転生記 1977年12月

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12月6日(火)

 午前8時半バス一台にて明々寮前を出発。同室3人のうち、Oは参加せず。外出着がなくなったとさわぎ、それが今朝みたら行李の中に在ったという気持の悪さから、あたまの異変を心配して不参加。

  バス1台に職員、運転手、老人達15人ほど。東村山分院にてとまり、トイレ停車す。顔だけ知っている人々あり。新入寮時代の人々、一人一人の面会は禁。 11時頃目的地の青梅保養所着、どこにでもある観光施設で大広間に着席、舞台上では地元の婦人会員であろう主婦達が民謡踊りを次々とつづけている。昼食の天ぷら、えびその他、汁、漬物など。私の隣りに着席した女の職員達は特別のごちそうだ。何もひがむわけではない。どこにでもある風景なのだ。食事をはさんで、そしてそのあとわれわれ利用者はまずトイレ。そしてみかん、せんべいなどを売店で買い、乗車。帰りも東村山で停車だが帰りも分院の人たちには面会の時間がなく、そのまま発。午後3時半頃着。面白かったですか、ときかれて、ええ、とても賑やかでね、と答える外術なし。往復のバスでは男の若い職員と隣りあわせてみかん、菓子など分けてあげた。同席のMにもあげ彼女との敵対の感を和わげようとした。帰ってくればまた手もなく憎みあい。

12月7日(水)

 Mに着衣を何枚も盗られたというO老婆、85、86歳との戦闘はつづき、電話でよびよせたOの実妹が横浜から上京、事務所の寮母2人もここへやってきて、きのうの盗品の話になり、明日2人が付き添ってMが盗品を入質したという質屋へ実地取調べに行くことになる。ところが、被害者のOはあたまが呆けて品物の陳述がしどろもどろ、はっきりしない。当の私の下着類や着物などまるで少ない。それを言い立てたら事はますます面倒になる。誰もが記憶がうすれ、誰もがしどろもどろなのだ。バカバカしい争いに巻きこまれたくない、第三者として終始したほうが潔くて気持がいいではないか。そう思って私は被害者になることを避けた。

 Mの浪費癖は相当なものだ。いつもカラッ尻なので彼女は金欠病に骨まで蝕ばまれている。だから他人のもの、たとえば衣類、はきもの、下着類などと大小を問わず毎日の動きで眼にうつるほどのものを我物として何の反省もないのだ。一方のOはこれはもう激しい被害者意識で、あとからあとから幻のわが愛する着物、羽識、帯、時計など思い浮べ、老いの説明を試みる。一方の加害者といえば、まるで底なしの水流のように滑らかな舌から阿呆陀羅経よろしく、あとからあとからと限りなく言葉が流れる。2人の対峙の仕方がつくづくいやになる。

 Mは他に移そうにも引き受ける室がなく、この部屋を出れば住む所がない。最後の室だと断定せられていて行き場所がない。そんな人物の生きているこの部屋へ何故私を入れたか、どんな目的で押しつけたか、意味がわからない。私はどんな人物と同居したとしても大抵意味が判っているので、最小限度、希望棟の図書室を利用させるよう押す外はない。どんな室だって大同小異、この建物にいる限り自由はないのだ。

 人間を変えることは至難中の至難だ。私などその代表者かもしれない。まずこの部屋の小宇宙で、 なんとか生活の雰囲気を変えることが──と思って、キリストの愛を、罪のゆるしを体現せしめつつ来たのだが、何一つ実らなかった。空白、空虚のみ。新入寮の何ケ月かに私の体験した、ある病院からきて病院に追い返された高井女史との3、4ケ月の生活に我が一切の自我を殺して、仮の、偽りの平和を生んだあの期間の忍耐があるいは事務所に逆に私の印象を与えたのかもしれない。

 闘いか忍耐か。一切をすてた私に一切の重荷がかかってきたのだ。私がもっと戦闘的で裁判官のような切れ味と重荷をもって、そして女の道に徹した敬慕される女性だったらよかったのだ。そういう模範的な老人だったら、そして善は善、悪は悪と峻別する独裁者の断定をもっていれば──。これこそ私としては至難な道なのだ。こういう生活の中では、指導的立場にある人は、独裁者の凍りつく冷たさと決断がある時には必要であり、おおらかな円味がなくては──という、私がまちがいか。何しろ、ある場合には冷たい決断と、言葉以上の態度が人を動かすのかもしれない。といって支配と、決断と、大局をみる瞳が必要なら、それが一歩誤まればどんな誤りを招くか、悲劇の種子を蒔くことになるか──。

