八木秋子 年譜とあらまし

八木秋子 年譜

1895年 ( 0 )
9月6日、長野県木曾福島に八木定義、ときの5女として誕生。
1912年 ( 17 )
松本市立女子職業学校卒業。姉たちとともに、文学とキリスト教に熱中。
1914年 ( 19 )
父は銀行取り付け騒動で逮捕され、銀行支店長と町長を辞任。
1916年 ( 21 )
長野県小学校教員資格試験に合格。
1918年 ( 23 )
古山六郎と結婚、東京飯田橋に住む。
1919年 ( 24 )
長男健一郎を出産。近くに住む児童文学者、小川未明をたびたび訪問。
1921年 ( 26 )
5月1日、息子を置いて家出するも、子どもにひかれて戻る。
8月5日に再度、家出。都内で家政婦をしたのち、木曾福島へ。
1922年 ( 27 )
2月、正式に離婚が成立。上京して未明の紹介で子供社に就職、有島武郎から原稿をもらう。
胃癌の父の看病に帰郷。7月15日に父死去。母と亡兄の遺児を養うため日義小学校勤務。
1923年 ( 28 )
9月、震災の直後、息子健一郎の無事をたしかめるために上京。
1924年 ( 29 )
6月、母死去。家を整理して10月に上京。
1925年 ( 30 )
5月、投書がキッカケで東京日日新聞社入社。東京連合婦人会、俸給者生活者組合などに参加。
永嶋暢子と知り合い交友する。労働学院でアナキズムを知り、宮崎晃に出会う。
1927年 ( 32 )
東京日日新聞社を退社。いくつかの記者をつとめ執筆活動。
1928年 ( 33 )
長谷川時雨が主宰する雑誌『女人芸術』に参加。 華々しく活躍する。
1929年 ( 34 )
『女人芸術』誌上でアナ・ボル論争の口火を切る。
1930年 ( 35 )
『婦人戦線』に参加し、盛んに執筆活動。3月号に「調査欄 日本資本主義の鳥瞰」。
繊維工場争議等応援で検挙、留置される。
1931年 ( 36 )
宮崎晃らの「農村青年社」の発足にともない中心的メンバーとなる。
『黒色戦線』『農村青年』に執筆。解放劇場の「ボストン」上演に参加。
1932年 ( 37 )
1月、第1次農村青年社事件。
運動資金調達目的の窃盗事件で宮崎らが逮捕され、秋子も連座で4月執行猶予つき判決をうける。
6月末、出所したが孤立。獄中の宮崎とも関係が冷却。
1934年 ( 39 )
新聞連合特信部などの仕事をするが、生活は窮乏と孤独の日々を送る。
関西風水害の大阪へ取材で行き、息子健一郎の学校を訪ねる。
1935年 ( 40 )
健一郎と住むことも考え、大阪で日刊薬石時報社に勤務。つとめて直後に、12月25日全国で360名が逮捕された第2次農村青年社事件首謀者として再逮捕され、長野県へ移送。
1937年 ( 42 )
治安維持法違反で懲役2年6ヶ月(未決の算入あり)。弁護人は山崎今朝弥。
1938年 ( 43 )
4月、出獄。次姉をたよって満州行。5月新京で平島敏夫満鉄新京支社長を介して満鉄社員留守宅相談所勤務。長谷川時雨の雑誌『輝ク』消息欄に秋子の満鉄入社と住所が載る。それを読んだ出獄後の失意の永嶋暢子から渡満希望の手紙。秋子は暢子を迎え共同的生活。
1939年 ( 44 )
留守宅相談所勤務をつづける。他の転向者とともに元最高検察次長平田勲の監視下にあった。
