小倉正明(おぐら まさあき)(4)

◆小倉さんを木曽上松に訪ねて


その日、夜暗くなるまでご自宅で、私が知っていることと小倉さんのお話を重ね合わせました。そして、泊まる民宿まで手配してくださり、そこでも酒を呑みながら、話は尽きることがありませんでした。

翌朝早く、近くの名勝「寝覚ノ床」に行きました。

木曽川に沿い巨石奇岩があり、何とも幻想的な気分になりました。それから小倉さんの車で木曽福島町の八木秋子の墓参をし、開田高原から木曽の御嶽山をながめ、木曽の案内をしてくださいました。



ところで、小倉さんと出会うキッカケとなった木曽ヒノキの株元をもっていらっしゃったのが「寝覚ノ床」にある民宿の「蕨岡さん」(写真)でした。


相撲に戻ります。

1985(昭和60)年1月9日、新国技館の落成式が行われました。
その貴賓室と理事長室に贈られる「つい立て」はこのようなものでした。

            ★小倉さんより提供

朝日新聞記事(1984/12/7) をあらためて掲載します。

樹齢530年の天然木曽ヒノキ

  上松町の有志

新国技館に株元の「ついたて」

贈呈に御神木 一役

相撲協会 由緒ありと採用

 60年初場所から新装オープンする両国国技館の貴賓室と理事長室に、木曽郡上松町から樹齢530年の天然木曽ヒノキの株元(根の部分)で作ったつい立てが寄贈されることになった。

 番付編成会議が開かれる160畳敷きの貴賓室に贈られるのは横2・8㍍、高さ1・6㍍、厚さ40㌢、重さ400㌔。理事長室用は厚さ14㌢と薄めだが、大きさはほぽ同じだ。

 来年6月には、20年に一度の伊勢神宮遷宮用材送り出しの「御神木祭」が上松町を中心にあり、それを前に小川入り国有林で、「御神木」のうち最も重要な丸太「御樋代木」(みひしろぎ)の選定が続けられているが、前回、昭和40年の御神木祭で赤沢国有林から切り出された木曽ヒノキの株元を片男波部屋後援会員である上松町寝覚、民宿旅館経営蕨岡俊夫さん(47)が持っていることが分かり、片男波親方(61)=元関脇玉乃海代太郎・本名三浦朝弘=と40年来の親交を続ける上松町駅前の製パン業小倉正明さん(59)が提供を頼んだものだ。

 小倉さんは知人の同町、片男波部屋後援会長で酒類食料品社長高橋直之さん(67)と相談、国技館へ贈ろうと決めた。前県議で木材社長の上松町御遷宮奉賛会長池田作二氏に国技館へ贈る記念品実行委員長を依頼、春日野理事長に「寄贈願」を出した。

 両国国技館への物品寄贈申し出は全国から殺到しているが、春日野理事長が寄贈申請書の中に「伊勢神宮奉納御神木株元」とあるのを見て、「伊勢神宮は奉納相撲をする由緒あるところ」と、採用を決断したという。

 22日に、片男波親方を上松町へ招き、贈呈式をするが、株元は今、地元彫刻家の原貫道さん(57)の手でみがかれ、木曽郡南木曽町教委職員百瀬上人さん(53)が、初代明石志賀之助から59代隆の里俊英までの歴代横綱名や、大相撲略年表などを書き込んでいる。

 寄贈のきっかけをつくった小倉さんは終戦前、旧満州で当時陸軍の同年兵だった片男波親方と親交があり、終戦時、武装ほう起をねらって軍隊を脱走、安東で豆腐屋を共同経営していた。若さにまかせて酒を浴びるように飲み、中国官憲に捕まったうえ、死刑寸前までいったというが、木曽節を歌ったことで当時中国にいた無政府主義運動家 故八木秋子女史=木曽福島町出身=に救い出された逸話もあるという。

 そんな縁で二人は「生涯助け合う兄弟」と誓い合ったのち復員したという。

贈呈式の記事も探しました。

いったい小倉さんと八木秋子の出会いはどうか、玉乃海との関係はどうか、興味は尽きるところがありませんでしたし、何か運命的なことも感じていました。

なにしろ、実は玉乃海は「玄海の荒法師」と言われ、相撲のファンだった幼いころの私にとって強烈な印象に残っている力士だからです。

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