 いま同室で争いの渦の中にいるO老、新入寮で一緒だった大野老、わたしに寄り添っているMも。私は少し濃密にすぎるようだ。いつもある距離をおけ。

  こういう施設などでは盗難事件が起きたらまず品物の有無を調べ、それには質屋を調べる。その上での談判で、まず盗品を証拠として調べる。この順序というわけで事務所の寮母、それに被害者たるべきO、盗癖者のMと3人が何の質札もないMを案内して3軒の質屋へ証拠固めに出かけた。その結果、1枚の質札もない所から衣類3点を引きあげてきた。但しMの記憶によって選び出した3点で、その他には1点もなし。Mの発見した衣類は、その場で寮母が支払いMの物となって、Oは大分被害額を数えていたが、結局3点の品を買い戻して貰ったMの勝利となって了った。

 どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君が面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。

12月11日(日)

 私たちの隣室にすらりとした人で静かな人がいる。松尾輝子、という人。日本画を描き、書もりっぱで、希望棟の2階階段の上に大きな達磨の肖像──座像を描いたのと、その並びに立派な書風で達磨の心が書いてある。これが彼女の話した入選の画であろう。阿弥陀如来や仏の悟りが書かれている、この人とならつきあえるかもしれない。

 相京君が来た。私の部屋で話す。通信第3号の刷れたのを持って。今度のは私の冴えない頭のせいか、書き終わりが尻きれになって映えない。相京君は次号に私の内面と宮崎君との公判廷における陳述、私の運動に対する幻減、運動全体とアナキズム運動の批判(男と女の相距たる相違など)をぜひ書くようにと繰り返し要望して去った。

 それを書こうとして、なんとしても筆がとれない。 宮崎君との決裂、逮捕されたときの彼の最初のハガキ、差し入れとして岩波の植物学全集からその純学術的な終わりのない専門語、ドイツ語の困難さ──等から生活の問題を書かねばならぬ。何よりも宮崎君自身のアナキストとして指導的、指導者としての適否、アナキズム運動の空虚な実像──。農青イズムに目ざめた意義、そこで地方同志を知った実効などをとおして実感した農青イズムの実像などを書かねばならぬ。これは考えても大変なことだ。とても雑報に書けない、書ききれない。そこで低迷にまたしても落ち込むことになって何も書けない。

 老人クラブ、この建物に生活する利用者、女200人、男89人 のその利用者のクラブで役員選挙が行なわれた。適当と思える人を推薦して投票せよ、とのことだ。現在の役員はしっかりしていて適任者と考えられる。その他にも何にも私は名前を知らなければ顔もよく知らない。前夜から適任と思われる人の名前を教えて貰う。投票し開票し至って簡単。私はきいておぼえている人の (女の名前を3人)書きその他に隣室の書と画をよくする松尾輝子さんを書いて出した。開票の結果は小林シマ……などがあった。これでよいのだ。

  本当なら今日にもOが例の盗難事件で隣室へ替わるべきだったが、たぶん隠便に──というわけであろう、部屋替えの命令も話もない。私の人のよいのを利用して平和にして行かれるものなら、現状維持のままというわけでしばらく様子をみることにしたのかもしれない。たしかにMはOのものを盗んだのではないかもしれない。が、Mの性質はたしかに普通ではない。私は終始沈黙を守ってどちらにも肩入れせずにきた。一方のOの老衰はひどい。被害者意識で朝から晩まで被害を言い立てる。それを説得するのは容易なことではない。その一徹さ、一本気。思い込んだらてこでも動かぬ頑迷さには閉口。

12月24日(土)

 クリスマス、午後1時から区内白菊幼稚園児慰問。講堂の催しは観客が少なかったが、寮の食堂での祝典には大勢出席。幼児たち20人ほどと先生達。合奏、合唱など。野沢菜のお漬物は切って1人分づつ全員へ。そのお皿を返しにいくと騒いでいる。そこへ顔見しりが私を呼びながら駆けこんできて、あんたの食卓の下が水がいっぱいで大騒ぎをしている、と。ああ、あのジュースのセンを切った時液体がぱっと散った、あれだ、と思いつき雑巾をもって急ぐ。やっぱりそうだった。一生懸命床を拭く。わたしの並びの国沢という人がもっぱら非難されてあやまっている。真犯人みたいだ。私をばあまり責めない。後仕末で大わらわだった。クリスマスツリーに燈火がついて華やかだ。その中で世話人が叫んでいる。誰れかがツリーをかざっている綿のきれを便所に持ち込んだところを見つかったのだ。踊りも中絶。綿花の必要な若い人だ、きっと。今夜カキのフライ。椎茸のめし。三杯酢。お皿の野沢菜がうまい。

 けさ、ようやく書いた「八木定義(2)」が書けたので相京君に電話した。24枚だ。あす行くかも知れない、だったが今朝きた。父定義のは選挙に勝って、病院で大沢と八木との対話などを書き入れ、判検事の来たこと、などをからめてやがてくる没落と悲劇について予告を試みた。