この間、息子健一郎が母を探し大陸にむかうが、再会はできなかった。
1942年 ( 47 )
満鉄調査部事件により、身辺に逮捕者が出る。
1945年 ( 50 )
8月9日、ソビエト・ロシアが参戦。8月12日午後、満鉄から疎開の指示があり、出張中の永嶋暢子と会えぬまま最後の満鉄家族避難列車に留守家族に付き添って乗車。8月13日早暁、無蓋貨車で南下開始。8月15日、鴨緑江を渡り新義州へ。平壌へ向かう小駅で敗戦を知る。11月釜山港より引揚船に乗り帰国、木曾福島へ。12月ないし翌年はじめに上京、満鉄事務所訪問。在内同胞援護会に入る。
1946年 ( 51 )
約3ヶ月東京で日雇いニコヨン生活。 長野の義兄の経営する製糸工場寄宿舎寮母となる。
1948年 ( 53 )
製糸工場で息子健一郎と戦後初の再会。
1950年 ( 55 )
東京で8ヶ月ニコヨン生活。池之端にあった浮浪者のための寮で暮らす。
寮が新たに建設する澄水園母子寮の寮母にと請われる。
1951年 ( 56 )
4月母子寮澄水園に住込み勤務。
8月健一郎危篤の知らせをうけて駆けつけ、彼の養母および彼の伴侶鳴海美代恵とともに最期を看取る。
1953年 ( 58 )
労働婦人少年局への投書がキッカケで「土曜会」に。『土曜会会報』に何回か投稿。
1956年 ( 61 )
退職して母子更生協会設立。
1958年 ( 63 )
母子更生協会挫折、澄水園に嘱託として再勤務。
1960年 ( 65 )
7月朝日新聞に「文案談筆編集校正婦健年60身確誠実北区神谷(番地省略)八木」の求職3行広告を掲載。
千葉県に住宅を借りる。
1962年 ( 67 )
澄水園退職。
1963年 ( 68 )
12月木曾へ。姉の介護、同居。
1964年 ( 69 )
8月姉死去。甥一家と同居。
1966年 ( 71 )
年末に上京。清瀬で宮崎晃の妹と同居し、その母を介護。
1967年 ( 72 )
清瀬でアパートの4畳半の部屋で独居生活開始。
1968年 ( 73 )
生活保護を受け独居を続ける。
1975年 ( 80 )
相京範昭と出会う。
1976年 ( 81 )
12月、東京都立板橋養育院に収容される。
1977年 ( 82 )
7月より相京範昭編八木秋子個人通信『あるはなく』(全17号)に拠って発信開始。
1978年 ( 83 )
4月、八木秋子著作集第Ⅰ巻『近代の<負>を背負う女』JCA出版。
12月、八木秋子著作集第Ⅱ巻『夢の落ち葉を』JCA出版。
1981年 ( 85 )
5月、八木秋子著作集第Ⅲ巻『異境への往還から』JCA出版。
1983年 ( 87 )
最後の一年は群馬県前橋市、姪・岡照子の自宅で介護をうける。
4月30日、岡氏宅で逝去。享年87歳
1984年
11月同人誌『パシナ』の刊行開始。1998年『パシナⅥ』まで発行。
2006年
「注釈・八木秋子」の連載開始。サイト上で第50夜までつづく。
2016年
玄南工房ー八木秋子とその世界 サイト構築準備開始
以上は、西川祐子さんの「八木秋子移動略年譜」を基に作りました。
『「帰郷」の物語 / 「移動」の語り -戦後日本におけるポストコロニアルの想像力』   伊豫谷登士翁 平田由美 編 平凡社 2014
西川祐子 「八木秋子日記」に幻の引き揚げ小説をさがして-追放と再追放の物語 より

