやら私の家の前あたりです。ても、わたしは暗がりの中でその音を判断しました。

 雨戸のすき間にチロチロと黄色い光りの縞か迷っています。

 ぶるぶるっと思わず身が…。

 留さんのおかみさんが蝋燭を片手にもって立っていました。お隣りの圭さんがそのそばに鍬で軒下の土を掘り起して…掘りかえされた土は黒く、霜の上に盛りあがりました。

 「やっぱり…そうだったのね、お内儀さん。かわりましょうか、指が切れるようでしょ?」

 圭さんは一つの新聞紙の包みをそっと穴の中に置きました。

 「こうして深く堀ってて胞衣を埋めときゃ、大がきても大丈夫だからね、ヤ、どうも、いろいろ御厄介で」

 わたしは押入れから鰯の干ものを出して新聞紙に包みました。そっと雨戸を手さぐりに、今の土のあたりをよけるようにして隣家へゆきました。

 近所のお内儀さんたちが五六人、火鉢のまわりにいました。

 「ちっとも知らなかったのよ、どう?」

 「ごらんなさいよ、ほら! こんな生意気な顔して…女なのよ」

 真赤な赤ん坊のかおがちんまりと蒲団からのぞいていました。並んだお内儀さんの寝がおは透きとおるように綺麗で。

 圭さんは手をふきふき這入ってきました。女房のほうをチラと見て、それからまた見ています。座蒲団のない寒さが膝のしたからクイグイと押上ってきます。

 「行火の火、大丈夫かしら」

 「ありがとう、大丈夫どうも何とも近所に迷惑ばかりかけちゃって」

 「お互いさまじゃないか、圭さん、あすの朝も仕事においでよ、ね、構わないよ」

 「まさか-二三日は休まなくっちゃね」

 「いいよ、大丈夫だってばさ、みんなで看てあげるから行きな、折角の仕事じゃないか休んだらそれこそ損だものね」

 「そうか…ありがたい、だが全く済まないね、俺あみんなに厄介ばかりかけてるような気がしてね」

 「圭さんのだいじなおかみさんのことじゃないか、それも初産のねえ、冥利というもんだよ、ハッハ、ハッハ、ハ…」

 圭さんも若い肩をゆすぶってみんなと笑いました。

 寒い、さむい真夜中です。

 五日目のタ方、わたしは井戸端でみなれない女の人が圭さんとこへ這入ってゆくのをみました。

 「…じゃそんなふうにしてね、糸はここにあるから」

 「え、よござんす、明後日までですね」

 力のない、弱々しいおかみさんの声が中から洩れてきます。帰りがけにバケツをさげて通りながら、私は一つのものをみました。

 ひろげられた風呂敷があり、中に紺地にクッキリと白く半円を描いて太文字か浮きあがってみえました。

 -法被だ、ハッピだ-ごりごりの厚地のそれも紺の色素で針のなかなかきしんで縫いにくい仕立もの!

 わたしは家へ馳けこんで、何か自分が非常にわるいことをしたかのように戸を締めました。そして悲しくなったのです。

 -お産をして、たった五日目-まだ血もおさまらない大切な時に。

 でも、それは大したことではありませんでした。わたしがお内儀さんに代ってその法被と、も一つの袷を仕立てやったからです。

 だけど、間もなく長屋中には、誰も代って背負ってやることの出来ない苦労や悲しみが、とても想像のつかないほどたくさんあることを、私は知りました。そして、自分もその中のひとりでしかないことを感じたのです。(了)

■著作集未収録作品
 新京時代の想出  【女人像33号 昭和31年5月20日発行】

  岡本豊子さんの想出には私の場合はいつもふるい満州の広漠たる風景、それも首都新京の、街路樹が見事に枝を張り濃いかげを落している興安大路や、楊柳が静かに池の水に映っている順天公園に近い社宅街、それから洋車の上から手をふってすぎゆく微笑の岡本さん、といったふうにほとんどが満州を背景にして映ってくる。岡本さんが新京へ来てまもなく、私たち三人の交友がはじまった。協和会の永嶋暢子さん、満鉄の私の三人。満州新聞の望月百合子さんも女人芸術の絆で結ばれていたのだか、望月さんとはほとんど一緒になる機会はなかった。岡本さんが家庭の人であることが何か新鮮なものに感じられ、永島さんと私は日曜を待ちかねてはよく満拓の社宅へ押しかけた。