  私は1年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた。書けなかったのだ。この空費した1年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところ大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる1年の迷いもどうにか定着するに違いない。秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。

 クリスマスの夜、私の足もとが水でビショビショと騒いだ一件。翌朝誰れもなんともいわない。昨夜騒いだ老婆さんが、私に、あなたではないのに相手があんまりガンバッタので──と私に詫びだ、本当は私なのに。昨夜のおみやげの野沢菜のおいしい漬物の残りを相手の国沢さんが私にくれた、まずまず──

 松本の渡辺さんからのリンゴ1箱、事務所から届けられた、歳末の贈物なり、ありがたい。さっそくハガキで礼状を書いて出す。夏の彼女の図書券のドストエフスキー、石原吉郎の詩集の想いもこめて。ハガキ10枚大野さんから借りて。あのひと、「こないだ、あんたの部屋のオカシナひとに、私がついているから八木さんのこと安心しなよ」といったら解かったよ、という。よい助言だ、感謝の言とでも言うべきだろう。ありがた涙だ。

 星野〔凖二〕君から先日の写真を3葉送ってくれた。ああ、なんたるわが老顔老婆だ。その日星野君の文によると和佐田〔芳雄〕君の希望で、かっての農青の本拠(事務所)のあとを訪ねたら、門塀はそのままの姿だったという。

  一昨日の新橋演舞場へ行った人々はどんなだったか、誰れも何もいわない。黙。あすが日曜日なので、おふろに行く。すいていてよかった。あの言語障害のおばさんが硝子戸をしめて行け、とやかましくいう。なんともいいようのない言葉の感じだ。隣室との間の襖を一昨日男の係がきて釘を打って閉鎖した。これで落ちついた。

 毎日希望棟へ内職にゆく女Iさんは、毎日黙々とひっそりとしていて、洗濯も入浴も興味がない。それを気にするのがM。あれこれとうるさく注意するが、耳の遠い彼女は平気だ。Mはますます興奮してこの部屋はつんぼばかりだ、と毒づいてやまない。私たちは風馬牛ですごしている。ますます興奮する、うるさい。でもおもしろいところがある。女の基準では計りがたい。にくらしいけれどおもしろい。ハガキを出しに行って、おすしを買ってきてふたりでたべた。

 西川さんの手紙は何度読みかえしても倦きない。だが分析が利いて本当に理解するのはむつかしい。

12月25日(日)

 朝、配給のものがあると聞いて行ってみると、防空頭巾が来たという。先日注文をとりに来たとき1700円と聞いて私は断ったのだ、この部屋では一人も取りに行ったものはない。どうせ私は頭巾をもって装ってもあまり活動もできる柄とも思えない。それで注文に応ぜず断ったのだ。事務所へ出かけて聞いてみたら別にその必要はないだろう、あの注文は事務所に関係なくやったことだと淡々としている。どうみられても批評されても構わない。

  そんなものは満洲のとき防空訓練で経験ずみだ。近所の主婦たちと号令で走って行く、主婦たちが伏せたので私も土の上に伏せる。そのままぼんやりとした時が去り、気がついて走ろうにもあたりに人影は一つもない。あちこち探し回わってむこうの人声のあるところへ行きついてみると、もう訓練の終わった人々は帰るところだった。前の臥せたところの泥で前の方は汚れ放題、見る人が呆れていたのだ。防空訓練で迷子になったのは私ぐらいのことだろう。

  廊下でOばあさんが立ち話をしている。こんど盗難にあったのは一緒に生活している私が毎日部屋をあけて希望棟の図書室へ行って不在だったからだと、ねちねち説明している。私のせいだと。勝手にしなさい、とでも言おうか。だまって立話の輪から無言のまま去ってきた。いまだに盗難を吹聴してやまない。

12月26日(月)

 いろいろ頂いた贈り物のお礼状を出した。渡辺さんにも礼状、『あるはなく』の、心友として。あの人の私の見方──仕事、書き物、等には聞くべき言葉が多い。

12月28日(水)

 午前、タバコの配給。チェリー、ハイライト、その他計5個。まず高級タバコはありがたし、よろしい。朝たまった洗濯する、洗濯機を使って。キカイは大いによろしい。このあいだ器械の使い方を教えてくれた事務所隣りの久木田さん、それからけさの島原さんにキカイの説明を教えてくれたお礼ごころで、松本から渡辺さんが送って下さった林檎のおいしいのを2つづつあげて喜ばれる。