八木秋子の 生涯のあらまし 1983

 八木秋子は1895年(明治28年)9月6日長野県西筑摩郡福島町(現在の木曾福島町)にて、郡役所書記八木定義、と紀の五女(本名あき)として生まれる。1912年(明45)松本女子職業学校卒業、少女時代は姉たちの影響でキリスト教や文学の世界に接した。幼年期のことは著作集Ⅱの『夢の落葉を』で触れている。1915年(大4)年、3月の第12回衆議院総選挙に甥の大沢辰次郎が当選する。その選挙資金をめぐっての収賄事件で甲信銀行取付け騒ぎが起り、父定義は責任をとって甲信銀行木曾支店長、福島町長を辞任する。そして、その事件で逮捕され執行猶予の判決を受ける。以来秋子にとって政治(家)に対する不信は消えることがなかった。16年(大5)長野県小学校教員検定試験合格。

 18年(大7)東京高等工業学校窯業科嘱託古山六郎と結婚し、東京都麹町区飯田町に居を構える。しかし、次第に自分の描いていた結婚生活と大きな隔たりのあったことに気づく。翌19年(大8)5月11日長男健一郎を出産。その後、牛込の親戚の葬儀に来た父の話から当時牛込天神町に住んでいた小川未明を知り、乳飲み子を背負いながら頻繁に訪問する。大正9年頃のことである。未明による最も大きな影響はロシアのナロードニキの運動を知ったことである。当時の若者に大きな影響を与えたロシアの作家アルツィバーシェフの作品『サーニン』『「労働者セヴィリョフ』やロープシンの『蒼ざめた馬』などが紹介された。作家の生田春月や伊藤野枝らの赤瀾会も知った。

 秋子は夫のいう狭い家庭の枠の中に閉じこめられることに耐えられなかった。新聞の消息欄で知った有島武郎を訪れたことも大きなきっかけとなって1921年(大10)4月30日家出を決意し、翌日のメーデーを観て家出を敢行した。子供は置いたままだった。しかし、知人の斡旋で一旦家に戻る。が、耐え切れず再び8月5日再度の家出をする。そして、家政婦などをしたのち木曾に戻る。夫は復縁をせまり木曾へ健一郎を背負ってやってくるが、結局、22年(大11)2月正式に離婚する。

 2月上京し、小川未明の世話で童話雑誌社「子供社」に勤務する。有島武郎から童話の原稿を貰う。以来有島に対する信頼は心酔といってもよいほど深く心に刻まれる。後に有島から童話集『一房の葡萄』が木曾の秋子あてに送られる(6・29付葉書)。就職後、2、3ヶ月ののち父、定義が胃癌の宣告を受けたためその看病に専念しようと木曾へ戻る。7月15日父死す。遺された母、長兄の子供たちを養うため、野尻、日義小学校へ勤務する。24年(大13)3月、甥を北海道の次兄の家に預けるため連れていく。6月母と紀死ぬ。

 1924年(大13)冬、家を整理して上京。東京日々新聞へ投書した文章がきっかけで神近市子以来の女記者として学芸部へ翌25年春入社。学芸部長新妻莞の妻伊都の関係で、東京連合婦人会などに参加し、労働部の山田やすの下で活動していた永嶋暢子を知る。新聞記者のかたわら、労働講座や会合などに積極的に参加する。また信州出身の新人会の学生らを知り、つきあう。俸給者生活者組合に入る。福本イズムでゆれる組織に嫌気がさす。

 その頃、下谷の学働学院でアナーキズムを知る。深く共鳴する。そこで、アナーキズムの運動家であり、日立製作会社争議応援で放火の罪で逮捕され仮保釈されていた宮崎晃をかくまうことになる。28年(昭3)7月、長谷川時雨主宰の「女人芸術」に入る直前まで東京日々新聞に勤務しながら、教育週報、民権新聞などの記者を勤める。「婦人食糧問題研究所」など婦人運動にも関係する。
1928年(昭3)『女人芸術』の編集に参加し、同誌に小説、評論を執筆するかたわら、アナーキズムの新聞、雑誌に佐上明子の筆名で「高群逸枝さんへ」などを発表する。翌29年、八木秋子は毎号執筆し、座談会にも長谷川時雨の代わりをつとめ、華々しく活躍する。特に7月同誌上における「藤森成吉氏への公開状」は翌年1月号まで続くアナ・ボル論争の発端となる。その論争には高群逸枝らも加わり、後に「婦人戦線」に結集する母体となったといえる。また7月、林芙美子と九州講演旅行に行く。この旅行は早大思想講演会主催、大阪朝日新聞社後援のものだった。