 豊子さんはまもなく満州日々新聞に記者として働くことになった。ほっそりとスマートな洋装が身について 弱々しい躰に似ずよく活動されたらしい。限られた日本人の、どこへ行っても同じ人物と顔を合すといった狭い貧弱な舞台は、岡本さんにとっては少しばかり物足りなかったようだ。それに望月さんが満新の記者として全満を縦横に馳けめぐり華かな活躍の舞台をくりひろげているのでは、いろんな感情もあったのであろう。まもなく満日も辞めてしまった。その辞め方がいかにもさらりとして未練や愛着などどこにもないという表情であったが、ほんとうは夫君の岡本氏の希望によるところが大きかったかもしれない。

 岡本氏の家庭は稀にみる民主的な自由な空気に包まれていた。私たちを迎えると豊子さんの顔はいきいきと輝 き、限りない能弁になる。季節の鍋もの、ちらしすしなどお料理自慢の豊子さんは賑かな食卓を用意し御馳走して下さった。私たちのよしなしごとのお喋言りを岡本氏は莨のけむりを吹きながら、格別の興味もなさそうな表情で黙々と眺めて居られた。豊子さんに協力して散らかった座敷をとり片づけ、石炭をはこんだり、外まわりを掃いたり、それがいかにも淡々と自然で、のびやかで、岡本氏の人がらを思わせるものがあった。

 その岡本氏が突如として急逝されたのである。出張先の農村から伝染病を持ち帰って、入院、逝去という慌しい変動。凡てを頼りきっていた夫というカづよい支柱を失った豊子さんの打撃は大きかった。告別式の日の豊子さんの印象は今でも私の心に鮮かである。喪服に包まれたうすい膝の上に置いた両手がかすかに慄えていた想出が。

 未亡人となった豊子さんはまもなく満拓の寮に移った。可愛がっていた鶏を一羽おともにつれて。満州拓殖会社は孤独の豊子さんを社員にし、何くれとなく面倒を見て将来の生活についても配慮していたらしい。

 「満州という国はまったく王道楽土ね、日本人にとってはよ。満拓にしたところがさ、厖大な国家資本を背景にして貧しい満農の犠牲の上に国策を強行している会社でしょう。まあわたしの面倒をみてくれるのも一つの、罪ほろぼしかもしれないわね」

 そう言って笑った岡本さんだった。

 その満州も敗戦によって消えた。そして今は新しい巨歩を堂々とおし進めている。永嶋さんは終戦直後に逝き、今また岡本さんの計報をきく。ふるい満州につながる私の追憶のほそい糸も、このあたりでぷっつりと断れるというのかもしれない。

■ラジオドラマ 今はむかしの木曽
 先生の言葉は

これは「夢の落葉を」の原型であったラジオドラマのうち書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。

(ガラッと門があいて小さい足音)

子供 ただいまッ、お母ァちゃん。

母 ああおかえり、勇ましいね。

語り手 薬局の小窓があいてお母ァさんの顔がのぞきました。

わう

子供 お母ァちゃん、藁おくれ。

母 わらを? どうしたのいきなり。

子供 わらだよ、わらおくれよう、よう。

母 待っといでな、いま行くよ、いきなりそんなことを。うちにゃないんだからさ。

子供 いやだァおら、いまほしいんだよ、わらおくれェ、さあおくれ、おくれェ。

母 うるさいね、この子はまあ…さ、どうしたっての、上がりもしないで。いったいわらをどうするのかい。

子供 おくれェ、すぐおくれ。

母 だから。どうしょってきいてるのに。

子供 縄をなうんだよ、縄をつくるんだい。

母 へええ、おまえが縄をなう…なにに使うんだい、一年生が。

子供 わらおくれェ、おくれよう。

母 だから。この子はまあ、わらはうちにゃないけど、縄なら物置きに少しは…。

子供 いやだァ、縄じゃない、わらだよ。

母 わからん子だ、だから縄をなってなにに使うのってきいてるのに。

子供 使うんじゃない、売るんだい。

母 売る? まあこの子は。縄をなって人に売って、それで?

