転生記 1977年9月

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1(木) ×× 15(木) 21(水) 24(土) 25(日) 27(火)

9月1日(木)
 岡山の姪の息子、豊福寛の陶芸個展をみて、彼がその仕事にいよいよ打ち込んで進みつつあることを知った。中・小の作品で、その備前焼の作品の前に立って、思い切って失礼にも「あなたの作品のうちでどれが一番好きなの」と聞いた。これは全く、作者にとっては突然の、また失礼きわまる質問であると思うが、私はぜひそれを聞きたかった。彼は一つの面白い形をしている、そしておもしろい網のような模様を浮き出した中くらいの壺で、象眼のデザインのしてあるものを示した。 彼の作品は勿論全て備前焼のもので殆ど壺であったが、その壺は それぞれの形と気高い品格のあるもの、その壺の一つひとつが粛然として、眺めると、備前焼の作品は壺に精随があるのではないかと思った。花器や花器皿などその他にもいいものは沢山あったが、やはりどうしても壺なのだと、しみじみ思って改めて尊さと愛情を感じた。

 『あるはなく』は相京君が私の知人に何部づつか送ってくれて、その反響はたいしたことはないけれど、かなり明確な共感と、賛辞をもってよせられた人も多い。多いといったところで、根が少数の人々であるのだが、松本の渡辺映子さん、京都の西川祐子さん、『婦人戦線』で一緒だった大道寺房さん等である。

 西川さんは、相京君に宛て(内容は私宛てのもの)で、『埋もれた女性アナキスト高群逸枝と「婦人戦線」の人々』(1976)にまとめられた「永嶋暢子とのこと」について、私が過去に友捨てと子捨てで深刻な自己否定の結果、自己を捨てきったところに救われた最も政治的でない人で──とし、しかし子捨ては内容がちがう、とその私の自己否定を評価している。彼女は、かって、農青運動の頃の日本の社会状勢を省みて、今日何が満たされているか、何が少しでも救われているか、その不分明なところに仮の安定を感じている内心の恐しさを表白した。彼女は、かって私が『婦人戦線』に書いた「調査欄 日本資本主義の鳥瞰」(『八木秋子著作集I『近代の〈負〉を背負う女』159頁, JCA出版, 1978 )を高く評価し、私の図式の明晰さを認めている。そして、この小冊子『あるはなく』 の発刊を喜んでどこまでも続けて欲しいと。この人の『あるはなく』の次号からの期待にぜひ応えたい。

 さて、では今後の執筆の方針は、根幹はどこに置くべきか。子捨ての途中、親と子の再会まできてとまどっている私は、今後の執筆の方向を決めねばならぬ。ただ母と子の泪── 子の死、人情といえばいえる後半について、迷いかつ苦しんでいる理由だ。

 1号を繰り返しくりかえし読むうちに、古山[六郎]との結婚生活 において、私の感じた性への絶望と嫌悪、性とは何ぞや、の考察をもっと私なりに深めていったらどうなるか。私の絶望なるものは、あくまで浅く、ほんの入口でしかない。子を捨てるまでの絶望は単なる心理的な理由だけでなく、もっと肉体的な、生身の生理の理由がなければならない。男と女との絶望にはもっと肉体的な性的な原因があるのは当然であろう。

 私の頭に、その代表的作家として性を重視した人に坂口安吾・太宰治、という2人の作家がのぼった。性──無頼な生涯、といえば、まず2人が挙げられよう。私の小冊子第1号は夫婦の性のほんの僅かだけ覗かせたに過ぎない。そして私のペンはその小さな入り口しか描いていないが、性こそは自己否定の、全否定の、つまり全きか然らずんば死、という生命の問題の鍵である。いかなる否定も、いかなる苦悩も、いかなる愛も、この性を避けて通れない。性こそは人間存在の鍵なのだ。仮に『罪と罰』をとりあげてみても、あのラスコーリニコフに性のかけら、性の匂いだけでも加わったとしたら、あの作品はどれだけ様相がかわるだろう。主人公の否定に、もしくは主人公の絶望にどんな影を投げかけるか。『カラマーゾフの兄弟』に、 もし神の子というべきアリョーシャに、一切を否定する次男に性を体験として与えたならどういうことになるだろうか。