 1時頃相京君から電話、午后2時にいつもの喫茶店で会おうという。いま駅前の喫茶店で待ちつつこれを書く。帰ってきてから書く。相京君から届けられた葉書により、熊本の弁護士庄司進一郎氏が熊本市内の病院で急性脊椎炎のため急逝されたそうだ。よい人だった、いよいよ、あの世へ急行する人の多いこと。

12月29日(木)

 ひる飯の席に並ぼうとしている時、清瀬教会の坂本姉来訪、信仰を語り、1時間近く私のために祈ってくれて帰った。私にこの中で信仰を語るべきことを勧め、私にコーリー・テン・ブーム女史の『わたしの隠れ場』(いのちのことば社, 1975)を1冊下さる。アウシュビッツで生き残った80歳以上の老婆が信仰に献身してからの記録らしい。『夜と霧』『アンネの日記』につながるものであろう。

 そのあとI老婆が押入を調べていたが、黒いえりまき、手袋、それとマスクが紛失したと言いだした。私は白いマスクが私のダンボールの上にあったので不思議に思いしまっておいたのを取り出して彼女に渡した。こうしたことがMを連想する。事務所は年末で無人なので正月休みが終わってからでも一応届けておくべきだと思った。年末はずれでこんなことで。

 今日面会室の卓子の上にお供えが飾られた。今夜は、鯖らしい焼魚にお豆腐のやっこ、ヒジキの煮つけ。午前、108号の島原さんとすぐ一室隣りの久木田さんに信州リンゴの赤いのを2個づつ呈上、喜んでもらった。廊下清掃の小林君にも。この人は有能な誠実な人だ。新聞のおばさんにもあげた。この人は終戦前からここの住人、口数の少いいい人だ。糖尿病、その他が悪く入院生活も長かった、お菓子を食べない人。

 昨日の話ではIさんは27歳のとき旦那が死んで、年子を3人残されて無我夢中で働いて、息子に家まで建ててやったが、自分の知らないうちにここへ入るように言われたときは本当に悲しかったと話した。どういう働きだったかと聞いてみたら、伊勢と東京を往復して 気狂いみたいに働いたというのだ。

 清瀬にいたとき隣家だったアパートの経営者、あの闇屋のおばさんの成功者と同列だなと思った。一家の功労者もやはり老いては離れて住むことになるのだ。働き者で、しまり屋で、しっかり者、そして意志と意地の強いことは共通のようだ。年中休みなしに毎日希望棟の内職班へ通って月3000円になるかならない稼ぎをかせいで、年に2・3回、子等の家へ泊りに帰る。その時、その内職の金を孫達にやるのがたった一つのよろこびだという。

 Mさんは精神の不安定のために一種の情神病的な症状を呈している。Iさんの身体がくさいといって、入浴と洗濯を毎日くどくどと強請し、そのたびに拒絶されている。子供じゃあるまいし、家へ帰れば娘が待っていて洗濯してくれる。それを子供じゃあるまいし、くどくど──と。

 今日私が買物に出た留守に娘が迎えに来て出かけたという。やれやれ、2人の静かな日常がかえってきた。静かな日常といっても、このMの一言、一挙手によって、どれだけ平静が戻ってくるか。

12月30日(金)

 正月3日のおぞう煮のために──であろう、食堂入口の空地に餅1枚と4きれ分が配給になった。四角い火鉢が4個と鉢には金あみがのっている。昨年のように餅やきにして部屋に帰ってお汁に入れてたべるのだ。去年は新入寮だった。お正月のおせち料理を買い込みに出かけようと思ったが、勝野さんがお年取りの料理は私が届けますから、と念を押して下さったのを思い出し外出を中止した。大野さんはもうカマボコ、ちくわ、きんとん、黒豆、 卵やきなど果物や甘いものなどだいぶ買い込んだと話した。こういう社会でも女であるかぎり、ごちそうを一っぱい飾りたいのだ。

12月31日(土)

 大晦日である、思えばことしは私にとって特に記念すべき年だった。『あるはなく』、私はむつかしいことは一とおり相京君にまかせて、ここの生活にふりまわされながらうろうろと書き続けた。文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。

  この季節になって文字どおり、一文なしのMばあさんは興奮して弟にお金請求の電話をかける。電話番号がまちがっていて、いくらしてもかからない。間違っている。事務所に泣きついてようやく通じた。その結果5000円速達で送ると、それを聞いたとたん歓声をあげ、とめどなくバンザイの真似を演じだしとどまるところがない。飢え渇えた者への慈雨だ。やっと安心。

 日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない。まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来ごとと人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。

 みんな、夕食はごはん、おかずは普通だが実によく食べる。私は満腹で、食事と聞いても何も食欲が起きないが、まわりはそうでない。塩焼の魚、煮豆、ちくわなど。この3日間朝の洗濯につとめている。

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