小倉正明(おぐら まさあき)(7)

小倉正明さんと玉乃海との再会

小倉さんに会った1988年は、私の周囲では近しい人の死が相次ぎ、また40歳を前にして失職するなど、とても小倉さんのインタビューをまとめられず、その旨小倉さんには伝えたのですが、彼は翌年、脳梗塞でたおれそのまま連絡が途絶えてしまいました。

先のインタビューを八木秋子死後30年の2013年にまとめようと始めたら、何とネット上で検索しましたら、 小倉さんは自伝的書籍を出していました。

  第三章の「再会」が小倉さんと玉乃海の戦後あらためて出会った場面となります。小倉さんは機関士木曽福島機関区で組合活動をした結果、解雇となり、「パン屋」を始めたころです。

ここは『たにまちの風』をお読みください。

 → たにまちの風 苛烈な戦後 再会より.pdf

★小倉正明さんと玉乃海の再会

八木秋子と小倉正明さんの出会いをインタビューしてから30年。ずっと気になっていましたが、八木秋子がなくなって30年の2013年からまとめ始めて、ようやく翌年に形になりました。

しかし、どのように公開するか、相変わらず、私は時機を待っていたように思います。

小倉さんの地元である上松町出身の御獄海の出現を知り、小倉さんと八木秋子やパシナとの「奇縁」もさることながら

相撲道というか

玉乃海、その師匠であった玉ノ海や弟子の第51代横綱玉の海(今は触れませんが)など相撲の世界にも「一筋の共通するもの」があるように思います。「義」や「侠気」という言葉も今回まとめる中で出てきました。小倉さんの「牡丹も菰をかぶって冬を越す」というインタビューでの話しも沁みてきます。

つまり、小倉さんの根底にある心情として、木曾谷には相撲を通じて「人の道」を考える土壌があるに違いないと思います。それは「大道久司」の父や母の「テングになるな」というような発言で見えてきます。御獄海が今あるのはそういった環境の中で育ったということで、今回、小倉さんの「俺はパシナの機関士だ」をまとめるにあたり、御獄海の背景も考えてみました。

ところで、

まとめているうちに妙なことに気がつきました。

一つは御嶽山の噴火は9月27日。その日は玉乃海の命日です。

もう一つは、今回のために玉乃海関係の切り抜きを整理していてアッと思いました。

何ということでしょう。子どものころファンだった朝潮と玉乃海の相撲界復帰に骨を折った師匠、玉の海が同じ日になくなっていたのです。

しかも、1988年10月23日。小倉さんを訪ねた秋のことでした。

不思議なことです。 

2014年の御獄山の噴火が大道久司の相撲界入りを後押しし、御獄海の誕生を生んだということは事実のことです。

私がこの玄南工房を構想し始めたのもその頃で、それは懸案の小倉正明さんへのインタビューが形になった年でした。

今回小倉さんのことを公開しようとすると、いくつもの繋がりが網の目のようになっていることに気がつきました。玄條網をこれからも進めていこうと気持ちを強くしています。

>>「玄條網」に戻る