◆戦友、小倉正明と三浦朝弘
小倉さんと玉乃海(本名 三浦朝弘)との出会いは敗戦直後の満州、安東でした。詳しくはインタビューを読んでいただきたいのですが、八木秋子と奉天で一瞬出会った小倉さんはようやく辿り着いた安東で三浦さんと出会うことになります。
それから大陸からの引き揚げまで数年間、混乱の満州で二人は命を分け合いながら生きました。
★左
正明22才(1946ごろか)
満州浪人時代(鳴手の猛者)とある。
★右
引き揚げてきた直後か?
学生服を着た友人と肩を組んでいる写真の小倉正明
★引き揚げて数年後、再会を喜び合った二人(昭和29年頃) 幕入りしたばかりの玉乃海
★長野県片男波部屋後援会の記念誌より
この記念誌に小倉さんのプライベートなページが挿入されていましたが、これは小倉さんが作って加えた私家版だと記憶しています。
◆インタビュー「俺はパシナの機関士だ」
小倉さんの八木秋子との出会いと 戦友:玉乃海(三浦朝弘)との「生涯助け合う兄弟と誓い合った仲」という敗戦後の満州での苛烈な生活は、インタビュー「俺はパシナの機関士だ」をお読みください。
以下、前書きふうな文章と目次ふうなものを引用します。
◆小倉正明さんとの出会い。
出会いのきっかけは『パシナ』の読者であった信州の渡辺映子さんから届いたお手紙だった。
その中には朝日新聞の切り抜きが同封されていた。そのことを1985年春発行の『パシナⅡ』25pにこう書いた。
ひとつ不思議な出来事があった。「あるはなく」の題名を決めるきっかけのハガキを下さった信州の 渡辺映子さんより新聞の切り抜きが同封されているお手紙を頂いた。その朝日新聞記事(木曽福島駐 在、平田英之助)は、新国技館に、樹齢五三〇年の天然木曽ヒノキの株元(根の部分)で作った「ついたて」を寄贈するというものだった。その契機となった片男波親方(玉の海)と木曽郡上松町の小倉正明さんとの親交が書かれてあった。
満州で二人は陸軍の同年兵であったが、終戦間際、脱走し、豆腐屋を共同経営していたが、すさんだ生活をやったため中国官憲に捕まり、死刑寸前になった所を、木曽節を歌ったことで八木秋子に救い出されたという。
詳しいことはわからない。
記事の中に「八木秋子」の名前が出てきたのには驚いた。そこで新聞に書かれてあった「上松町駅前」を頼りに小倉さんあてに手紙を出した。しかし返事がなかった。そして、数年経ったある日、小倉さんから「会いたい、来てくれないか」との電話が来た、そこで訪ねて話をうかがった際に録音したテープが今回まとめたものである。
1988年、5月28日。木曽上松町の小倉正明さんを訪ねたのは、このインタビューをまとめ始めた昨年から数えると25年前になる。
25年ものあいだ気にかけ続けていたものをようやくまとめた安堵感があるが、しかしせっかくのお話を長い間まとめなかったという申し訳ない気持でいっぱいでもある。
1988年という年は、私にとって大きな出来事が続いた年であった。3月には敬愛していた川柳作家の児玉はるさんがなくなり、小倉さんを訪ねて帰って来たその日には友人の真辺致一さんと暮らしていた筧わか子さんが重篤との連絡が来て、なくなるまで病床につきそい、見送った。9月には15年勤めていた会社の白井新平社長がなくなった。その葬儀などをすませた後、今度は私自身が会社を退社せざるを得ない状況に追い込まれ、11月には職を失ったのである。
せっかくのインタビューは文字にならないまま現在に至ってしまった。小倉さんも翌1989年夏に脳血栓で倒れ、その後音信は不通となった。
小倉さんのお話は、八木秋子の死後、冊子『パシナ』に拠っていた私にとって驚くべき内容だった。満州で八木秋子に命を助けられたということも半信半疑だったが、その上、「俺はパシナの機関士だった」というのである。また、私もファンだった「玄海の荒法師こと玉乃海」とは「生涯助け合う兄弟と誓い合った仲」だというのにも縁を感じた。
1945年の夏、8月14日。小倉さんと八木秋子が満州奉天の満鉄独身寮で一瞬交叉したことは間違いないだろう。
その一瞬の出来事が小倉さんの一生を決めた。奉天で八木秋子に助けられたこととその後の八路軍との体験からその考え方に共鳴し、共産党の上松町議を24年間務めることにつながったと小倉さんは言う。
今回(2014年)、まとめ始めて気がついたことがいくつかある。小倉さんが私に電話連絡をしようと思った大きな理由は、その前年の、1987年9月に急死した戦友玉乃海(三浦朝弘)(享年64)の死によるということだった。小倉さんも64歳になり、なんとか自分のことをまとめたい、自分の歴史を遺したい、特に「八木秋子とパシナ」で結ばれた奇縁を話したいということだった。そして、私も今は64歳である、ハッと思って八木秋子日記を見た。1960年3月17日には次のように書いている。「より深い彫刻家の先生を私は恐れる。こわい。どうしても近づき得る勇気がない。私の64歳という年齢、私の醜いしわだらけの老人の顔、白髪に覆われた頭髪、そして醜い手足。」 そうだったのだ、彫刻家高田博厚に身を投げ出そうとした時の八木秋子は64歳だった。
