あるはなく第十三号

■第13号(198021日発行)
私の近況(談)
転生記
往還抄2
ラジオドラマ 今はむかしの木曽
虫の音
先生というもの

編集人への私信      (柏市・儀府成一)
編集後記

■私の近況 談・八木秋子

 八木さんはお元気である。その近況を皆さんにお知らせしたいと思い語って頂いた。今後もこういう形で随時紙面に登場できると思う。これも八木さんと最も日常的に身近に接つしておられる方々の存在なしにはありえない。(相)

▲読者の方へ

-病気のことはたいしたことはない。今できるだけ、許せる限り空想に生きたい。このふわふわした、ぼわぼわした空想、これがいつも私を悩ましている。これをなんとかして縛りつけて、ぎゅうぎゅうの目にあわせて、あわせながらこの空想から何が生まれるか、ということだ。それを私は楽しみにしている。

あなたがいうように、通信から著作集が生まれたのだから、著作集は遅れたって構まわない。他のことはどうでもいいんだ、一つさえしっかり握っていればね。

▲有島武郎全集を購読し始めて

 今度読み返しているけど、有島さんはどうにもならんな、と思う。どうにもならんなということは、その存在としての生まれは否定のしようがないということ。そして物の感じ方などにもよくよく思う。例えば単純に我々が美しいとか、ああ花が散るとかいう感じが何にも意識しないで思うのに対して、あの人は知識やいろんなものをもってきて、そこへ並べて美しいということを説明する。しながらも、何か隔靴掻痒というか、そんな気がするのよ。

 だから、その厚いカーテンを一っぺんに引っぺ返すことはできなかったのかなあ、と思う。それで、残る問題と解決できる(一過性の)ものがありますからね。そうすればあの人の晩年もも少し違ったものになったと思う。なんてつまらない死に方をしたのかなと思った。

 ただ、私が有島さんを及び難いな、偉いなと思って感心するのは、捨てるものを捨てる前に物事をストレートに純粋な感じで受けとめてくれるのだなあ、ということ。

▲藤村の姪 島崎こま子さんについて

 私の父親がこま子さんの父親の島崎広助さんと無二の親友で、木曾の問題というと何かと活動してきたものだから。私もこま子さんのお父さんには親しみを感じていた。そして、私の父親が胃ガンを宣告され、広助さんも事業に失敗してペシャンコになって互いに通ずる所もあった。それで私とこま子さんとは手紙のやりとりを何回かして、藤村さんの姪に対する気持も知りたかったと書いて出した。そして私の思っていたよりはるかにさばさばした人だった。あの人は藤村を肉親としてのつながりとして考えていない、また過去のことを聞いても返事をしなかった。

 私が藤村の所へいつ、何をしに行ったかよく覚えていない。行ったのは覚えてるけど。

(80・1・11、文責相京)

 

*今度の号に藤村の飯倉の家を訪ねた話しが「ラジオドラマ、今はむかしの木曾」に出てくるので、藤村と『新生』の節子のモデル島崎こま子さんについて聞いた。

 こま子さんは昨年6月85才でなくなった。

 東京新聞9月23日号の記事によると「島崎こま子は藤村と交際を断った後大正末、京都にて無産運動に入り35才の時9才下の学生と結婚。夫は検挙され入獄。こま子は闘争資金を汗まみれになって稼ぐ。夫の出獄後一女をもうけて破婚。上京後行商等をしながら運動を続け警察と赤貧に追われる日々を送る。昭和12年3月、肋膜を患って東京板橋の養育院に行路病者のような身で収容されているのを発見されたこま子は43才」と書かれてある。

 私は八木さんらの農村青年社運動の長野地裁における公判の報道を調べる過程で、信濃毎日新聞の昭和12年3月7日号に島崎こま子さんが養育院に収容された記事があるのを知った。今八木さんが同じ養育院に入っているのも偶然だし、同紙面で一方は「新生のモデル」一方は「女闘士」として報じられたのもまた偶然だが、私達があるプリズムを用いる時それらを必然と把えることができる。むろん、八木さんは「そうですか」というだけだった。(相)

