■第12号(1979年10月10日発行)目次
・転生記
・著作集未収録評論
北海道の旅より
わたしの時代
・編集後記
■転生記
■著作集未収録評論
北海道の旅より 【女人芸術・昭和3年9月号】
8月のはじめといふに、北海道の空はもう秋である、わづか海峡をこえただけで、空の色がいかにも北の国らしい深さを見せてゐる。眼の届くかぎり、黄白い燕麦の穂波と青々した水田と、大豆と玉蜀黍の織布であつて、点々と、散らされた玩具のやうに牛や馬が原野にあそんでゐる。おほまかで悠々とした油絵である。
留萌の駅で乗つた青年がふたりあつた。その話をきいてゐると、北海道に住む人の人生観を、ほぼ知り得る気持がした。郵便貯金は利息はほそいけれど堅いから、是非誰でも実行しなければならないものだ。子供が生れたら、その月から10銭づつ貯金することにすると、20歳の年にはいくらになる。男の子ならば学費にするか商売のもとでに出来るし、女の子なら嫁入支度になる。
「月10銭づつ。だんだん殖やして行けば20年には2千円になるものなあ」
嘆息するやうにして、眼を輝せてゐるふたりの青年は、まだ30を少し越した位の年配だつた。
札幌に一週間ばかり滞在して、町に出あふ女の人達を見ると服装などは東京と少しもちがはないやうだけれど、表情の上によほどの差がある事と思つた、東京が、理智と、明敏な批評と多少人のわるい浮れごころを持った近代的な新聞記者の性格とすれば、札幌は勤直な勤人の人生観であらうか。道で会ふほどの人が、表情の中に「安住」といつたものを備へてゐるやうだ、しかしこれは老境の安住ではなく、青年のいのりの心境であるかもしれない。
あらゆる感傷を排して、明徹な理智に時代の感情を噛みくだいて、動乱の切ない苦しさの中に生きて行く都会。その悩ましさの中に、一脈の落ちつきと安心のある事を私は旅先で感じた。おどろくこともない、悲しむこともまた喜ばしいことも-自分だけの生活の中にはない。
しつかりと生きぬいて行き度い。私はこのつよい欲求を、堅実な労働堆積と、多少人道主義的感傷のある、美しい北海道の自然と人情の中で感じた。8/10
*女人芸術に掲載された「北海道の旅より」は、ⅠとⅡがあり、Ⅱは著作集<Ⅰ>に収めることができ、そこで八木秋子の描く庶民のしたたかな世界に触れることができたのだが、Ⅰは残念ながら原本のその頁の部分が破り取られていて読みとれなかった。今回全文が収録されたのは、全て阿部浪子氏の労によるものである。これまでも阿部氏のお蔭で八木秋子の埋もれた文章が魔術の如く発見されこの紙上に載せることができたが、改めて感謝したい。
この「北海道の旅より」は、山田やすらの食糧問題研究所の仕事で行ったと八木さんは語られる。すると東京日日新聞を退社した昭和2年か翌3年のいずれかの8月上旬に旅したことになる。だが、「女人芸術」の昭和3年10月号「公人腐敗検察談話会」に出席している八木秋子の肩書が「食糧の日本」であること、そして翌年6月に同誌に発表している「向日葵のある朝餐が3年8月の北海道での随筆であることから、おそらくこの旅は昭和3年の8月とみてよいだろう。東京日日をやめて女人芸術に参加するまでのことはよくわからないが、山田やすに関係した集団にいたようだ。(相京)
■著作集未収録評論
わたしの時代 【自由連合100号・1964年7月】
アナキズムを如何にして知ったか。とじぶんに訊いてみることはまずその当時の時代をぬきにしては考えられない。昭和10年以前のあの絶望的な失業と飢餓の時代、「我等いかに生くべきか」を考えずにはいられなかつた時代、革命は近いという熱情がはげしい白色テロルの下に至るところ潜行的に斗われていたのだ。
上京したばかりで職もなかつた私は、この揺れうごく空気のなかでショックを受けた。