八木秋子がなくなって昨年(2013年)はちょうど30年だった。10年毎に縁のある方に連絡して集まりを持っていたが、昨年は行わなかった。その代わり小倉さんのテープをまとめようと思い立ち、導かれるようにしてここまで来た。それには録音テープの文字起こしから形に整えてくださった中島雅一さんのお陰である。
しかし、なによりも農村青年社の同志、故・南澤袈裟松さんのご芳志によってこの記録が制作されたことをご報告し、南澤さんに心から感謝したい。
最後に、小倉さんは『たにまちの風』という著書を出されていることも今回初めて知った。私が会った5年後の1993年8月20日発行である。このインタビューと合わせてお読みいただければ小倉さんの人柄、その生涯を知ることができると思う。八木秋子と満州で出会った場面や経緯など、私の聞いたことと異なる箇所もあるが、このインタビューの内容はそのまま記述し、掲載することにした。
★俺はパシナの機関士だ より
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1 八木秋子との一瞬の出逢い
◆八月六日、鉄道隊から逃亡
── 最初に肝心なところを伺いたいんですけれども、八木秋子さんと会ったのは、具体的に何日頃だったか、お分かりになります?
小倉 わからねえなあ……。
──八月の一二日ごろですか?
小倉 ええ。
──一二日、一三日あたりに新京から八木さんは動いてくるわけです。
小倉 列車の中にいたかもしらんね。その列車そのものは、満鉄の職員だけが乗れるんですよ。
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◆銃撃、暴動の中を、ひたすら南へ
小倉 吉林の駅の向こうにもね、満軍がおったですよ。満州軍が。それはポンポンとこっち向けて鉄砲撃ってくるんだから。もう、確かに危ない。ほんでかたまれ、っちゅうわけでかたまる。
そうしたところね、二つばかり駅行ったら、もうボンボンボンボンと撃ってくるんですよ。
──誰が? 何が?
小倉 誰が撃つかはわからんでさ。満州軍も反乱するけれども、一般の普通の人たちも、昔の自由兵みたいなものも、全部反乱、暴動でバンバン撃ってくるんですよ。
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◆満鉄独身寮で八木秋子に助けられる
小倉 一緒に来た人の中に満鉄の人がおって、「独身寮へ行こう」って言うんですよ。奉天のあれだわね、ユキミ小学校……アサヒか……、その小学校からはす向かいの満鉄独身寮に行くのも、盲点だった。よしってね。それで付いて行った。
そこには一四、一五人いた。すると今度はロシア兵ですよ。何とかかんとか言って、何のことかわからない。そう言っているうちに、二つばかりみんな殴られた。
腕にね、時計を七つか八つやってたですよ。当時さ。
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2 逃亡兵暮らし
◆八月二八日、平穏な安東に
小倉 安東に着いたら、今度は違う。静かなもんなんですねえー。平然として落ち着いていて。それで、八路軍ってのがいてさ。
──八路軍が入っていたんですね、そのとき。
小倉 はい。露助もおったんだよ。
それで、あれー、落ち着いたもんだな、と思って。それから叔父さんのところを訪ねたんですよ。
汽車に乗ったのがね、六日でしょ?
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◆豆腐売りを始める
小倉 満州のその時分は、どこも雇ってくれんでね。結局、盗んで食うか、拾って食うか、どっちかですよ。だから、物売りやるったって買ってくれる人なんかいないんだから。日本人ばっか、引き揚げてくるような人だからね。
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◆銃殺の危機
小倉 それで、昭和二〇年の暮れに、変なやつが飛び込んで来たんですよ、山本いう大将が。これ、特務機関なんですよ。
おい、日本は全部参っちゃった、と。とにかくこれからは、通化方面におる特務機関と警察が武装蜂起するから
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◆八路軍へ入る
小倉 それからはマークされちゃってね。「おるか?」って。定期的に来るんですよ。
──それは八路軍だったわけですか。
小倉 八路軍。八路軍の中に日本人民解放軍ってやつがあるんですよ。日本人を解放するね──
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◆三浦朝弘(玉乃海)との敗走
──三浦さん、玉乃海さんとは安東で会って、そこからですね。豆腐を売ったり、八路軍に入ったり、いろいろやってたでしょ? そのときも三浦さんはいっしょなんですか?