■転生記

■往還抄 2

1965年2月27日  〔八木ノートより摘出〕

 先日ある男が私を非難し、あんたは何ごとによらず肯定して、安っぼく感じ安っぼく動く、なぜ物を否定しないのか、俺なんか全てを否定する、といった。私はだまっていた。私の否定を何と人に説明しよう、この長い間の否定を。

 しかし、俺はすべてを否定するといってその否定とは何か? 思うに否定とは容易なことではない、ことに日本人には。否定とは要するにせいぜい自嘲ぐらいのところだ。本当の否定とは死であり革命である。これを経験せざるものに何の否定について語る資格があろう。ただ、死とは、革命とはそれの解釈である。その時、私の心に稲妻のように「死と革命」の意味が閃いた。私はその二つを実行しそれの上に生きた人間である。死、とは生命の終わりであって凡ての終りだ。その終わりを出発として新らたに生まれ変わること、生命を断つ死とは一瞬の行為で簡単だ、しかしその生を全生命の否定として捨てずに、そこから新らたに出発したものこそ本当の死である。また革命とは何か、社会革命という意味には止るまい。全てを否定し、破壊し、そこに新らたに生命と生活の体制とを創造するところにある。革命とは、何も社会体制の変革を意味するだけではない、それはまず生命の要求と自己革新に発っするものなのである。それはかってクロポトキンがアングロサクソンとスラブの民族性の相違において指摘し、立証したのである。

 そこで、私はいま改めて否定とは何を意味するかを省察した。否定とは死と革命を意味し、それに表現されるものであるなら、私は疑がいもなくその両方を二つながらに経験し、生き、しかも長い生涯を実践しつづけてきた人間なのである。改めて私は自分にこの事実を確認し、自己を今にして発見した感があるのだ。私の場合、死とは子供を捨てたそのこと、このとき私は生を否定し去り、そしてその否定を続いて革命において立証し生きたのだ。死は肉体の死によらず、一生を賭けたその贖罪みたいな道を選び、孤独と苦難の道をその時選んだ。革命は必然に私を招来し、私は生涯の情熱をもって斗った。その結果は上からの弾圧という壁によって破れ、また同志の殆んど全部が捕われたことによって破れた。その後戦線を離れたが、依然として私は否定に生きることによって今日の老年までの生涯をその信条によって貫いたのである。二つながらの否定の要素を二つながらに実践し貫きながら私が何か形の上では残さず不毛に終わったかに見えるのは、私のあまりにも深い現実批判と嫌悪とが、私の他人とあまりにも違う精神的次元の相違が現世に於ける生活の凡てにおいて順応と持続に耐えられなくしたがためだったのだ。

 即ち、現社会に社会人として生きるにはあまりにも奇矯と思われるほど遠い隔たりのあるものの考え方、行動は、私をして私の才能を表現し拡充するどこにも舞台を与えなかった、失敗はそこに原因があつたのだ。いま敗者としての形で生きていながら私は永い過去を回想する。そして、今改めて自分の本質を分析し挑判する。私がいま、実にこの上ない環境に身をおいている老人であることを喜び生活のために妥協し、欺瞞と理由のない消耗とに徒労する必要がないからである。私にこれから何年の歳月がこの世に残されているのか知らないが、私はいま自分にとっての真実の場を見出し、これから自己の表現に努力する、それがどういう結果に終わろうとも、私は考え、書くことに生きがいを確めよう。(了)

*私はこの16年前に書かれた八木さんの文章をある感慨を抱いて読了した。そして、この文章にだけは若干の感想を加えさせて頂きたいと思った。この文章は入木さんが書き綴ってこられた読書ノート風日記20数冊の中の一冊に書かれていた。都立の老人ホーム入りに際して私物は禁じられているということでお預りした日記の類いは、この通信発行当初ほとんど手をつけていなかった。なぜならその時点で表現されるものを優先したからだった。八木さんにとって養育院という機構の中に入った時、その中で書くという行為は切実だったと思われた。しかし、その行為は単に環境の激変によるばかりでなく、妄執の=憑かれた人(内村剛介『妄執の作家たち』…彼ら(憑かれた人びと-註)にとって創造は渡世ではない……運命なのだ。)であるからこそ、その存在が本ものとして信じられる磁力を放つのだと私は思う。

