著作集Ⅲの『異境への往還から』のカバー表紙は
北斎の画、「雪中の虎」しかないと思っていました。
まるで宙を泳いでいるような柔らかで滑らかな虎、
降り積もった雪からはみ出る笹は4本の足の爪に対応して鋭利。
そして、剽軽な貌と強靱な鞭のような生命力を感じさせる尾。
なんとも惚れ惚れするばかりです。
私はこれこそ「命の塊」のようだとずっと思っています。
西川祐子さんは八木秋子著作集の書評で、
『「時」に踵をつかまえられながら』と、絶妙に言い表していらっしゃいます。
そもそも、なぜ北斎かと言いますと、それは岡山城での「巌頭の鵜図」との出会いから始まりました。
それがカバーをとった本体の表紙にあるこの画でした。
1978年3月、私は八木秋子を岡山の姪御さんの家に送りました。
それは早稲田大学での友人村原健一の姫路での結婚式に出る流れで、岡山市内のホテルに泊まりました。
翌朝、岡山城に行ってみようと思いつき、天守閣を見終わって降りる途中だったか、
いくつかの岡山城に関わる物が展示されていました。
ふと見ると「北斎」の文字が読みとれ、「あの北斎?」
と思ったのがこの「巖頭の鵜図」との出会いでした。
ガシッと岩を掴む脚、宙を睨むような強い意志、
やや背が丸くなっているのがいかにも八木秋子の雰囲気とよく似合いました。
岡山城の天守閣は「黒く」そのため鵜城と言われたと知りましたが、
この文章を書くにあたりもう一度ネットで調べましたら、
「巖頭の鵜図」は林原美術館所蔵とあります。
すると私が岡山城で見たのは偶々だったということになります。
それ以来、北斎の画にこだわり、
近くの花小金井図書館で片っ端から美術書や北斎関連書籍を借り出しました。
そして講談社が発行していた画集でこの「雪中の虎」を見て、
これこそ最高傑作だと思い、3年後に作った著作集Ⅲのカバーにしたのでした。
本物の「雪中の虎」を初めて見たのは1991年のことです。
六本木の麻布美術工芸館「北斎とアトリエ」と題するその展覧会のポスター
どう手に入れたのか、記憶が定かではありませんが、執念でしょうか。
このような解説がそのパンフレットに書かれていました。
そこに書かれている「雨中の虎」は、原宿にある太田記念美術館で私も見ましたが、
その後2003年にギメ美術館にある「雲竜図」と一対のものだと
北斎研究家の永田生慈が結論付けました。
これらの作品が北斎最晩年90歳の1849年正月から
亡くなる4月にかけて描かれたことに驚くばかりです。
1998年、私は北斎の『雪中の虎』がニューヨークで競売に掛けられたことを知りました。
雪中の虎 売却される。→ hokusaiazabubaikyaku.pdf
これで、日本で見ることが難しくなったと思っていたところ、
さいわい、10年後の2017年には大阪での展覧会に出現し、
話題を呼んだことを今回ネットで知りました。
その展覧会は「大英博物館 国際共同プロジェクト 北斎-富士を超えて-」於あべのハルカス美術館
というもので、「ああ、それならわかる!」と思ったものです。
というのも、「2017年に大英博物館で開催された北斎の展覧会を通して、その人物像や絵画の魅力に迫るドキュメンタリー『大英博物館プレゼンツ 北斎』」を
私も2018年4月に東京えびすで見ているからです。
そこには「雪中の虎」「巌頭の鵜図」そして、冨士を越える「冨士越龍図」も入っていました。
いまや北斎は一段と評価は高まり、テレビでの特集も多く成されていますが、
今回、私が北斎を玄條に書こうとしたのは理由があります。
1978年、北斎に初めて出会って以来、
同世代の人物として気にかかっていた人がいたのですが、
その永田生慈氏の死が2018年2月7日に報じられました。
永田生慈氏履歴nagataseijiryakureki.pdf
彼は1951年生まれで、
北斎の研究のために大学進学をしたという一点で気にかかっていました。
楢崎宗重氏に師事したいがために大正大学に入ったのです。
ここにある履歴は、2019年「新北斎展」でもので、
彼がなくなる寸前まで監修に力を尽くしたことが書かれてあります。
一度もあったことはありませんが、北斎の展覧会にずっと関わっていたことは間違いなく、
そこに通っていたものとして、気にかかってきた同世代の人物でした。
彼は八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』を見たかな?
あれがカラー印刷でなく、フィルムで加工して印刷したのだよと、一度伝えてみたかった。
最晩年の画で唯一描いた日が書かれている「冨士越龍図」で、冥福を祈りたい。
北斎館のパンフ hokusaikanpanhu.pdf