小倉 いっしょ。
──いっしょなんですか。
小倉 いっしょだけどもね、大将は図体、体がでかくてね、ぶきっちょなんだよ(笑)。力仕事しかできけないからね。わしは鉄道、力は大将が専門だから。
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3 帰郷
◆木曽福島で機関士に戻る
小倉 帰ってきた当時、有名だったですよ、わしは。
第二乙でしょ? 甲種合格、乙種、その次だよ、第二乙っていうのは。行く前には静かな男でさ、体は細いし、色白いし、ひょろひょろってして、腕力はない。気管が悪くて、肋膜じゃないかといわれていたおれが、満州行って飛んで歩いてるうちに性格も変わり、体も変わっちゃった。帰って来たとき、みんなびっくりしたもん。あれが小倉か?
──顔も変わった、って言われなかったですか?(笑)
小倉 あのときは確かにすごい……刑事みたいだったね(笑)。
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◆満州で見たもの
小倉 一九年ですよ。わざわざ負けに行ったようなもんですよ。だからね、本当にあれさ──考えてみれば、可哀想なもんさ。
満州ってもんね、広いんですよ。普通の動物のように、歩くときはずーっと鉄道の線路の沿線ばっかり歩く。人も歩けば、狼も歩けば、野良も歩く。そいつらに出会ってるんですよ。
そりゃあ本当に、みんなバラバラだね。靴があったり、ズボンの切れっぱしがあったりして。狼たちも、どこの野良犬かなにかわからないあれも食いつくんだよね、夢中で。狙われたら最後だから。
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◆気脈を通じた玉乃海とのつき合い
小倉 いや、そりゃ目立ったさ、ありゃあ。あれほど酒ぐせ悪くてさ(笑)。それは目についたですよ。
──本当に急になくなりましたね。
小倉 おれとの約束は、大阪と名古屋と東京と福岡、四場所で定年になるから、四場所お付き合いしろ、と。大阪へも行って、名古屋行って、東京はちょうど議会だかで行けなくて、それで死んじゃったんですよ。
だからこのビデオは初めからそのつもりで撮ったんだね。後から見るとそういう具合に感じられる。意識して、向坂松彦? さんがね、名古屋のときに、何か一つのドラマにしたいような人生だ、と。そう言ったんですよ。そういうつもりでつくり始めて、ここで幕切れにしたんだな、と思って。
──亡くなったことは残念なことだけども、残ったっていうのは何か……
小倉 思想的にいえば、やはり中国の八路軍の影響で、ということは確かなんですよ。その中で、ヤクザっぽい侠気気質が二人の中で通って。誰が何と言っても違うんだ、と。だから時によっては組織違反もしてみたりして(笑)。
──ええ。そうでしょうね(笑)。
小倉 時にはね、牡丹もね、菰かぶって冬越すんだで。ざま悪くても、強く生きようじゃないか、という道筋。わしの持論です。牡丹になったら、だから、ちょっとやくざっぽいようだけれども、それが私、生き方です。
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◆パシナの機関士として
小倉 びっくりしたのは、「パシナ」が出てるじゃない?
──ええ、そうです。
小倉 自分の運転した列車だ。
──えっ、パシナを運転されていたんですか?
小倉 そう。八木秋子を好きな人が、パシナも好き。だからわしはパシナの写真か何かあげたくて、待っとっただ(笑)。
小倉 満州はわからんに、あそこは(笑)。満州はわからん。青年期あそこに行って……とにかく、満州は夕日が強烈だね。
──満州へ、満州へっていう、赤い夕日を目指していった。
小倉 私たちの子どもの頃はね、満州っていうたら、まあ、風雲急を告げる満州へという、男のロマンになってたんですよ。昔の連中にはそれこそ夢だったよね。満州行って、匪賊、馬賊──わし、馬には乗れんけどね、とにかくあそこで無頼をすることがね、夢だったから。
ましてや満鉄のアジア号か何かを運転できるという、それはおもしろくてしょうがないやね。夢を地でいったんだから。
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★インタビュー「俺はパシナの機関士だ」より
◆聞き手 相京範昭
◆日時1988年5月28日
◆場所長野県木曽郡上松町小倉正明宅
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ある日、京都の西川祐子さんから「当時、安東にいた人が<すもう>大会があったという本がありますよ」と教えてくださいました。
さっそくネットで注文して読むと、ロシアの将校を歓迎するために部隊対抗の相撲大会を開いた時、所属する大隊が2位となり、盛り上がったといい。個人で優勝したのが玉乃海で、その後、小舟で南鮮に逃避行を成し遂げたと名前が出てきます。もちろん玉乃海はコロ島から引き揚げるわけですが、英雄的な行為はこのように作られるのだろうと思いました。