 翌1930年(昭5)1月、平塚らいてう、高群逸枝、望月百合子、住井すゑ、松本正枝、城しずか、鑓田貞子、竹内てるよ、らと「無産婦人芸術連盟」を結成し、3月より『婦人戦線』を発行する。この頃より『女人芸術』から離れ始める。また『婦人戦線』にロシア革命がボルシェヴィキによって裏切られ、大衆からかけ離れてゆく過程を描いた「ウクライナ・コミューン」など小説、社会時評、調査欄などで鋭い筆鋒でもって活躍する。しかし、やがて「婦人戦線」からも離れ、実践活動への道を模索し始める。

 地下潜行中の宮崎をかかえ、貧窮極まる農村の解放のための運動を起すべく同志を集め始める。一方、昭和6年2月アメリカのアナーキスト、サッコとバンセッチの冤罪を劇にした「ボストン」の主要な役コルネリアを飯田豊二の演出により築地小劇場にて演ずる。

 1931年2月末、宮崎晃の「農民に訴う」(農村における自給自足経済に基く自由コミューンの建設を唱いたもの)の反響の大きさに力を得、当時アナキズムの雑誌の編集人として活躍していた星野凖二、同様に「農村青年に訴う」などを書きアナーキズムの論客でもあった鈴木靖之らとともに「農村青年社」を作り活動を始める。一方四谷見附にてバー「ポップラ」を経営(雇われマダム)する。農村の貧窮からくる惨状はますます進んでいた。しかもその農村に都市を世界的大恐慌で追われた人たちが続々と戻ってきた。八木の出身地信州においても同様の惨状を呈していた。

 長野県には南澤袈裟松、伊沢八十吉、鷹野原長義、山田彰、加藤陸三らが信念としでのアナーキズムを活動の基底において、それぞれの場所で活躍していた。そこで、八木、宮崎、星野らは連絡、宣伝、講演に、そして小冊子の発行にと奮闘する。だが地方を歩くことで八木秋子はイデオロギーに縛られない反体制運動の実態をみた。

 しかし東京に於いては活動資金の枯渇の問題が生じ、資金獲得のための窃盗を続けることとなった。遂には1932年(昭7)1月、宮崎他一名が逮捕された。八木は、運動途上における宮崎らの逮捕に憤慨し奪還を企て奔走する。この時点では窃盗の事実ははっきりと八木に知らされていなかったようだ。4月、星野、和佐田、望月らと共に逮捕される。罪名は贓物牙保罪(盗品を質屋などに流す仲介をした罪)で懲役6ヶ月執行猶予2年の刑を同年6月23日に受け出所。鈴木ら資金獲得に加わらなかった同志に連絡も取れず、その資金獲得への批判に抗し切れず孤立する。

 その後共同通信の前身、新聞連合特信部などの仕事をしながら過す。獄中の宮崎との関係も冷却。これは彼が獄中より托した手紙の一節「一介の糟糠の妻として暗き半生を至上の内助者たりしお前に泪とともに厚き感謝を捧げる」という一文にも表われる内縁の夫宮崎への失望も理由の一つだった。〈内助者〉と決めつける傲慢な言葉。

 その後、近衛内閣のブレーンとなる「昭和研究会」の主宰者後藤隆之助宅へ行ったり(夫人と同郷で知りあい)近親のものの面倒を見たりしているうちに大阪の長男古山健一郎から手紙が来る。「会いたし」という手紙に対し、東京の住居が不幸のため消失する事件が起り、その理由説明のため大阪へ向う。知人の所に身を寄せニヶ月ほど勤めながら子供との同居などの進退を考えているうち突然逮捕され長野に移送される。

 1935年(昭10)12月末、4年前にさかのぼっての「農村青年社」運動に関してなぜ逮捕されたか。これはアナーキストによる銀行ギャング事件「無政府共産党事件」の首謀者二見敏雄が長野県に逃亡し、県警が取り逃した失点を捕うための捏造的色彩の強いものであった。法律的にも、窃盗事件で刑を受けた時点で既に終了しているとの判断が予審の段階で出たが、それを無理に治安維持法で固めたといえる。長野における裁判は1937年(昭12)3月2日より始まり連日紙面を賑わした。特に八木秋子は最年長(5才以上年上)で唯一の女性ということで全ての面において注目を浴びた。そしてここでも八木秋子は光る。