友人の手引きで俸給生活者組合の会合にも出、無産者新聞のマルクス主義研究会でも唯物史観のABCを教えられたが、当時左翼全般に福本イズムの理論が君臨していて、呼吸づまるようだつた。しかし次第にわたしはこうした会合の空気になじめない異邦人であるじぶんを感じはじめた。誰れもが英雄主義ではないか、議事はもとより、どんな発言も最大級の表現で福本イズムを絶対不変の真理であるかのように、その忠実な信奉者なることを証言している、辞書からぬき出したような誰もが同じ言葉。これではまるで画一主義の標本ではないか。機械的な革命的な誇張のこの男や女の心のなかに、果してどれだけ生きた人間の愛情が、憤りが、悲しみがあるのだろうか。私は退屈しはじめ、とんだ場ちがいな質問をだして満座の哄笑をかつたりしたが、この愚かな私の発言は思わぬ効果をもたらし、また私はその和かにほぐれた空気が議事をすらすらと運ばせるのを見て、ガッカリもした。
研究会のほうは講師として派遣されてきた帝大新人会のエリートをめぐつて女たちのあいだに問題が起き、嫉妬と反目の争いがはじまつた。一方、組合は来るべき普選最初の総選挙を見こして婦人部を独立新設させるべきか否かで激しい討論が行なわれた。無産政党への工作なのだ。この問題には私は何もしらない間にじぶんがその渦の中にまきこまれていることに気づいた。ようやく新聞記者になつたばかりの私の肩書を利用しようとしている。私はおどろき腹が立った。しかもその組織や役員には男たちの策謀がはたらき、裏面工作で事前に否応なく事態は決定されたのだ。
そこでわたしはこのいやな人間の集団から離れると決心した。わずかの期間の経験ではあったけれどいやなものはいやなのだ。もともと社会変革のための運動に一身を投じる者が、組織の中での個性がどうあろうと、ことに個人的な好悪の感情など取るに足りない些末なことだ、そんな感情こそ個人主義として軽蔑され、抹殺さるべきだ。しかし人間のふれあいはもつと深いところにある。人間を支配するものはもつと微妙な好ききらいや、選択の本能であらう。それは肌身に感ずるおそらくは生理的なものですらあるから。荒っぽい鈍感な粗雑な性格が組織の中を横行している。オルグの権力と陰謀と命令が組織を支配し、多数決が批判や不満をふみ越えて歯車を動かしているのだ。
わたしの失望は小さくはなかった。それはこうした組織の中の「民衆不在」という実感だった。われわれの仲間、多数の民衆はどこにもいないのだ。私はそのとき私が憎悪の感情で反発した一切の事象が、それが政治の本質につながるもので、そこから生まれることを知らなかった。プロレタリア革命を夢みていた私は革命とはいかになされるべきかを知るはずもなかつたのである。
こうした日に、偶然の機会で私は一人の若いアナキストを知った。この出合が、全く未知の世界をそこにひろげてみせ私に眼をひらかせてくれる転機となつた。(了)
*『わたしの時代』は、書かれている内容は大正14年暮に故郷の家を整理して上京した時から下谷の労働学院で宮崎晃に大正15年夏頃出合うまでのことである。がこの文は戦後のアナキスト連盟の機関紙に載せた文章で、木曾福島町に住んでいた1964年である。これは百号記念として、古いアナキストにその人のアナキズム論を編集部は依頼したものだが、八木さんは序にあたるアナキズムに出合うまでの必然性を書いて規定の原稿枚数を越えてしまったようだ。(相)
■後記
灰谷健次郎は『子どもたちの美しい眼が美しいのではなく、美しい眼をたもつための子どもたちのレジスタンスが美しいのだ』と書いている。八木さんは大きな眼をしている、大きく見開いて夢中になって話しに熱中する。しかし、その眼が細くなることがある。4月、トロッキーの「裏切られた革命」の訳者である対馬忠行(77)が郷里の瀬戸内海に入水したことを話した時もじつと聞きながら細い眼の奥から遠くを見詰めていた。彼は東京立川の老人ホームに入つていた。
八木さんは9月6日で満84才になった。
会計報告(79年8月1日~9月30日)
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