 これは想像しただけでも巨きな問題である。これ以上の宿題はないだろう。あまり巨きな宿題を持ち出すまでもない。ただ私は小冊子に何もまだ書いていない。まだ嬰児でもない胎児でしかない。 私はこれから生きる残り少ない余生を、いっぱいの勇気をもって私の生命をかけて書いてみたいのだ。

 今からどんなことがあっても悲観することはない。どこまで書けるか書いてみよう。性に眼が届き、性を少しばかり覗きみたうえはためらわず書こう、書き続けよう。羞ずることはない、おそれることはない。どんな女でも子を生もうと思えば、子は簡単に妊れる。 女である以上自然のことで可能だ。意志によらず、否定の理性によ ることもなく。

 しかし、性の深化、芸術的昂揚、美化はむづかしい。これからが問題、斜陽、人間失格、グッドバイ、などを熟読すること。変わり者、変質者、人間失格はそれでゆけ。これからの生き方はそれし かない。周囲との違和感。孤立、抵抗に対する魂のあり方、全て自らの自己否定で押し進むこと、他者に働きかける捨身の抵抗と積極 性。

八木秋子は生きている。まだ死なない。死んではいない。ここに生きているのだ。

9月×日
 こんどの『あるはなく』で私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギーがあの短い一文の中に絞りつくされた感じ。この短文の続きについて相京君から示唆を受けた。あの子別れをもっと続けること、農村青年との当時の理解、共感、活動など──。あの当時の農村の惨状は必要だ。──しかし、それの詳述には私の知識蓄積で はとても不足なのだ。そして、実際問題としてあの1930年代のアナキズム運動をありのままに列記するには憚るところが多いのだ。運動と名づけられない憚るところの多いのも事実だ。

 とにかく──『あるはなく』を読みかえせばかえすほど、あれは 八木の自己否定そのものだ。そして、どこにも理性や完結性のない、破滅への転落そのものである。情熱と瞬間しかない衝動そのものだ。子をすてて後の生き方において、他人を説得できるような理性や指針となるものが根本的に欠けている。坂口安吾や太宰治のような旗色鮮明な没落や破滅はよほどの蓄積と混迷の上に立たなくては生まれない。私の『あるはなく』──の出来はよほどの険しい断崖を跳び越えぬ限り、生と死を越えた、否死をみつめ、死を覚悟した上でないとその破滅に至りつけそうにないと知るべきである。

 こう考えると、破滅の先にあるもの、現実畏怖、現実曝露の先きにあるものは性の再評価と性の再生でなければならぬ。性は人間にとって、殊に創作を志す者にとって避けて通れぬ人間性の昂揚であるといわねばならぬ。ことに、性は飛翔したことの経験のあるものにとって墜落の体験ともなり、そこから人間の自由が生まれる。自 由は死より。死は復活を生み、その復活は絶望とともに美しく自然。死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい。

『あるはなく』の構想が子との再会まできて行きづまり、苦しんでいたとき、『あるはなく』で知人の評価をうけたことが起死回生のバネとならんことを。否定と絶望から起きあがるバネとならんことを。

 さて、『あるはなく』を書き、活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けることは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう。 まず太宰の斜陽を読み、人間失格を、さらに死に近づいた頃のものを読むこと。性の芸術的昂揚には古山時代からの道程を、小川未明氏の残せるものを、生田春月の不徹底さを、宮崎[晃]との思想と性の破局を。在満日本人の、ことに永嶋暢子の脆弱性を、半官半民という生温い生活の可能性を衝いて、性の不徹底さを不変の志向に。生活の生温い依存と帝国主義の圧制の双股生活の不安。あのひと(女)の姿勢にはくずれたところが見えますね、の千葉課長の言葉──くずれた、といった言葉。

 満州事変の深化──皇旗のもとに満州開拓農民の選出、満州民族の冷静さと知恵。日米戦争の迫る気配のもと、ナチの没落によっても目をさまさない日本。戦争の恐怖を知らないのは性の奥態を知らないから。性の混乱が戦争を生み、その混乱が家庭の秩序をかため、その秩序の破綻から変革の曙光が射し表われる。革命運動と性 の自由、最後の一線を越える民族、民族の独立、民族の自由と性─ ─。

