◆小倉正明さんと「八木秋子」そして「パシナ」
小倉さんをお訪ねしてうかがった内容は驚きの連続で、信じられないほどの、奇跡の連続でした。
・1945年8月14日の一瞬、混乱の満州奉天の満鉄社宅で二人は出会っていたのです。
・そして、何と、小倉さんはパシナの機関士だったというのです。
「パシナ」とは私が八木秋子の没後に知人たちと発行していた小冊子の題名でした。その由来は、満鉄あじあ号の機関車「パシナ」から採ったものです。
私にとって「パシナ」と冊子を名付けた理由は次のような印象的な場面があるからでした。それは「永島暢子さんの憶い出」(八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』に収録)に書かれていた、八木秋子が親友である永島暢子を満州奉天で迎えた時のものでした。それを「パシナⅣ」から読んでください。
★小冊子『パシナⅣ』より
「案外変わらないね」「幾星霜というところかね」
永嶋暢子 八木秋子 編 相京範昭
昭和13年12月17日、満鉄線で大連から4時間42分、特急「あじあ」は奉天の駅に姿をあらわした。黒煙を吐きながら牽引するのは、世界最大、直径ニメートルの大車輪を駆動さす蒸気機関車、通称「パシナ」。
止まった列車の見あげるように高いステップの上に彼女(永嶋暢子)の姿があった。綿入れの着物、綿入れの羽織に着ぶくれで微笑っている。
「案外変わらないね」
「幾星霜というところかね」ふたりは笑いあった。
永嶋さんはわたしの黒熊のような防寒服の姿を眺めて「なるほどね、目方が五貫目もあって、これがそのシューヴァなんだね」とニヤニヤした。
★パシナの雄姿 小倉さんより
★バロン吉元『 満州哀歌 苦力の元帥 』より