 その八木さんが書くことでものを表現することが困難になった時、そのノートのページを繰り始め、この文章に会った。何の特別のこともない日常の生活の中でのある男の酔語がこれを書かせた。一読して、これが八木さんの思想=信念の核心だと思った。そして、その核心に触れることを彼女自身の言葉でこの通信に載せることができることは、あらゆる意味で最も良いことだとも思った。「否定とは死と革命を意味し」「その死は子供を捨てたそのこと」そして孤独と苦難の道を選んだ八木さんの精神が、当時も、そして現在に至るまでも焦点のずれることなく私<たち>に放たれていることに、この通信が持続していることの必然性を感じる。ようやく第1号と往還できたという意味も含めて。

 そして、私的ではあるが、この文章によって想起された竹内好の「魯迅」の次の文章の引用を許して戴きたい。「しかし、絶望は、自己自身に希望を生みうる唯一のものである。死は生をうむが、生は死へ行きつくに過ぎない。」<序章-死と生について> 未来社刊より引用 (相京)

■ラジオドラマ 今はむかしの木曽

*これは『夢の落葉を』の原型であったラジオドラマのうち、書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。

虫の音

語り手(虫の鳴きしきる声)轟先生の下宿へ友人の熱田先生があそびにきました。下宿といっても立派な離室で、若いこのふたりの先生はわが家のような気でいつも行ったりきたり、勝手にやっています。

轟 おい、まだ月は出ねえかい

熱田 …うん、まだだ、木曾の、月煌々はなかなかだよ、そうお安くは顔を覗かないよ

轟 月見、のすすきはこのとおり豊かに飾ったしさ、舞台装置はまあ満点だな

熱田 おい轟、東京の西さんにこんどの挨拶状を出す必要があるが、あのひとの住所なんだっけな

轟 あれかい、待てよ、この抽出のなかに封筒が……あった。いいかい、東京市芝区プラチナ台町二丁目

熱田 なにイ、プラチナ台町? おいおかしいよ、そんなのないよ

轟 なにがおかしい、立派にプラチナ台町は存在してる、このとおり

熱田 いややっぱりおかしい、そんな言い方はどうかと思うな

轟 じゃなんていうんだ君は

熱田 芝区ハッキン台町……

轟 あはッ、懐炉じゃあるまいし……ハッキン。あきれたもんだ

熱田 いやプラチナのほうが怪しいよ、東京にはそんなバタくさい名の町はないよ

語り手 そこへこの家の奥さんがお茶と山もりのおだんごをもつて現われて

奥さん さあさあ、まあ一つ召上れ、先生たちにお月見のごちそう

轟 おばさん、ちょっと聞くが……東京にプラチナ台町ってとこあるね、ちゃんと

奥さん プラチナ?ちょっとききませんねえ

熱田 ほら、どうだ。じゃあハッキン台町ってのあるでしょう

奥さん ハッキン台町。どうもきいたことのない名まえだけれど。いつ出来たのかしら

轟 じゃあ、これは、この封筒はなんて読むの、この住所は

奥さん あらいやだ、こんなの読んで字のごとくよ、東京市、芝区シロガネ台町2丁目3番地……まあ、あなた方これを、まあ

轟 そうかア、まちがいないんだな、シロガネ

熱田 シロガネとは知らなんだ、おれ、なんとはなしにずうっと前っからハッキンと思いこんで

轟 おれもさ、もうせんっから…プラチナ、プラチナとひとりでにあたまにはいっちまつてた

奥さん なんですねえ、人間もへたに学があるとつい、こういうことになる、はい。……じゃわたしひとつあなた方にききましょう、いいですか、……この字なんと読む?

