岐蘇民生新聞
月3回1ノ日発行
発行所 岐蘇民生新聞社
長野縣筑摩郡福島町
電話162番
定価 月1円郵税15銭
編集印刷発行人 武居武
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満州脱出記(1)八木あき
前 書
八木秋子女史は木曾福島町の出身。嘗って黎明期の我国婦人解放運動に挺身した熱情の人。
数年前渡満し大陸文化建設に活曜しつつあった。嵐の満州を脱して旧臘福島町の寓居に落着き本紙の為に此の一文寄せられた。
敗戦の歳はまさに暮れやうとしてゐる。ふるさとの信濃はいま、ふかい雪に包まれて炬燵の火をかきたてても寒さは犇々と身にこたえる。
無條件降伏-といふ、このおどろくべき言葉が、自分自身のこととして、自分達血をわけた民族のぬきさしならぬ現實としてうけとるべく宣告されたあの、8月15日。その日からもう4ヶ月あまり日が流れ去った。想へばこの歳末は殊に感慨ふかいものがある。何といふ大きな変化、何といふふかい、格底からの破壊であったらうか。
議会は解散した、選挙法案と労働組合法案、そうして農地制定法案とをどうにか生みおとして。しかも来るべき総選挙も混沌として立候補の目標さへ定まらない状態であり、失業とインフレと、飢餓から、いかにして自分と家族の生命を守りぬくべきかに大多数の同胞は狂奔してゐる。
古き権力はいま音をたて崩壊しつつある。地位と、勢力と富と、これ等の足もとに不安の波が押しよせ、根底からの動揺に包まれながら、しかも新らしい希望の光はこの敗戦の混沌としたなかにすでにその芽生へをのぞかせてゐる。一切の価値の転換が行われつつある現在である。
かうした感慨のなかに身をおいてさて自分の姿をふりかへってみると今更ら不思議な氣がしないでもない。終戦の二日まへ、8月13日の朝満州の新京を脱け出して11月の末このふるさとの木曾に辿りついたわたしであるが、かうしてあたたかい炬燵にあたりながら、想ひは遠い満州や北鮮に残ってゐる人々の上に走らずにはゐられない。
新京がはじめて空爆をうけたのは8月9日の午前2時頃であった、この日を予期して市民は上からの命令どほり一生懸命、待避壕を堀り、荷物の疎開や防空訓練、救護訓練などに緊張した日を送ってゐた。戦局が日に日に不利になって沖縄の玉砕が報道され、満州から対日輸送の食糧船や石炭船が次々と撃沈されたなどの噂がひそひそと囁かれる頃から目立って満州の様子が変わってきた。
炭坑も重工業生産工場も、その他官庁会社いづれの職場にあっても、深刻なサボタージユが始まり、生産能率は急角度に低下することになり、公然と設けられてある満人商人の闇市場で日本人にたいして物価を天井しらずに暴騰させてとどまるところを知らない有様となった。その上、品物によっては日本人に売らずまた裏物などことさら日本人をボイコットして明かに反感以上の挑戦的態度に出るやうになって、私たち同胞は何となく日本及満州の戦局がどうなってゆくか、といふこと以外に対民族としての立場からいつ何事が起りはせぬかといふ不安を持つことになった。
しかも最初の爆撃の一夜が明け始めた頃、ラヂオでソ連の空襲だったときかされた時のおどろきと失望は大きかった。なぜならそのときまで満州の一般日本人はソ連が遠からず日米のあひだに調停役を買って出るものと希望的観測を持ってゐたからであるし、また事実ソ連にたいして関東軍は少なからず卑屈な媚態を示して御機嫌をとってゐたのである。
そのソ連が不意うちに中満以北の各都市を空襲爆撃しはじめたばかり(で)ない、北鮮から満州の東、北、西国境を突破して潮のやうに戦車機動部隊がなだれこんできたことを知ったからである。
かうしたあまい観測や期待がいちどに崩れると、関東軍はその日のうちに軍人の家族を特別に編成した列車へ多くの荷物、家財道具と一緒にのせて通化方面へ手ぎはよく疎開させた。この噂が新京だけでなく全満へひろがり、市民の不安が高まってきたその夕方、新京では隣組長から全邦人市民にたいして疎開の希望者は午後10時発の列車に問にあふやう8時までに児玉公園前に集合せよ、行先は不明、携帯品は炊事道具、食料を含めてリュックと鞄、袋等携帯できるだけ-との宣告であった。その申渡しが7時、集合までには1時間足らずしかない、考えるひまも準備するひまもないほどの慌ただしさである。
居留民街はたちまち不安と混乱の空気に包まれた。しかし、すでに関東軍は家族の引き揚げを2・3日まへから始めてゐたのであった。その夜会社からの呼び出しで行ってみると、明日の10日ぢうに社員の家族全部を疎開させるから今からその計画を立てるのだ、とのことだ、とにかく、1万5・6千名の社員家族を1日のうちに輸送するといふ。
しきりなしの空襲警報である、うすぐらい灯火の下、プリントの手をやすめて防空カーテンのかげから窓下をながめる、新京駅前の広場は真っ暗ななかに夥しい人のうごめいてゐるのがわかる、人は刻々にふえ、荷物とともに渦まいてゐるのが夜目にもしろく、広場の並木の茂み、声なきどよめきがきこえてくる、疎開の人影は増してくるばかりであった。午前3時までに満鉄隣組の各班長にまで配布すべき疎開の通達のガリ版を切りながら「全社員家族にして、社員並びに婦人社員を除く-」
といふ文句に納得した、これは当然のことだ、家族は一刻も早く送り出す、社員と婦人社員は最後まで職場を死守して戦ひ、玉砕すべきは初めからわかってゐた当然の結論なのである。
それにしても、何といふあっけない逃げ出し方だらうか、と思った。たった一度の爆撃に総崩れになって駅へ殺到してくる、子供を背負ひ、子供たちの手を引いてわづかばかりの荷物が全財産なのである、
刻々の情報はソ連軍はすでに綏芬河から濱綏線を一路西へ西へと穆稜さして驀進しつつある、ウスリーを渡河した大部隊は虎頭を占拠してすでに虎林さして急進中、また北満ではプラゴエから黒竜江を越えて黒河に上陸し一路南下してゐるし、西は満州里を突破して海拉爾に向かってゐる、ノモンハンの方面もすでに大機動部隊がアルシャンに進入して東進しつつある一
こうした報道は刻々私たちの耳にもはいった、だがこれは一朝満州に事ありとするとき当然起こりうる情勢なのである、何を今からあわてるのか、在留邦人は最後まで一歩も退かず戦ひぬかなければならないのではないか、日本内地の人々は度重なる空襲にもめげず、家を焼かれ家族とちりぢりに別れてまで尚ほ生産のために戦ってゐるではないか。
10日の夜深更までかかって社員家族の輸送は完了した、10列車、客貨車混合の編成で、地域別に班の順序によって済され、南新京駅から乗車行先は10日の朝になって最初の通化行が変更となり、北鮮の平壌附近といふことになって1時間おきに10列車は安奉線さして南下した医療車や食料車を連結した。(以下、次号)