子供 銭とるんだよおら。

母 たまげた、この子は。えらいことになったもんだね。

音楽

父 辰夫、おまえは縄をなってそいつを売って、銭をとるって話だが…なんに使おうてんだい、その銭で。

子供 おら、本を。あのう、ためになるもんを買うんだい。

父 ほう、なるほど…妙なことを考えだしたもんだな、お父うちゃんはな、おまえのほしいってものは本でもなんでも大概買ってやっとるつもりなんだがな、誰かがなにか言ったのか。

子供 ううん、先生が、先生が話したんだい。

父 ふうん、どういう? お前たちに縄をなって銭をかせげ、そいつを学校に寄附しろ…と、つまり、まあ学校のためになるものを買うから持ってこいってわけかい。

子供 ううんちがう、ちがうよう。先生はそんなこと言やしねえ、言わないよ。

父 じゃお前が、じぶんで考えたのか。

子供 うん。先生がいったよ、むかしニノミヤソントクってとても偉い人かあったんだ、そのひとか小さいとき…。

父 わかった、なるほど。その二官尊徳って人が…そうか、いやはや、はっははは。

子供 うちがとっても貧乏で…ごはんも食べられんし、学校へも行くことできんし…可哀そうだよ、おら。

父 まったく可哀そうだな、その二宮尊徳ってひとは。まだ子供の頃なんだな、縄をなって、それを売って、本を買って一生けんめい勉強した…。

子供 ほ、お父うちゃん知っとるう。先生が話したぞ、そのひとお父さんもお母さんもないって。そんなにして、うんと勉強して、働いたって。それで大人になって…。とっても偉い人になったって。

音楽

母 辰夫や、そういうわけだから安心おし。でもほんとうに感心した、いいこと考えたね、いい子だよ、お前は。

子供 うん、…なんかおくれ、おやつッ。

父 辰夫、なァ、先生のいうことをいつもそういうふうによく聞いてだな。

子供 うん、なんだいこれっぽち、もっと、もっとようッ、…うんよし。

母 まあとこへ行くの、おまえ、とびだして。

子供 (戸のあく音)川へいくんだい、みんなと、いってきまァす(足音遠く)

母 あなた、今さらじゃないけど、先生の感化ってものはこれァまったく、大したもんですねえ。

父 うん、大したもんだ。

母 親のいうことなんか何ひとつきかないあの子が、先生のいうこと、なると…辰夫、うちのお父うちゃんはお医者で、お前に縄をなってもらわんでも、どうにか暮せるで、といったら、ふっふふふ。

父 そしたら?

母 眼をぱちぱちして、やっと安心した顔。

音楽

(この篇了)

■ラジオドラマ 今はむかしの木曽
 赤いかお

これは「夢の落葉を」の原型であったラジオドラマのうち書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。

(藪うぐいす、駒鳥の声など)

喬 かいい、かいい、あッかいいッ!

母 おまえまた山へ行ったんだね、あれほど言うのに。年じゅう山へいって、年中うるしにかぶれとる、早く水でよく顔や手を洗いな。

喬 とっくにゴシゴシ洗ったよ、ああかいい。

母 あきれたもんだ、年じゅう熟れすぎたトマトの、ぼろぼろにふくれたような顔、まともな顔といったら冬のあいだだけじゃないか。その冬のあいだにも漆器にかぶれるし、まったくこの子は。

語り手 親戚に漆器をつくる家があって、そこへお使いにゆくと、喬はきまって顔が赤くなって帰ります。まもなくボロボロ吹き出ものがしてきて、かゆくてたまらなくなるのです。漆器屋では漆器の出来上ったものを、紙に包んで店に積みかさねてあり、そのそばを通りぬけただけで、もうかゆくなるのです。

〔小鳥のさえずり、葉ずれの音)

語り手 山というところは子供たちにとってなんという、不思議な、おそろしい、そしてたのしい世界でしょう。神秘なゆめがあります。高い峯にやっと辿りついたかと思うと、またまた峯はとおくいくら登っても、のぼっても奥がふかく、高さには果しがありません。思いがけないところに道があったり、不意に平地が眼のまえに現われて、ぱっとひろい視野がひらかれたり。至るところに秘密がかくされているのですから。天にむかって高くひろがっている枝は縦横にのびのびと腕をひろげ、こまかい葉っぱが空を背景に寄り集まったり、離れたり、複雑な模様を限りなく描きだしている、そのすきまを縫って陽の光りがおどろくほどのまぶしさで、静かにしめっぽい地面の上にこぼれおちています。風がふくと、風のまにまに空の葉っぱは大波のようにゆれさわぎ、ぶつかり、渦まき、盛りあが り、また流れてゆくのです。