轟 なんだこんなもの、読んで字のごとく……麻布区タヌキ穴

奥さん 熱田先生は?

熱田 さあ、やっぱり、東京市麻布区タヌキ穴……それより外に読みようがないな

奥さん ところが、これはね、マミアナ。タヌキ穴はまちがいです

轟 マミアナ……へええ、誰がいったいそんな名まえつけやがったんだい

熱田 あきれたねえ、重ねがさね。まるで狸にばかされたみたいじゃねえか

奥さん そこが先生のあさましさで。さあどんな質問でもおだしなさい、東京に関することなら

熱田 ねえおばさん、そのマミアナってとこは、そのう飯倉に近いの、遠いの?

奥さん 近いですよ、ついそこ

熱田 そうか、やっぱり近いんだな

轟 どしたんだい、その狸のアナになにかごえんでもあるのかい

熱田 いやなに。麻布っていうからさ。飯倉は島崎藤村のうちのあるとこだろう

轟 あそうか、そうだな、おらいっぺんあの先生のうちを訪ねたことあるんだ

熱田 ほう、どんな感じの家?

轟 どんな感じも、こんな感じもあるものか、それがなア、高アい石段をとことこおりてってさ、おりきったところの一とう奥の家。まずへえおれもおどけちゃった

熱田 だから、どんな家なんだよ

轟 まあず高い石垣がうちの前と横とに屹立してるんだ、石垣の上は往還でなア、砂ぼこりを立ててあらゆる乗ものや人間が通ってる、それで二階はまだいいけれど階下は真っくらだ。昼間でもあなぐらつて感じさ。ごめん下さいって玄関の格子をあげたら、しばらくたって障子がすうつとあいたんだよ、薄くらがりの中に、きちんと端座した人がある、それが君、藤村だ

熱田 ふうむ、藤村ともあろう人がな。床しいな、へええ。

効果 虫の声 鉄びんの音

 (了)

■ラジオドラマ 今はむかしの木曽

*これは『夢の落葉を』の原型であったラジオドラマのうち、書きかえる過程で削られたもので、著作集を補うものとして掲載する。

先生というもの

語り手 轟先生と熱田先生、そこへこの家の奥さんも加わって話に花をさかせて

轟 まったく子供たちって奴等は、あれアまあどしんだい

熱田 ああ、いつも甚だ度しがたいよ

轟 いや、おらきょうという今日はへえ、まいっちゃった、完全に

熱田 なにかあったのかい

轟 なにかって君、おら腹の皮をよじれるだけよじった

奥さん へええ、そんなにおかしいことが

轟 まあずへえ。きょう国語の時間にさ、手紙を書かせてみたんだよ、候文をさ

熱田 候文とはいやに古風じゃねえか、いまどき

轟 古風でもねえし、決してふるくもない。おら候文はだいすきだ、そうだろう?だいいち簡潔で、そのうえ余情がある、余韻っていうのかな、こんなふるい歴史と伝統をもった優れた表現形式がだ、そうたやすく時流におし流されていいものか、葬むられていいもんかよ

熱田 まあ静かに。しずかに。しかし君なんだろう、候文を子供たちに書かせるにゃそれだけの準備をさせてからやったんだろう?

轟 勿論だ。時間をつぶしてさ、噛んでふくめるように。いくつも簡単なのを読んでやって、それの説明なんだ

熱田 そうか、それで今日のは、さまざまの傑作が生れたってわけ

轟 いいか……はいけい、朝晩はだいぶ凍みるようになり候、寒くなり候、このごろごぶさたいたし候、すまなくて候

熱田 いやはや。女の子か

轟 女の子だ……そちらは皆さんマメにて候、わたくしはうれしく思い候、こちらもみんなマメにてあそんでおり候、どうぞごあんしん下され候……(笑声)