 最終陳述で宮崎が「彼女をこのような不幸な目に合わせたのは私の責任で、今後彼女が希望するなら正統な妻として半生を過したい」と言うと、それに対して「私自身にも責任はある、私は過去を清算して、私自身にも袂別(べいべつ)し一プロレタリアの一女性に還る決心です」と言い切る。判決は4月に出たがすぐ控訴した。控訴審の判決は東京控訴院にて同年10月27日下され、懲役1年6ヶ月未決270日通算が決定し、下獄。1938年(昭2)4月出獄。

 直ちに満州へ向う。途中、奈良で降り、仏像をみた印象は今もよく残っているという。鞍山の姉を頼って行き、5月新京にて平島敏夫満鉄支社長の好意により満鉄新京支社庶務課留守宅相談所への就職が決まる。半年後、永嶋暢子が渡満し、交遊が始まる。満州で交際した人として、山本玄峰(木曾の知人を通して知りあうが、大人であったという、新京の妙心寺別院を開創し、後に妙心寺派管長となる)、弟子の須原秀文、永嶋暢子を通じての峠一夫、山田清三郎、桑江常格氏などとの交遊をあげることができる。そして、小林秀雄の新京での「歴史について」講演の感動は忘れることができないという、それは「X先生への手紙」として通信「あるはなく」第8号に書いている。

 1945年(昭20)ソビエト・ロシアの参戦により満州は大混乱の渦にまきこまれる。永嶋とともに満州に残ることを心に誓っていた八木は、満鉄社員を送ったあと戻ろうと思っていた。しかし意に反して二度と満州に戻ることができなかった。そのことは八木秋子にとって痛烈に心の傷となって残った。

 親戚のものと朝鮮より引き揚げ、いったんは上京するが帰り、長野県松代町の義兄の製糸工場の寄宿舎寮母を勤める。木曾に戻った後、1950年再び上京し、ニコヨンを8ヶ月ほどする。その宿舎であった戦災者、引揚げ者、孤児らを収容する施設で、新たに母子寮を建設することになり、園長に請われて寮母として勤める。1951年(昭26)4月に開所した澄水園に55年暮までほとんど住み込みで働く。

 1951年8月17日健一郎死ぬ。56年(昭31)退寮して住居の北区神谷町に母子更生協会を設立する。内容は職業紹介、内職の世話、指導などや協同購入など地域における相互扶助的組織の確立を目指したものだが、行き詰まる。58年再び澄水園に嘱託として勤務する。60年千葉県流山市江戸川台に引っ越す。1953年(昭28)労働省婦人少年局の主催する婦人週間での第1回婦人会議への投書がきっかけで「土曜会」が結成され、その後発行する会報に投稿を続ける。またその調査活動などに参加する。

 1962年3月、母子寮の整理により退職。63年12月木曾の姉の家に住む。翌年8月姉死亡、そのまま甥一家と同居し世話を受けるが、1966年(昭41)末上京。清瀬にて、宮崎晃の妹、操とその母と同居する。67年4月、近くのアパートの一室を借り独り住む。以後、10年近い4畳半生活を始めるが、生活費は生活保護が中心であり、主に読書に明けくれる日々であったようだ。

 1976年12月、板橋区にある都立養育院へ入寮する。翌77年7月八木秋子通信「あるはなく」第1号を発行。78年4月、著作集Ⅰ『近代の〈負〉を背負う女』発刊。直後倒れ、脳血栓の疑いで8月、付属病院へ入院する。月末、ベットから転落し大腿部を骨折する。同年12月、最も愛着のある、幼年期を綴った著作集Ⅱ『夢の落葉を』を発刊。そして現在に至るまで通信は発行され15号を数える。しかし、80年夏以来、八木秋子の肉声を伝えることは非常に困難になり通信は休刊の状態である。(文責相京) 

八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』より  相京範昭