(風に荒れ狂う森の音響)

語り手 喬が先に立って森のなかを登ってゆきます。陽もささない茂みには何千年の枯葉がしめっぽい土にかえって、足の下でほろほろとくずれます。ひっそりとうす暗い山奥は茸のにおいがし、またよくにょきにょきと顔をのぞかせていますが胸をつくように急な山では一足ふみはずすと大変、とめどもなくころげ落ちなければなりません。はっと思って何かの木の枝につかまると、枝は昔からのしめりにくさっていてほろほろ折れてしまうのです、こうなると夢中で何かの枝に必死につかまる、つかまって躰を支えるので喬がいくらうるしの木をおそれ、 気をつけていても、こうなるともう何にもなりません。ようやく明るみに出ました。そこは山と山との襞のようなくぼみになってずっと麓まで流れ下っている「沢」という乾いた帯です。もしこのながい帯にやわらかい草がゆっさりと生えていたらどうでしょう。喬たちは実によくこの沢のことにくわしいのです。この一直線に下へむかって走っている帯の下の端は畑に向って消えるので、喬たちはすごく高い沢の口もとに立ち、一、二、三ッというかけごえと一緒に、それはもうプールの飛びこみ台の頂上から眼をつむって足を離す瞬聞のように、躰にはずみをつけて、ひと思いに腰をうかします。と、さあッと沢を一直線に、眼にもとまらぬ早さで滑りおちて行き、忽ち樹の葉のあいだにかくれてしまう、次、つぎと友達がつづいて滑りおりてゆく、はっと思うときは下の畑のなかに躰がなげだされていました。いきもつけぬその早さ、スキーのようにたのしい沢滑りのあそびです。みんな畑で顔をそろえると、またしても彼等は麓をまわり、ほそいけわしい山を根気よくのぼって沢の口もとへ行きつくのでした。山の冒険や探険のたのしさには地蜂の巣をさがすあそびもあります。ぶうんと耳のそばに蜂のうなりをきくと、そのあとをつけて、じっと蜂が土のなかに姿を消すのを見届けると、近くの木に見おぼえの眼じるしをしておいて山を降り、花火につかう煙硝を買ってきて、蜂の巣のかくされているあたりの土を、けむりでいぶす、少時して士を堀りかえして巣をとりだすそのたのしさ。

音楽

(この篇了)

●書評 リベルテール1月号

 何とも可隣純真な文集が出版された。…略…このどこに発表するあてのない文集では、木曽福島に残してきた <八木あき>に心ゆくばかり語らせている。つまり都市文明の氾濫のただ中で、なしくづしにすり減らされて行く生命をいとおしむ時、また精気を求めて再生を願う時、彼女の言うプリミティブなものとは木曽福島の<樹からふきあがる緑>であり、<寒気のするようなふかい青>い淵であり、キソノナカノリさんであって、そうした故郷の万象を呼び出し語りかけ、また語らせることで自己の心の平衡を保とうとしたのだ。この叙述(福島の氏神まつり-相京註)の中にまつりの熱気が活写されている。文章構成は擬音の多用と名詞切れによって実際の祭りの進行をスナップショットのようにパッチリカメラに納める-つまり文章で定着させている。そこがなかなかの文章家であるゆえんで、心憎い書きぶり。60才代で書いたみずみずしさに恐れ入る。

……思想性とは自分で獲得するものであってそれはさりげなく、ひっそりと、心を鎮めて視る人にだけ提示されるものであるらしい。八木さんはそう教えて呉れる。(大宮市 橋本義春)