奥さん なんとも恐れいったる次第に候

熱田 聞くもなみだに候

轟 これなんざまだいくらか健全のほうだ、いくらか体をなしてるからな。ところがまだまだ、途方もねえやつが出てきやがって。あっはっはははあ

熱田 抱腹ぜっとうにて候。……か

奥さん まったく子供にはかないませんよね、ああ泪がでた。天才にて候

熱田 いや、おれにもこないだそれに似たようなことがあったよ

奥さん どんなこと?先生

熱田 国語の時間だ、いわんや何々においておや、この言葉があるんだな

奥さん それはまア、いやにむつかしいこと

熱田 これはちょっと抵抗があるぞと思ったから、あらかじめいろんな文例をつくって準備していったんだ。国語のは、「日本人は最も勇敢なる国民なり、いわんや有事の際においておや”だったかな、だからおれ、いろんなのを作ってさ、たとえば、駒ヶ嶽にのぼるは困難なり、いわんや御嶽山においておや-とかなんとか。梅の花はうるわしという、いわんや桜の花においておや-ってな具合にね、なにしろこれとこれとを比較して、これでさえこうなんだから、ましてやこの方は、と更につよい意味をあらわすのだと縷々20分にわたって説明したね、そうしてそれのあとで、この言葉で一つの短い文章を作ってみろ……

轟 ほう。傑作が出たのかい

熱田 とびだしたね、恐れいった-いわんや雪がふる、おやおそろしや(笑声)ちょうど初雪のふった日で……

奥さん よくまあ。そう頭に。おやおそろしや

音楽

語り手 きょう轟先生の地理の時間でした。勉強がはじまろうというとき、どやどやと大ぜいの見知らぬ先生がたが教室へはいって来て子供たちの席のうしろへ立ちました。諏訪郡の先生がたで、地理の参観授業に来られたのです、轟先生は平気なかおで、火山脈の系統を地図によって説明し、火山脈と温泉の関係を話したりして

轟 そういったわけで、活火山、休火山、死火山、それの意味は判ったな

生徒 はあい、はあい、はあい

轟 よし、そこで温泉の種類のなかには間欠温泉といってな、一定の時間をおいてすごい勢で噴きだすのがある、それの世界一大きなのがアイスランドにあって、そのうち

語り手 轟先生はみるみる真赤な顔になって頭をかきながら

轟 あのう、あの温泉の名前は、あれは何でしたかな

語り手 参観の先生方の中から声があって

声 ジャイアント・ガーザーじゃないですか、たぶん……

(了)

■編集人への私信

 「あるはなく」11号、ありがたぐ拝受。私など八木さんに就いてほとんど知るところがありません。しかし、こういう古い断章のような小さいエッセイを見ただけでも、実にしっかりしたお人柄がわかる。「奪還せよ」のおしまい近くなどにそれがよく出ていて、目立たない存在と思われるこの人は、人間的な意味に於いて、まぎれもなくほんもの、という感銘を受けました。

 こんな風に書くと、お会いしたこともないあなたにへつらっていると見えるかも知れませんが、へつろうもへつらうまいも次元と年齢が違いすぎて私など話しになりません。でもあなたの「全文掲載にあたって」の切実さにも打たれましたし、よくぞここまで究め、よくぞこの人の為に表現の場をもうけてくれたという思いで一杯なのです。

 私の方、病気といっても推間板ヘルニア、大したことがないように思ったのは大間違い、はじまってから六年め、つくづく愛想がつきましたが、一向に死にたくもないので、もう少々(30年ぐらい)世にはびこるつもりです。御礼まで。〈柏市儀府成一〉

■後記

◇一般的にも生きる術の選択の幅が限られていた戦前において、女でしかも自由と解放を求めるものならなおさら厳しい選択を強いられたと思う。だから、その生きる過程でこぼれ落としたものも八木さんにはあったかも知れない。しかし、選択したこととその結果生じたものを、自らへの否定(個的には死、国家には革命)として考察し、現在に至るまでとらえ返し続ける精神世界の中に、私<たち>を魅きつけるものがあることは間違いない。(相京生)

会計報告(79年10月1日~80年1月30日)

収入

定期購読料   10500円

賛助金     32050円 

支出

印刷費     20000円

発送費     10440円

雑費       4080円