 源流は食糧よりも性の志向と渇きの混乱、秩序よりも性の本態の生理的混迷、経済の視野に潜み秩序と生産の機能を動かすもの、視野の拡がりによる生理的把握。終末と死の断崖に脚をおく危機感(観)と自己解放。自己解放による政治の死滅、政治からの解放は性に原点(食と)、組織や機構を変えるのは枝葉末節。

9月15日(休・木)
 敬老の日。品々配給あり。写真撮影。村上、八木、高井他。

9月21日(水)
 明々寮へ引っ越し。昭和51年(1976)12月10日この東京都立養育院本院に入所以来、一ケ月の間に身体検査の厳重なのをうけ、本来ならば新入寮は一ケ月以内に病者以外は凡てどこかの寮へ定着を命ぜられるのだが、私は1月早々脱走事件を引き起したせいか、その後一度も移動の話はなかった。明々寮食堂で9日誕生会祝会、ごちそう。事務所の係長のすすめで私は立って木曾節をうたう。終わりを待たず新入寮から荷物を運ぶ。肝心の借りた本の大切な風呂敷包みがないのに気づき、あちこち往復してもない。

 新しい明々寮の室は七帖半、M、Oと私。これが私の終の棲家か。Mは目のさめているかぎり喋言りまくってやむことがない。O は沈黙で彼女の雑言と悪口に耐えている。この1階に先んじてきたSが訪ねてきて、相変らず食物をくれる。これからやはり食物のやりとりであろう。

 相京君から借りた吉本隆明の『最後の親鸞』(春秋社, 1976)が出てきて大安心したら、今度は返本『無名鬼』『人生とはなにか』 村上一郎(社会思想社, 1963)がそっくり不明(あとで古巣に預けてきたことを思い出す)。一方の饒舌がうるさいので希望棟へ── と思うが雑念、雑事で行かない。『あるはなく』第2号(1977.9)出来。やはり相京君の意見をいれて健一郎の酒店のこと。その死で終わったのは返すがえすよかっ たと思う。あれを理論や他のものにしたら、とても収拾がつかないものになったろう。母と子の再会の行くべき道としてよかったの だ。

9月24日(土)
 23・24日と相京君宅へ2泊(注:相京との対話記録あり)。相京君の勧めで共同保育、ディン・ダン・ドンのメンバーなるママたちと半日を送り団欒と理解のよき時間をもつことが出来た。どの人も若いママで、どの人も在るがままの人、若い母、若い妻でさまざまの話題で語り合った。なかには『思想の科学』に執筆している、「大御心と母心」の筆者(注:加納実紀代(1940-2019))で、鋭い人。高群逸枝の全集から、あるいは思想からの話題が多かった。話の中で、高群の書いたものには天皇制の否定はなく、むしろ夫婦とも擁護の理論であり、その点反感を持つ、という意見だったので、それは高群夫妻の擁護者であった下中弥三郎の思想傾向からきているかも知れないが、 もっと深く、高群が女性史執筆の原点をどこに置こうかと考えたとき、彼女に閃いたのは本居宣長だった、本居の思想がそれであったのではないかナァ、といったら皆肯定した。高群全集を貫く思想はそういうところに発想があったのではないか、といった。

 皆の質問は高群夫妻の生活、その常識を越えた生活だったよう だ。メンバーの女性達がどう感じたかは知らないが、奥さんの話しでは、どのメンバーも何かを私から感じたらしい。帰りには全員玄関前に出て、さようならを叫び、手をふっていた。

9月25日(日)
 日曜。相京氏に送られ、帰途につく。花小金井駅まで、それから清瀬まで、判かっているようで判からない。わがあいまい模糊とした頭脳に腹が立つ。清瀬──池袋──大山と送って貰って明々寮へ。何のことなく帰った。責任のない私は外出にも心は軽いはず。 部屋の間断なきおしゃべりには閉口。

9月27日(火)
 私の返事を書かないのは小事を強いて大に何でもないことを深刻に考える性行によるものだ。他人に会いたくない、孤独が好きだという私の考えはエスカレートして生活上に必要な事務的なことまで白紙のままだ。通信のたえること、無音がどれほどの損失と誤解の種子となるか、よく知っているが、とにかく手紙を書くのがいやな のだ。手紙の文章と原稿としての文章とは違うのだ。

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