■随筆 信農ジャーナル1月号

 …前略…八木さんは、この作品執筆後もかきつづけてきた。彼女にとって書くとはなにか。

 ” 書くことは自分にとって生きる支えであった。それがあるからこそ、生きてきたのだ”と八木さんはしみじみ回顧する。男児を夫のもとにおいて家を出たあとも、実践運動に挫折したあとも、彼女は、文字をきざむことで自己省察し、悲参な境涯から脱け出ようとした。言い換えれば、〈酷しい自立の道〉を歩んできたその背後で八木さんを支えてきたものは、書く、という行為にほかならなかった。その行為をとおして、”肉体的な苦痛だった”という子捨てへの苛責も、”女だけが苦労した”という実践運動でうけた屈辱も、彼女の内部ではすでに客観化されているのではないたろうか。

 つまり、八木さんの作品は、生活の現場のなかで、内面から衝きあげてくる人間的な要求を、自分の言葉で表わしたものであり、そこに、印刷屋の主人がいみじくも語った八木秋子の文体が存すると、私はおもう。

 彼女はおそらく、死ぬまで不安と動揺を引きずりながら、文章を書き続けてゆくにちがいない。(新座市 阿部浪子)

■『夢の落ち葉を』の反響

  ほかに図書新聞2月3日号、また朝日新聞2月25日号の書評欄レーダーに「先駆者としての運命を生きた女性の、ユーモアと愛に満ちた意外な一面に触れることがてきる」と紹介された。そして、ふるさと、信州の地元の新聞「信濃毎日新聞」2月28日号の家庭欄に「故郷の思い出つづる-木曽福島町出身の八木秋子さん-自伝的短篇集め出版」という見出しで報道された。「明治、大正、昭和-。この激動の時代を、ひたすら自己の生に忠実に、自由に生きようとしてきた一女性の心の中に、深く根をおろし、生き続けてきた”ふるさと”とは何か。幼い日の著者の目に映った木曽の風俗や人情、父母の姿や女の生き方などと共に、その思想の原点に触れるようで興味深い」

 なによりも、信州の人々に『夢の落葉を』が読まれることが、彼女にとって嬉しいことだと思う。

■後記

  朗報。八木さんは12月26日、附属病院から退院された。彼女自らの言葉を借りれば「私は今度という今度こそ〈生命力〉ということを考えたことはない」というほどの困難な状況を一つ超えた。12月のある日帰ろうとする私を呼び止めて、ベットを降りて歩いて見せた時の彼女の誇らしげな顔は、またしても私の八木像を打ち壊したという喜びに満ちていた。

 そして、今、文章を創るにはそれを保つ肉体がまだまだ備わらないが「私は、私にしか書けぬ<女のこと><子供のこと>についての構想を練っている」と力強く私達を励ましてくれる。「私は本当にめぐまれている。何よりも私のものに応えてくれる人達がいる」とも語る彼女に私は協力できることを改めて感謝している。

 『夢の落葉を』の帯文を埴谷雄高氏に書いて頂くことができた。それは八木さんが、 現在生存中の人で一番会いたい人に氏を挙げたことが一番の理由であった。(ちなみに故人では有島武郎氏)「困難こそ自立の場にほかならぬ」と八木さんを評して語られた言葉は世に氾濫している『自立』に楔を打たれた気がする。永続的に困難という状況の下で自立とはまず独りで問題に真正面から取り組む作業なしにはありえない。何度も書くように八木さんに対する私の想いは過去の業績にあるのでもなく、またそれを単に年齢を重ねる未来に託すのでもない。過去を過去として置き去りにする彼女であり、今のこの瞬間瞬間を生きる八木さんなのである。

 ここ数ヶ月の入院中、彼女が鋼鉄の如く不動の精神力で業病と対峙した、というわけではない。日によっては、自らの病いを因とする老いを他者に転化しようとしたこともあった。人間だれでもそうなんだよ、だから……などという事で全て良しとするのではない。その部分を隠しきれい事で済ますようなやさしさは彼女には無縁だろう。事実、それと真正面から向き合い、抵抗する姿を私は見せて頂いたからである。「こうなったら業病と腰を据えて取り組んでみようと思う」と10月に語り、そして還ってきた彼女のその腰を据える時為されたであろう作業に魅力を感ずる。

 

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会計報告(78年12月1日~79年2月28日)

収入

定期講読料 27000円

賛助金 20220円

支出

印刷費 42250円

発送費 13200円

雑費 7420円

『高群逸枝論集』(JCA出版)で加納実紀代氏が高群の中の八木の位置を語っている

〒187

東京都小平市花小金井南三-九二九

相京範昭

送料とも一五〇円